大晦日最終時間帯に記した「。。。」
いったい、なんなのだろうか? 更に明確な表現を試みるならば、 1.方向性を有し、その知的切断面に「対象の概念」が立ち現れるもの。 2.対象の存在の有無にかかわらず、「対象の概念」に知的な言及が可能(方向性を含む言葉、否定神学的な定義、ないし超越論的な言及などが可能)。 3.共有可能(共感可能)な場合と、共有不可能(共感不可能)な場合を含む。すなわち、対立する方向性であっても、両方向性の知的切断面(対象の概念)が同一であれば、同一とみなす。 4.3で「同一とみなす」のは、要請によるもの(受動的)ではなく、また願望によるもの(能動的)でもない。どちらかと言えば、そういった「同一とみなそうとすること」そのものが、「。。。」の正体に近い。 5.したがって、「。。。」の知的切断面(無数の切断面がある)の一つに「無為の共同体」も含まれているような気がする。。。 (以下、2005.01.01 02:50に一部変更) 「概念」という用語を用いる前は、「知的切断を受けた情」という用語を上記文章に当てはめていた。 すなわち、「。。。」とは「方向性を有する総体としての情」であると。。。 これは、「知」に対する「情」(総体)から出発しているため、「。。。」に対する限定が強すぎる様な気がしていた。 知的切断面に立ち現れるのは「概念」という用語に近いので、こちら側(知的切断面)から出発したときに「。。。」となったが、これは「方向性を有する総体としての情」を含むような気がする。 。。。と、ちっとも明確になっていないような気がするのは気のせいか。。。 哲学畑の方、見ておられたなら、何らかの的確なアドバイスをお願いします。。。 (ちなみに、私は哲学の専門家ではないので、本当のところ、よく分かりません) #
by kisugi_jinen
| 2005-01-01 02:30
| 思考。。。
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個と全体。。。
どちらがなくても、 どちらも存在しえないというのに。。。 知と情。。。 どちらがなくても、 どちらも存在しえないというのに。。。 記号、遺伝子が、 それらを育む全体から切り離されえないのは何故だろうか? 人類を特徴付けている「知」が、 それらを育む全体から切り離されえないのは何故だろうか? 様々なレベルにおいて生じるとされている創発。。。 それらを育む全体から切り離されえないのは何故だろうか? そこに隠されているものたちを深く覗き込むとき、 。。。ふと、垣間見えるもの それは 大地を越え 知的切断によって語られるとき それは、様々な姿として捉えられる。。。 大地であり 「共感する」ということで つながりあうことはたやすい。。。 「共感し得ない」にもかかわらず つながりあおうとすることの方が。。。 いや、「決してつながりあうことはできない!」 ということを知りつつ。。。 それでもなお、越えていこうとする。。。 そういったことが共有できるのであるのなら。。。 それは 願いであるのか 絶望であるのか 。。。 いや、 そういったことすら超越しているようなもの。。。 知的切断面では、「無為の共同体」(ジャン=リュック・ナンシー)などが相当するかもしれない。。。 まさに、そういった観点に対応する、知的切断前の「総体」、いや方向性そのもの。。。なのかもしれない。。。 (下線部は2005.01.01 00:15追加) 。。。私は、それを当初「情の方向性」という一言で表してしまったことを、 今、非常に後悔している。。。 -----2005.1.1 00:10追加。。。 共同体についてのサイト http://www.alpha-net.ne.jp/users2/omth2/biblio/democrat.htm http://www.nakayama.org/polylogos/books/nancy10.html http://www.h6.dion.ne.jp/~kazu-t/Lamitie/vol1/07/nishiyama.vol1.no3.htm http://www.yomiuri.co.jp/bookstand/syohyou/20011001ii03.htm http://d.hatena.ne.jp/asin/4480083510 #
by kisugi_jinen
| 2004-12-31 23:32
| 思考。。。
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川の流れの淀み。。。
多数の淀みに魚たちが棲み分けるという。。。 たとえば右脳と左脳のように右という方向性が情優位であり、左という方向性が知優位であるとすれば 魚たちは右往左往すれども、ただまっしぐらに死をも含めた生を貫き通そうとする。。。 そういった「生きる・死ぬ」ということを共有するがために、 巣をつくり、 群れ、 争い、 朽ち果てて、 海に流れ行くごとく見える。。。 海が凪ぐとき 朽ち果てたものたちは、静かに眠るのであろうか。。。 海が騒ぐとき 朽ち果てたものたちの魂の叫びが木霊(こだま)するのであろうか。。。 津波。。。 その海水の巨大な塊をも貫き通さんとする肉親たちの情と思い。。。 日本の川の一つの淀みに住まう一匹の小魚のごとき「この私」。。。 もはや、救われることのない命の数々は、 無数の海の波の揺らぎとして。。。 淀みの中の稚魚たちをも 揺らす 大きくなって 淀みを出て川を下り、 大海に住まわんとするとき、 その大海の中にて群れ・集うのだろうか。。。 共感を生むと同時に対立を生む情。。。 世界という海を泳ぎ回る稚魚たちが、 情という津波に押し流されることなく、 情の本質を共有できる日々が来るのであろうか。。。 凪 細波 うねり 津波 。。。 情を切り捨てたものたちが、 情に気付く時には すでに津波の中なのかもしれない。。。 。。。と。。。荘子の「魚の楽しみ」から抜け出していないかもしれない。。。 荘子抄 #
by kisugi_jinen
| 2004-12-30 10:07
| つれづれ。。。
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その昔、グルグルと一カ所を中心に回るのが楽しいときがあった。しばらく一定速度で回り続けていると、自分が止まっていて、地球が足下を軸としてグルグル回転してるような錯覚に陥るのである。そのとき、足は地球を蹴って強く押し回しているかのごとく思えてしまう。。。
科学的な説明可能性に求められるものの一つとして、如何に簡便に物事を記述するかという点がある。 まるで、ニューラルネットワークでのボルツマンマシンの極小値を探っているかのようである。 --------- (注:要するに、エネルギー準位の最も低いところに落ち着こうとするかのごとく、「表現の簡便さ」を求める方向性を有していると言うこと。「極小値」であって、「最小値」ではない点に注意。要するに、「説明可能性系」という「系」全体、すなわち「科学・論理言語世界全体」において、現行使用されている思想近傍での「極小値」に陥るということであり、それをもって「最小値」とはなしえないということである。ちなみに「同一の系」内であれば、論理的・無矛盾な説明可能性のみが問題になるのであって、真に正しいとか真に間違っているとかの議論は前提問題にすらならない。非論理的だとか矛盾を含むといった問題のみ扱いうる。2004.12.29 09:35追加) ---------- さて、地動説が正しいといわれ続けて久しいけれど、ほんとうだろうか? そこには、「説明するのに統一的に扱えてやりやすい」という、便宜以上のものがあるのだろうか? そもそも、太陽と地球、地球と月、どちらがどちらを中心に回っているのだろうか? で、連星という質量がほとんど同じ星がある場合、両方が回りあっているという記述が為される。即ち、簡便な記述にしても、質量比が問題になるのであって、簡便な地動説にしても、厳密には太陽の中心を中心として回っているのではない。 双方の中心を中心として回っているというのが、科学的簡便な記述(説明可能性としての一つの解)として、採択されているということに過ぎない。 ---------- 付け加えるならば、人間の脳構造・脳機能が、そういった「科学的簡便な説明」を理解しやすいということを意味しているに過ぎない。もし、別の脳構造・脳機能を有する生命体がいた場合、別の説明系を採択しているかも知れない。 注意して欲しいのは、総体としての世界を「理解する」とき、「脳」を含む「わたし」(もしくは含まれる「わたし」)が、「総体としての世界」を知的に切断したところのみを「認識している」ということである。その面のみを理解しようとして説明可能性を模索するわけである。 (2004.12.29 09:50追加) ---------- はっきりいえば、「わたし」中心の「地動説&天動説」でも、何ら問題はない。 現に、「認識主体」は「わたし」な訳であるから。。。 ただし、座標変換に関連する、様々なレベルの「複雑さ」を「わたし」が自ら処理可能だということが、前提条件になる。 ※070424, 01:50 具体的な変換について触れておられるところを知りました。よろしければ参照してください。 (以下修正しました) ===修正後(2004.12.28 06:30)=== たとえば、車を運転する場合でも、自分がとまっていて、とまっている電柱が動いているという主張もありなわけである。ただし、ぶつかりそうになってブレーキをかけたときに、私と車が止まっていて、電柱が動いて突っこんでくるという記述になる。もし、そこで事故が発生したとする。そのとき、「突っこんできたのは電柱なのだから」と言う理屈で、「動いていない私と車は悪くない」。と言う理屈は通らない。 「私と車のブレーキ」が、「突っこんでくる電柱を止めうる唯一の力」であるゆえに、過失は「私」から切り離されることは決してないからである。 また、「私中心ではない・常識的な感覚を持っている」という場合でも、車に乗っている内部で感じる速度感と、外部から見る速度感とはずいぶん違う。この感覚の差異は、「わたし」という主観的な側面が関与するものの「交換可能性」に歪を与えうるだろう。。。 ===修正前 車を運転するにも、加速後、ブレーキをかけたときに、私と車が止まっていて、他の物体が動いて突っこんでくるという記述になる。もし、そこで事故が発生したとする。そのとき、「突っこんできたのは相手なのだから」と言う理屈で、「動いていない私と車は悪くない」。と言う理屈は通らない。 「私と車のブレーキ」が、「突っこんでくる対象物を止めうる唯一の力」であるゆえに、過失は「私」から切り離されることは決してない。 ※08/06/24 02:40追加 ルーマン系の記述を中心とするブログ(ポスト・ヒューマンの魔術師・「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。)からのトラックバックがあり、こちらからも過去の記事から何件かにトラックバックを埋め込んでいたら、いつのまにか「関連ブログ」欄に載っていた。 #
by kisugi_jinen
| 2004-12-27 19:38
| 思考。。。
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否定神学は「ない」ということを「共有可能」というときに成り立つ。
すなわち、主体(自他)の「交換可能性」が前提条件になっている。 これは、たとえば、「平和・唯一絶対神」を求め合う民族同士が、「平和・唯一絶対神」を求めるがゆえに争うという場合にも当てはまる。 また、サンタさんが「いない」ということを「共有可能」である場合に、「いない」を超越するサンタさんが「いる」ということを「共有可能」であるという場合にも当てはまる。 前者は、「中心」がずれており、「交換可能性」が成り立てば、「仮想中心」として重ね合わせたとき、同一方向を向くということで「共有可能」だということ等価である。 後者は、「仮想中心」を立てなくても、「中心」が同一であるとみなしうる共同体(「ない」という側)であり、その外部に「仮想の対極」(「ある」という側)を見立てることで、常に「交換可能性」を維持しようとすることと等価である。 ===以下、04/12/27 15:44:00追加=== (走り書きゆえ、訂正の可能性があります。あるいは、別投稿にするかもしれません。) 価値観という概念があるとする。 価値観とは「○○にとっての」価値観であり、「相対的であり、絶対的な価値観はない」ということになる。 しかしながら、「価値観という概念」は、歴然として共有される。 これは、「神という概念」や「霊という概念」、さらに「平和という概念」や、「愛という概念」に似ている。 全く同様に扱いうる対象として「情という概念」がある。 これらに共通なのは、主体(自他)の「交換可能性」を仮定したときに表れるであろう「仮想中心」を共有可能(すなわち、知的側面にて幻想的に共有可能)であるときに、「(たとえ反対方向でも)方向性が同一」ということと等価である。 即ち、「知的側面にて幻想的に共有可能」ということを「共有可能」ということと、「概念」を「共有可能」であることは、(まさにトートロジー的ゆえ)同値である。 逆に言えば(二段階目の「共有可能」を外して倒置すれば)、「概念」とは「知的側面にて幻想的に共有可能」なものであるということになる。(←包含関係でなく、同値ゆえに交換可能)。 まさに、「概念」とは、そういった定義が可能だということを意味している。 「否定神学」での「否定」による「肯定」という過程は、概念が共有可能であるという前提条件が必要になる。 即ち、(ひどく当たり前であるが)「当該概念がなければ成立し得ない」ということであり、すでに土俵の上に立つことが可能であるといった段階で、「当該概念」を有しており、共有することが可能であることを表明していることに他ならない。 既に「知的切断」を行う場合の「情」にて述べたことが、すべて「概念」に当てはまりうる。すなわち、「主体」と「(知的に切断された)概念」と「それらの関係」は、切り離せないもの(総体)であり、そうであるが故に、哲学的な対象となりうるのであり、「知的に切断された概念」は、それを「思考する」主体のもつ知的境界面上に立ち表れるものとなりうる。 現行の脳科学は、「知的境界面」が如何なるものかを探る研究といって過言ではない。 ただし、それは「主体」と「概念」から切り離された「知的境界面」であり、そこに投影される「像」と、投影を受ける「スクリーン」(どこに、どのような形で投影されるか)との関係を調べているともいえる。 さて、横道にそれたが、「概念」ということを共有できるということが、広く人種を超えて可能であるということは、驚くべきことでもある。 「超越的な存在」をそこに見出そうとすることの正当性すら、そこに立脚しうる。すなわち、そういったことを可能たらしめているのが、まさに「超越的な存在」だと。。。 ただし、ひとたび「超越的な存在」を仮定してしまうと、「概念」に知的境界(切断面)を発生させることになり、「超越的な存在」は「非超越的な存在」に成り下がってしまう。 したがって「概念」は「知的側面にて幻想的に共有可能であり、総体として共有不可能なもの」ということを超える事はできないということを強く認識する必要性がある。でなければ、「超越的な存在」という知的切断が、「超越的な存在」を否定してしまうからである。ここにおいて、「否定神学的」に共有可能以外の「知的側面にて幻想的に共有可能な超越的な存在」はありえないということを、再認識すべきである。 と、長々書いたが、こういったことは、まさに「語りえぬもの」という一言のもとに表しうるものであるけれども、その一言の深さは、それを考える人々の思いの深さに依存するのだろうと思う。 08/04/04 04:50 補足 ※超越的---「超越論的」とは異なる。 ○○的と○○論的との差異に注意 たとえば、「存在的---存在論的」については、 マルティン・ハイデガー『存在と時間』(全3冊) --- 松岡正剛の千夜千冊 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0916.html などを参照してください。 #
by kisugi_jinen
| 2004-12-27 08:53
| 思考。。。
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