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「知」にて捉えることが困難な総体としての「情」。。。
さて、前回、私は「知的側面」から「情」を見ようとした。この場合、「記号化可能であり、共有可能なもの」として「その方向性のみ」だとした。

===前回投稿文===
しかしながら、「情そのもの」を抱くのは「私の心」であり、「情そのもの」は、「私の心から対象物への方向性をもったホトバシリ」以外の何ものでもない。
===ここまで===

実は、このラベリング可能(記号化可能)な「方向性のみ」というのは、「知的側面」にて「情」を無理やり捉えようとした場合に、現れてくる「切断面」でもある。

この「切断面」にて留め置かれることのできる「情」は、私たちが経験するところの「情」の「記号化可能な側面」(知的認識可能な側面)でしかない。

「情」は、「主体」および「対象(物)」と切り離せない「絆・糸」であるので、「(知的側面で取り扱い可能な)記号化した情」(=方向性のみ)では、総体としての「情」を扱うことは出来ない。

ここにおいて、「知的側面」での「境界設定」に関するゼノンのパラドックスが立ち現れているといえる。すなわち、「記号化可能・共有可能」という「境界設定」が、その「境界を越えて両側にまたがっている対象」を、片側からのみ境界に追い詰めていくことしか出来ないときに生じるパラドックス。。。

誤解を恐れずに、とりあえずまとめてみると。。。

「情」の「知的側面」で捉えうるのは、「記号化可能かつ共有可能」な「方向性のみ」。

総体としての「情」は、「主体」と「対象(物)」を結び付けており、それら全てを含まなければ捉えることができないもの。

といえるのではないだろうか?

。。。と、これもやはり、知的側面からの記述になってしまっているので、抜け出せていないだけなのかもしれない。。。
by kisugi_jinen | 2004-10-20 17:58 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
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「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。

by kisugi_jinen
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