構造構成主義と竹田現象学と私の知の思想史と。。。そして情と。。。
構造構成主義というのが西條剛央氏によって生み出されている。
旧:http://www.geocities.jp/structural_constructivism/ 新:http://structuralconstructivism.googlepages.com/(07/12/16追加・修正) 竹田青嗣の現象学、池田清彦の構造主義科学論、ロムバッハの構造存在論などを源流としているとのことである。 著書であるところの「構造構成主義とは何か」は非常に分かりやすく、副題の「次世代人間科学の原理」にあるように、人間を主体として、信念対立を超克する思考方法 1.中核原理としての関心相関性 2.システム・構造としての存在的・存在論的な視点から、存在論的複数性を経て、相補的なメタ理論へ を基軸に、周辺へと適応分野を広げている(著者は継承としている)。 構造構成主義を知ったのはmixiに入ってからであるが、もう少し早く知っていれば良かったと思っている。 なぜならば、私の「知」から「情」への思考の変遷過程でも、特に「知」の変遷過程にて西條氏と同様に、竹田氏の現象学が影響し、出発点に近かったからである。 ※07/07/02 22:00 補足その出発点となる記述は、 私のどちらかといえば「知」を基軸としていたサイト(現在、放置中) きすぎじねん(来生自然)ホームページ の 7.「神」の考察。その2にて 人類は,形態学的・解剖学的・生化学的・生理学的に類型パターンを内在している。 であり、この中に、「現象学」という言葉を入れているが、これは、 ※07/06/24 04:00下線部修正
竹田氏の「はじめての現象学」を読んだ後、私の中高生時代の悩みの根源に迫るには、現象学というものを勉強する必要があると、フッサールの現象学関連の本を手にしてみたものの、理系とはあまりにかけ離れている分野でもあったため、挫折せざるを得なかったという経緯がある。さらに言えば、「竹田氏の現象学」は、真の現象学とは異なるのでは?という憶測が働いたからでもある。 もし仮に哲学分野に進んでいたならば、竹田氏の元に馳せ参じていたかも知れない。 というのも、フッサールの現象学にて躓いたために、10数年のブランクが空いていた。その後、JAVA系を含めた画像診断系のサイトにするつもりだった「きすぎじねん(来生自然)ホームページ」に自身の思春期から青春期(?)の心の変遷過程を書き始めて、苦手意識の強かった哲学系サイトを巡り渡って後、現象学における竹田氏の立場を(再)認識したからである。 竹田氏の現象学は、略して竹田(の)現象学とか呼ばれているが、その位置づけは下記の記述に明確に現れている。 シリーズ<現在>への問い・「創造力の行方」 、「毎日新聞」2005年10月3日(月)掲載 ①ポストモダン思想は終わったのか? ポストモダン思想は、古典的な絶対的「正しさ」の観念を相対化し、現代社会の「内的な自由」の精神の核心をよく表現したという点で、きわめて大きな存在意義をもっていた。しかし、われわれはいま、それが現代の批判思想として挫折している本質的な理由をよく理解する必要がある。その多様な側面をさまざまにつなぎ合わせて何か新しい思想を生み出せるかも知れないと考える人も多いが、それは空しい錬金術にすぎない。このことの明確な自覚だけが、われわれにチャンスを与えるだろう。私としては、たとえば近代哲学の出発点といった場面まで遡って、もう一度近代の批判思想を再始発させたいと考えている。http://www.phenomenology-japan.com/takeda/mainichi051003 この立場は、まさに、私や、構造構成主義の立場そのものを表していると言って過言ではないと思われる。 私が、哲学的な領域に足をつっこんだのは、幼少時から宗教と科学との関係、宗教同士の対立といった、父子間の対立が根源にあったからであり、当初は、どちらかといえば、宗教的な領域の書物を主体に思考を巡らせていた。特に仏教思想の中でも原始仏教に近い領域に関心を抱いた。そのなかでも哲学としての仏教的思考(とくに、岩波文庫「ブッダの言葉(スッタニパータ)」中村 元訳での、「八つの詩句の章」)では、上記竹田氏の考え方に繋がる「最上に関する八つの詩句」が記載されており、今でも、思考の源泉の一部となっている。(内、4つを引用) ※直接の引用元はhttp://sugano.web.infoseek.co.jp/index.htmである。このサイトでは中村氏の「ブッダの言葉」から引用しているとのことであるが、一部異なる部分がある。07/01/01 02:22 799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。※06/12/31 09:45追加、同:「並ぶ応答-小編」(上記8つの詩句の章の理論を展開、この後、並ぶ応答-長編が続く)。今回の論旨において、こちらの「並ぶ応答-小編」の方が分かりやすいと思われたため、追加しておきます)。 878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。 この部分は、形而上学的な論争を避けるという主旨になるだろうが、「この」私・人間という「いま・ここ」を離れてしまうと、虚無思想に繋がりかねない。 仏教には、「般若心経」での有名な文句「色即是空・空即是色」があるが、よく、質量エネルギー(E=mc2)と対比させて捉えられている。すなわち、物質がエネルギーへと変化し、エネルギーが物質へと変化しうることから、時間軸を無視した状態をイメージすることに繋げて、時空概念(「いま・ここ」概念)から自身を切り離す(知的切断)するための手段・概念として解釈されがちな部分である。 この「色即是空・空即是色」の一側面的(知的切断的)な解釈は、「いま・ここ」を離れるがゆえ、虚無思想へと落ち込んでいく。 ※06/12/31 10:00追加 虚無思想は、「風の谷のナウシカ」(コミック版、原作版)でも的確に描出されており、同じ教え(知)を共有していても、その「教え」を貫く「情」の方向性が「生きようとする」方向を向くのか、「滅びようとする」方向を向くのかにて決定的に異なることが、主人公ナウシカの心情を通じて、ひしひしと読者の心に訴えかけてくる。 話が虚無思想に逸れたが、仏教の根本思想について、(「いま・ここ」に相当する柄谷氏の)「この」性への立脚点にて、ポストモダンを経由した視点から記述している文章をネット上でも見ることができる。 仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しかし、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。 である。 ※06/12/31 10:00追加 このあたりの「魂」「輪廻」という概念は、日本における通俗的な仏教解釈での扱いと異なり、原始仏教での扱いであるので、注意が必要である。 日本では、仏教がどちらかといえば死者・死後のものという感覚が強いが、上記「輪廻・魂」概念を読めば、「ブッダの言葉」の「洞窟に関する八つの詩句」 779 思いを熟知して、流れを渡れ。聖者は所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。における、「この世をもかの世をも望まない」という言葉を、より強烈な「情のほとばしり」として読み取ることができる。 これは、通俗的な仏教的「ない」に否定的な感覚を覚えて人生そのものを否定的に見るか、原始仏教的に(否定神学的に)「ない」を捉えて人生そのものを積極的に見るかといった(方向性の)違いに繋がる。私的には、後者として読み取ることを選択しているが、両者の読み取り方のどちらが誤りといった概念では捉えてはいない。 以上、ざっと竹田現象学を中心にして自身の思考の変遷過程を追ってきたが、その途中で柄谷氏や竹田氏、東氏といった現代の日本の思想家の諸概念に触れることができ、自身にとって比較的有意義なネット生活を送ることができたといえる。 しかしながら、ネット社会は人と人の境界、特に、年齢・経験方向(上下方向)の境界を取っ払う作用が強すぎるため、竹田氏が危惧しているポストモダン以降の問題点に直結している(このあたりは、東氏の記述にても読み取れる)。 逆説的に言えば、私が、私自身の思考を、「この」私の考えとして書きつづることができるのは、まさに、そういったネット社会以前に十数年かけて悩み続けてきたからである。(この「である」は、「いま・ここ・この」私を、ネット社会が十数年早く浸透していたならという条件下での「仮想の」私と交換することが不可能であるゆえ、断定的にしている) いずれにしても、「いま・ここ・この」を離れては、移動することができない。「知」は上下方向(ツリー的)へも、水平方向(リゾーム的)へも動きうるが、それを貫き通す「情」の方向性も同時に意識すべきなのだろう。 ※06/12/31 10:40追加 16:45修正 いや、「知」でのみ捉えた場合に方向性のない切断面(概念・構造)と化してしまうゆえ、総体としての「情」が見失われるに過ぎない。「情」は、まさに「いま・ここ・この」私が、たとえば「ブッダの言葉」を読んだり「風の谷のナウシカ」を読んだりしたときに、多義図形的に立ち現れてくる関係性と総体(構造構成主義での言葉を借りれば、関心相関的に立ち現れる現象・解釈と構造、いや、それだけではない意識されない領域にも)に含まれており、元来切り分けられるものではない。 ※07/06/24 03:30 補足 竹田氏の現象学については、様々な本が出ていますが、現代思想との関連から読みたいのであれば、たとえば、下記の本が参照になると思います。 わかりたいあなたのための現代思想・入門小阪 修平 / / 宝島社 スコア選択: ★★★★ (竹田の)現象学を中心に、実存主義、記号論、構造主義、ポスト構造主義について、代表的な思想家同士の関連図を絡めながら、比較的分かりやすくまとまっています。
by kisugi_jinen
| 2006-12-30 05:35
| 思考。。。
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Comments(9)
この世界の成り立ちと仕組みは、とても簡単に出来ています。
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/ いわゆる神の存在証明がもたらす意味について 一般法則論者
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その「簡単さ」を神の視点から語ろうとしているのは科学的な視点でしょう(スピノザの神)
その「認識」が一見簡単そうに見えるゆえ、複雑な問題を産み落としている。。。 一神教や多神教、およびその存在の有無にかかわらず、複雑な問題は解決されるべきです。それは、おそらく一見複雑そうに見えて、本当のところ、ごく簡単なところに根ざしていると考えています。 神は人智を超えるゆえ、存在証明は無意味です。 存在するとすれば、否定神学的に存在するでしょう。
神概念をどのように捉えるかは、人の心に依存するでしょう。
「否定神学的に存在する」とは「存在しない」と「存在する」の両方を含めた概念です。 アインシュタインの信じたスピノザの神は、一神教世界では究極の存在であったためか、無神論と同一視されています。 「私」と「境界」と「宗教」について。。。 http://jinen.exblog.jp/m2004-09-01/#353004
そうそう。。。
「否定神学的に存在する」とは「存在しない」と「存在する」の両方を含めた概念です。 は、 「だまし絵について。。。1.多義図形と概念。。。」 http://jinen.exblog.jp/1636093 が相当します。。。 言い換えるならば、 === 「神という存在」≠「神という概念」(←存在しても、しなくても、概念は共有可能) 「神という存在」は認識不可能であり証明不可能(もし、「存在するならば」) 「神という概念」は、神を信じる人に強く影響し、神を信じない人には、ほとんど影響しないだろう。。。 「神という存在」は、もし「存在するならば」神を信じる人にも信じない人にも等しく影響するゆえ、科学的に扱いうる「力」などと区別不可能。(←多神教的ではなく、一神教的な集約方向としてあるならば) それゆえ、「神という存在」は、もし「存在するならば」、哲学を含めて諸科学(あらゆる知)をも含んでいる(例:スピノザの神)
私たちの存在に先立って137億年前から存在しているこの天然自然の世界を含む、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで作られているこの世界は、あなたや私が認める認めないに一切関係なく存在しています。
このことが最初に理解できないと、人間が先にに存在していて、この世界が後から出たという変な考え方をするようになります。 この世界の成り立ちと仕組みは、あなたの同意や承認なしに、勝手に造られて存在しています。 そこで、自然科学の仮説検証的、帰納法的な方法論が採用されるのです。
「私たちの存在」をもたらす起源は137億年よりも以前から連綿として続いていると考えるべきだと思っています。
「以前」といったとき、科学的に扱いうる時空概念すらないわけですから、科学的に扱いうる範疇を越えているということになるかも知れませんが、ビッグバン以前の状態がビッグバンに影響を及ぼさないとは誰も考えないわけです。 少なくとも、物理学的概念が適応可能な範囲よりも広い範囲(一般法則論者様が仰る創造主に関与するであろう対象)についても、科学者ですら思索を巡らしています。西洋科学はいわゆる一神教と不可分な関係にあることは、歴史的過程から見ても明らかです。(たとえば「宗教と科学の接点」、河合 隼雄 をご参照下さい) そのような視点が最初にあるがゆえ、西洋科学の根底には、「統一的に、論理的に、理解可能なもの」へのアプローチがすなわち「神的なもの」へのアプローチとして認識されています。
言い換えれば、ボトムアップ的にしかアプローチの方法が取り得ない個々の人間が、トップダウン的に「なにかある(存在する)」と考えるならば、それは、「全体」以外の何ものでもないでしょう。「私たちを含む全体」から完全に切り離されて「孤立」しているものは、たとえあったとしても何の影響も与えないため、「ない」と同等に扱いうるわけです。通常の神概念が「否定神学的」に否定されてしまうのは、全体を「創造した孤立した」という神概念に結びついた所から出発しているが為に、生じます。
で、ご存じのことと思いますが、「スピノザの神」概念は「孤立」しているものではなく「全体」そのものであり、「否定神学的」に強く肯定される存在になるばかりではなく、アインシュタインですら「信じるとすればスピノザの神」と言わしめるほどの存在なわけです。 それゆえ、「スピノザの神」は、一般法則論者様の仰るところの神概念にぴったりと一致するのでは?と思われますが、いかがでしょうか?
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