出会い。。。3。。。心と魂と。。。1。。。
出会いにはさまざまある。。。
人と人との出会いに始まり、人と動物との出会い、人と植物との出会い、人と機械との出会い等々。。。 それぞれの出会いが積み重なって、その人の心を、その人の心として紡ぎ出していく。。。 そもそも「その人の心そのもの自体として切り離しうるもの」という定義が成り立たないということは、このブログで再三述べてきた。 人の心の根源的な要素の一つに脳があることは、誰しも否定し得ない。 脳自身、その発現過程と、発育・発達過程と、老衰から死に至る過程にて、その(自発的な)機能と(外部との)相互作用性は、「脳」という外形的な解剖学的な(静止した物質としての塊としての脳という)概念からは、はみ出している。それ故、解剖学者の養老氏が「唯脳論」を展開しうる訳である。 でも、心というものが脳に閉じこめられて定義できるものではないことは、少なくとも身体内部の様々な部分ないし身体外部との相互作用、および身体外部への心の投影という様々な動き、およびそのような行為によって時には劇的に変化する心の情態からも明らかであり、誰しもが既に「知っている」。「脳を理解しなくても」である。 また、一方、稚拙ブログにて既述しているところの一元論・二元論などを越えた「(存在の)全体性」(説明図)から、一元論・二元論的な否定としての「物質を離れて心が存在するのでもなく(かつ唯物論でもなく)、心を離れて物質が存在するのでもない(かつ唯心論でもない)」ということはトートロジー的に明言できる。 私が、幼い頃から父に反目してきたのは、「(生死を超えた)魂の同一性あるのかどうか?」、すなわち「死後の魂があるのかどうか」において、(認識が)対立したからである。 正確に言えば、父の説く「魂の同一性」に、終始疑問を抱き続けたからである。 この問題を40年を越える長きに渡り考え続けることになるとは思っても見なかった。 というより、5年、10年単位ぐらいで、それぞれに答えを見いだしてきたともいえるし、それらの答えの全てが「誤っているわけでもなく、正しいというわけでもない」ということに気づいてしまったと同時に、さらに深い問題に突き当たったということになる。 私は、心・魂の問題を後回しにし、「神・霊・仏」といった形而上学的に「もっぱら心の外部」と認識されうる(というより認識可能だと誤認されうる)領域、すなわち、比較的科学的・客観的に扱いやすいであろう(と誤認されうる)領域から考え始めた。 このあたりの思考過程は「来生自然のホームページ」の「私の人生における過去の悩み」にまとめてある。 大学生当時、中村 元氏の注釈・訳としての(原始仏典の一つである)「ブッダの言葉(スッタニパータ)」、竹田青嗣氏の「現象学」、河合隼雄氏の「宗教と科学の接点」から始まる「宗教と科学」全巻(岩波)あたりを土台としてさまざまに考えていた。その時点で、既に一人で考える時代は終わっていたと言っていい。 大学での専門職での学位に"philosophy of ○○○"とあり(そうして、その学位を戴き)、また、教養時代に諸科学が広義の哲学から分派したという概念を聞いていたのと、問題の根底が「哲学・宗教・科学」の全般と関連していることから、広義の哲学領域の問題として認識したため、ネットの世界に飛び込み、(いわゆる)哲学者と呼ばれる人々とやりとりした。 その過程は「来生自然のホームページ」の「過去ログ」にしまい込まれている。 その時点で、既に私以上に情報を収集し思考しておられる方々のサイトも拝見した。たとえば「考える他人のホームページ」や、「Philotopia28」などである。 これらサイトには、「知」が満載されてはいたが、私の求めるものとは、どこかが違っているように思えたため、独自に考えざるを得なかった。 そのヒントは、Philotopia28の「知の森」に隠されており、そこでのやりとりの過程にて、それまで漠然としていた「あること」に気がつくことになった。 (つづく) ※06/09/12 04:02 wikiのリンク埋め込み時に文字化けが発生するため、リンクエラーになっていたのを修正。
by kisugi_jinen
| 2006-08-01 03:22
| つれづれ。。。
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Tracked
from 来生自然の。。。
at 2006-09-12 04:05
タイトル : 出会い。。。3。。。心と魂と。。。2。。。
Philotopia28の「知の森」で気づいたこと。。。 それは、このブログのメインテーマとなった。 すなわち、「情」と「境界」と「心」である。 結論から言えば、「出会い。。。3。。。心と魂と。。。1。。。」冒頭にまとめているようになる。 「心」は「(存在の)全体性」そのものから切り離すことが不可能であるにも関わらず、知的に捉えられる(切断する、概念形成される)段階で(すなわち認識される段階で)、すでに「境界」を有しているかのごとくになってしまう。 ここで、永年の問題であった...... more
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