「こころ」。。。科学的に扱うことが可能か。。。3。。。
ワカシム様からのご指摘に対する現時点での私の答えであると共に、○○氏の仮説の下での、私の考え(場合分け)を記述しておきます。
完全・不完全ということについては、対象をどのよう認識しているかで異なってくるため、そちらの方から見る必要があると思います。 また、おっしゃっておられるところの問題点は3つとも一つのすれ違いから発生していると思います。 私が「前提条件の理解の違い」だといった意味も、分かっていただけるものと思います。 ご指摘の事項ですが、 ア.「完全・不完全」の用語の定義 とします。 私が述べているところの前提条件は、○○氏が主張している「心・意識が科学の対象となり、かつ、心(ないし心のメカニズム)が科学で明らかになる」ということです。 科学は対象と観察者(記述者)を必要とします。 ジョン・D・バロウ氏の指摘するところの 1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。です。 この説を前提条件とした場合には、たとえば全宇宙Cを記述可能な立場としてCの外側に視点をもつ観察者Gを想定しなければなりません。この場合、二元論としての「心」がMとして想定されえます。理想的にはMはCを観察可能なだけで、Cには何ら影響を与えることがない存在として仮定されます(図1-aの場合)。ただし、現実問題として、MがCから影響を受け、またMがCに影響を与えることは事実です。しかしながら、理想的かつ究極の状態として両者を分離して捉えることができるという概念が二元論となるでしょうし、この場合、分離可能な領域を別途「心α(G=Mα)」として定義してやることもできます(図2の場合)。 こういった場合、科学的手法では、けっしてMを捉えることができず、そういう意味での「心」は科学の対象として扱うことが不可能であることは明らかです。 この場合、(ウ)で示されている両者は、明らかに異なることでしょう。 そうして、(イ)で示されている論理学の理論は心の内部の一部の問題として取り扱われ、科学的な対象全般には適応されないでしょう。なぜなら、(理想的状態である)論理学を構築し、思考の道具として扱うことの出来るMの内のGはCの外部にあって、Cには何の影響をも残さないことが可能だからです。 この場合、(ア)で示されるところの、科学的対象に対する「完全・不完全」は無意味です。 ワカシム様のご指摘は、上記考えのいずれかになると思われますが、いかがでしょうか? では、一元論として扱えるならばどうなるでしょうか? ○○氏も、厳然たる二元論を支持するものは少なく、一元論がおおくなってきているのでは? とおっしゃっておられます。 (しかしながら、なぜだか、ご自身の立場を明らかにはされておられません。) このことは、量子力学的な事象を扱う故に必然的にもたらされた結論であろうと思われます。観測者問題が一時的にあれほど騒がれたのは何故なのかを考えれば明らかです。全宇宙を一つの量子力学的な時間発展系と考えるとき、観測者問題を問題にならない状態にするには、図1-aは図1-bになります。これは、図3と等価の関係です。 量子力学を引き合いに出しておりますが、別段、図3を考えるのに量子力学の入った図1-bは不要であるという考え方も可能です。 で、図3にて示すような関係としての一元論として扱いうるとすれば、われわれの心は物理学的現象と密接に関連しているはずです。 そういった前提条件があるからこそ、○○氏は「心・意識が科学の対象となり、かつ、心(ないし心のメカニズム)が科学で明らかになる」とおっしゃったはずです。 逆に、そういう扱いが可能だと考えておられる○○氏の立場に立つならば、必然的に一元論的な取り扱いをせざるを得ないと考えます。 この場合、もし仮に外部からの視点Gが存在するとしても存在しないとしても、Cの内部にいるわれわれには認識不可能です。 すなわちGを想定することは不可能です。というより前提条件にありません。 この場合、もし、科学が全宇宙を記述可能な理論を手に入れたなら、そのときこそ、心をも記述可能になることになります。(理由は後述します) 科学的記述が単に事象の説明可能性であることは間違いないですが、全宇宙を記述可能な理論となれば、(たとえ別の方法で同一の事象を記述可能であったとしても、)それは今まで起こらなかった事象で将来的に起こりえる事象をシミュレートすることが可能な理論でもあるわけです。 すなわち、経験論的な科学としての「白いカラスが見つからないといって、白いカラスがいないとはいえない」は、「カラスの遺伝子から黒い色素を持たない状態にすれば作り出すことができる」という次元のものに成り下がるという意味です。(実際問題として、アルビノとしてのカラスならば、白いカラスがいるはずです。http://blinkey.exblog.jp/1117081/) それほどまでに強力な理論は、近似解として扱われているニュートン力学などの、いわゆる「観察者がいて対象がある」といった関係、すなわち、経験論に根ざしているがゆえ、反証があれば、さらに厳密な解として修正される運命の科学理論ではなく、観察者の存在の有無に関わらず全体を記述可能な理論の構築を目指しているといってもいいはずです。 おそらく、そういった視点からの究極の統一理論を目指すゆえ、観測者問題は問題外という立場に立たざるを得ないのだと思われます。 この場合、良く言われているところの、「水素原子と酸素原子についての知識のみでは、水についての性質を述べることができない」ということすら問題外です。全ての物理学的諸現象が一つの統一理論に還元可能という意味です。それだからこそ、○○氏は「心・意識も対象になりうる」という発言をされたはずです。でなければ、いわゆる「創発」という複雑系にて発現しているように見える想定外の新しい性質と相同視すらされている「心」を科学的対象には決してできないはずです。(前述の全宇宙を記述可能な理論が必要という意味はこの点からも明らかです) 量子力学は、重力理論などとの整合性がとれていないだけで、それだけの力を有したものだと理解しております。現にフロンティア理論はそうやって構築されたものでしょうし、複雑な物質ですら、第一原理計算によって理論的には計算可能だとされているようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8E%9F%E7%90%86%E8%A8%88%E7%AE%97 →たとえば量子化学を参考にしてください(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8C%96%E5%AD%A6) 私が問題にしているのは(おそらく○○氏も想定されておられるのは)そういった科学理論です。 でなければ、一元論の元で心を対象可能だとは決していえないはずです。 この究極の理論の下では、(イ)でも(ウ)でも、全く異なる概念であったはずの両者は同一の土俵に乗っかってしまうでしょう。 なぜなら、全体を記述可能な理論は心の中で考えることができ、シミュレートすることができなければなりません。未だ見たことのない白いカラスをも想定することができなければならないのです。そうして、自然界全体を論理的に取り扱うことが可能であるため、そのときの技術力で組み上げられたコンピュータ上に組み込むことも可能になるでしょう。 そういう意味にて書いております。 で、そういった状況下での「心を含む全体を考える」心は、論理的に不完全性定理の概念そのものになることは明らかだと思います。 また、そういった状況下での「完全・不完全」(ア)を用いています。 逆に、もし、全宇宙を記述可能な理論ができない状態で、(心の一部の機能ではなく)心を科学的に取り扱いうるというのであれば、そのときには、ワカシム様のおっしゃられるように、完全・不完全は無意味でしょうし、そうであれば、「心」を「科学的に、かつ、論理的・無矛盾に」記述することは不可能だと思います。 ○○氏は、おそらくそういうことを見越して、「何百年先には」、という言葉を添えられたと思っております。 私自身の考えではなく、○○氏の意見を前提条件としたならば、上記事態にならざるを得ないのではないでしょうか?というのが、私の論旨です。 ※06/01/14 09:45:訂正・追加 もし、ワカシム様の方で別の視点(そんなことにはなりゃあしない。こういった展開になるはずだ、みたいなもの)がおありのようでしたら、ご教示の程、お願い申し上げます。 ※注 06/01/14 10:50追加 Wikipediaからの引用は、仮の引用です。
by kisugi_jinen
| 2006-01-13 17:51
| 思考。。。
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Tracked
from 来生自然の。。。
at 2007-09-14 03:14
タイトル : 主観・客観と交換可能性。。。
社会学玄論というブログを構造構成主義関連でググッたときに見つけ、コメントをしたら下記のような投稿が為された。 主観/客観、交換可能性/交換不可能性 うーんんん。。。 「客観」って、認識様式に限定されるのだろうか? このことに関連して、社会学玄論の他へのコメントにも記述したが、補足しつつ要約しておきます。(ほとんど、このブログで既に触れた事柄です) 主観・客観について 1.自然科学での対象は、客観的存在である。 2.自然科学での客観的存在は、「客観的」の極値に相当する。...... more
ちがくて・・・
>完全・不完全ということについては、対象をどのよう認識しているかで異なってくるため、そちらの方から見る必要があると思います。 完全と不完全は、少なくとも不完全性定理では厳密に定義されています 完全 = 真なる命題は証明可能 不完全=その公理系で真なのに証明できない命題がそんざいする/自己の無矛盾は証明できない。 というだけのことです。 で、こころの科学が不完全(真なのに証明できにあ命題がある)と、何か問題がありますか? 貴方の議論に不完全性定理が登場する場面がないんですよ。 だから理解してないでしょ!て指摘してたのですよぅ。 あと、その議論が成立するのも「こころの科学」が「知性を、与えられた公理と推論からな手続きのみで再現可能なアルゴリズムを提出すること」の場合だけで、科学ではないんですよ。 いっかい真面目に勉強してからにしたらどうでしょうか? 確かに前提を誤解されています。
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kisugi_jinen at 2006-01-25 21:47
> 完全と不完全は、少なくとも不完全性定理では厳密に定義されています
については、既に、 「こころ」。。。科学的に扱うことが可能か。。。 にて、示しております。 後の項目についても、この投稿内部と、 こころの能動的側面をどう捉えるか?の影響。。。 にて示しているとおりです。 また、 >「こころの科学」が「知性を、与えられた公理と推論からな手続きのみで再現可能なアルゴリズムを提出すること」 に、まさに一致してしまうということを今回の投稿内部で述べております。 > この究極の理論の下では、(イ)でも(ウ)でも、全く異なる概念であったはずの両者は同一の土俵に乗っかってしまうでしょう。 の部分です。 それゆえに、○○氏へのコメントの最後に > 「こころ」を科学で捉えうるのであれば、科学という概念が大きく変容する必要があるかもしれません。 と、記述しております。 「真面目に勉強」がどういうことを意味しているかは分かりませんが、証明のトレースは一度行なっております。
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