個と総体と。。。その2。。。
以下moriさんのところにコメントしたものの一部改変です。
「全体・総体と個と」は、切り離せない。 しかしながら、仮想的・幻想的にでも暦然とした境界を保ち続けようとするがゆえに、「個」は「個」でありうる。 総体と個とのどちらを主体に見るか? といったとき、両者には包含関係しか存在し得ない。 個が先か?全体が先か?といったことも、 個が優先されるか?全体が優先されるか?といったことも、一般論的には無意味な問いでしかありえないはずだと思う。 全体を一つの生命体とみなすという考え方も、あながち間違ってはいないのだけれど、粘菌のように均質な個が集まっていると考えるのか。蟻のように女王蟻のような母体的存在があると考えるのか。人間のように中枢があると考えるのか。といった「概念の差」で、随分と行動が規制されてくる。 すなわち、母体・中枢という概念に対して、再生可能・交換可能だと思われやすい子葉末節方向のものは切断されやすい傾向を担ってしまいうる(右翼的傾向)。とくに全体が縮小・低下する方向にあるときに顕著になる(現在の日本そのもの) これに対して、母体・中枢にかかわらず個体こそが主であるという概念では、全体を支えるだけの基盤があるうちは非常にいいのだが、全体の地盤沈下が発生している状況では、母体・中枢が先に滅んでしまう(左翼的傾向)。(過去になりつつある日本そのもの)。 そうして、これら「どちらか一方のみ」を普遍的な真理として扱うならば、前者は「優生思想」への方向性を有し、後者は「平等思想」への方向性を有している。 知的切断面では二者択一へと落ち込んでしまう危険性が常に存在している。なにかが欠けているというとき、そこには「文」に相当するであろう「情」が欠けているように思うわけである。 もし、二者択一のどちらかの方向性を選択せざるをえない状況になったとしても、まちがっても「知的切断」の優位性、すなわち「知の絶対優位性」を前面に押し出してはならないと考える。 「個と個」および「個と総体」との間には、越えがたき境界が横たわっており、その境界をしっかりと認識したうえで、なおかつ、越えうるのは「情」以外の何ものでもないであろうからである。。。 (現在の、日本・韓国・中国などのアジアとの諸関係にそれを感じます) 「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」 参考までに優生思想について書かれた森岡正博氏の一文へリンクしておきます。 http://www.lifestudies.org/jp/yusei01.htm
by kisugi_jinen
| 2005-08-16 07:48
| 思考。。。
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