ともし火に我もむかはず灯も我にむかはずおのがまにまに。。。光厳院の燈火連作6首を読む。。。
本ブログの座右の銘となってしまった短歌 「ともし火に我もむかはず灯も我にむかはずおのがまにまに」 光厳院の作として最初に目にしたのは、岩波新書・黄113「折々のうた」(大岡 信)であった。 その後、ネット検索して、岩佐美代子氏の「光厳院御集全釈」における丸谷才一氏の書評(毎日新聞)を見つけた。今は、URLは消失してしまっているが、そこに記されていた解説の一部は砂子屋書房の「一首鑑賞・日々のクオリア」内に記載されていた。(http://sunagoya.com/tanka/?p=12718) === 資料からの抜粋+丸谷才一氏の書評での表記
=== 光厳院について興味を抱いたこともあり、歴史的背景については、近隣の図書館にて「地獄を二度も見た天皇 光厳院 (歴史文化ライブラリー)」を借りて読んだのだが、やんごとなく過ごせたはずの身分でありながら、目前で多数の兵(つわもの)たちが自害していく様を受け入れざるを得なかった心境を含め、当時の時代のうねりを背面からうかがい知りえた気がした。 長くなりそうなので、蘊蓄については最後にリンクしている複数の資料を閲覧していただくこととして、本題に入る。 「光厳院御集」の燈火の6首は連作と解釈されており、リンク先資料にも様々な訳がなされているのだが、「連作」としての解釈ではなく、ほとんどが「単独」の和歌としての解釈を並べただけとなってしまっている。 和歌本来の味わいを行間に読み取る向きにはいいのだが、背景事情を十分に理解しえない方々にとっては、「どこがいいの?」となってしまいかねない。 連作という塊で扱うのであれば、行間もあえて記述するほどの訳にすべきだろうと思い、下記にまとめてみた。 なお、「かげ」は「光」として単一に扱う向きがあるが、ここではあえて「光と影」の両方の意味とした。 「ともし火」の「光」には、栄光や栄華といった概念が重なり合うゆえ、天皇、および取り巻く権力という概念もまた重ね合わされるのであろう。 「ともし火に向かう」という言葉には、そういった「権力に向かう・迎合する」という意味も込められていると考えるべきであろう。 そうすれば、歌に込められた光厳院の心情を、より深く、読み解くことができるような気がする。。。 === 元の和歌・6首 ===
=== === === 訳・意訳 2017.09.12 0:55 意訳追加、09.13 0:15一部修正===
=== === 意訳に利用した辞書
参照した資料
by kisugi_jinen
| 2017-09-11 06:45
| つれづれ。。。
|
Trackback
|
Comments(0)
|
検索
カテゴリ
最新の記事
お知らせとリンク。。。
お知らせ
●コメントスパム対策のため、承認制に変更しました(2010.09.29) ●トラックバックのリンクチェック機能を追加しました。excite以外からのトラックバックをされる場合、当該記事へのリンクを埋め込んでください。 リンク ゲストブック ---Yahooジオシティーズ終了に伴い、利用できなくなっています。 来生自然のホームページ ---Yahooジオシティーズ終了に伴い、利用できなくなっています。 鉄鼠 ---「考える」ということに向き合う。。。 Genxx.blog 移転後http://blog.genxx.com/ ---「情」を含めて専門的な立場から「こころ」を模索し続けるGenさんのブログ。。。 研幾堂 ---山下裕嗣氏による哲学のサイト。以前、形而上学についてやりとりさせていただいた。 記事ランキング
最新のコメント
最新のトラックバック
以前の記事
フォロー中のブログ
外部リンク
ブログパーツ
ライフログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||