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境界。。。二つの方向性への移動と「だまし絵」。。。
知的・幻想的な交換可能性。。。
それは「概念の均質さ」と等価であろう。。。

境界が「わたし」を含んで外部の世界を突っ切って遠くまで行くように感じるとき、そこには知的・幻想的に共有可能な切断面としての「概念」が、限りなく広くいきわたっているように感じるであろう。。。それは、時として、「情の知的・幻想的切断面」が共有可能である(すなわち共感可能である)ゆえに「情」そのものを共有可能であるかのごとく錯覚することから発生しうる。

そうして、その方向性への全面的・絶対的な「概念」の押し広げは、「全体主義という概念」(知的切断面)に投影されうるであろう。。。

境界が「わたし」の内側へ潜り込む方向へ移動するとき、「わたし」と「それ以外」は、脳内での(すなわち、バーチャルでの)切り分けのごとくに感じ取られるであろう。。。

バーチャルの世界(認識の世界)での切り分け。。。「わたし」の内部に潜り込んだ境界によって切り分けられた「それ以外」は、思考上「わたし」の内部であるがゆえに、「わたし」からすれば「下位の存在」にしかなりえない。これは「自己の自己に対する絶対優位性」が生まれうることからの、自然な流れになるであろう。。。

「自己の自己に対する絶対優位性」。。。すなわち、「わたし」という存在は「唯一無二」「唯一絶対」ゆえ、並列性・交換可能性は拒絶される。だからこそ「わたし」なのである。そうして、時間軸に対する交換「不」可能性がもたらす、「過去のわたし」に対する「現在のわたし」の絶対優位性、「現在のわたし」に対する「未来のわたし」の絶対優位性。。。

そうして、その方向への思考は、徹底的な「個人主義という概念」(知的切断面)に投影されうるであろう。。。

で、もし、「認識内部にあるわたしとそれ以外の境界」をそのまま、「認識外部」に投影する(すなわち錯覚する)とき、「バーチャルの世界での切り分け」を「バーチャル・リアルの切り分け」と混同することになるかもしれない。。。
そこにおいて、現代社会で繰り返し発生する凶悪犯罪の根が繋がっているのかもしれない。。。

「全体・総体」が一つであるのなら、全体主義的な方向性を有する概念も、個人主義的な方向性を有する概念も、両方共に「多義図形としてのだまし絵」すなわち「婦人と老婆」の関係に過ぎないのではないだろうか?

境界。。。

過去、「来生自然のホームページ」では、、客観的・主観的な側面という二方向からの「わたし」への突き詰めが、「素通り」という奇怪な現象として捉えられることを述べてきた。
すなわち、科学的な攻めは、「わたし」を「わたし」として規定せしめているものをDNA「のみ」といった物質、ないし記号に求めるとき、(情報ではない)「状報」の均質性(交換可能性、並列可能性)ゆえに、「わたし」を囲む境界は、面積を持たない仮想的な点を囲む境界に等しく感じてしまいうる。。。
すなわち「無」である。。。
しばしば、この「無」(虚無)は、仏教的な「空」と誤認されうる。。。

交換「不」可能なものを、徹底的に追い詰めようとしたときに素通りしてしまう全てのもの。。。実は、その素通りしてきた全てのものに「わたし」の本質がある。。。
総体としての「絵」ではなく、老婆を見ようとした「わたし」と、婦人を見ようとした「わたし」。。。そうして、「絵」ではなく、「絵」を構成するキャンバスや絵の具の種類、ないし、デジタル表示された個々の点を見ようとした「わたし」。。。

「わたし」と「絵」と「関係」との全て(総体・全体)が織り成す世界。。。

どれがかけても成立し得ない。。。
「わたし」と「婦人」と「関係」と「総体」。。。

「わたし」と「老婆」と「関係」と「総体」。。。

「わたし」と「絵」と「関係」と「総体」。。。

「わたし」と「あなた」と「関係」と「総体」。。。

「わたし」と「全体主義」と「関係」と「総体」。。。

「わたし」と「個人主義」と「関係」と「総体」。。。

水滴が作る、水面上の波紋。。。

ともし火が作る、揺れ動く影。。。

複数の水滴が、波紋を形作るとき、波紋の境界は境界を保ちつつ、境界は境界を超える。。。

複数のともし火が、揺れ動く影を作るとき、影の境界は境界を保ちつつ、境界は境界を超える。。。

どの波紋も、どの影も、「総体・全体」の一部であり、そうして「絶対的な個」の一側面である。。。

。。。「ともし火に 我もむかはず 燈(ともしび)も われにむかはず 己がまにまに」(光厳院)

水滴の 波紋に重なる 水滴の 波紋は知らず 越えて静まる。。。(じねん)

幸福を求めるために不幸を排除することこそが、不幸の始まりであるということなのかもしれない。。。

。。。

いや、やっぱり、明るくなんてかけそうにない。。。
と。。。次回は子供の話題にすべきかな?。。。
by kisugi_jinen | 2005-02-20 00:14 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
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「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。

by kisugi_jinen
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