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「私」と「境界」と「宗教」について。。。
「この私のこの心」が、「今・ここにいる」私によって考えられるとき、「今・ここにいる」私を離れて「この私のこの心」は存在し得ない。「心」の定義がどうであれ、「今・ここにいる」私が思い・考えるということを離れては存在し得ない。

それがいつ始まり、いつ終わるのか、どこから来て、どこに行くのかということは「今・ここにいる」私を離れることができない故に、想像の域を出ることができない。
そして、「この私のこの心」が、生命活動を行っている実体としての私(特に脳)と密接な関連を持っていることと離れては存在し得ない。私とは、そのようなものである。
 
観念論的に「この私のこの私のこの...心」を自己言及という点にまで相対的に極限化することは比較的難しくはない。
一方、「この私のこの」心に境界を設定することは不可能であることも事実である。すなわち、「全宇宙」に「この私」が広がっているという概念すら否定されえない。---もし、量子力学におけるシュレーディンガーの関数を一元論として採択したとしても、多世界解釈のもとで、「この私」と「全宇宙」との切り離しが不可能なことは説明可能である。(注1)

「この私のこの」心は、周囲の環境と密接な関係を保っており、「切り離す」ことは不可能なのである。それでいて個々に存在している。
「ともし火に我もむかはず燈もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)

「この私を考える『この私』」という自己言及に伴う上位概念に向かうとき、自由意志・自己決定権という概念は『この私』の「この私」に対する絶対優位性と対になって存在しうる。すなわち、「この私」の行く末を最終的に決定するのは『この私』であると。
 
『この私』という方向性は、「この私のこの」心を持つもの全てに共通して存在しうる。なぜなら、「この私のこの」心と『この私』は共に自己言及の両面に張り付いていて反対方向を向くからである。どちらが外でどちらが内とはいえない。
1.『この私』という方向性において、その極に対象物を想定したときに、神・悪魔・イデアという概念が発生すると考える。それら概念を共有化できるという幻影を共有化するところに一神教的宗教が存在する。すなわち、極限と思われるところに対象物を想定するので、共通の境界線を共有するという行為に他ならない。このような境界線の設定に伴う神の制約を取っ払うため、「語りえぬもの」としてさらに無限後退(無限上昇)という自己言及(否定神学)を持ち込むことで問題解決に奔走する一神教的宗教も存在する。しかし、そうしたところで、発生源に境界線の存在を暗黙の了解としているため、「真の」境界線の外側から見ることは想定されえないし、そういった存在は、「敵」ないし「悪魔」として認識されうる。したがって「神の国」と認識されうる領域は、外側にあるというわけでなく、境界(教会)の内にしか存在しえない。そこにおいては、生も死も「内側」であり、天国も地獄も「内側」である。「外部」があってはならないのである。民族のための宗教から出発しているために、他民族・多民族を含有しようとする外方への汎化・拡大は、当初強靭であった「神」の人格神的要素を次第に薄れさせる結果につながったと考える。

2.アニミズム的ないし多神教的宗教は、『この私』という方向性を「この私」を離れて、並列的に、複数のものに想定するときに、(重なり合う)境界を設定することで、それぞれの中心方向の極に神・悪魔・イデアという概念を設定しているといえる。この意味において、一神教的な概念が複数というより、『この私』の向かう方向性が反転している概念になると考える。

2-1.もし「この私」という「境界」の内側に確たる『この私』という方向性を持ち得ないとき、「この私」は、多数の『この私』を有する神的存在の境界の外側に位置するため、輪廻転生や天国・地獄を「境界の外側」に設定することとなり、境界の向こう側(彼岸)を希求することとなる。

2-2.もし「この私」という「境界」の内側に確たる『この私』という方向性を持ち得るならば、一方の極として境界が無限小の独我論に対応するであろうし、他方の極として境界が無限大の独我論に対応することになるであろう。すなわち、「この私」に対する『この私』の絶対優位性が、どういった範疇を含んで影響を及ぼしているのかという境界である。
多くの人々は、極限をとらずに、これら中間に位置し、時と場合によってその境界の位置をずらしていると考える。

上記2-1,2-2という状況は、別にアニミズム的ないし多神教的宗教を信じていなくても、日常的に起こりうることである。上記アニミズム的ないし多神教的宗教にて、「神・悪魔・イデア」というものを、「他者」に置き換えても、全体の文章はそのまま、「この私」と「あなた方」という内容になりうる。

すなわち、一神教的な世界観では、「この私」と『この私』の中心が同じであるのに対し、多神教的な世界観では、「この私」の境界線の内側には、確固たる『この私』が存在しない場合があり、そのときには、「この私」と『この私』の中心がずれる場合(2-1)がありえる。この場合、「この私」は、外部に強く依存し、外部の流れに流されてしまいがちな状況と同じである。

多神教的な世界観を有する人が、一神教的なものを信じるときには、2-1というパターンになりがちだと考える。真の一神教信者は、おそらく2-1ではない。1に記したように、もっと強い『この私』を持っているはずである。このことは、牧師の子供であるユングの「ヨブへの答え」に如実に現れていると考える。

神戸連続殺傷事件のケースでの「神」が、どのケースに当たるのか興味深いところでは有る。
3.仏教的宗教は、これら「境界」を「あるのでもなく・ないのでもなく」としたところに成り立ちうる。

すなわち、「この世をもかの世をも望まない」(ブッダ)になると考える。

「この私」を規定する境界は、自在に動きうるものなので、想定する「私」によって、『この私』自身の状態も変化しうる。こういった(個人内部での変化を含む)変化は、どうして世の中にこれだけの宗教が生まれてくるのかの説明を可能足らしめるものと考える。

一般的に言われる「(狭義の)自然と人間という境界」は、「この私」の境界の総和による境界(「私たち人類」の境界)になるだろう。この場合、各人の「この私」の境界(ありよう)が無限小から無限大にまで及ぶこともあるため、「(狭義の)自然と人間という境界」は、まるで電子雲のように暈ける。さらに言えば、実際に人間と(狭義の)自然との境界においては、両者が癒合し、切り離すことは不可能である。このことは脳と身体という関係においても認められる。

昨今、共感という言葉が流行しているが、境界の内側であれば、それほど問題なく共感しあえるであろう。しかしながら、非常に超えるのが困難な境界の向こう側と共感しあえるならば、何らかの問題解決につながるのかもしれない。

「境界を消し去る」のではなく、「境界を存続させつつ共感する」ということが重要なのではないだろうか?
「ともし火に我もむかはず燈もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)再記

オリジナル

※注1: 06/01/09 04:57
「多世界解釈」を採択する必要は全くありません。「多世界解釈」を一つの考え方として捉えなければならない物理現象ということです。ようするに、2重スリットを通り抜けた一つの量子がぶつかる点が決定される瞬間の世界と私が存在する世界とは切り離すことが出来ないということです。もっと簡単に言えば、シュレーディンガーの猫を閉じ込めるような箱は、「この宇宙」には存在し得ないということです。というより、シュレーディンガーの猫を閉じ込める箱があったとすれば、それは、この宇宙全体を閉じ込めているということです。

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# by kisugi_jinen | 2004-09-26 02:09 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
主観と客観と交換可能性。。。
主観と客観との対置は、過去から良く行われている。言葉による対置から、両者は「切り分けられるのでは?」という誤認がなされることがある。しかしながら、両者は、方向性のみをあらわすものであり、「切り分けること」はできない。

「科学的・客観的に事物を見る。」といったとき、観測者である「この私」と「あなた」とが「交換可能」だという限定された条件を持ち込んでいる。ようするに、「この私」と「あなた」とが入れ替わることで変化する要因があったとして、対象に対する影響の割合のうち、そういったものの影響を「無視できるぐらい極力最小」ないし「入れ替わるときに発生する影響度を確率的に予測可能な範囲」にとどめおくことで、観測可能であるときのみ、「科学的・客観的に見る」ことが可能だということを意味する。

すなわち「この私」と「その他」とは、決して切り離すことができないということである。
カントの先験的哲学が表現する「超越論的動機」に関して、”誰もメタレベルに立てないという原則の確認”といった解釈もあるが、妥当とはいえない。それが意味するものは、当時の文脈に即してより正確に言い直せば、誰も「主観」の外に出て「客観」を直接確認できないという認識論的原理の確認であり、認識問題はこの前提の上でのみ構想されねばならないという思考原則の提示である。「言語的思考へ、脱構築と現象学」、竹田青嗣、径書房p.90-p.91

このことは、量子力学の観測者問題(2重スリットでの「存在の」粒子性と「存在の」波動性の問題)と関連しており、論理的にエヴェレットの多世界解釈へと向かわざるを得ないことを示している。

※06/02/04 10:16 注追加
「エヴェレットの多世界解釈」ではない。
量子力学との整合性をとろうとするならば、エヴェレットが提唱したように全世界を(厳密な、ないし近似解としての)シュレーディンガー方程式の孤立系として記述可能という選択枝をとらざるを得ない。
ということである。

※08/08/23 04:00 補足
「いきなり量子力学?!」と、思われる方がおられるかもしれませんが、詳しくは
ネーターの定理。。。
二者択一問題。。。orとandとエンタングルメントと。。。
EPR相関とBellの不等式と。。。
および関連項目を参照してください。
ようするに「解釈問題」なわけですから、主観と客観との切り離しが不可能なわけです。
←よくある間違いとしての「観測の有無が影響する」として考えられてもいいですし、正確な意味としての「(いわゆる)観測者の有無に関わらず」として考えられてもいいです。どちらにしても「解釈問題」になります。

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# by kisugi_jinen | 2004-09-25 09:57 | 思考。。。 | Trackback(2) | Comments(3)
私の私に対する交換可能性と絶対優位性。。。
もしも、クレオパトラの鼻が低かったなら。。。
歴史上の事柄を語るときに、「もしも」という仮定を行なう場合がある。

ありとあらゆるものが等価であって交換可能であったなら、すなわち、差異が全く見いだせなかったならば、個々の人々の意識・思考はどのようになるであろうか?

そこまで行かなくとも,「私に対する私」は,「完全に交換可能」なんだろうか?

この「完全な交換可能性」に対する思考こそが、自己同一性を考察する上で必要不可欠な思考になりうると思われる。
また,クローン人間に対する倫理を語る上で、非常に重要な事柄となりうるであろう。

はたして「完全な交換可能性」は,ありうるのだろうか?

物理学的な立場で言えば、完全な交換可能性を有するものは存在し得ない。エネルギーレベルのみでの交換可能性とか、限定条件を課せば可能になりうる。

人間の場合、同じように、自動車の運転者の立場とか、範囲をおおざっぱに絞ることによってのみ、交換可能性が成り立ちうる。そういう限定を科したとしても、切り離せない(わずかな)条件の違いが「完全な」交換可能性を排除しうる。(運転レベルとか、反射神経とか)

すなわち、遺伝学的に全く同一の生物が存在したとしても、ほんの数センチ離れていただけで条件が異なってくる。それ故、一卵性双生児の運命は、ごく僅かずつ異なっている。

以上、2003/03/23 23:10 に投稿した156 「交換可能性」 より

さて。。。
過去の自己と現在の自己と未来の自己、これらの間における自己同一性を考える時、交換可能性の立場から考察するとどうなるだろうか?

これはすなわち、同一性に対する差異を見つけだす作業にも似ているが、交換可能性という立場では、そのもの自身のみに目を向けただけでは語りえず、そのものに関連するありとあらゆる条件(環境)が関与してくる。

ざっと考えただけで,「自己の自己に対する交換可能性」は不可能のように思われる。一瞬前の自己と今現在の自己は,微妙に異なっていると思える。なぜなら、「私は変わっていない」と思っていたとしても、確実に周囲の環境(状況)は変化しているのだから。。。


以上、2003/03/23 23:13 に投稿した157 「自己の自己に対する交換可能性」より一部改変

この「自己の自己に対する完全な交換可能性が非成立」ということと,「自己の自己に対する絶対優位性が成り立つ」ということが,実のところ「表裏一体的」に等しい内容を表しあっていると考える。
これは,「自己言及」(私が考える私が考える。。。)という行為が,時間(変化)と密接に結びついているならば、「私」と「私が考える私」、「私が考える私を考えていた私」とは、もはや同一ではなく、「交換可能性が成り立たない」ということを意味するからである。すなわち、未来における選択肢を複数持ちうる私のほうが、選択肢が一つの過去に移行していく私に対して、どの選択肢を選ぶかを決定できるゆえに「自己に対して絶対優位になる。
しかし,「自己言及」という行為が,時間(変化)という概念から離れていれば、「私」と「私が考える私を考えていた私」とは、(時間概念を欠落させた言葉の論理性に基づけば)同一であるので、「交換可能性が成り立つ」ことと等価であり、私は選択して決定するはずの内容をずーっと保留し続けるという事態になる。(←こんなことは不可能なので、時間軸に沿った変化を無視するわけにはいかないと思うのだが、エントロピーとネゲントロピーと時間の進行方向と意識との複雑な問題として棚上げにすることも可能。。。いや、やっぱ、おかしいでしょ!)

以上、2003/03/23 23:17 に投稿した158 「自己の自己に対する絶対優位性と時間(変化)」より一部改変

で、「自己の自己に対する絶対優位性」とは、「自己に対してのみ」成り立ちうる「絶対優位性」で、時間軸と分離不可能な「自己認識・自己言及」にのみ基づいている。これは、自己に対する決定権が最終的には自己にあるということと等価である。

すなわち、自己に対する自己の交換可能性が成り立たないゆえに、自己に対する自己の絶対優位性が「自己言及」により担保される。
さらに、この思考が外側に向かっていくとき、「唯一絶対神」への信仰と、方向性が同一になりうる。
。。。この話の続きは、次回。。。
え? 読みたい人は、ここを参照。。。
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# by kisugi_jinen | 2004-09-25 03:59 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わが子が泣き叫ぶとき。。。
2001.09.11に生まれた我が子も、3歳を過ぎた。。。
半年前ぐらいから、寝る前に訳もなく泣き叫ぶことが多い。
言葉にすることのできない感情表現なのだろう。。。
そんなとき、「泣くな!」、なんていえない。
黙って抱いてやるか、
「どうした、どうした。。。なにがかなしぃんや?えっ?。。。泣いてもいいよ。。。泣いてもいいけど。ねんねしようよ。。。」って、言ってることが多い。。。
窓の外の景色を見せて、「ほーら。。。お日様バイバイしたから、まっくろけだよ。。。松の木さんもネンネ。。。お星様もネンネ。。。車さんもネンネ。。。」と、話してやると、自分から「新幹線もネンネ。。。マックスもネンネ。。。」(新幹線大好き小僧です^^;)と、言って泣き止むこともある。でも、ときどき、何かにむしゃくしゃすることがあるのだろうか。。。
叩いてきたり、蹴ってきたりする。。。
少しぐらいなら同じ調子で相手したり、あまりにひどいときは、たたいてきたときのみ「こら!」って、怒って、おててを"ぺしっ"とし、「痛いでしょう!。。。泣いてもいいけど、何でたたくの?」って。。。
あとはまた同じ調子に戻って相手をしている。

ここ数年、主に感情と理性との関係について考えている。。。でも、考えても考えても、結局のところ、親って何ができるんだろぅ。。。と、思ってしまう。。。

※写真は我が子のもの。。。右端は生後1ヶ月ぐらいです。

誕生日:2001.09.11。。。

b0032038_2113573.jpgb0032038_211449.jpgb0032038_2172474.jpgb0032038_2173318.jpg
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# by kisugi_jinen | 2004-09-24 23:02 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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