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情と知。。。
ふと、言葉遊びに思索をゆだねてみた。。。

哲学=智を愛する

「愛する」という言葉は、本来「情」の側面を「知」の側面にて「ことば」にしたものであり、「方向性」のみがあるものだと思う。

すなわち、「知」のレベルよりも「情」のレベルにこそ「哲学」の真髄があるように思われる。。。
そうして、「知」を「情」が包含するかのようにも受けとれる。。。


たしか、数年前、そういったことを語っておられた旅人が一人、おられたような。。。

===2004.10.12 18:45追加。。。

「知」のレベルでも、「認識・存在」という2方向(わたしがメビウスの輪にたとえた二元論的方向性)があり、さらに「知・情」という2方向がある。。。どちらが真というわけではなく、「どちらも」わたしには必要不可欠なものである。

そうして、それら「わたし」からの種々の方向性と、わたしを取り巻く外部の種々の方向性との関係を考えると、まさに複雑に絡み合う世情そのものになってしまう。。。

じゃあ、そんなこと考えなくても。。。
って、ことになるかもしれないけれど、一番重要なことは、

「わたしがそう考えるから、そうであり、わたしがそう信じるから、そうである」ということを抜きにしては、「わたし」は「わたし」ではなくなる、ということである。

「何も考えないで、そうである」のと、「とことんまで考える過程で、そうである」のとは、「わたし」が「わたし」であるかどうか?というレベルにて異なるといえる。さらに言えば、次の一歩が、大きく異なるかもしれない。。。と。。。

それだけ、「わたし」の思考・信念という領域に対しては、『わたし』が常に考え続けねばならないのだろうと思っている。

私の場合、考え方の根本は、5年、10年というスパンで変わってきている。。。
おそらく、年をとるにつれて、変化はほとんどなくなるのだろう。。。
でも、一生考え続けて生きたい問題ではある。。。
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# by kisugi_jinen | 2004-10-12 12:53 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
「にこごり」。。。別の視点。。。
量子力学を知らなくても、磁石で遊んだ記憶は多くの人が持っているはずです。二つの円形の磁石を鉛筆に通して、反発するように向かい合わせて、ビィヨォーーーン、ビィヨォーーーンと、上下に揺らした経験は、多くの人がしたはずです。

で、その間に指を入れても、何にも無いし、何も感じない、目に見えない力が働いている不思議。。。

「物が落ちるのが当たり前」と思っていても、「磁石の反発」は、最初に目にした瞬間から不思議な事象に思えてしまい、どう説明されても「不思議さ」は、なくなりません。

逆説的ですが、ここで「不思議なことはない、科学で説明できる」という考えを持つと(いわゆる)「科学者」には「絶対に」なれません。

(いわゆる)科学で可能なのは、「引力と斥力とを定量的・定性的に説明可能な論理的・理論的・無矛盾な(ひとつの可能性としての)説明」をすることぐらいです。

で、何を言いたいのかといえば、磁石と磁場という関係は、「存在」と「場」の関係に当たります。「場」は、すなわち、「存在」同士の「関係」そのものと言い換えてもいい。

この「関係(場)」の記述はできるが、「どうしてそういう関係(場)があるのか」については、まったくもって「科学」は無力なのです。「そういう関係が認められるから、みんなが経験できるから、だれもそうでないことを観測できないから、そうある」としか、いいようがない。

もし、「この私のこの」心に対して、科学的な説明がなされたとしても、それは、磁石の場(すなわち磁場)に対する説明と同じで、「どうしてそういういう心があるのか」については、決して科学は説明することが出来ない。

逆説的になりますが、磁石と磁場の関係が、「物質的な私」と「心」との関係にたとえられるのなら、「心」とは、「物質的な私」と「物質的な全体」との関係そのものという考え方もできると思います。

すなわち、エヴェレットの多世界解釈のレベルに見られるように、「宇宙全体」を一元論として捉えて、さらに上位レベルに解答を保留する逃げもありえますが、もし、上位レベルにその解答が隠されているならば、「この宇宙全体」にその「影」が投影されている必要があり、その「影」に相当するのが、「場」であり「心」という(関係として捉えうるもの)であると思うわけです。

もし、そうであるならば、物質と切り離せない場そのものが、心そのものであるという解釈が可能になろうかと思うわけです。

すなわち、片側から見れば、それぞれ一元論と書いてある紙、その両面をみれば二元論となる。どうしてもつながらない両方向への一元論は、「わたし」という結び目でメビウスの輪のねじれを形作る。。。そういう考え方も、一つの可能性としてありうるのではないだろうか。。。ということです。。。
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# by kisugi_jinen | 2004-10-10 20:53 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
「にこごり」の続き。。。
前回の「にこごり」では、「俯瞰的・神の視点的」な思考に向かうことなく、同一地平にて、、解決の糸口を探ろうとした場合の循環状態を表現しました。
というのは、その地平・水準を離れて「わたし」という存在・認識は「不可能」だからです。

しかしながら、別の、さらに上位水準からの俯瞰的な考察が可能であるとすれば、下記考察も許されえます。

認識と存在の二元論から存在(シュレーディンガーの方程式)中心の一元論への過程は量子力学の専門書に譲るとして、そこから、さらに手探りの二元論に進むには、非常に大きな制約があるということを認識しなければなりません。すなわち、存在中心の一元論が現段階で無矛盾で説明可能な全ての量子力学的事象を、説明可能でなければならないからです。

これは、とりもなおさず、存在中心の一元論をそのまま受け入れる二元論が必要になるわけです。

で、そんな矛盾したこと不可能では?

ということに為ろうかと思うわけですが、実は、上記一元論には、「わたし」を含む宇宙の認識・存在を一元論的に扱うだけで、その上位レベル(すなわち、「相互作用を行う全存在・認識」の上位レベル)の想定に関しては、なんら言及していない。というか、「人智を超えている」ために、そういったレベルには言及できないということを暗に含んでいます。
それゆえ、そういった上位レベルの思考として、エヴェレットの多世界解釈があります。

逆に言えば、物質中心に説明可能なシュレーディンガーの方程式(二乗すると存在確率になる)を成立せしめているものが何なのかは、「この宇宙」のどこを調べても出てこない。それは、まさに「この私」を「この私」たらしめているものは、「この宇宙」のどこを調べても出てこない。という感覚と同一レベルにあるというわけです。
そして、両者とも、ただ、「この宇宙の全てと関連している」ということは、共通している。

ただ、それは、一般的に言われている「オカルト」を許容するのではない。しかしながら、「自由意志」という存在に関しては、そういうレベルにて許容可能にしているというレベルの話になります。
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# by kisugi_jinen | 2004-10-10 17:49 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
私の考えの「にこごり」。。。
科学というものは、「認識主体」と「それ以外」を「分離可能」、すなわち「認識主体」を「他者(他の認識主体)」と「交換可能」という前提条件を設定することで、目覚しい進歩を遂げました。

すなわち、「認識」と「存在」を分離可能という二元論から出発しています。---(A)

しかしながら、量子力学の世界にはまり込んだとたん、「古典的な考え」では、どうしようもない事態が待ち構えていました。
「認識主体」を切り離して考えていたにもかかわらず、当の「認識主体」を切り離すことが出来ないということが「証明」されてしまった。

ただし、「認識主体」の「認識能力」の有無にかかわらず、です。
たとえ、私が「量子力学」を知らなくても、知っていても、です。

そういうことが証明されてしまった。

すなわち、
『それぞれの「観測者」とその観測者を含む全体が「宇宙の姿」を作っている』
『「観測者」を抜きにした、「宇宙の真の姿」というものは、ない。』
という証明がなされたわけです。

認識と存在を、存在側のシュレーディンガーの方程式のみで扱う一元論でなければ、矛盾するということです。---(B)

で、こういう見解にとことん異議を唱えようとする科学者は、
「この私」が「全体」とは、別に存在する。と、いわざるを得ない立場に立たざるをえない。
すなわち、(認識と存在は別のレベルであるという物質・精神)二元論をとらざるを得ない。
矛盾するのを覚悟でそう唱えざるを得ない理由は後述します。

私は、上記、科学の歴史が「交換可能性」から出発しているので、「交換不可能性」から出発すればどうなるかを、このブログの過去の記事にて考察してきました。

さて、一方で、認識と存在を、認識側の「わたし」のみで扱う一元論、すなわち(狭義の独我論がある。---(C)

なぜに、このような相対するような2方向+1方向の考え方が生じうるのか?

上記さまざまな見解を包含関係の視点から記述しなおすと、

存在と認識は独立しているのか、---(A)
認識が存在に含まれるのか、---(B)
存在が認識に含まれるのか、---(C)

という関係と同等になります。

ここで注意すべきは、(A)からスタートした「論理・理論的思考」は、(B)に向かわざるを得なかった。ということです。でないと、内部矛盾を引き起こすということです。

で、問題なのは、(B)や(C)からスタートした場合、矛盾はないのか?ということです。

私は(A)→(B)の流れを汲み、(B)にて「この私」をベースに思考を進めていますが、(B)も(C)も、「含まれる」の範囲が「全体」であったなら、同一の考えに至るということに気付きました。

すなわち、
「認識が存在に含まれ、かつ、存在が認識に含まれる」ことに矛盾が生じない条件が唯一つのみありうると、気付いたのです。

それは、
「この私」が「全体」と切り離せずに「境界」が存在しない状態。
だということです。

で、両者が無矛盾となる上記状態から出発して、「この私」と「境界」ということを中心に考えはじめました。

なぜ、全てが無矛盾となる、【「この私」が「全体」と切り離せずに「境界」が存在しない状態。】のままで思考を停止しなかったのかというと、両極端である(B)も(C)も「この私」を通り過ぎていると感じざるを得なかったからです。
すなわち、「この私」を中心にして「認識」と「存在」が交錯し、あたかも、メビウスの輪のごとくに「存在」と「認識」の側面がいつのまにか入れ替わるような感覚にあるからです。

また、一方で「わたし」と「あなた」との間の目に見えない「境界」も存在する。その「境界」は、何によって形作られているのだろうか?と、考えるからです。
旧来から、相互不可侵の境界は「タブー」という言葉で語られてきました。現在、それら境界は、いとも簡単に侵犯されており、おそらく、現在の諸問題の多くは、そういった「本来タブーであった境界をやすやすと越えてしまいうる」というところにあると感じているのも一つの要因です。
では、本来、「この私のこの」境界とはどのように形作られるのか?
そう考えたとき、「そう考えるわたし」と、「そう考えるような状態にある全体」との相互関係が、自然と境界を形作るようにあるのだろうと思いました。

したがって、存在・認識の両側面を無矛盾に捉えようとする方向から入った場合、「この私のこの」心は、(認識が存在に含まれる場合の一方の極値)無限小の仮想的な点から、(存在が認識に含まれる場合の一方の極値)無限大の「全体」に至るまで「自由に」変化しうるという考えに至りました。

で、そのような「この私のこの」心とは、「存在・認識」の二元論に舞い戻っていることに気付くわけです。

すなわち、
二元論から出発した科学は一元論に戻り、両極端の一元論は「この私」の本質を「水の中の水のごとく」両方向から素通りする。そしてやはり二元論へと向かう。

さて、「この私」を突き詰めようとすると、二元論→一元論→二元論と循環してしまう。
あたかも、メビウスの輪の両面(二元論)の(本来無いはずの)その交点に、とらえどころの無い私がいるかのごとくです。

さて、無限循環に陥ってしまうのは、私の考え方がまずかったせいなのでしょうか?
あるいは、そうかもしれません。

ただ、どうしようもないことは、そういった考えが「この私」の考えとして頑として存在するということです。

ただし、このような考え方は、すなわち、「境界がある」のでも「ない」のでもないという考え方にならざるをえないですが、それは即ち仏教的思想に近いものがあると思っています。

タイトルの「にこごり」は、固まってしまったけれど、温めなおすと、また、溶け出すであろうということからつけています。。。

注1:下線は、投稿後、2004/10/10 01:42に変更した箇所をあらわす。
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# by kisugi_jinen | 2004-10-09 17:18 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
知と情。。。そして意。。。
「この私のこの」こころは、複数の階層、いや複数の側面を持っている。
物質的な側面に近い側には「情」の側面が、理想的な側面に近い側には「知」の側面が向かい合っている。
「情」と「知」の方向性には、「感情」と「理性」の方向性が対応する。
「この私のこの」こころは、すでに「主観・客観」という方向性を有しており、両者を切り分けることが不可能ということを「主観と客観と交換可能性。。。」にて言っているが、「情・知」および「感情・理性」も、方向性の問題であり、両者を切り分けることは不可能である。
これら、2項対立とも取れる2方向(二つの側面)への揺らぎは、「この私のこの」こころの中心を中心として生じている。

この揺らぎがなぜ生じるのか?
おそらくそれは、「この私」と「全体」との相互作用によるのだろうと思う。

「この私のこの」こころが「生きている」というとき、それぞれの側面において、「全体」に対して知らず知らずのうちに「境界」の内にある。それぞれの側面は、その境界を越えようとする(相対する2方向の)力を有している。まさに、その力こそが「生きている」力そのものになっているんだと思う。

「知」の側面は、ありとあらゆる対象物を自身のうちに取り込もうとする貪欲な性質を持っている。そして、他の全てから切断されても、自身のみで存在可能だと思い込みたがっている。そういう方向性が、悲惨な事件を産み落としているのだろうと思う。。。

そういったことだけではなく、「知」と「情」、あるいは「理性」と「感情」、もしくは「脳」と「身体」の2方向性に、ほんとうの「乖離」を持ち込もうとするとき、すなわち、一方が他方を排除ないし消去しようとするとき、さまざまな弊害が生まれ来ることは想像に難くない。これらは「切り離し不可能」なだけでなく、「片方があるからもう片方が存在しうる」相補的な存在でもありうる。

そして、両側への方向性の存在は、そのまま内部矛盾を引き起こしうる。この場合の内部矛盾は、「知」の側面で、上記内容を捉えようとすることで生じる。すなわち、「知」を含む「全体」を「知」が論理的・無矛盾に捉えようとするからである(ゲーデルの不完全性定理)。


で、よく「知・情・意」といわれるが、「意」は、「この私のこの」こころの、このような2方向への自然な分離への方向を、さらに強く推し進めることにより、さらなる自己矛盾を生み出し、それこそが、さらなる「生きる」という力を生み出しうるのだろうと、そう思っている。

そして、「意」もまた、「この私のこの」こころの一側面にしか過ぎない。
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# by kisugi_jinen | 2004-10-03 06:08 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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