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信じるの解説偏。。。
。。。というより、コメントの制限字数があって、長文のコメントがかけない(涙)。。。

別に「目を開け続けているという夢を見ているだけ」であったとしても、「『その他』との関係がまったく無い状況」であれば、それは「目を開け続けている状況」との差異が「ない」といえる。

もし「差異がある」というのであれば、それは「私」を離れた「神の視点」から俯瞰している「とかに」なる。で、その「神」が、「お前は本当は水槽脳だよ」といったならば、その時点で「『その他』との関係が回復される」ことになり、「さらに目を見開いていく」方向に向かいうるので、「夢を見ている」に気付きうる。

でなければ、「みることも・きくことも」、「あいつかわいそうに。。。」という「情」ですら、伝わりようが無いほどに断絶しているのなら、それが「そのとき・そこにいる私」という存在の「境界」になるであろう。(というより、誰がそのことを指摘できるであろうか?)。もし、そうであるのなら、「信じる」は崩壊し得ない。
すなわち、「夢から一生覚め続けることが無い」のならば、水槽脳は水槽脳として「閉じた世界」に住まうこととなり、「信じる」は崩壊しようが無いし、崩壊するとすれば、逆に水槽脳の世界では、「それは夢を見てるんだ」ということになる。

問題は、「思い・情」が超えうる境界であるのならば、「あんた、それ、おかしぃんちゃうか?」って、いわれた(もしくはそう感じた)段階で、「ん?」と、考えることができるのではないかということである。その「ん?」の段階で、「考える」のか「考えない」のかで、「私の境界」を自ら設定してしまうと思う。

もし、「思い・情」が伝わるにもかかわらず、「何も言わない・何も伝えない・何も聞かない・何も受けとらない」という事態に陥っているのなら、「境界を境界と知った上で外部を排除する意思(方向性)」が存在することになり、「信じる」が崩壊しうるし、放置の期間が長ければ長いほど、「差異」は広がる可能性が高い。

境界と外部と私と信じるは同時に発生し同時に相互作用するものとして並列していると思う。

で、そう思っている「私」があるんじゃぁない?ってことになるでしょうが、

「総体」として動き行く「全宇宙」と「私」とを、切り離すことができないという観点に立つならば、「そう思っている「私」」が「実体」としてあるとすれば、それはすでに「総体」であり、「総体」を超えることが無い(それ以下になる)。ただ、そういう方向性のみが存在することになる。まさに「否定神学的」な方向に向かわざるを得ないし、「とことん信じる」のなら、そこまでいくべきだと思う。ただし、「外部を排除するような境界ができない」ことが前提条件になる。
って、オウムみたく、「排除すべき外部を破壊する」ということではないし、一軒一軒しらみつぶしに布教して歩くってことでもない。

それに、「境界」は複数存在し、それらが「ある」ということは、「私が生きている」ということと等価だと思う。少なくとも、肉体という一つの境界からは、逃れることができない。
「生まれる前」と「死んだ後」というのは、その境界が消えている(すなわち、「全体」にまで境界が広がっている状態)と思う。
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# by kisugi_jinen | 2004-09-27 00:23 | 思考。。。 | Comments(54)
信じる。。。
「奇跡が起こったから、○○を信じる」
○○を信じる側から見ても、○○を信じない側から見ても、おかしな話です。

「奇跡」という外部の状態にあまりにも引きずられすぎている。
「私(あなた)自身、どう考えるのですか?」というところが、すっぽり抜け落ちている。

「奇跡が起こったから、○○を信じる」は、「奇跡」と認識するものに、すべての拠り所を求めようとするがため、本当の意味で「信じている」とはいえない。

また、
「△□が言ったから、○○を信じる」も、「信じる」の拠り所を△□に求めているので、本当の意味で「信じている」とはいえない。

で、どんな場合でも、最終的には、「この私が、こう認識し、こう考え、こう思うから、○○を信じる」となる。

すなわち、最後の拠り所は「信じている」自分である。

「奇跡が起ころうと起こらないとにかかわらず」信じるべきものは信じる。

ただし、都合の悪いものにふたをして信じるのではない。


さて、私は、「この私のこの」には中心があって、境界が無いとしました。境界は、自身が信じる範疇と、考えと、思いと、人間関係と、社会的状況と、ありとあらゆる物事との諸関係にて変化しうるものと考えています。

したがって、科学的・合理的・分析的な手法で突き詰めようとしても、それは中心に向かって逃げていくだけ(というより、そこの抜けたバケツを使って水の中で水を捕まえようとするがごとく素通りしてしまうだけ)で、捉えようが無い。
そういう意味で、他と切り離して考えることが不可能だと思っています。

もし、突き詰めようとすれば「否定神学」となります。
すなわち、全宇宙の全真理とやらがもしあったとして、それらを総動員しても「この私」には到達不可能になろうかと思います。

したがって、時代・民族を超えうる人と人との共感は、ミラーニューロンや脳波など「脳の働き」にその根本を求めることもできるでしょうが、そういった「脳の働き」を成り立たせているもの(環境を含めてありとあらゆるもの)全てが、いわゆる「共感」などの相互作用を生み出すことに関与していると思います。

そういう観点から見れば、人の心の相互関係が、非常に奥深いものであると感じ取れるように思います。

「信じる」ということが、「この私」を抜きにして成り立たないのと同じように、「この私」は、「他の全て」を抜きにしては、成り立たない。
そして、「他の全て」の一部にでも目をつぶれば、「信じる」は崩壊する。

非常に異なったことを言っているにもかかわらず、この三者は、密接に関連しあっているように思います。

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# by kisugi_jinen | 2004-09-26 03:10 | 思考。。。 | Comments(11)
「私」と「境界」と「宗教」について。。。
「この私のこの心」が、「今・ここにいる」私によって考えられるとき、「今・ここにいる」私を離れて「この私のこの心」は存在し得ない。「心」の定義がどうであれ、「今・ここにいる」私が思い・考えるということを離れては存在し得ない。

それがいつ始まり、いつ終わるのか、どこから来て、どこに行くのかということは「今・ここにいる」私を離れることができない故に、想像の域を出ることができない。
そして、「この私のこの心」が、生命活動を行っている実体としての私(特に脳)と密接な関連を持っていることと離れては存在し得ない。私とは、そのようなものである。
 
観念論的に「この私のこの私のこの...心」を自己言及という点にまで相対的に極限化することは比較的難しくはない。
一方、「この私のこの」心に境界を設定することは不可能であることも事実である。すなわち、「全宇宙」に「この私」が広がっているという概念すら否定されえない。---もし、量子力学におけるシュレーディンガーの関数を一元論として採択したとしても、多世界解釈のもとで、「この私」と「全宇宙」との切り離しが不可能なことは説明可能である。(注1)

「この私のこの」心は、周囲の環境と密接な関係を保っており、「切り離す」ことは不可能なのである。それでいて個々に存在している。
「ともし火に我もむかはず燈もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)

「この私を考える『この私』」という自己言及に伴う上位概念に向かうとき、自由意志・自己決定権という概念は『この私』の「この私」に対する絶対優位性と対になって存在しうる。すなわち、「この私」の行く末を最終的に決定するのは『この私』であると。
 
『この私』という方向性は、「この私のこの」心を持つもの全てに共通して存在しうる。なぜなら、「この私のこの」心と『この私』は共に自己言及の両面に張り付いていて反対方向を向くからである。どちらが外でどちらが内とはいえない。
1.『この私』という方向性において、その極に対象物を想定したときに、神・悪魔・イデアという概念が発生すると考える。それら概念を共有化できるという幻影を共有化するところに一神教的宗教が存在する。すなわち、極限と思われるところに対象物を想定するので、共通の境界線を共有するという行為に他ならない。このような境界線の設定に伴う神の制約を取っ払うため、「語りえぬもの」としてさらに無限後退(無限上昇)という自己言及(否定神学)を持ち込むことで問題解決に奔走する一神教的宗教も存在する。しかし、そうしたところで、発生源に境界線の存在を暗黙の了解としているため、「真の」境界線の外側から見ることは想定されえないし、そういった存在は、「敵」ないし「悪魔」として認識されうる。したがって「神の国」と認識されうる領域は、外側にあるというわけでなく、境界(教会)の内にしか存在しえない。そこにおいては、生も死も「内側」であり、天国も地獄も「内側」である。「外部」があってはならないのである。民族のための宗教から出発しているために、他民族・多民族を含有しようとする外方への汎化・拡大は、当初強靭であった「神」の人格神的要素を次第に薄れさせる結果につながったと考える。

2.アニミズム的ないし多神教的宗教は、『この私』という方向性を「この私」を離れて、並列的に、複数のものに想定するときに、(重なり合う)境界を設定することで、それぞれの中心方向の極に神・悪魔・イデアという概念を設定しているといえる。この意味において、一神教的な概念が複数というより、『この私』の向かう方向性が反転している概念になると考える。

2-1.もし「この私」という「境界」の内側に確たる『この私』という方向性を持ち得ないとき、「この私」は、多数の『この私』を有する神的存在の境界の外側に位置するため、輪廻転生や天国・地獄を「境界の外側」に設定することとなり、境界の向こう側(彼岸)を希求することとなる。

2-2.もし「この私」という「境界」の内側に確たる『この私』という方向性を持ち得るならば、一方の極として境界が無限小の独我論に対応するであろうし、他方の極として境界が無限大の独我論に対応することになるであろう。すなわち、「この私」に対する『この私』の絶対優位性が、どういった範疇を含んで影響を及ぼしているのかという境界である。
多くの人々は、極限をとらずに、これら中間に位置し、時と場合によってその境界の位置をずらしていると考える。

上記2-1,2-2という状況は、別にアニミズム的ないし多神教的宗教を信じていなくても、日常的に起こりうることである。上記アニミズム的ないし多神教的宗教にて、「神・悪魔・イデア」というものを、「他者」に置き換えても、全体の文章はそのまま、「この私」と「あなた方」という内容になりうる。

すなわち、一神教的な世界観では、「この私」と『この私』の中心が同じであるのに対し、多神教的な世界観では、「この私」の境界線の内側には、確固たる『この私』が存在しない場合があり、そのときには、「この私」と『この私』の中心がずれる場合(2-1)がありえる。この場合、「この私」は、外部に強く依存し、外部の流れに流されてしまいがちな状況と同じである。

多神教的な世界観を有する人が、一神教的なものを信じるときには、2-1というパターンになりがちだと考える。真の一神教信者は、おそらく2-1ではない。1に記したように、もっと強い『この私』を持っているはずである。このことは、牧師の子供であるユングの「ヨブへの答え」に如実に現れていると考える。

神戸連続殺傷事件のケースでの「神」が、どのケースに当たるのか興味深いところでは有る。
3.仏教的宗教は、これら「境界」を「あるのでもなく・ないのでもなく」としたところに成り立ちうる。

すなわち、「この世をもかの世をも望まない」(ブッダ)になると考える。

「この私」を規定する境界は、自在に動きうるものなので、想定する「私」によって、『この私』自身の状態も変化しうる。こういった(個人内部での変化を含む)変化は、どうして世の中にこれだけの宗教が生まれてくるのかの説明を可能足らしめるものと考える。

一般的に言われる「(狭義の)自然と人間という境界」は、「この私」の境界の総和による境界(「私たち人類」の境界)になるだろう。この場合、各人の「この私」の境界(ありよう)が無限小から無限大にまで及ぶこともあるため、「(狭義の)自然と人間という境界」は、まるで電子雲のように暈ける。さらに言えば、実際に人間と(狭義の)自然との境界においては、両者が癒合し、切り離すことは不可能である。このことは脳と身体という関係においても認められる。

昨今、共感という言葉が流行しているが、境界の内側であれば、それほど問題なく共感しあえるであろう。しかしながら、非常に超えるのが困難な境界の向こう側と共感しあえるならば、何らかの問題解決につながるのかもしれない。

「境界を消し去る」のではなく、「境界を存続させつつ共感する」ということが重要なのではないだろうか?
「ともし火に我もむかはず燈もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)再記

オリジナル

※注1: 06/01/09 04:57
「多世界解釈」を採択する必要は全くありません。「多世界解釈」を一つの考え方として捉えなければならない物理現象ということです。ようするに、2重スリットを通り抜けた一つの量子がぶつかる点が決定される瞬間の世界と私が存在する世界とは切り離すことが出来ないということです。もっと簡単に言えば、シュレーディンガーの猫を閉じ込めるような箱は、「この宇宙」には存在し得ないということです。というより、シュレーディンガーの猫を閉じ込める箱があったとすれば、それは、この宇宙全体を閉じ込めているということです。

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# by kisugi_jinen | 2004-09-26 02:09 | 思考。。。 | Comments(0)
主観と客観と交換可能性。。。
主観と客観との対置は、過去から良く行われている。言葉による対置から、両者は「切り分けられるのでは?」という誤認がなされることがある。しかしながら、両者は、方向性のみをあらわすものであり、「切り分けること」はできない。

「科学的・客観的に事物を見る。」といったとき、観測者である「この私」と「あなた」とが「交換可能」だという限定された条件を持ち込んでいる。ようするに、「この私」と「あなた」とが入れ替わることで変化する要因があったとして、対象に対する影響の割合のうち、そういったものの影響を「無視できるぐらい極力最小」ないし「入れ替わるときに発生する影響度を確率的に予測可能な範囲」にとどめおくことで、観測可能であるときのみ、「科学的・客観的に見る」ことが可能だということを意味する。

すなわち「この私」と「その他」とは、決して切り離すことができないということである。
カントの先験的哲学が表現する「超越論的動機」に関して、”誰もメタレベルに立てないという原則の確認”といった解釈もあるが、妥当とはいえない。それが意味するものは、当時の文脈に即してより正確に言い直せば、誰も「主観」の外に出て「客観」を直接確認できないという認識論的原理の確認であり、認識問題はこの前提の上でのみ構想されねばならないという思考原則の提示である。「言語的思考へ、脱構築と現象学」、竹田青嗣、径書房p.90-p.91

このことは、量子力学の観測者問題(2重スリットでの「存在の」粒子性と「存在の」波動性の問題)と関連しており、論理的にエヴェレットの多世界解釈へと向かわざるを得ないことを示している。

※06/02/04 10:16 注追加
「エヴェレットの多世界解釈」ではない。
量子力学との整合性をとろうとするならば、エヴェレットが提唱したように全世界を(厳密な、ないし近似解としての)シュレーディンガー方程式の孤立系として記述可能という選択枝をとらざるを得ない。
ということである。

※08/08/23 04:00 補足
「いきなり量子力学?!」と、思われる方がおられるかもしれませんが、詳しくは
ネーターの定理。。。
二者択一問題。。。orとandとエンタングルメントと。。。
EPR相関とBellの不等式と。。。
および関連項目を参照してください。
ようするに「解釈問題」なわけですから、主観と客観との切り離しが不可能なわけです。
←よくある間違いとしての「観測の有無が影響する」として考えられてもいいですし、正確な意味としての「(いわゆる)観測者の有無に関わらず」として考えられてもいいです。どちらにしても「解釈問題」になります。

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# by kisugi_jinen | 2004-09-25 09:57 | 思考。。。 | Comments(3)
私の私に対する交換可能性と絶対優位性。。。
もしも、クレオパトラの鼻が低かったなら。。。
歴史上の事柄を語るときに、「もしも」という仮定を行なう場合がある。

ありとあらゆるものが等価であって交換可能であったなら、すなわち、差異が全く見いだせなかったならば、個々の人々の意識・思考はどのようになるであろうか?

そこまで行かなくとも,「私に対する私」は,「完全に交換可能」なんだろうか?

この「完全な交換可能性」に対する思考こそが、自己同一性を考察する上で必要不可欠な思考になりうると思われる。
また,クローン人間に対する倫理を語る上で、非常に重要な事柄となりうるであろう。

はたして「完全な交換可能性」は,ありうるのだろうか?

物理学的な立場で言えば、完全な交換可能性を有するものは存在し得ない。エネルギーレベルのみでの交換可能性とか、限定条件を課せば可能になりうる。

人間の場合、同じように、自動車の運転者の立場とか、範囲をおおざっぱに絞ることによってのみ、交換可能性が成り立ちうる。そういう限定を科したとしても、切り離せない(わずかな)条件の違いが「完全な」交換可能性を排除しうる。(運転レベルとか、反射神経とか)

すなわち、遺伝学的に全く同一の生物が存在したとしても、ほんの数センチ離れていただけで条件が異なってくる。それ故、一卵性双生児の運命は、ごく僅かずつ異なっている。

以上、2003/03/23 23:10 に投稿した156 「交換可能性」 より

さて。。。
過去の自己と現在の自己と未来の自己、これらの間における自己同一性を考える時、交換可能性の立場から考察するとどうなるだろうか?

これはすなわち、同一性に対する差異を見つけだす作業にも似ているが、交換可能性という立場では、そのもの自身のみに目を向けただけでは語りえず、そのものに関連するありとあらゆる条件(環境)が関与してくる。

ざっと考えただけで,「自己の自己に対する交換可能性」は不可能のように思われる。一瞬前の自己と今現在の自己は,微妙に異なっていると思える。なぜなら、「私は変わっていない」と思っていたとしても、確実に周囲の環境(状況)は変化しているのだから。。。


以上、2003/03/23 23:13 に投稿した157 「自己の自己に対する交換可能性」より一部改変

この「自己の自己に対する完全な交換可能性が非成立」ということと,「自己の自己に対する絶対優位性が成り立つ」ということが,実のところ「表裏一体的」に等しい内容を表しあっていると考える。
これは,「自己言及」(私が考える私が考える。。。)という行為が,時間(変化)と密接に結びついているならば、「私」と「私が考える私」、「私が考える私を考えていた私」とは、もはや同一ではなく、「交換可能性が成り立たない」ということを意味するからである。すなわち、未来における選択肢を複数持ちうる私のほうが、選択肢が一つの過去に移行していく私に対して、どの選択肢を選ぶかを決定できるゆえに「自己に対して絶対優位になる。
しかし,「自己言及」という行為が,時間(変化)という概念から離れていれば、「私」と「私が考える私を考えていた私」とは、(時間概念を欠落させた言葉の論理性に基づけば)同一であるので、「交換可能性が成り立つ」ことと等価であり、私は選択して決定するはずの内容をずーっと保留し続けるという事態になる。(←こんなことは不可能なので、時間軸に沿った変化を無視するわけにはいかないと思うのだが、エントロピーとネゲントロピーと時間の進行方向と意識との複雑な問題として棚上げにすることも可能。。。いや、やっぱ、おかしいでしょ!)

以上、2003/03/23 23:17 に投稿した158 「自己の自己に対する絶対優位性と時間(変化)」より一部改変

で、「自己の自己に対する絶対優位性」とは、「自己に対してのみ」成り立ちうる「絶対優位性」で、時間軸と分離不可能な「自己認識・自己言及」にのみ基づいている。これは、自己に対する決定権が最終的には自己にあるということと等価である。

すなわち、自己に対する自己の交換可能性が成り立たないゆえに、自己に対する自己の絶対優位性が「自己言及」により担保される。
さらに、この思考が外側に向かっていくとき、「唯一絶対神」への信仰と、方向性が同一になりうる。
。。。この話の続きは、次回。。。
え? 読みたい人は、ここを参照。。。
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# by kisugi_jinen | 2004-09-25 03:59 | 思考。。。 | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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