AX
知と情。。。そして意。。。
「この私のこの」こころは、複数の階層、いや複数の側面を持っている。
物質的な側面に近い側には「情」の側面が、理想的な側面に近い側には「知」の側面が向かい合っている。
「情」と「知」の方向性には、「感情」と「理性」の方向性が対応する。
「この私のこの」こころは、すでに「主観・客観」という方向性を有しており、両者を切り分けることが不可能ということを「主観と客観と交換可能性。。。」にて言っているが、「情・知」および「感情・理性」も、方向性の問題であり、両者を切り分けることは不可能である。
これら、2項対立とも取れる2方向(二つの側面)への揺らぎは、「この私のこの」こころの中心を中心として生じている。

この揺らぎがなぜ生じるのか?
おそらくそれは、「この私」と「全体」との相互作用によるのだろうと思う。

「この私のこの」こころが「生きている」というとき、それぞれの側面において、「全体」に対して知らず知らずのうちに「境界」の内にある。それぞれの側面は、その境界を越えようとする(相対する2方向の)力を有している。まさに、その力こそが「生きている」力そのものになっているんだと思う。

「知」の側面は、ありとあらゆる対象物を自身のうちに取り込もうとする貪欲な性質を持っている。そして、他の全てから切断されても、自身のみで存在可能だと思い込みたがっている。そういう方向性が、悲惨な事件を産み落としているのだろうと思う。。。

そういったことだけではなく、「知」と「情」、あるいは「理性」と「感情」、もしくは「脳」と「身体」の2方向性に、ほんとうの「乖離」を持ち込もうとするとき、すなわち、一方が他方を排除ないし消去しようとするとき、さまざまな弊害が生まれ来ることは想像に難くない。これらは「切り離し不可能」なだけでなく、「片方があるからもう片方が存在しうる」相補的な存在でもありうる。

そして、両側への方向性の存在は、そのまま内部矛盾を引き起こしうる。この場合の内部矛盾は、「知」の側面で、上記内容を捉えようとすることで生じる。すなわち、「知」を含む「全体」を「知」が論理的・無矛盾に捉えようとするからである(ゲーデルの不完全性定理)。


で、よく「知・情・意」といわれるが、「意」は、「この私のこの」こころの、このような2方向への自然な分離への方向を、さらに強く推し進めることにより、さらなる自己矛盾を生み出し、それこそが、さらなる「生きる」という力を生み出しうるのだろうと、そう思っている。

そして、「意」もまた、「この私のこの」こころの一側面にしか過ぎない。
[PR]
# by kisugi_jinen | 2004-10-03 06:08 | 思考。。。 | Comments(0)
「別れ」。。。
。。。
人が悲しみを覚えるとき、涙するとき
どうしようもない「心の切断」がある。

「別れ」とは、物質的な離別ではなく
「心の切断」。。。

越えがたい境界を突きつけられるとき
人は、とめどなくあふれくる涙を知る。。。

その思いは、越えがたき境界を越えようとする思いそのもの。。。

離別に際して「悲しくなんか無い」なんて言い張ることができるのは、
越えるべき境界が、そもそも「無い」ということなんだろう。。。

あなたがわたしに涙し
わたしがあなたに涙しないとき。。。

わたしがあなたに涙し
あなたがわたしに涙しないとき。。。

それは、一方通行の境界なんだろう。。。

人生の目的なんてものは知らないけれど
一つだけ知っていることがある

それは。。。越えがたき境界を越えようとする思いこそが
心と心を繋ぎ合わせる糸になるんだろうということ。。。

そして、それは「親子」の間にもあるんだろうということ。。。

。。。それがあるから、私は生きていけるのだと思っている。。。


中島みゆき 「糸」
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND10225/index.html
※歌詞の引用をリンクに変更しました(09/10/26 01:24)
[PR]
# by kisugi_jinen | 2004-10-01 05:20 | つれづれ。。。 | Comments(0)
変わり行く面影。。。
子供、特に乳幼児期の子供は、知らず知らずのうちに変化していく
子供の変化に親がついていけないと感じるとき、
こころの重なりは、その前からずれていたのだろう。。。

こころは時空の中の仮想の点ではない
それは、広がりを持っていて
それを思う人々のありようで
無限大にまで広がったり
無限小にまで狭まったりする。

そして、目に見えない壁を「情」というもので超え・素通りしていく。。。
[PR]
# by kisugi_jinen | 2004-09-28 05:40 | つれづれ。。。 | Comments(2)
信じるの解説偏。。。
。。。というより、コメントの制限字数があって、長文のコメントがかけない(涙)。。。

別に「目を開け続けているという夢を見ているだけ」であったとしても、「『その他』との関係がまったく無い状況」であれば、それは「目を開け続けている状況」との差異が「ない」といえる。

もし「差異がある」というのであれば、それは「私」を離れた「神の視点」から俯瞰している「とかに」なる。で、その「神」が、「お前は本当は水槽脳だよ」といったならば、その時点で「『その他』との関係が回復される」ことになり、「さらに目を見開いていく」方向に向かいうるので、「夢を見ている」に気付きうる。

でなければ、「みることも・きくことも」、「あいつかわいそうに。。。」という「情」ですら、伝わりようが無いほどに断絶しているのなら、それが「そのとき・そこにいる私」という存在の「境界」になるであろう。(というより、誰がそのことを指摘できるであろうか?)。もし、そうであるのなら、「信じる」は崩壊し得ない。
すなわち、「夢から一生覚め続けることが無い」のならば、水槽脳は水槽脳として「閉じた世界」に住まうこととなり、「信じる」は崩壊しようが無いし、崩壊するとすれば、逆に水槽脳の世界では、「それは夢を見てるんだ」ということになる。

問題は、「思い・情」が超えうる境界であるのならば、「あんた、それ、おかしぃんちゃうか?」って、いわれた(もしくはそう感じた)段階で、「ん?」と、考えることができるのではないかということである。その「ん?」の段階で、「考える」のか「考えない」のかで、「私の境界」を自ら設定してしまうと思う。

もし、「思い・情」が伝わるにもかかわらず、「何も言わない・何も伝えない・何も聞かない・何も受けとらない」という事態に陥っているのなら、「境界を境界と知った上で外部を排除する意思(方向性)」が存在することになり、「信じる」が崩壊しうるし、放置の期間が長ければ長いほど、「差異」は広がる可能性が高い。

境界と外部と私と信じるは同時に発生し同時に相互作用するものとして並列していると思う。

で、そう思っている「私」があるんじゃぁない?ってことになるでしょうが、

「総体」として動き行く「全宇宙」と「私」とを、切り離すことができないという観点に立つならば、「そう思っている「私」」が「実体」としてあるとすれば、それはすでに「総体」であり、「総体」を超えることが無い(それ以下になる)。ただ、そういう方向性のみが存在することになる。まさに「否定神学的」な方向に向かわざるを得ないし、「とことん信じる」のなら、そこまでいくべきだと思う。ただし、「外部を排除するような境界ができない」ことが前提条件になる。
って、オウムみたく、「排除すべき外部を破壊する」ということではないし、一軒一軒しらみつぶしに布教して歩くってことでもない。

それに、「境界」は複数存在し、それらが「ある」ということは、「私が生きている」ということと等価だと思う。少なくとも、肉体という一つの境界からは、逃れることができない。
「生まれる前」と「死んだ後」というのは、その境界が消えている(すなわち、「全体」にまで境界が広がっている状態)と思う。
[PR]
# by kisugi_jinen | 2004-09-27 00:23 | 思考。。。 | Comments(54)
信じる。。。
「奇跡が起こったから、○○を信じる」
○○を信じる側から見ても、○○を信じない側から見ても、おかしな話です。

「奇跡」という外部の状態にあまりにも引きずられすぎている。
「私(あなた)自身、どう考えるのですか?」というところが、すっぽり抜け落ちている。

「奇跡が起こったから、○○を信じる」は、「奇跡」と認識するものに、すべての拠り所を求めようとするがため、本当の意味で「信じている」とはいえない。

また、
「△□が言ったから、○○を信じる」も、「信じる」の拠り所を△□に求めているので、本当の意味で「信じている」とはいえない。

で、どんな場合でも、最終的には、「この私が、こう認識し、こう考え、こう思うから、○○を信じる」となる。

すなわち、最後の拠り所は「信じている」自分である。

「奇跡が起ころうと起こらないとにかかわらず」信じるべきものは信じる。

ただし、都合の悪いものにふたをして信じるのではない。


さて、私は、「この私のこの」には中心があって、境界が無いとしました。境界は、自身が信じる範疇と、考えと、思いと、人間関係と、社会的状況と、ありとあらゆる物事との諸関係にて変化しうるものと考えています。

したがって、科学的・合理的・分析的な手法で突き詰めようとしても、それは中心に向かって逃げていくだけ(というより、そこの抜けたバケツを使って水の中で水を捕まえようとするがごとく素通りしてしまうだけ)で、捉えようが無い。
そういう意味で、他と切り離して考えることが不可能だと思っています。

もし、突き詰めようとすれば「否定神学」となります。
すなわち、全宇宙の全真理とやらがもしあったとして、それらを総動員しても「この私」には到達不可能になろうかと思います。

したがって、時代・民族を超えうる人と人との共感は、ミラーニューロンや脳波など「脳の働き」にその根本を求めることもできるでしょうが、そういった「脳の働き」を成り立たせているもの(環境を含めてありとあらゆるもの)全てが、いわゆる「共感」などの相互作用を生み出すことに関与していると思います。

そういう観点から見れば、人の心の相互関係が、非常に奥深いものであると感じ取れるように思います。

「信じる」ということが、「この私」を抜きにして成り立たないのと同じように、「この私」は、「他の全て」を抜きにしては、成り立たない。
そして、「他の全て」の一部にでも目をつぶれば、「信じる」は崩壊する。

非常に異なったことを言っているにもかかわらず、この三者は、密接に関連しあっているように思います。

[PR]
# by kisugi_jinen | 2004-09-26 03:10 | 思考。。。 | Comments(11)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
検索
カテゴリ
最新の記事
お知らせとリンク。。。
お知らせ
●コメントスパム対策のため、承認制に変更しました(2010.09.29)
●トラックバックのリンクチェック機能を追加しました。excite以外からのトラックバックをされる場合、当該記事へのリンクを埋め込んでください。
リンク
ゲストブック
---全体的なコメント等は、こちらへどうぞ。。。
来生自然のホームページ
---私の知の思想史。。。
鉄鼠
---「考える」ということに向き合う。。。
Genxx.blog
移転後http://blog.genxx.com/
---「情」を含めて専門的な立場から「こころ」を模索し続けるGenさんのブログ。。。
研幾堂
---山下裕嗣氏による哲学のサイト。以前、形而上学についてやりとりさせていただいた。
記事ランキング
最新のコメント
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 01:29
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 03:51
kisugi_jinen..
by Kandomonmasa at 14:28
> SumioBabaさ..
by kisugi_jinen at 10:41
「神」を完全に解明しまし..
by SumioBaba at 05:06
最新のトラックバック
所詮ゲーム、背景を勘ぐる..
from 来生自然の。。。
シン・ゴジラと所信表明演..
from 来生自然の。。。
ポケモンGOのお台場騒動..
from 来生自然の。。。
シン・ゴジラ。。。
from 来生自然の。。。
[自我=自己の自己に対す..
from 来生自然の。。。
以前の記事
フォロー中のブログ
外部リンク
ブログパーツ
ライフログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧