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ポケモンGOのお台場騒動と、シン・ゴジラと。。。
お台場でのポケモンGO騒ぎ。
不正ツールが一因との話もあるが、誘因が何であれ、シン・ゴジラの移動そのものを彷彿とさせる出来事である。ただし、頭部から長い尻尾の先まで、人間だという構成。。。

ヴァーチャルの世界での欲望と知が、リアル世界を崩壊させていく。

ビートたけしの「赤信号、みんなで渡れば怖く無い」が当然の如くに広まっていくとき、制御を失った「流れ」は、シン・ゴジラの進攻の如く、ゆっくりとした、そうして確実な崩壊へと向かうかもしれない。。。

拙い歴史観から類似の事象が、脳裏に浮かぶ。
お蔭参り、そうして「ええじゃないか」騒動である。
過去においては、対象は「神様」であり、降ってくるものは、「おふだ」であった。
現在、対象は「レアポケモン」であり、降ってくるものは、「花吹雪」や、「出現情報」である。

シン・ゴジラ。。。

原子力・破壊の象徴としてのゴジラの語源に「god(神)」が埋め込まれて、一つのモニュメント・偶像として定位するとき、モニュメントのヴァーチャル方向への思い・情は、ヴァーチャルの世界での口からの咆哮と放射熱線として表され得る。
対して、モニュメントを通したリアル世界への思いは、対ゴジラ作戦として描かれ得る。古来、ゴジラは、スクリーンの表面に描き出されたモニュメントでしかなかったのだが、シン・ゴジラでの尻尾の先に「人類」を埋め込むことで、創り出されたヴァーチャルの世界をリアルな世界に繋げようとした庵野監督。

今回の騒動はヴァーチャルが投影されたリアルの世界。

リアルな世界での騒動の現場を俯瞰するとき、頭部から長い尻尾の先まで人間でできたシン・ゴジラいう構成に繋がるであろう。
相対するヴァーチャルの世界では、「god(神)」すら人知レベルにあって、神社本殿に設置されたジムに君臨しているレア・ポケモンが重ね合わされる。

2016.09.27 00:30 一部追加・修正

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# by kisugi_jinen | 2016-09-26 04:39 | つれづれ。。。 | Comments(0)
ray。。。Butterfly。。。BUMP OF CHICKEN。。。
2年ぐらい前から聴き始めたBUMP OF CHICKEN。
と言っても、久しぶりにCDとして購入したアルバム・RAYから入ったので、それ以前の曲はよく知らない。

RAYから受けたイメージは、リアルとロールプレイングゲームに代表されるヴァーチャルとの狭間に息づく若者の心情と言ったところ。
両者を重ね合わせ、透かして見てる感覚に捉われる。リアルの側から透かし見る世界には、ヴァーチャルの世界だけでなく、思い出の世界も重なり合う。私の様な中年のノスタルジックな回顧癖にも上手く重なり合ったのだろう。そういった情景を作り出している代表作が「ray」となっている。
歌詞には少し捻って意味を考えさせる様なフレーズがあるが、この部分にて、視聴者の意識を現実へと呼び覚ます効果があると思う。
しかしながら、私が興味を持ったのは、もう一つの視点についてである。
生死の境界を透かし見る視点である。
いや、元々生死の境界が存在しえないヴァーチャル世界へのリアルからの視点と言ってもいいだろう。「天国への階段」のイントロに重なる「ゼロ」は、正にそういった視点の代表作だろう。
日本人にとっての死生観は曖昧さを美徳とするが如くだが、知的に考え抜いた先に定位させ続けないと、宗教に飲み込まれてしまいかねない脆さがある。
そういったデリケートな領域に踏み込んでいながら、ヴァーチャルを利用しての禁断の境界越えを見事に描出していると言っても過言ではない。

アルバム・RAYについても、もっと書きたいことがあるのだが、死生観をさらに深く追求している「Butterfly」について書くべきだろう。

この曲を最初に聴いたとき、サッカーの応援ソングか何かか?と思った。というのも「サンガ」というフレーズが耳に残ったからである。後日、CDの歌詞カードにて「量産型」だと知ったのだが、語の区切りと語尾を曖昧にしてフレーズを繋げる技を確認したので、ますます聴き込む結果となった。
ここでの「量産型」は、正に「人間」そのものを指していると思っている。
いや、もっと広く、遺伝子レベルで定義され得る、種という概念になろうか?
そういった視点にて見ていくと、個体・個人という枠組みに対する種・民族・全体・世界・社会と言った枠組みを対置していると見做すこともできる。
あたかも卵から蝶までの変化の様に決められた運命としての道筋、そこにおいてのアイデンティティの確保は、思春期人にとって最大の問題でもあると共に、蝶になる前の蛹の様に、通過儀礼でもある。

さて、死生観について少し具体的に見てみる。例えば「明日生まれ変わったって、結局は自分の生まれ変わり」
蛹の中で、芋虫の体は一度ドロドロに溶けて、生まれ変わった様に蝶になる。もしかしたら、そういった意味のフレーズかもしれないが、素直に取れば、死後に続く輪廻転生の概念に通じていると捉えるべきだろう。しかしながら、「生まれ変わったとしても」と言った仮定であることは重要だと思う。だからこそ、複数の宗教すら簡単にスルーしてしまい得る日本の「曖昧さ」、いや「タフさ」を秘めた歌だと思う。

更に、全体の基調とでもいうべき、当事者の視点に立脚しての記述。
「この心 自分のもの 世界をどうにでも 作り変える」
「その心 自分のもの 君が見たものから 生まれていく」
非常に危うい独我論を彷彿とさせるフレーズでもあるが、アイデンティティの確立という概念からすれば、越えるべき思索になる。
また、二つ前の引用に続くフレーズ
「どういじればどうなるか 本当はちゃんと 知っている・・・」
この部分、思春期人が通過しなければならない「人智で全てをコントロールできる」と言った幻想を臆することなく言い切っている。

2016.09.22 追記
前回、かなり持ち上げた評価を書いたのだが、総じて「自身の視点」という踏み台(不動点)をしっかりと担保しているからなのだろう。特に、
「悲しいほど強い魂 どれだけ憎んでも 消えない 消せない」
のフレーズは、
「我思うゆえに我あり」を、斜めにつき破り、受動的・悲観的な側面から、能動的・主体的な側面へと、自らを誘っている。
たとえ、魂の存在そのものを否定されたとしても、他のなんびとも理解しえないとしても、自らが感じざるを得ない「魂」としか言いようの無い塊。
その塊・魂は、他者によって消され得るものでもなく、自らの手によって消し得るものでもない。
絶対的に否定的な側面にて消滅を否定するが故、たとえ限定された「知」の内部であったとしても、いや、限定されざるを得ない「知」の内部だからこそ、逆説的に肯定的に「生」を歌い上げている。

まさに、思春期人の死生観を、見事に詠み上げた歌だと思う。




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# by kisugi_jinen | 2016-09-20 03:42 | つれづれ。。。 | Comments(0)
プレママ。。。子供の視点は?。。
さっき、自宅に帰ったら、子供の感想文の下書きが置いてあった。
プレママの体験談を聞いた、感想文の様だった。
所で「プレママ」って何? と思ったのだが、子供の感想文には一切、そういった疑問は含まれていない。
ネット検索すると、
1. 和製英語
2. pre (前の) + mama もしくは、pregnancy + mama で、出産前の妊婦さん
3. 初産の場合に限定する説と、何人子供を出産していても、妊娠していればプレママという説がある。
問題に感じたのは、2番目と3番目の曖昧さである。
2番目の曖昧さは「ママになる前」なのか、「妊娠中のママ」なのか。
この曖昧さと3番目の曖昧さが重なる。(2016.09.14 06:35 前3行一部修正・追記)
個人的には初産に限定すると思ったのだが、子供の感想文では、「二人目妊娠中のプレママさん」という様な表現があった。
何人目であろうと、妊娠中は妊娠中だという考えに基づいている様に思えるのだが、少し視点を既に生まれている子供に移してみる必要性を感じる。
物心のついた子供達にとって「ママ」は「ママ」である。
それが、或る日突然「ママ」が「プレママ」に変化する。
心的に「ママ」を失った子供にとっては、大事件以外のなにものでもないだろう。

2016.09.12 08:40追記
でも、次の子供が生まれて来る前に、ママがたった一人の子供のものではないことに気付かせるには、絶妙な言葉なのかも知れない。
ただ残念なのは、用語の定義が曖昧だということ。
使う側が曖昧だったら、意味を調べた子供が傷つく可能性もあるだろう。

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# by kisugi_jinen | 2016-09-13 03:08 | つれづれ。。。 | Comments(0)
シン・ゴジラ。。。
シン・ゴジラ。。。

荒ぶる自然・神の世界と人類との狭間・ギリギリの攻防というべきか。。。

この作品の根底には、前回記述した、矛盾しつつも抱いてしまう他者に対する人智の優位性という、人類を人類足らしめる背景が織り込まれている。

「15年前のつぶやき。。。」
http://jinen.exblog.jp/26130866

庵野監督の描く世界は、そういった精神面に沿って、現実世界と仮想でありながらメディアにて経験し得る世界を、超自然的な仮想空間へと思いっきり引き伸ばして、斜めに削ぎ落としたような、そんな世界。
今回のシン・ゴジラは、初回のゴジラと、3.11を中心とした現実世界と、エヴァといった仮想世界を撚り合せ、あり得ないギリギリまで引き伸ばし、プツンと音を立てて切れてしまう直前にて、見事に削がれている。

切り口には、それぞれが、決して交わらないにも関わらず、斜めに削がれた故に、画面上にて重ね合わされる情景が、映し出されている。

おそらくは、庵野氏を含め製作者の多くが、3.11を「本来ならあり得ない、非日常の世界」としつつも、現実世界、特に都心に隣接する場にて、一本のエネルギー供給という細いながらも死活問題と成り得る線にて繋がり合っていた事実を、真正面から捉えようとしたのだろう。

シン・ゴジラは、ゆっくりとした足取りで津波と放射性物質を引き連れ、都心を目指す。

ラストの詳細は語れないが、まさに、今の日本という現実世界での情景と問題が庵野氏の世界観に重ね合わされて切り出され、一人一人の心に問いかけられているような世界に思えた。

2016.09.05 22:55 一部加筆・修正

2016.09.10 00:50 追記
ネタバレサイトも多く見受けられる所なので、ラストのシーンについての私見を記しておくことにする。
と言っても、ラストのシーン≠ネタバレであることは重要でもある。
ラストでの一瞬の映像だが、鮮明に、尻尾の先が黒く焼け焦げたような人間にて構成されていることが分かる。いや、その様に見えるだけとも言える。
庵野氏の世界観を比喩して、「現実が幻想世界へと引き伸ばされる。」としたが、まさに尻尾の先は、引き伸ばされ千切れた断面でもある。
視点をゴジラ側におけば、上述の様な記述になるが、視点を人間側に置けば、人類という存在は、現実だと思っている側にては、人間というちっぽけな姿を見せているものの、それは氷山の一角であって、知的幻想的な世界では、今回のゴジラのような巨大な怪獣へと繋がっているという暗喩なのだと思っている。

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# by kisugi_jinen | 2016-08-30 02:45 | つれづれ。。。 | Comments(0)
15年前のつぶやき。。。
人は,人たる故に,人を越えることは決してできないにも関わらず。
人は,人たる故に,自らが他より勝れていると思わざるを得ない。

人が思考力を得た瞬間から,論理的な防御思考の拡大は,他にとって論理的な攻撃思考となり,
神の創造とともに,絶対的な真理の争奪戦を引き起こすに至る。

論理的になろうとすればするほど,人の人たるゆえんである矛盾からの乖離を引き起こし,
ゲーデルの不完全性定理にはまり込んでいくことを,
あえて望むかのごとく,突き進む正義の名の元の「大衆」。

人と,いわゆる「自然」と,人が作った物と,それらすべてに区別すべき指標など無く,
すべてが同一の時空を共有し,同一の運命を担っていくというのに。

自らの正義と自らの裁定に酔いしれている間に,
そこから排除された物は,決して滅び去ることなく,
時空の中から再びよみがえってくるというのに。

「風の谷のナウシカ」原作版・第7巻(宮崎 駿)を読み終えて。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/ より

以上は、15年程前、ジオシティーズにホームページを立ち上げ、トップページに記述したつぶやきである。
しかし、手書きの日記に書いたのはもっと前、おそらく20年程前になると思う。

日本は今、危険な方向へと舵を切りつつある。

右とか左とかではなく、知か情かという岐路にて知へと大きく舵を切ろうとしている。

「知」といっても、「情」と切り離された「知」ではない。

さらに言えば、「情」は原始的レベル(脳幹レベル)と知的レベル(大脳皮質レベル)に分けて考えれば分かり易いかもしれない。

舵を切りつつある方向は、脳幹レベルに近い「原始的なレベルの情」、いや動物的なレベルの本能といっていい情、言い換えるなら「個人レベルの情」を正当化するためだけの「知」である。

「知的レベル」の情は、そういったことを「知ったうえで」、あふれ出てくる「慈愛の心情」(知を越える情)とでもいうべきものであり、「他者を慮るレベルの情」であり、西洋での「博愛」に通じるものである。

その兆候は見え隠れしつつ、近年あからさまになりつつあるように思える。
思い当たる理由は複数ある。

1.少子高齢化
人々が、過去の人々の技術力・思考力を越ええない程、(ある意味、相対的に)劣化したこと。
一部の人々は越えていくのだが、全体から見れば相対的に越ええない人々が増えていると言わざるを得ない。人口比率に対する若者の数が低いということは、量的に先人を越えようとする人々が減っていることを意味する。
知的に先人を越ええない時、それを凌駕する「情」が沸き上がることもない。

2.SNSやネット依存
Face to faceではないSNSやネットを流れる文字情報(正確には文字状報)に依存する率が高いということは、知的表現(文字を含む記号表現)に付随すべき情の欠落を意味する。文字状報の「一人歩き」である。
炎上やバッシング、果てはヘイトスピーチの類までもが飽きることなく繰り返される。「原始的なレベルの本能的な情」、いや個人レベルの情を満足させるためだけの手段として「知」を駆使し、毒を吐き続ける。

3.人工知能への過大な期待
テレビコマーシャルでも片隅に必ず「一定の条件での・・・」という記述が為されているにもかかわらず、万能な感覚を抱く人々が多いのだろう。でなければ、企業が置いてきぼりを食らって敗者になることを嫌うが故の、プロパガンダに踊らされる人々が多いのかもしれない。
人工知能に「知的作業」を任せてしまうことで、人類の「知」は劣化し、「知を越える情」もまた、劣化していくことだろう。

堕ち続ける日本の一部ネット民は、差別思想へと走る。
生き残るために、トカゲが尻尾を切り落とすのと同様の思想である。
しかしながら、頭がある限り尻尾が生えてくるように、差別思想がある限り、対象は生成され続け、消え去ることはない。

尻尾を切り離したトカゲと、切り離された尻尾
同じところから生まれたにもかかわらず、そうして、いずれは朽ち果てていく者同士なのに、片方が優れていると思い込む、ただそれだけの理由で、優劣を「知的に」論じ、酔いしれていく。。。
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# by kisugi_jinen | 2016-08-23 05:34 | つれづれ。。。 | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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