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シン・ゴジラ。。。
シン・ゴジラ。。。

荒ぶる自然・神の世界と人類との狭間・ギリギリの攻防というべきか。。。

この作品の根底には、前回記述した、矛盾しつつも抱いてしまう他者に対する人智の優位性という、人類を人類足らしめる背景が織り込まれている。

「15年前のつぶやき。。。」
http://jinen.exblog.jp/26130866

庵野監督の描く世界は、そういった精神面に沿って、現実世界と仮想でありながらメディアにて経験し得る世界を、超自然的な仮想空間へと思いっきり引き伸ばして、斜めに削ぎ落としたような、そんな世界。
今回のシン・ゴジラは、初回のゴジラと、3.11を中心とした現実世界と、エヴァといった仮想世界を撚り合せ、あり得ないギリギリまで引き伸ばし、プツンと音を立てて切れてしまう直前にて、見事に削がれている。

切り口には、それぞれが、決して交わらないにも関わらず、斜めに削がれた故に、画面上にて重ね合わされる情景が、映し出されている。

おそらくは、庵野氏を含め製作者の多くが、3.11を「本来ならあり得ない、非日常の世界」としつつも、現実世界、特に都心に隣接する場にて、一本のエネルギー供給という細いながらも死活問題と成り得る線にて繋がり合っていた事実を、真正面から捉えようとしたのだろう。

シン・ゴジラは、ゆっくりとした足取りで津波と放射性物質を引き連れ、都心を目指す。

ラストの詳細は語れないが、まさに、今の日本という現実世界での情景と問題が庵野氏の世界観に重ね合わされて切り出され、一人一人の心に問いかけられているような世界に思えた。

2016.09.05 22:55 一部加筆・修正

2016.09.10 00:50 追記
ネタバレサイトも多く見受けられる所なので、ラストのシーンについての私見を記しておくことにする。
と言っても、ラストのシーン≠ネタバレであることは重要でもある。
ラストでの一瞬の映像だが、鮮明に、尻尾の先が黒く焼け焦げたような人間にて構成されていることが分かる。いや、その様に見えるだけとも言える。
庵野氏の世界観を比喩して、「現実が幻想世界へと引き伸ばされる。」としたが、まさに尻尾の先は、引き伸ばされ千切れた断面でもある。
視点をゴジラ側におけば、上述の様な記述になるが、視点を人間側に置けば、人類という存在は、現実だと思っている側にては、人間というちっぽけな姿を見せているものの、それは氷山の一角であって、知的幻想的な世界では、今回のゴジラのような巨大な怪獣へと繋がっているという暗喩なのだと思っている。

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by kisugi_jinen | 2016-08-30 02:45 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
15年前のつぶやき。。。
人は,人たる故に,人を越えることは決してできないにも関わらず。
人は,人たる故に,自らが他より勝れていると思わざるを得ない。

人が思考力を得た瞬間から,論理的な防御思考の拡大は,他にとって論理的な攻撃思考となり,
神の創造とともに,絶対的な真理の争奪戦を引き起こすに至る。

論理的になろうとすればするほど,人の人たるゆえんである矛盾からの乖離を引き起こし,
ゲーデルの不完全性定理にはまり込んでいくことを,
あえて望むかのごとく,突き進む正義の名の元の「大衆」。

人と,いわゆる「自然」と,人が作った物と,それらすべてに区別すべき指標など無く,
すべてが同一の時空を共有し,同一の運命を担っていくというのに。

自らの正義と自らの裁定に酔いしれている間に,
そこから排除された物は,決して滅び去ることなく,
時空の中から再びよみがえってくるというのに。

「風の谷のナウシカ」原作版・第7巻(宮崎 駿)を読み終えて。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/ より

以上は、15年程前、ジオシティーズにホームページを立ち上げ、トップページに記述したつぶやきである。
しかし、手書きの日記に書いたのはもっと前、おそらく20年程前になると思う。

日本は今、危険な方向へと舵を切りつつある。

右とか左とかではなく、知か情かという岐路にて知へと大きく舵を切ろうとしている。

「知」といっても、「情」と切り離された「知」ではない。

さらに言えば、「情」は原始的レベル(脳幹レベル)と知的レベル(大脳皮質レベル)に分けて考えれば分かり易いかもしれない。

舵を切りつつある方向は、脳幹レベルに近い「原始的なレベルの情」、いや動物的なレベルの本能といっていい情、言い換えるなら「個人レベルの情」を正当化するためだけの「知」である。

「知的レベル」の情は、そういったことを「知ったうえで」、あふれ出てくる「慈愛の心情」(知を越える情)とでもいうべきものであり、「他者を慮るレベルの情」であり、西洋での「博愛」に通じるものである。

その兆候は見え隠れしつつ、近年あからさまになりつつあるように思える。
思い当たる理由は複数ある。

1.少子高齢化
人々が、過去の人々の技術力・思考力を越ええない程、(ある意味、相対的に)劣化したこと。
一部の人々は越えていくのだが、全体から見れば相対的に越ええない人々が増えていると言わざるを得ない。人口比率に対する若者の数が低いということは、量的に先人を越えようとする人々が減っていることを意味する。
知的に先人を越ええない時、それを凌駕する「情」が沸き上がることもない。

2.SNSやネット依存
Face to faceではないSNSやネットを流れる文字情報(正確には文字状報)に依存する率が高いということは、知的表現(文字を含む記号表現)に付随すべき情の欠落を意味する。文字状報の「一人歩き」である。
炎上やバッシング、果てはヘイトスピーチの類までもが飽きることなく繰り返される。「原始的なレベルの本能的な情」、いや個人レベルの情を満足させるためだけの手段として「知」を駆使し、毒を吐き続ける。

3.人工知能への過大な期待
テレビコマーシャルでも片隅に必ず「一定の条件での・・・」という記述が為されているにもかかわらず、万能な感覚を抱く人々が多いのだろう。でなければ、企業が置いてきぼりを食らって敗者になることを嫌うが故の、プロパガンダに踊らされる人々が多いのかもしれない。
人工知能に「知的作業」を任せてしまうことで、人類の「知」は劣化し、「知を越える情」もまた、劣化していくことだろう。

堕ち続ける日本の一部ネット民は、差別思想へと走る。
生き残るために、トカゲが尻尾を切り落とすのと同様の思想である。
しかしながら、頭がある限り尻尾が生えてくるように、差別思想がある限り、対象は生成され続け、消え去ることはない。

尻尾を切り離したトカゲと、切り離された尻尾
同じところから生まれたにもかかわらず、そうして、いずれは朽ち果てていく者同士なのに、片方が優れていると思い込む、ただそれだけの理由で、優劣を「知的に」論じ、酔いしれていく。。。
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by kisugi_jinen | 2016-08-23 05:34 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
昨日・今日・明日と貴方と私と。。。「カシコギ」の一節に重ねて。。。
ふとした機会があって、「カシコギ」(趙 昌仁)の有名な一節を知った。
原書が日本語ではないだろうから、多くの訳があるようだが、下記のような内容である。
貴方が虚しく過ごした今日という日は
昨日死んでいった者が
あれほど生きたいと願った明日

一瞬、考えないと理解しにくい構造を取らせているところに、余韻が生まれ、視点の移行をうまく促すような構造を取っていると思う。(原書でも、そうなのかは、別に確認する必要があるのだが・・・)

構造上、昨日・今日・明日という時間軸に対し、今を生きている貴方の視点を投影しつつ、次の瞬間に死者の視点からの今を「昨日の明日」という2段階構成で投影している。

書かれている内容については、順番を入れ替え、否定的な文言を肯定的な文言に切り替えて一般化するだけで、たとえば下記のように記述すれば、理解しやすくなるように思う。
亡くなった方にとっての未来は、今を生きる貴方に重なり合っている。

過去に生きた人々の願いは、今を生きる貴方に託されている。

どうだろうか?

こうやって、意訳していくと、「私と貴方」という視点の差異、すなわち、「主・客」の断絶が根本的に存在するものの、人類という生命の繋がりそのものが、見事に織り込まれた一節だと思えて仕方がない。
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by kisugi_jinen | 2016-08-10 03:30 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
[自我=自己の自己に対する絶対優位性=自己を信じる]≠狂信。。。
ネットが覚醒させる悪魔たち。。。
http://jinen.exblog.jp/26058714/
上記に追記するつもりであったが、項を別建てすることとした。。。

このブログを始めた当初、現在放置状態のホームページよりも以前から思索してきたことを踏まえ、下記のような記述を行っている。
1.自己に対する自己の絶対優位性
http://jinen.exblog.jp/345020/

2.信じるの本質
信じる。。。
http://jinen.exblog.jp/353333/
信じるの解説偏。。。
http://jinen.exblog.jp/361484/
信じるということ。。。再々考。。。
http://jinen.exblog.jp/1179654/

これらは、宗教以前の人間が本質的に生きていく上での、自我の確立と同等の概念だと思っている。

しかしながら、そのまま「絶対優位性」+「信じる」を自己に中心を置いたまま、外部からの干渉を排除しつつ、対象を外部へと押し広げた途端、狂気が暴走し始める。

「ありとあらゆる人間は皆、貴方と同等の自我を持ち、自身の思うところを信じて生きている。どちらが優れているとか、劣っているとかいった話ではない。」

この言葉を受け入れられるのか否か? その時点で狂人か否かを区分しうるであろう。

物言えぬ人々、コミュニケーションを行えない状況の人々、ネットでの発言権を持つことのできない人々。。。
ありとあらゆる生きとし生ける人々の心の奥底に、それぞれの自我が息づいている。。。

ネットでの短絡的な(情報ではない)「状報」交換のみに依拠し、そういった基本的なことすら想像できない人々が悪魔と化して暴走する。
無論、貧富の差を含め、様々な背景事情が存在しうるであろうが、根源的には対象との「情的な繋がり」を排除したところに発生しうるであろう。

知的な思索にて論じることが可能なレベルでの「自我」のみにても、昨今のテロや猟奇的殺人鬼を区分しうるであろうが、そういった知的な論の、さらに根源的な背景には、情的な繋がりが必要不可欠であろう。

脳機能の一部が損傷を受けていて、自己表現やコミュニケーションができなくなっている方々がいたとしても、生きようとすることの本質を有している限り、何人たりとも、その生命を軽んじた扱いはできない。
そういったレベルでの感情移入は、ありとあらゆる生命への慈しみの心へと境界なく繫がっているはずである。

懸命に生きようとしている人々の生命を絶つような行為を平気で行える人々は、彼らに対して「優れている」と公言して憚らないが、そうではなく、心の奥底では「自らが彼らと同等、ないし劣っている」と言われるのを恐れて、抹殺しようと躍起になっているとしか、思えないのは、私だけだろうか?
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by kisugi_jinen | 2016-08-02 04:58 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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