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わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その23。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その22。。。

実のところ、原作においても非常に重大な問題を孕んでいたのだが、ドラマ最終話で明らかになった転機がある。実は、第9話にてすでに伏線が敷かれていた。

恵美子先生が病院にて、主治医と思える医者から、「提供を希望されますか?」と聞かれるシーンがある。最初、恵美子先生がクローンとしての提供者として、「任意性に基づき、提供をされますか?」と聞かれたのか?と、思ったのだが、そうではない事に直後に気づいた。恵美子先生の拒否は「クローンからの自身への提供の拒否」であった。

クローンを擁護する立場にいるべきクローンだからこそ、当然の拒否であるべきなのだが、歳を取ってこれ以上長生きしても仕方がないと拒否する人々が増えているとのことが、最終話でなされる事への伏線でもあった。

この為か、結局、恭子の元には、赤紙が来なかった。

最終話の直前(と言っても19:12)にファンメッセージに書き込んだ内容を、こちらにも転記しておく。

あれだけ大量の(いや、大人数の)クローンが、日常的に必要な理由は、恐らく明かされないのではないのだろうか?
クローンですら、手術の傷が痛々しく残る程度の医療技術。。。

もしかしたら、移植されるはずの臓器の大部分が適応不可となって、大量に処分されているのではないだろうか?
処分先は考えたくも無い。。。

恭子(原作・キャシー)の視点からの物語の限界。。。
物語を真に成立せしめるだけの条件を推察しようとする視聴者心理に、どれだけ応えられるのだろうか?

まだ、荒唐無稽なドラマだったら良かったかもしれない。。。
リアルに日本の近未来的な情景へと落とし込もうとした事が、最終的にどのように評価されるのだろうか?

少なくとも、普段、ドラマを真剣に見ようとしない私を、これだけ引きずり込んだ事実は否定のしようがないのだが。。。


日本でドラマにする事を決定した段階で、余剰クローンという事は、織り込み済みだったのかもしれない。

提供開始の通知が「赤紙」にて重ね合わされていた様に、「終戦」に該当する事態を重ね合わそうと策が練られた可能性が強い。
戦争が、多くの伝聞情報にて混乱する事とも重ね合わされる。

始める事より、終わらせる事の難しさ。。。
ある物語を思い出す「真夏のオリオン」である。

今回のドラマは、最終話にて、イシグロ氏の抱えていた問題の核心を、日本の土壌にて、しっかりと受け止め、小さいながらも希望の花を咲かせたのかもしれない。

2016.03.21 09:20追記

真夏のオリオンについては、本ブログにて以前取り上げている。
「事後からの視点」だからこそのストーリー展開。。。

真夏のオリオン・風の谷のナウシカ・終戦のローレライ。。。
http://jinen.exblog.jp/13418874/


2013.03.23 00:48 追記
この物語に、重ね合わされるべき、重要な真実と物語を挙げておくのを迂闊にも忘れるところであった。決して忘れるべきではない真実と物語。。。
ハンセン病に関する真実と様々な物語である。

「わたしを離さないで」原作では非常に注意深く、キャシー(ドラマでは恭子)の視点から「決して離れる事なく」伝聞情報の脆さと、伝聞情報の中で、精一杯生きようとする事の日常的な難しさが淡々と書き綴られているのだが、特に原因や治療法が解明した後のハンセン病の問題の大部分は、まさに伝聞情報の問題そのものの悲劇でもある。

ドラマでは、完全には、恭子の視点のみからの記述が困難だったためか、物語内部の矛盾を伝聞情報に起因するものとして処理し切れていないように思える。というより、真実(まなみ)のサイドストーリーの場面ですら、恭子の伝聞情報に基づく脳内イメージ(半ば想像)であるとすれば、ドラマとしての物語の内部矛盾のほとんど大部分が消え去ると言って過言ではない。

*ハンセン病に関して言えば、新約聖書に軸足を持つキリスト教の一部に救済しようとする教団も存在したようだ。

2013.04.01 04:35 追記
*3/30 23:07にファンメッセージへ投稿したものを一部修正して、こちらへも記しておきます。
先日解決した中学生の誘拐事件は、ハンセン病と並んで、この物語の本質を理解するのに重要な視点を与えてくれることでしょう。。。

絶望と希望の狭間。。。
原作でのキャシー(恭子)という1人のクローンの伝聞情報に基づく視点に絞り込むことが困難なドラマという特性にも関わらず、飛翔し過ぎずに終えることで、ある程度の問題を回避できた様に思える。
しかしながら、クローンと「外部」との境界を緩める方向性は、逆説的に物語の設定条件・背景の異様さを認識させる方向へと誘導することとなってしまった。

先日、2年ぶりに誘拐犯の元から逃げ出した少女。

彼女が逃げ出そうと思った理由の一つに、犯人にて遮蔽されて「外部」となってしまっていた父親の、助けたいという思いが伝わったことにあると言う。
「外部」から見放されたという犯人からの伝聞情報のみに基づいていたなら、一生そのままだったかも知れない。

余剰クローンが提供することもできず、働くこともできない状況で物語を終える。。。
提供と介護以外の職を奪われている物語での設定条件。。。
病院での贅沢な個室、質素だが確保されている衣食住。これらが、音を立てて崩れて行きかねないことも、現実として受け止めなければならない。ドラマの構成では、何らかの立法の保護を受けていたという状況も否定できないのだが、もし、そうであったならば、公務員に対する昨今の世間の対応から類推するだけでも、ドラマの中での余剰クローンの今後は、とんでもなく悲惨であろうことは、想像に難くない。しかも、生殖能を生れながら(代理の子宮から産まれながら)奪われているのと同様に、抵抗性もかなりの確率で奪われている様であるから。。。
飼い慣らされたカナリア。。。物語の中のクローン。。。その共通点が見え隠れする。。。

破滅的・絶望的な未来が予測できるにも関わらず、視聴者に希望の光を感じさせるのは、(視聴者を含めた)「外部」との間に、魂同士の繋がり合いを感じさせるラストだったからなのかもしれない。。。

2014.04.01 05:50 追記
上記事項を書いた以上、もう一点、書いておかねばならない。開けられてしまったパンドラの箱は、希望以外の、あらゆる災いを出し切る必要性がある。。。
と、その前に。。。真実(まなみ)の事件で、明らかになった様に、警察や司法が制度を維持する立場にある以上、何らかの法的整備がなされて公金が注ぎ込まれていることは確実だろう(が、これも類推の域を出ない)。このことは、一連の投稿中に記載しているのでこれ以上は触れない。
余剰クローンの介護以外での職業が許可されたとき「失われた世代(lost generation)」以上の問題を生み出しかねない。急激な境界の撤廃は、別の意味で自然発生的に境界を生み出しかねない。
ドラマが開けたパンドラの箱に希望の光を見いだすには、とてつもない災いの種を掻き分けなければならない。にもかかわらず、希望の光を感じさせる、感じざるを得ない状況が、今の日本だということの方に、驚くべきなのかもしれない。

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by kisugi_jinen | 2016-03-20 08:45 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その22。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その21。。。

最終話。。。
まずは期待を良い方向に裏切った内容に感謝。。。

イシグロ氏の原作から逸脱しないようにしつつ、ギリギリの攻防・葛藤の結果が結実したと言える。
しかしながら、懸念される多くの余波は、物語の構成限界故に、「外部へ」と向けられる。

クローンと外部という強引な二分法は、踏み込んだ内容を描こうとすればする程、境界線上の人々を二分する方向に向かう。

原作では病院や医療スタッフに関しては踏み込んだ記述は皆無だが、ドラマでは頻繁に行われ、視聴者側が外部であるにもかかわらず、あたかも二分法の諸悪の根源のように、視聴者側から、あからさまに責任をなすりつけられざるを得ない立場として描出される。
物語を効果的に構成するためにクローンの介護人という立場の恭子に辛く当たれば当たる程である。

原作では、クローンは外部から「蜘蛛を見るようにおぞましい」と感じられ、外部である校長とマダムからも強力な排除感覚が告げられる。原作の世界では外部の共通認識として強力な境界線を構成している。それ故に、境界を排除しようとする試みは、外部民衆の心理から消極的になり忘れられようとせざるを得無くなる。

一方、日本での今回のドラマでは、原作同様、法的拘束力には全く触れてないのだが、システム的に医療スタッフと事務員を統制し得る「何か」強い外部からの圧力を想定せざるを得無い状況に仕立て上げられている。また、提供を受ける側も、強制的な提供者としてのクローンの存在を知らない人が多くいるという設定に変えられている。校長の恵美子先生をクローン側へと移動させた事もあり、原作での「感覚」のみによる二分法の基盤そのものが、背後に押しやられ、消されようとしている。

結果残るのは、矢面に立たされてしまう医療スタッフと事務員である。背後にある強制的な「何か」は結局明らかにされないが、ヒントは「信実(まなみ)」のサイドストーリーに隠されていると考えるべきだろう。憲法はそのままでも、警官や刑事、機動隊という司法も動き得る「何か」だからである。

原作では宗教的な魂の概念を想定すれば理解可能だったのだが、現代に近い日本という設定でのドラマの版では、「何か」は法的拘束力以外、考えられない。「金銭」「権力」単独も候補に上がるが、あれだけのシステムを、全国レベルにて構成するには限度がある。

で、そんな法律を、憲法や基本的人権に逆らってまで成立せしめるだけの条件・状況。
でもクローンという概念や存在を知らない間に、無知と誤解と偏見が民衆を支配している間に、「金銭」「権力」を駆使し、病院経営者と政治家が結託すれば、何とか成立せしめることができる様にも思えてくる。

「やはりそこか!」となるのだが、これって何かに似てる。そう、思い出した。。。
「お主も悪よのう。。。」

時代劇の勧善懲悪という二分法の世界観そのもの。。。
時を超えて、近未来的に生まれ変わった時代劇そのもの。。。
遠山の金さんはいないけれど、力を無くした御隠居、校長と、助さん、格さんとしての、元教員達。
信実に気づき始めた大衆代表の被提供者達。
日本の心情に落とし込むためには、そこしか無かったのかもしれない。。。
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by kisugi_jinen | 2016-03-19 04:44 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その21。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その20。。。

原作があり、映画にもなって、ストーリーの大半と結末のおおよそが分かっているにもかかわらず、これ程までに最終話を見たくなるドラマもない。

物語を成立せしめている分断が、純粋に感覚に基づき、かつ、決して証明され得ない「魂・心」の存在の有無に基づいている事も大きい。

「そんなの、常識でしょ」

そういって早々にあしらいたくなる分断基準。

常識:「境界の無さ」=「魂・心がクローンにもあって当然」という事なのだが、恵美子先生をも、クローン側に仕立て、「魂はないことにされている」と言わしめた為、成長した主人公達と共に「常識だろ」と詰め寄る先を見失ってしまう。あとは人間だとされるマダムや他の先生方に、詰め寄らざるを得ない。
子供達にとって、同胞の教員に裏切られ、出口を塞がれるのは、余りに救いが無いとも言える。
原作の方が逆説的に救いがあった。責める先が目の前にいた。が、「なぜ?」と何度も責め切れない。。。
ドラマではマダムがいたが責め切れない。。。
それこそが、相手の心を慮る(おもんばかる)という、最高の魂・心の状態だと、どうして恵美子先生は、教えてあげれないのか?
最終話の構成如何によっては、本当に救われない物語になってしまいかねない。。。

。。。。。。

「いや、私も実はクローン」、「え!俺も実はクローン」と、雪崩を来すように「クローン宣言」が次々続くと面白いかもしれない。しかも同一のオリジナルからの単一のクローンで、性別・容姿のみ無数に変える事のできる薬を、生殖能力を奪う際に子宮提供者の中にいる間に投与されているとか。

そうすれば、拒絶反応を意識せずに済む。

本来の人類は、生殖能力を欠いたクローンの大量発生にて、ほとんど絶滅したのだが、一人だけ生き残っていて、人類存続の為、クローン自らが、希少種保護の為に、自らの臓器を何千年と無く提供し続けているとか。。。

クローンにも「魂・心」のある事は常識なのだが、クローンにも格差社会が構成され、弱者のクローンからの複製については、「魂・心」は無いものとして扱うことに、皆が納得したとか。。。
。。。。。。

この物語の最大の欠点、いや、最大の功績は、生殖能力を欠いた臓器提供者を構成するだけで成立するバックグラウンドに、不用意に、いや巧みにクローンを織り込んでしまった事にある。

本来問題とされるべき、「境界の無いところに境界を発生させる」事を、あたかもクローンだからと言う隠れ蓑にて「差別は常識だろ」と、一瞬でも思い込ませつつ、「あれ?それって問題じゃあ無い?」と逆説的に考え込ませる手法が用いられていると言って、過言ではない。

しかも、主人公達の視点から逸脱することなく、決して俯瞰的な構図を取る事もなく、視聴者・読者は、主人公達と同一の地平から共に考えざるを得ない構成。。。

物語の全体が伝聞情報で構成され、ドラマでは真実を握る鍵を恵美子先生からも奪っている為、最終話まで引っ張り続けている。

そういった罠にはまり込んでしまった人が見るべきドラマなのだろう。
ドラマでは、そういった人々を救う出口を構成して欲しい。。。
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by kisugi_jinen | 2016-03-17 02:40 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その20。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その19。。。

わたしを離さないで
Julia Shortreedさんの歌う挿入歌。。。
"Never let me go"

TBSで公開されている
http://www.tbs.co.jp/never-let-me-go/special/

昨夜、眠い目をこすりつつ、メロディーに合う長さになるよう訳してみたのでファンメッセージに投稿してみたのだが、恥ずかしながら明らかに誤訳してたので、修正版をこちらにあげておく。
まだまだ稚拙な訳だとは思うものの、歌詞の意味するところが伝わって来る。
ドラマのストーリーを的確に踏襲しているようだし、それでいて、この手の歌に多重に重ねられる一般性も維持しているようだ。
実に味わい深い。。。

今夜は眠りたくない
愛が夢のように生まれたあの日へ
再生してくれた、懐かしの甘いメロディー
心を満たし、全てを明るく変えてくの
貴方が初めて心を満たしてくれたの
ああ、このまま。。。
ベイビー、ベイビー、離さないで、わたしを離さないで
手を握るだけで感じる温もり
そうベイビー、離さないで、わたしを離さないで
最後までずっと
短い夜が明け、日が昇る
時が来れば、去っていく貴方
愛を失って生きてはいけない
だから強く抱きしめて、何も言わずに
この瞬間、全てを棄てる。永遠(とわ)より価値があるから
ベイビー、ベイビー、離さないで、わたしを離さないで
もう一度名前を呼んで
そうベイビー、離さないで、わたしを離さないで
最後までずっと
寄せては 返す 波に 削られて
永遠に続く青い海へ帰る
私の人生に 貴方がいた事が、信じられない
世界のどこにも 変わらずに居られる人はいない
離さないで、決して離さないで
両手で強く抱きしめて
そしたら言う。離さないで、離さないわ
最後までずっと、ずっと
。。。
深い眠りについて。。。私の愛しい人。。。

2016.03.16 23:16 一部修正
2016.03.21 16:25 一部修正

=== 2016.04.24 02:28 修正版(赤の部分を中心に)
play a song
を「音楽をかける」にするか「音楽を流す」かに変更した方が、原意に近いので変更
語尾の、複数の「の」を削除
曲調にて字余り的に入れ込んだ「わたしを」の部分はバックコーラス的に入るという意味で[]で括った。
相応して、never let you go の部分には、[あなたを]を挿入した。
その他、接続詞の多少の変更をした。

今夜は眠りたくない
愛が夢のように生まれたあの日へ

流してくれた、懐かしの甘いメロディー
心を満たし、全てを明るく変えてくの
貴方が初めて心を満たしてくれた
ああ、このまま。。。

ベイビー、ベイビー、離さないで、[わたしを]離さないで
手を握るだけで感じる温もり
そうベイビー、離さないで、[わたしを]離さないで
最後までずっと

短い夜は明け、日が昇る
時が来れば、去っていく貴方

愛を失って生きてはいけない
だから強く抱きしめて、何も言わずに
この瞬間、全てを棄てる。永遠(とわ)より価値があるから

ベイビー、ベイビー、離さないで、[わたしを]離さないで
もう一度名前を呼んで
そうベイビー、離さないで、[わたしを]離さないで
最後までずっと

寄せては 返す 波に 削られ
永遠(とわ)に続く青い海へ帰る
私の人生に 貴方がいた事が、信じられない
世界のどこにも 変わらずに居られる人はいない

離さないで、[決して]離さないで
両手で強く抱きしめて
そしたら言う。離さないで、[あなたを]離さないわ
最後までずっと、ずっと
。。。

深い眠りについて。。。私の愛しい人。。。

===
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by kisugi_jinen | 2016-03-16 12:18 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その19。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その18。。。

違和感。。。と不安感。。。

私が感じ取っているのは、そういった類のもの。。。

多くのレベルで、積み上げられた大小不同の歪(いびつ)なブロックが危なげに揺らいでいる。そういった違和感。。。

それでも、全体を繋ぎ止めているのは、ドラマとして成立させようという一途な思いと、基底を流れている、人類共有の不安感なのではないだろうか?

複数回の投稿途中から、一神教的な背景・思索の方向性について多くを書いたが、実の所、視点をどこに持ちたがるのかにて、思索の方向性が決められてしまう。一神教的な視点・方向性は、内から外に向かう視点であり、多神教的な視点・方向性は、外から内に向かう視点である。
規範・基準をどこに置きたがるか? といった概念と言い換えてもいい。

したがって、国とか民族とか宗教とかいった区分に基づくというより、個人的レベルでの差異に基づいている。
しかしながら、この差異は、西洋系と東洋系の基本的な思索の差異でもあり、巷の教養系クイズ番組でも取り上げられたことがあるので、ご存知の方も多いかもしれない。

内から外に向かう視点を重視する向きは、自己を規定している境界線について、さほど頓着しない。いや、境界線が見えにくい位置に視点がある。認識し得る範囲のやや外側に境界線があるからである。プラス思考の観点からは、主体性があり、リーダーシップがあるといわれ、マイナス思考の観点からは、独善的で、ワンマンだといわれる。

外から内に向かう視点を重視する向きは、自己を規定している境界線について、極めて敏感である。他人の視線にて、自己を評価しようとアンテナを張り巡らせているからである。

安物の両極端な性格分析だと思われるかもしれないが、両方の方向性を有していたとしても、両方を常にバランスよく保つことは極めて困難であろう。

この揺らぎ、バランス状態は、中立的な思索を行っていると思っている人ほど、他人に影響されやすいともいえる。流言飛語、Twitter、Lineこれらの「噂話」や「伝聞情報」に影響を受けるとともに、自らが主体的に外部に再発信しようとしたがるのは、両方の心理状態の揺らぎが周囲の動きと同調したからに他ならないのではないだろうか?

今回の原作ないしドラマは、まさに内から外に向かう成長過程とともに、伝聞情報の根源へと突き進み、自ら積極的に動いていく若者たちの物語という側面

と同時に

外から内に向かう規定(外側の人間にとっては、内から外への方向)にて死・魂という人間の根底に関する概念について縛り付けられてしまったクローンの苦悩を描いている。

多少の矛盾にあえて触れることなく、境界を挟んだ方向性の揺らぎのなさ、固定性こそが、日本人の視点から見れば、強引で不安定に見え、違和感を醸し出している元凶だろう。

それでもなおかつ、一抹の不安感をもたらしているのは、日本という民族内部にて混在しつつも噴出している、他人を顧みることのない身勝手な行動を起こす人々が増えているからかもしれない。。。

何時の時代にも、どのような体制にあっても、認識の多様性と同時に多階層性・多レベル性は混在している。にもかかわらず、ある一定の方向性に整えられかねないという不安感が背景になければ、日本で受け入れられる物語とは、ならないのではないのだろうか?

2013.03.14 20:00 一部修正
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by kisugi_jinen | 2016-03-13 13:19 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その18。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その17。。。

原作、イギリスでは森。。。
ドラマ、日本では海。。。

生命の源として、キリスト教系では「生命の樹」を想定するらしい。日本では「母なる海」だろう。

イシグロ氏の原作では「魂が無い」として墓すら存在しない亡くなった同胞・クローンを身近に感じる場として、最後の場面近くで、森が描かれ、通り過ぎつつ吹き溜まる風が描かれている。

ドラマ最終話では、予告編を見る限りにおいて、川の流れと、そこから繋がる海が想定される。
そうして、そこは、両者ともに、あらゆる紛失物(見方によってはゴミ)が届く場所でもある。

母なる海。。。 細胞が細胞膜という境界を介して分離する元となった所。。。

「外部の人間」は、クローンの臓器を利用しなければ生きていけない生命体として描かれている。ドラマの冒頭にて語られた、塀の向こうの森に棲まう、皮だけ残して食べてしまう「化け物」でもある。いや、まさに人狼や吸血鬼を髣髴とさせる。。。

「クローンに魂がない」と言い張ることで強固な境界線を引こうとする「外部の人間」は、真の意味で「魂を悪魔に売りとばした生命体」そのものである。
境界(教会)の内部と外部。。。「魂が有る・無い」は、その境界にて反転しうる。。。

悪魔に魂を売ったという自覚のない人類は、もはや生命の源、すなわち海にすら帰り着くことができずに、クローンの血肉を漁る。。。

それこそ、母なる海からも見放された人類を描いた物語ではないのだろうか。。。

。。。

そう、もう一つの「母なる海からも見放された人類を描いた物語」を知っている。

風の谷のナウシカ。。。

西洋的思想と東洋的思想を癒合させているゆえか、森を腐海と表現しつつ、強酸の海には生命の痕跡すら描かれていない。。。

イデオロギーが中心となった冷戦時代を意識して描かれたナウシカは設定された境界を壊す方向性に生きていた。

科学・ITが急速に境界を壊したために壁は壊され、グローバル化への方向へと舵を切らざるを得なかった現代、逆説的に世界規模で目に見えない境界が乱立されている。ひとたび境界が発生すると、その境界を挟んで人々は戦いの準備に明け暮れ始める。。。

無人偵察機、ロボット、スターウォーズで大量投入されたクローン兵士の幻影すら、見え隠れする。
映画「アバター」では、象徴的に「生命の樹」が描かれ、科学・技術によって倒されてしまう。

人類は、生命の樹を、母なる海を、忘れてはならない。。。

どのように生まれ、どのように育とうとも、生命として生きている限り、宗教という境界も、人種という境界も、民族という境界も、国境という境界も、全てを越えて繋がりあっているということを、忘れてはならない。感じ取らねばならない。。。まずは「情」が先にあるということ。。。

書かれたこと、聞いたこと、見知ったこと、教えられたこと。。。

それら「知的なもの」は、自らの目で、自らの体で経験しない限り、全て「伝聞情報」であることを前提としなければならない。

情が先にあり、知が後付的に理由づけする。
クローンという技術を生み出した近代科学もまた、まさにそこから始まっている。

イシグロ氏は、無垢なる少年少女の成長という過程を描くことで、その序文への入口を描いたともいえる。


「生命の樹」に関する参考資料
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/840
タイトル: D.H.ロレンスと樹木崇拝 : 「生命の樹」をもとめて
その他のタイトル: . H. Lawrence and Tree Worship : Toward "the tree of life"
著者: 中田, 智子 Nakada, Tomoko
発行日: 2005年3月31日
出版者: 京都女子大学URI: http://hdl.handle.net/11173/840
出現コレクション:第04号(2005-03-31)
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by kisugi_jinen | 2016-03-13 00:07 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その17。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その16。。。

わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その14。。。

恵美子先生がクローンだったという予測は当たっていた。。。3,000歳ではなかったが。。。
無論、恵美子先生自身の脳を含む全てが、恵美子先生の母に移植され、若返って生きているという話もあり得るのだが、たとえ脳が移植されても、本質的な意味でアイデンティティまでは移植不可能である。
不老不死。。。ショート・ショート。。。アバター編。。。
http://jinen.exblog.jp/18835499/
出会い。。。3。。。心と魂と。。。2。。。
http://jinen.exblog.jp/5390443/

原作では、余りに救いが無さすぎたのだが、ドラマでは、微かな希望の光がある。。。
恵美子先生が第1号だったとしても、生命を全うしうる存在であり、「例外」を認めているのだから。

人が人を出自によって区別・差別するということ。
アイデンティティを持つが故に、我を手放せないという矛盾。。。

いや、そういったものを十分に「知った」上で、情の繋がりの大切さを十分に「知った」上で、なおかつ、人類は戦ってきた。

その昔、西洋によって食い物にされていた東洋としては、ある意味、禁句的な物語。

そういった深い意味からも、現代の日本において、あえて、取り上げられた理由もあることだろう。
ドラマの最終話で、陽光のロングスパンの戦いは、途切れさせるべきものではないということは、既に織り込み済みだろうと思う。

私の予測が、良い方に外れてくれればいいのだが。。。
しかしながら、最終話1回のみでは、完全な救いの段階までは記述不可能であろう。
「希望を託す」
まさに、そういった意味でしか、物語を終えることができないのだろう。。。残念なことに。。。

しかしながら「声をあげても仕方ない」という言葉は、最終話ではクローンであった恵美子先生が自ら否定しなければならない。現代の日本のドラマだからこその禁句である。
でなければ、広島で自殺された中学生が浮かばれない。。。


恵美子先生の話から確実になったこと。それは、物語の中でクローンは、やはり海そのものであったということ。
彼らの体の一部が、他者の中で生き続ける。
ドラマの設定では、もはや、クローンの体無しでは、人類は生き延びることができない体になっている。
そのつもりが無かったとしても、依存症であることには違いない。
クローンが差別されるのであれば、逆に利用できる。
それだけの強さを持つ存在になっているということ。
強固な境界が設定されたなら、どちらかが強大な力を持ったとき、他方は服従せざるを得ない。
ある日、突然にその関係は逆転しうる。
なぜなら、クローンは短期間に無限に増える力を有しているから。
介護人を務めることができ、原作やドラマで許容されている自由度がある限り、一部の医療スタッフを取り込みさえすれば、簡単に実現できてしまう設定になっている。
原作も、ドラマも決してそこまでは踏み込まない。踏み込めないのだろう。
物語・ドラマの都合上、人為的に設定された「境界」だから。

さて、最終話については、想像の域を出ないのだが、免疫応答という概念から言えば、クローンの組織が最も適合するのは、細胞提供者そのものである。

恭子の提供者=クローンの親は、恭子と同い年かもしれない。提供を受けて生きのびる時、恭子からのメッセージを受け取るかもしれない。形ある手紙かもしれないし、何がしかの伝言かも知れない。
時を前後して、友彦の一部が提供された先も、友彦と同い年の、智彦のクローンの親かもしれない。
そうして、それぞれが偶然に結びつく。それぞれのクローンから授かった命の燈火を、新たな生命の誕生へと繋ぐことによって、クローンとその親とが一体となって、クローンと外部との区別の無くなる新たな世代へと繋げていく。。。

可能な限りのギリギリのストーリー展開を想像するに、ここまでだろうか?

2016.03.12 06:50 一部修正・追記

2016.03.12 06:55 下記追加
不老不死。。。ショート・ショート。。。アバター編。。。
の後半にてリストアップした、稚拙ブログ内での「魂・心」の本質について考える折に、参考になる記事リスト。
===

教えて!「唯物主義に生きがいはありますか?」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6177884.html?best_flg=true
※受動意識仮説を信じて自殺まで考えた方からの質問に対する私の回答です

私が機械に置き換わるとき。。。
http://jinen.exblog.jp/6357229

人工知能が「知能」である限り、「こころ」は生まれ得ないかも。。。
http://jinen.exblog.jp/1011324/

「こころ」の能動性・内発性・主体性。。。そして閉鎖系と開放系。。。二元論と一元論。。。
http://jinen.exblog.jp/5577118

脳を知りたいという欲望と不老不死の欲望と。。。
http://jinen.exblog.jp/6226762

「本当の私」という知的切断面。。。
http://jinen.exblog.jp/3446167/

境界をなくした男。。。なのか。。。麻原彰晃。。。
http://jinen.exblog.jp/3736782

出会い。。。3。。。心と魂と。。。2。。。
http://jinen.exblog.jp/5390443/

脳内チップの先に思うこと。。。
http://jinen.exblog.jp/3287424/

こころ。。。関連性の束縛を越えて。。。1。。。
http://jinen.exblog.jp/4113042/

二元論と一元論と。。。知的切断面と総体と。。。
http://jinen.exblog.jp/4044620

こころの定義と物理学的相互作用と。。。
http://jinen.exblog.jp/4007740/

存在の相対性。。。脳とこころと。。。4。。。
http://jinen.exblog.jp/3516712/

「唯物論・付随論」における「こころ」の定義の影響。。。
http://jinen.exblog.jp/3909831/

「いじめ」と「知的切断」と。。。知の優位性とその背景。。。
http://jinen.exblog.jp/8425528/

因果的・非因果的。。。能動的・受動的。。。意識と情と。。。
http://jinen.exblog.jp/7512021 

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by kisugi_jinen | 2016-03-11 23:44 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その16。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その15。。。

日本のドラマで取り入れられた「天使」という言葉。。。
明らかに西洋的な一神教概念が見え隠れしている。
日本人的な無宗教という隠れ蓑に隠されて、見え隠れする「許し」の言葉。。。

よく似た言葉の使い方を思い出した。
文月メイの「ママ」である。
当方のブログでも下記にて取り上げているのだが、「天使」という概念は、日本人にとって、非常に都合のよい概念なのかもしれない。。。

死の境界の向こう側。。。文月メイ、「ママ」。。。
http://jinen.exblog.jp/21223476/

もう一点、非常に気になる事実がある。物語の中の事実なので、作者の意図以外の何ものでもないのだが、書き手が如何に操作しようとしても、操作しきれなかった事柄になるのだろう。
それは、「定められた目的の為に生きることよりも、もっと大切なことがある」ということに気づくということ。

人は何のために生きているのか。。。風の谷のナウシカ・考。。。
http://jinen.exblog.jp/16878881/

実のところ、イシグロ氏が物語の中心としておられる所とも重なるのだが、定められた目的は「臓器提供」であるものの、誰もそのために生きようとはしていない。また、日本のドラマでは「天使になる」も付随した目的と捉えられるが、誰もそのために生きようとはしていない。

「目的のある生態系・・・
その存在そのものが 生命の本来に そぐいません
 私達の生命は 風や音のようなもの・・・
生まれ
 ひびきあい
  消えていく」
(「風の谷のナウシカ」第7巻、ANIMAGE COMICS ワイド版、宮崎 駿、徳間書店、p.132)
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by kisugi_jinen | 2016-03-11 02:26 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その15。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その14。。。

原作に忠実なままストーリー展開された場合、「おぞましさ」という感性のみで出口が塞がれてしまう。
クローンが受け入れられるためには、魂・こころの存在を自ら明かさねばならないというのであれば、中世の魔女狩りでの神明裁判そのものである。
いや、他人ならばなおさら証明不可能である。

ドラマでの恵美子先生の言葉。。。
「あなた方は、天使なのです。」
心安らかに臓器提供を受け入れれば、神に認められると言わんばかりの誘惑。。。

確かに、死が確定し、どうしても逃れる術の無きクローンに、魂の通い合ったもののみが声がけしうる言葉としては、最善かもしれないが万能な言葉ではない。

その意味するところを考えるなら、「単に物質・クローンとして解体処理されるのでは無く、天使・クローンとして神に認められる」という捉え方が、しっくりくることだろう。。。
生から死の、正にその瞬間、神によって魂・こころを認められると言う幻想。。。

正に生きている時の「こころ・魂」は、他人によって認められるものでも、神によって認められるものでもない。

物語の最初から、主人公であるクローンに感情移入してきた読者や視聴者は、すでに分かっている。
彼らのこころ・魂の本質を。。。
相互に繋がり合うことの重要性を。。。

原書のラストは、イギリスという西欧にて受け入れられる物語でしかない。「聖書に書いてあるから」というレベルと同じである。

広島の中学生が、誤った記述に基づいた判断にて出口が塞がれて自殺した。

イシグロ氏のストーリー展開を凌駕する結末へと導かない限り、中学生の自殺問題と同じ過ちを、積極的にドラマ自ら肯定することになるだろう。

クローン、中学生に「誤った認識がなされたとしても、その中で、精いっぱい生きなさい」と、本気で言う立場を擁護するのだろうか?

「原書に書いてあったから」と。。。
。。。

2016.03.09 01:10 追記
個人的な見解にしかすぎないかもしれないが、当たらずとも遠からずと思っている。
原本にしても、イシグロ氏が意図した読み方では、読み解かれなかった。
だからこそ、イギリスにおいて高い評価を得たのでは無いのだろうか?
得体のしれないクローン人間が、ごく普通の少年少女として描かれ、成長し、悩み、友人との交流を深めていく。
そうして、ラストに、「得体のしれない」の根拠として無意識のうちにイギリス人の根底に刻み込まれている部分が暴露される。

西洋一神教系における、「魂」という知的概念。。。
その昔、魔女を魔女と認定する際に用いられた神明裁判という知的戦略。。。

ストーリー展開の如才なさに、知らず知らずのうちに情的に感情移入させられ、最後の最後に、知的なカウンターパンチを自らの脳天に打ち下ろさざるを得なかったというのが、真相なのではないのだろうか?

ストーリー内部では、少年少女が大人になる過程で、伝聞情報の誤解について、魂の通じ合った者同士が真相へとたどり着く過程が織り込まれている。
このことは、まさに伏線となって読者の魂の琴線に響いたことだろう。
クローン・臓器移植といった知的レベルでの認識以上に、相互的な交流が主体となる心情的な側面の深く・広大な問題について。。。

物語をそのままそっくり、日本に持ち込むことは不可能である。

日本のドラマが「真実(まなみ)」という人物を投入し、クローン人間の自殺という究極の境界ギリギリの選択を行わせた以上、カウンターパンチは国境を越えて、「自殺を禁じる一神教圏」への喉元へ食い込んだことだろう。
そうして、さらに、日本文化における自殺の背景と、物語原本での「生きる」という積極性とのギャップが、クローンの成長と魂の成熟過程に絡み込む。。。
全てを抱え込んだ状態で、ラストの2話の展開が原本通りであったなら、カウンターパンチはドラマの制作もとに落とされるかもしれない。。。いや、このような文書を書いているこのブログに落ちるかもしれない。。。くわばらくわばら。。。


2016.03.09 01:51 追記
「魂・こころ」の存在証明が不可能な理由。。。その2。。。
本ブログの随所に書き込まれているはずであるが、ここに明記しておく。

「魂・こころ」は、相互に影響しあう者同士のはざまに立ち現れる。いや、相互の心の鏡に投影されるというべきか。。。
たとえ、相手が「物」であってもである。
したがって、「クローンに魂などあるはずがない」と思い込んでいる人々がいたとすれば、そのようにしか映し出されない。
一神教が排他的であればあるほど、この問題の根底部分は、解決せずに、残り続けることだろう。。。


2016.3.13 04:40 追記
ネット検索していると下記のURLが引っかかってくる

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/think/thk029.html
佐倉哲エッセイ集 思索ページに関する来訪者の声
Junさんより 2000年12月22日 クローンとキリスト教倫理

非常に参考になる。
もし人クローンがでてきたとしても、キリスト教圏では法的整備が為され難くなる危険性が極めて高いといえるのだろう。。。

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by kisugi_jinen | 2016-03-08 23:13 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その14。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その13。。。

日本人の多くは、優れた感情移入の能力を持っていると思う。しかしながら、イギリス人に、そういった能力がない訳でもないだろう。
そもそも、生殖能力を人為的に排除するといった、物語固有のバックグラウンドでもない限り、生まれ育った人間とクローンとを区別することが本質的に不可能であるにも関わらず、物語を成立せしめるために、両者の交換不可能性を確立せしめる強固な境界線を布石した作者。
車を運転することも自由にでき、高度な知識と情を必要とする介護もこなす。原作では、輪廻転生の話まで自由になされている。
法的な縛りもない。
ただクローンだということだけで、「蜘蛛を見るようにおぞましい」と、誰もが共通に感じることのみで区分される存在。
日本的な感性からは、決して理解不可能な設定条件。
強力な宗教的な背景こそが、両者の交換不可能性を成立せしめる。そこに置いては、仏教も輪廻転生もヒッピーも同じ穴のムジナレベルとしか見られない。
次回、恵美子先生が彼らに何を話そうとも、舞台設定を覆すような話には決してならないだろう。
どうせなら、「イシグロ氏によって、いや、(一神教の)神によって設定された条件を、覆すことはできないのです」とドラマの中で威厳を持って言い切って頂く方が良いのかもしれない。。。

ファンメッセージにても、ドラマの設定上のどうしようもない事務員、医者、医療スタッフに冷たい視線が投げかけられる。彼らも被害者である。最後の場面にて、被害者の全員が一丸となって、制度廃止の支援者として、立ち上がるストーリーにすべきだろう。

たとえ無理だとしても、少なくとも憲法や法律をも凌駕しうる力レベルでの説明が必要だろう。
何人たりとも分かつことの出来ない魂と魂の結びつきを「クローンには魂が無いと言われている。」とか言った伝聞情報のみで、簡単に断ち切れるのだろうか?

何度か記述してきたが、知的・論理的レベルに頼る「【こころ】や、【魂】の存在証明」は不可能なのである。

西洋では、魔女では無いことの証明のために、確実に死ぬことをあえてさせると言ったことが、当然のように行われていた時代があったという。

そういったレベルでのみ、クローンの、いや、人間の魂の有りようを評価しうると、本気で思うような人間に、日本人もなりつつあるのだろうか?

交換不可能な崇高なアイデンティティを有する級友を、自殺に誘い込む、交換可能な「精神的クローン」達。
「自殺などできないくせに、出来たら認めてやる」と言った状況を作り出している現代社会は、中世の暗黒時代に似通ってはいないだろうか?

彼らが反抗しようと、与えられた生を限界まで行きようと、物語の設定条件はびくともしない。
イシグロ氏は、運命として、そういった設定内をいかに生きるのかに、主題を置いている。
彼らが行うべきは、魂の有無とか、心の有無とかを証明することではない。

残りの二話。。。

どの様に進行するにしても、終了後、個々の視聴者の「こころ・魂の問題」として、引き継がれ無ければならない事だけは確実だと思っている。
。。。
いや、人類にある種の疾患が蔓延し、全人類の生殖能力が失われ、クローン技術とデザイナーベイビーに頼らざるを得ない状況を想定すれば、良いのかもしれない。
恵美子先生などは3,000年生き続けてきたとか。。。
優秀な医療スタッフはエリートの遺伝子を用い、提供者には、貧しい人々が切り売りしている細胞を用いていると。。。
全員が数種類のクローンであれば、血液型や免疫適応なども気にすること無く、相互の臓器移植は簡単になるだろう。
でも、そうなれば、似た顔だらけで気持ち悪いだろうな。。。
。。。
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by kisugi_jinen | 2016-03-07 23:55 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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