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わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その10。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その9。。。

前回、自身の記憶の曖昧さにて伝聞情報に落ち込んでしまった(笑)。

ドラマでの「壁は乗り越えるためにある。」は、ある意味、非常に象徴的な友彦の発言でもある。

は、正確には、恭子が言っており、「塀は乗り越えるためにある」だ。その直後に「変わらないね」というセリフが入るが、着実に変化していってることを、3人は確実に共有していることであろう。。。

さて、ドラマも佳境に入りつつあるところで、本ブログにて、この物語に触れた以上、あと2つの視点からの記述をしなければならない。

1.前野氏の「受動意識仮説」
2.宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ(原作・コミック版・全7巻)」

である。

1.「受動意識仮説」と「わたしを離さないで」との関係
受動意識「仮説」そのものには否は無いものの、閉鎖的な思索を行いがちな方々にとっては、「仮説≒真実」という思い込みの結果、自己・アイデンティティを見失い、人間性という概念の否定と、全ての意識および主体性が機械的な反応としての「結果」にしか過ぎないという思い込みに陥ることになる。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6177884.html

このような人々が少なからず存在する以上、この手のドラマが負の方向へ全く影響を及ぼさないとは限らない。
そうして、負の方向へ導かれてしまった人と遭遇する人々にも一定数の割合で、そういった人々を差別的に扱う方が出てくる危険性もある。「そのように考える人々は、真に魂の存在しえないゾンビと同等だ」と。。。


2.「風の谷のナウシカ(原作)」と「わたしを離さないで」との関係
まず、クローン・臓器移植といった生命工学的なバックグラウンドは、風の谷のナウシカ(原作)にて深く・広く・重く扱われている。(幾度か滅びた後、ないし幾度か滅びる前という意味で)完全に異なる世界であるが故、現実との整合性を取る必要が生じていない。
しかしながら、そういった前世代からの生命工学的・知的な資材・遺産によって制約を受け続けている現世界の人々と共に歩むナウシカが、汚れと共に現世界を一度滅ぼすことで新たな生命を生み出そうとする前世代からのプログラムに対し、無謀な挑戦をし続けようとするときにナウシカが語る言葉は深く・重い。。。
私達は 血を吐きつつ
くり返し くり返し
その朝を こえて とぶ鳥だ!!

生きることは 変わることだ
王蟲も粘菌も 草木も人間も
変わっていくことだろう
腐海も共に 生きるだろう
(「風の谷のナウシカ」第7巻、ANIMAGE COMICS ワイド版、宮崎 駿、徳間書店)


「人間が機械やゾンビと違わないという極端な還元論的な思考への落ち込み」(極端な受動性)と。。。
「たとえ絶望しか感じ得なくても、その向こう側へ進もうとし続ける強い思い」(極端な能動性)と。。。

これらの2つの側面は、あまりに極端でもあるが、思い・心・意思を持つからこそ、常に両者の間を揺らぎ続けるともいえる。「わたしを離さないで」は、クローン達のみならず、取り巻く人類もまた、斜陽の中で受動性主体の人生を歩んでいるかの如くに感じてしまう。

ドラマの最後では、「真実(まなみ)」に共感して立ち上がる支援者もいれば、反論する人々もいるといった、混在した状況の中を、恭子が静かに歩み続けていく姿を描いてほしいものである。
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by kisugi_jinen | 2016-02-29 22:45 | つれづれ。。。 | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その9。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その8。。。

前回までは、原作にしても、ドラマにしても、主題とは無関係なはずの背景状況を維持し続けることが、余りにも困難だということを繰り返し述べた。

ということは、逆説的に、物語、ドラマが終了した後、読者や視聴者の頭の中で、彼らを救い出すような追加のストーリーを構成することが、極めて容易だという事に気付くべきなのかも知れない。

そもそも、原書での主題が、子供の成長に応じた閉じた世界が徐々に広がり、読者が忘れていた子供時代を共に追体験していく事にある。物語の終わりは、自身の意思と力、そして仲間の協力で、現状を変えることへと繋がるべきであろう。

絶望的に思える未来だからこそ、越えて行こうという思いの強さが求められている。

クローンにしても、臓器移植にしても、物語から受けるイメージのみで思考しているようであれば、ドラマでの「美和」の口車に安易にのってしまうのと同様な状況に陥ることになる。ドラマでの「壁は乗り越えるためにある。」は、ある意味、非常に象徴的な友彦の発言でもある。そこに死が待ち受けていると言われても、自分の目で確かめようとする事の大切さが、隠されている。

余談だが、医学的には、クローンの元、ドラマでは「ルーツ」、原書では「ポシブル」は、提供を受ける側の人間である可能性が極めて高い。
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by kisugi_jinen | 2016-02-28 22:55 | つれづれ。。。 | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その8。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その7。。。
上記の「その7」でも触れたが、物語の背景設定が特殊であり、イシグロ氏がクローンに設定上与えなければならなかった自由度との間には、些細なトラブルが発生しただけでも崩れ去りそうな感がある。
例えば、今回のドラマに取り入れられた集団での抗議行動である。そのような行動すら無意味に扱われうるほどの隔離性を、この物語のバックグラウンドには前提条件として組み入れられている。
イシグロ氏の原本では、クローンに対し人間の心に沸き起こる「蜘蛛を見るような、おぞましさ」という感覚が、避けがたい絶対的なものとして描かれ、そのことが社会との隔離の根底にあるとしている。
旧来から現在まで、民族、宗教間に発生する対立感情の根底とも不可分なバックグラウンドと重ね合わされ得るようにも思える。しかしながら、イギリスで好評だったということ以外、漏れ伝わってこない。原作がイングランドとスコットランドの両者に受け入れられて、かつ、民族間の対立とは重ね合わされなかったのならば、まさに人類とは一線を画す存在として認識されやすかったということ以外考えようがない。
物語の後半にて原作ではエミリ先生(ドラマでは恵美子先生)が説明している部分があり、ここ以外では一切の説明が無い。少なくとも法的な縛りすら無い状況で、人びとがクローンを隔離的に扱うことが、ごく自然に発生し、同じ技術を利用して、デザイナーベビーを作り出すことは社会的に許容されなかったとある。クローンを含む人工的な生命体は、人類とは一線を画す存在として、イギリスの読者には自然と受け入れられていたということになる。
理路整然と考えるなら、やはり宗教的な思想の差異を考えなければ説明がつかない。そういった意味にて、キリスト教的な「神から祝福されうる魂を持つ」かどうかが、根底にあると考えた。しかしながら、現代社会における日本のキリスト教の立場は、既に明言されている。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/970503.htm
クローン人間の研究に関する日本カトリック教会の見解
また人為的に作られるクロ-ン人間も、ひとたび作られたならば、人間として の尊厳、絶対的な価値をもつ存在となることを、見落としてはなりません。クロ -ン人間は、遺伝子の視点からみるならば、自然に見られる一卵性双生児と同じ であって、完全な人間なのです。一卵性双生児の二人が、人間としての絶対的価 値と尊厳を備えているのと同じように、クロ-ン人間も絶対的価値と尊厳を備え るのです。
このような絶対的価値と尊厳をもつ人間を創造するという業は、神に属するも のであり、絶対に人間の手にゆだねられてはなりません。


すなわち、クローンが発表された当時のイギリスという特殊性とは異なる日本を舞台に設定する以上、日本のドラマで「存在しない魂」の概念を組み込んで構成することは不可能だと思われるのだが、逆説的に受け入れられる危険性もある。

ゲームの中でのゾンビの殺戮同様、人びとを無差別に殺戮する事件が増えているということ。
特殊な生命体という区分の有無にかかわらず、「魂」という生命体の尊厳そのものを否定しうる異常者が増えているということ。。。

彼らの視点からも、また、そうして彼らを区別して見ようとする「正常だ」と自負している人びとが生まれる限りにおいては、この物語は、受け入れられるのかもしれない。。。
2016.02.28 10:00 一部追記。
2016.02.28 10:15 一部修正。
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by kisugi_jinen | 2016-02-28 07:54 | つれづれ。。。 | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その7。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その6。。。

帰宅後、ほとんど夜食同然の時間に夕飯を温めて食べながら、録画分を見た。
帰宅直前に携帯端末から下記のメッセージを投稿しておいた。
===
ようやく残務を終えた。。。
限られた人生の
限られた時間を
精一杯生きて欲しいと
青春真っ只中の
私の息子に重ねつつ
帰宅後に夕飯を温めて
録画を見ることとしよう。。。
自身の人生からは
大きく離れることは出来ないものの
世代を重ねることで
変わっていく世の中。。。
過去の思い出を離さず
未来を変えていけるのは
魂を持つ者たちの意思
たとえクローンであったとしても。。。
===

今回は、担当の方が遅くまで更新しておられたようで、既に掲載されている。
ありがたいことである。

遅い(?)風呂に入り、火照りの収まるのを待つ間に、こちらへのこの投稿を書いている。

ネット検索したところ、原作者の執筆背景が詳しく記載されているところを見つけた。


http://www.kaz-ohno.com/special/kazuoishiguro.html

国際ジャーナリスト 大野和基 オフィシャルサイト
月刊文学界 2006年8月号
カズオ・イシグロ/Kazuo Ishiguro
『わたしを離さないで』 そして村上春樹のこと

彼にとって、物語の背景にクローンを選んだのは、それほど重要なことではないようだ。
運命の中で生きていくという状況を設定するのに、3度目の試行錯誤の結果、「当時、これこそジグソーパズルの最後のピースだと突然頭にひらめいた」という。
物語の本質は、限られた状況の中でどう生きるのか? 知らないことを徐々に知っていく子供時代の過程 という、極身近なことなのに、大人になると忘れてしまいがちなことを上手く扱えるような環境・設定が必要だったとのこと。

そういった視点で描かれたと分かれば、全てに納得がいく。。。というわけにはいかない。

作者の視点と読者の視点は、作品にて交錯するのは当然なのだが、同一方向からの視線には、決してならない。
いや、多義図形的に多面的な読み方・読まれ方が為される方が、作品としての深みがあるのだと思っている。

物語の背景に「最後のピース」としてクローンを選択したとき、そうして、外部との間の境界線として選択したときに、この物語の奥深さが決定したともいえる。

とくに臓器移植とクローンの問題は、ES細胞、ips細胞に代表される現代の先端医療とも深く関わっている。

どんな形をとったにせよ、物語の中で、「強力な境界線」を描いたのである。

イシグロ氏は、クローン・臓器移植という軸足をバックグラウンドとしてしか扱わなかったためか、社会との直接な対立は後半に語りとして滑り込ませる程度で終わらせているが、日本でのドラマ化においては「真実(まなみ、)」や、警官・刑事、および役所・病院の事務職員を通して、「決まっていること」の理由は伏せたまま、得体のしれない権力として、描出している。
「真実(まなみ)」が引用した日本国憲法第13条、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」も、クローンに対する生命としての概念がどうなっているのか?にて、解釈が大きく変わり得る。
少なくとも、(極端な側の)キリスト教的な思索が可能な環境であるなら、クローンは「魂すら持ちえない」ゆえに、生まれながらにして国民とはなりえない。したがって「個人として尊重されえない」。選挙権もなく、墓もなく、「公共の福祉」の目的の為に作り出され、解体される。
しかしながら、イギリス等のキリスト教圏とは異なる日本という国にて、どのような解釈がなされれば、クローンをゾンビ同等の存在としてみなし得るのであろうか?

日本社会において、原作における最終章と、ドラマの最終章との整合性をとりつつ、上記の「権力」との整合性を違和感なく合わせることは、本質的に無理があると思っているのだが、はたして視聴者が受け入れられるような終わり方ができるのであろうか?

。。。と、火照りもすっかりさめてしまった。
3時間程度ぐっすりと眠ったら、やり残している仕事を片付けて、午後からは研修会に参加となる。
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by kisugi_jinen | 2016-02-27 05:08 | つれづれ。。。 | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その6。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その5。。。

連日投稿してしまった。。。
===
カースト制度。この言葉が脳裏をかすめる。
世の中、どれほどの子供たちが自身の将来について運命づけられていることだろうか。
日本においても、ブラック企業、格差社会という言葉がマスコミに登場し、親の環境によって左右される子供たちがどんどん増えている。
グローバル化によって民族・国家の境界線を除去しようとする試みは、逆説的に民族、国家の境界を際立たせ、目に見えない境界線にて、暴動・テロが勃発し、軍備増強・核開発が着実に進められている。
米国でもトランプ氏の心理作戦が功を奏しているように理知・法のみで制御不可能な集団的な情・意・宗教を含む文化的背景が「排除したいもの」を炙り出していく。
人間が人間性という心を有する限り、知情意が動的に人々を結びつけたり、排除したりを繰り返すゆえ、差異がいじめ・差別へと変容したり、個性として受け入れられたりする。
生まれながらにして、一定の境界が保たれるシステムは世界中、ありとあらゆるところに隠されている。システムを破壊するか、システムに順応するのか、生まれ来る子供達は常に物語の主人公として生きていく。
===

500字の制約はきついが、まとめるにはちょうどいい長さだ。
2016.02.26 21:35追記
上記投稿は採択されなかった。残念だが、これまでの投稿が連続して採択されたのが奇跡とも言える。今回のは、きわどい所を攻めすぎたのだろう。


まだまだ出演者やAD、演出家、脚本家の方々を含め、観客席に立つ人々にもに伝えたい思いがあふれ出してくる。。。

今回、視聴率が低迷しているというのは、物語を成立せしめている背景事情が、日本人には受け入れがたいというところが大きいだろう。

「クローン = 魂を有する人ではない」

この二分法的な定義が何の障害もなく成立するのは、神・悪魔という二分論を構築しうる一神教的な世界観においてであろう。

原作の範疇にとどまりながら、日本の土壌にて受け入れられる展開へと変容させることが、果たして可能なのだろうか?

少なくとも、「真実」の自殺シーンを取り巻くストーリー展開は、日本でのドラマ化の一場面として、ある程度の成功を収めたように思えるが、逆説的に背景事情への違和感を生み出した感が強い。なぜに共感者が増えないのか?

ドラマはまだまだ続く。。。
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by kisugi_jinen | 2016-02-26 21:37 | つれづれ。。。 | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その5。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その4。。。

先日、ようやく原作本(といっても日本語訳)を購入した。

日本のドラマとは、決定的に異なるであろうポイントを確認したかったからである。
それは、宗教的なバックグラウンドである。

冒頭から1/4程度読み進めつつ、気になる箇所を探してざっくりと目を通した。
「やはり」というところ。。。

日本でのドラマの構成にても、うすうす気が付いていたのだが、クローンである彼らには、「墓」が無い。
キリスト教圏での「彼ら」は、おそらく動物レベルでもない。
いや、おそらく「ゾンビ」に近い存在として認識されるのかもしれない。
というより、「魂のない肉体」というべきか。
科学的にいうならソフトなロボットであり、哲学的にいうなら、チャマーズの「ハードプロブレム」にて扱われうる対象であろう。
彼らをとりまく親切な人々ですら、「心底の恐怖」から脱却できないでいる。
言葉として明記されていないが、神の恩恵を受ける資格を有さないものであり、魂が無いゆえ、死後を完全に否定されているものであろう。
だからこそ、「内なる彼女」の視点からの物語として記述することで、「他の人間と何ら変わりのない」という感情移入の効果を最大限に利用せざるを得ない物語だったのだろう。

しかしながら、無宗教を宗教とする日本では、そのような感覚を抱くものは皆無に近いかもしれない。それゆえ、彼らがあれほどまでに下げずまれる理由が理解できない。理解できないまま、表面的な部分での共感のみでドラマを継続していかねばならない。

そういった観点から見れば、「真実(中井ノエミ)」の自殺のシーンは、二重性を帯びてくる。

神の寵愛の対象でもなく、魂もなく、墓すら与えられない自分自身の為に生きるという選択肢はあり得ないという観点からすれば、「出来の悪いゾンビ」としてしか見られ得ない。一方で、そういった「神・魂・死後・墓」という概念を排除したところに問題点を探るなら、端的には「権力に潰された英雄」として見られるかもしれない。
日本の社会でのドラマとしては、曖昧さの中に置かざるを得ないのだろうが、その曖昧さにどれだけの観客が耐えうるのだろうか?

日本のドラマとしてのラストは、そういった諸問題をどうやってつなぎ合わせていくのだろうか?

※「その2」から「その4」までは、「わたしを離さないで」のファンメッセージに概要を投稿し、この「その5」の冒頭部分も投稿したのだが、「墓が無い」ということと「皆が心底恐怖している」という事実を原作本で確認したため、ファンメッセージへの投稿は、これ以降は行わないこととした。

ドラマ自体が根底にあるところの問題をどうやって切り抜けていくのかを見届けたいからである。

↑ 2016.02.24 01.58 前言撤回。 「皆が心底恐怖している」部分を除き、投稿した。内容は下記の通り。もしかしたら掲載されない可能性もあるが、現代日本が抱えている多くの殺人事件報道と諸国における無差別殺戮の多くについて、深く考えるべき事柄に直結していると思い、あえて投稿することとした。。。

===
原作を買い、冒頭からは第1部(第1章から9章)を読み終えた。といってもザックリと後書きも含めて全体を読み終えている。
そうして、英国で本作品が受け入れられた理由につき宗教的な側面から確信することができた。確信できた段階で、こちらへの投稿は控えるつもりだったが、ドラマの冒頭からあからさまに描出されているので、録画している人は見返してみるべきだろう。
英国と異なり日本だからこそ気が付きにくく隠されてしまっているという事実。
冒頭、「恭子」が提供を終えた仲間を焼却した灰はどこに行くのか? 脱出し即時解体された2人の子供を含め、亡くなっていった多くのクローンを弔う場所はあるのか? 「真実」が自殺した現場に「恭子」と「珠世」が花とタバコを手向けるが、一瞥すら投げかけない通行人達。
そう、クローンには墓が無い。いや、死後という概念が存在しない。
彼らの魂が神から祝福された魂として存在しえないという観点が英国で出版された背景にあるのだろう。
日本のドラマで扱いにくいキリスト教的な魂の概念だが、無宗教という宗教にどっぷりと浸かった日本だからこそ、気づきにくいという逆説に驚愕すべきだろう。
===

2016.02.24 03:15 追記
原作の背景設定としては、クローン・臓器移植という枠内を外部からどれだけ異質な環境に閉じ込め得るか?が、キャシー(ドラマ:恭子)の視点から読み進めなければならない読者へのメッセージが、どれだけ強烈になり得るかに直結している。

「同じ人間のはず、同じ思考をするはず、同じ感覚・感情をもつはず」、だからこそ「同じ魂を持つはず」、だからこそ「よりよく生きようとするはず」という思索の連係が、(英国で出版された)原作版では、後半にて「同じ魂」という部分で梯子が外されてしまう。

異民族、異文化、宗教の異なる国・民族の果てしなき殺戮を抑止する力は、「同じ魂」という前提が崩れた段階で、崩れ去っていく。。。

そういった宗教概念をも越えようとするところにこそ、強大な力を存続させ続けることができるであろう。
この物語の原作を読み終えようとするとき、そういった力を知らず知らずのうちに使っていることだろう。

ただし、宗教的な背景にて、一度は梯子が外された感を抱かない限り、そういった力の強さを身に着けることは困難なのではないだろうか?

ましてや日本。。。

外されるべき梯子すら気にならないまま、日本風にアレンジされた細やかな人間関係の移ろいに翻弄され、「どうして?・なぜ?」といった疑問を抱いたとしても、深く追及することもなく、突然の終了に「大したことのないドラマ」と思ってしまう人々が続出するような気がしてならない。

脚本家・演出家・俳優の方々がどのようにして、そういった難問を調整していくのだろうか? そしてテレビ局と視聴者を含めた全体が、日本独自の梯子を認識し、外された環境を身近な問題として感じ取れるような構成へと移ろい行くのであろうか?

まだまだドラマは続いていく。。。

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by kisugi_jinen | 2016-02-23 00:32 | つれづれ。。。 | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その4。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その3。。。

。。。海。。。

この物語・ドラマには、海が象徴的に描かれている。。。

海。。。 それは、「母なる」という意味での「海」でもある。

生命が海から誕生した時、細胞が自身を母なる海から分かつ時、細胞膜という境界を身にまとった。

母なる海とは「交換不可能な内部」・「唯一無二の自己」を生きるという選択肢を選んだ時、生命は生まれた。
「外」と「内」を分かつ膜が破られるとき、個は母なる海に返る。。。

クローンとして生まれた彼らの臓器は、一度も海に帰ることなく、他人である人々の体の中へと取り込まれていく。いや、クローンの身体を利用するようになった(物語中の)新たな人類にとって、クローンの体自体が、海の代わりになってしまったのかもしれない。

「内なるクローン」と「外の人間」という対比は、実は既に逆転しているのかもしれない。
「母なるクローン」と、自我を捨てきれない「内なる人間」という図式に。

交換不可能な自我を捨て去りさえすれば、まさにクローンは「天使」でもある。
交換可能性の中で生きることを選択するとき、自我を捨て去るということを選択するとき、心は死んでいるのも同然となってしまう。
交換不可能な自我を押し通そうとするとき、心は強く生きようとするかもしれないけれど、物語の中では生命としての「死」を意味することになる。。。しかしながら、海に帰っていくことができる。。。

物語の中でクローンが、その数を「内なる人類」の数百倍にまで増やすことができたなら、(現代社会では、既になされつつあるのだが)臓器単体の培養方法を開発したなら、自身の体の一部を提供したとしても、交換可能な臓器を自らに移植することも可能になり、我を捨てきれない「内なる人類」は、希少価値の高いペットとして扱われるようになるかもしれない。

交配と繁殖の実験が繰り返され、ショップで売買される対象となるかもしれない。

物語の設定では、彼らの爆発的増加を恐れるが故、生殖能力を培養時点で除去せざるを得なかったのだが、クローンである彼らにとって、生殖細胞の有無は無関係であろう。。。

交換可能性と不可能性。。。物語はまだまだ続く。。。
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by kisugi_jinen | 2016-02-20 00:33 | つれづれ。。。 | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その3。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その2。。。

このドラマを見ていると、なぜだかバウムクーヘンを思い描いてしまう。
食べたくなるというのではなく、その層構造を思い描いてしまうということである。

ドラマが扱っているクローン人間を「外部」から分かつモノ。
一言で言い表すのなら、「交換可能性と不可能性」という言葉になる。

彼らがアイデンティティ、すなわち独立した魂を持つ、「何人とも交換不可能な個人」という概念は、ドラマの設定上、「外部」からは全否定されていると見るべきである。

ドラマの進行が、「内部」の一人の女性の視点から為されているので、物語を見る観客の視点が「内部」の思考に同化され、「外部」との接触がない限り、何の違和感も抱きようがないのだが、観客は本来なら「外部」の人間だということを、常に意識すべきである。観客であり続けるためには、彼らが「外部」のために生殖能力を剥奪され人工的に増やされた部品調達のためだけのクローンだという設定を否定することはできない。
ここに、「内部」と「外部」を分かつ、一つの層が織り込まれている。

同一中心から少し距離の離れた層にて、宝箱の中の品々がある。それぞれにとって非常に重要な「思い」が込められた「交換不可能な」宝箱。しかしながら、思いを共有できない他人から見れば、CDも「交換可能な」単なるガラクタ。思いを軸としたもう一つの「交換可能性・不可能性」が織り込まれている。

中心となる3人と周囲の人々との間にも、「交換可能性・不可能性」が織り込まれている。相互に交換不可能な相手のはずなのだが、一人の女性によって翻弄され、主人公の女性は交換可能な男性を選択するという行為を犯し、自身のルーツを交換可能なところに求めてしまう。しかしながら、交換不可能な思いに気づくとき、3人を取り巻く世界が動き始める。

同様の「交換不可能な思い」を「外部」に向けようとする他の施設のグループもあるが、「交換可能な部品」としか見做していない「外部」には、物語の設定上、思いを届けることができないであろう。

無論、「外部」と「内部」を橋渡ししようとする支援団体も描かれているが、「所詮、部品としてのクローン」という物語の根底を覆すことはできないだろう。

物語は、その設定からして、おそらく消化不良の状態で終わらざるを得ない。
しかしながら、これら層を貫きうるものこそが、物語の核心ともいえるのではないのだろうか?

それは、まさに「外部」でありながら「内部」から同時に見ることのできる観客の視線でしかありえないのだろう。
物語が終わった段階から、観客一人ひとりが、よく似た問題に対して貫き通そうとする思いを抱き続けることこそが、それぞれの物語の続編になるのだろう。。。
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by kisugi_jinen | 2016-02-19 00:41 | つれづれ。。。 | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その2。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。ドラマ。。。

おそらくは、少なくとも二通りの見方が存在するのだろうと思っている。

一方は、クローン人間として生まれてきても「同じ人間だ!」と共感し続ける人々。。。
他方は、(ドラマレベルでは共感するかもしれないが)実際にクローン人間が近づいて来たら、排除してしまうかもしれない人々。。。

世の中、「差別はダメだ!」と叫ぶ人々が多いにもかかわらず、ありとあらゆる場面で、差別的な言動や態度が見え隠れし、決して排除しえないであろうことは、どれだけ高潔な方であろうとも、認めざるを得ないだろう。

このドラマに深く感情移入してしまう人や、逆に嫌悪感を抱く人、あるいは大したドラマではないと思ってしまう人がいたとしたら、そういった二面性を常に意識しながら、このドラマを最初から見直してみるべきだろう。

老人介護現場での老人と介護士との関係で生じうる諸問題、ヘイトスピーチ問題、民族的な意識の強さに基づいた相手国・国民への誹謗中傷行為、テロを正当化する宗教概念と空爆を養護する思想背景、あらゆる問題の核心が、この物語の背景には隠されているように思えてならない。

全員が排除しようとする時、たった一人でも受け入れようとする人がいる限り、その「寄り添いたい」という心情を踏みにじることは許されるのであろうか?

全員から排除されようとしている時、誰かに助けを求めようとする心情を踏みにじることが許されるのであろうか?

「わたしを離さないで」
そこに、心情的・知的・策略的・謀略的な意図が見え隠れしたとしても、気が付かないふりをして、そっと寄り添ってあげることができるのであろうか?

Never Let Me Go!
Could you stay in a calm frame of mind with the person who might not be so innocent but sometimes malicious ?

クローンを交換可能な物質と見ることが前提のありえない世界を想定した、ありえない物語と考えることなく、
また、クローン、いや人間ですら、交換可能な物質でしかないと見做したがるが故に、大した物語ではないと思うこともなく、二面性を担保しつつ、考え続けるべきなのだろう。

また、そう考え続けようとすることで、どちらかに偏りかけたときにも、自身の思いに寄り添い続けることができるのではないのだろうか?

Can you keep thinking within double standards without leaving yourself ?
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by kisugi_jinen | 2016-02-17 23:10 | つれづれ。。。 | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。ドラマ。。。
TBSテレビドラマ「わたしを離さないで」
http://www.tbs.co.jp/never-let-me-go/

ずいぶん以前(2005年)のカズオ・イシグロの作品で、映画化されたり、演劇化されたりしたとあるのだが、日本を舞台にドラマ化されている本編を見るにつけ、格差社会化、少子高齢化している現代社会の縮図を見ているようで息苦しくなる。
いまだ、原作を読んでいないので、機会があれば読んでみたいものである。

以下、第5話までを見た私見をまとめておく。。。

逃れることのできない監視システムを組み込まれた臓器提供のためのクローンという設定で、自身が提供者になる前に、提供したことで入院を余儀なくされる仲間の介護人を一定期間務める設定なのだが、臓器提供を肉体的・金銭的な物質レベルでの社会への貢献と置き換え、一定期間の介護人というのを先達としての老人介護と置き換えることで、現代社会での問題にも重ね合わせざるを得ない。

また、提供という最終地点を有しつつ、クローン化されると同時に生殖不可能にされているため、男女問わずカップル同士の愛および付随する行為は、本質的に人と人との繋がりの根源とは?といった哲学的な問題へと思索が揺らいでいくのだが、一方で、産業として発達し過ぎている快楽を求め続けようとする退廃的な人々にも重ねあわされていく。

幼き日々からの偏った教育にて作り上げられていく思想体系は、独裁国家やテロ組織にも通じるものを感じざるを得ない。

クローン細胞の提供者が、格差社会における社会的弱者だという設定もまた、被差別集団としてさらに切り離される方向性を有している。社会における物質・金銭という必要性が、ブラックバイトに代表される弱者を生み出し続ける背景と重ねあわされてしまう。

外の人(一般的な他の人々)との共通項として、「人間らしく考え・感じ・生きている」ということがあるにもかかわらず、その共通項は良き介護人としての役割を果たすためだけに用いられ、外の人との交流においては、無用の長物であり、危険思想へとつながりかねないとみなされる。

彼らが、彼らという存在とは全く切り離された視点から再発見されるには、一度、彼らの手を離れ、完全に出自を伏された作品群が、外の人々の作品群の内部に混在したとしても、外の人々には無い何かが感じ取れることが必要になるのかもしれない。
しかしながら、作品が異質であればあるほど、両者の間に受け入れがたいギャップが構築されていく。
外の人々に受け入れられる作品は、ある意味、平凡なものでしかないのかもしれない。。。

これだけ負の要因があるにもかかわらず、物語を正視しつづけていられるのは、物語の基調に流れ続ける「思い」にあるのかもしれない。

幾度となく裏切られても、求め続けようと思う心。。。

たとえ、幾度となく突き放されても「私を離さないで」に応報する無償の愛。。。

物語の中に固定化されてしまった彼らクローンと外の人々を繋ぐ鍵はそこにあるのかもしれない。
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by kisugi_jinen | 2016-02-15 23:46 | つれづれ。。。 | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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