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医療。。。その本質における生死の方向性。。。
近年、自殺報道が目に付く。。。
巷で流行る硫化水素自殺に思うこと。。。

その中でも救急救命センターに運び込まれてからの、医療人を巻き込んでの被害もニュースになっている。
自殺男性が農薬嘔吐、ガス発生 熊本で54人治療、1人は重症 [ 05月22日 11時16分 ]
共同通信
http://www.excite.co.jp/News/society/20080522111634/Kyodo_OT_CO2008052201000198.html

人の思いの移ろいゆえに、死への意思は、瞬時に生への意思に切り替わりうるし、逆もまたありうるだろう。。。

自殺に関して、あるいは「死ぬ意思」と「生きる意志」について。。。

本来、医療とは「救い・救われようとする情」が根底にあって成り立つ。
医療コンフリクトマネジメントにおける協調的問題解決の「協調的」とは。。。

たとえ、自殺志願者であっても、根底に「救われようとする情」があったならば、藁にもすがりたい気持ちが、いや痕跡であっても、どこかにあったならば、医療の対象になりうるだろう。

しかしながら、そういった気持ちを潰えさせる様な事態が続くならば、医療崩壊は加速度的に進むことだろう。

「救い・救われようとする情」。。。
その根本にあるもの。。。

おそらくそれは、それぞれのもつ「ともし火」なのだろう。。。

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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by kisugi_jinen | 2008-05-25 09:45 | 思考。。。 | Comments(0)
思春期というモニュメント。。。思春期人と大人と。。。
思春期。。。

大人たちにとって、回顧されうるもの。。。
大人たちにとって
思春期とは
記号化され、モニュメント化されうるもの。。。
そのモニュメントを通してのみ
情を注ぎ込めるもの。。。
共有可能であり、共感可能なもの。。。
過ぎ行きし思い出として
語りうるもの。。。
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思春期人たちにとって、困惑されうるもの。。。
思春期人にとって
思春期とは
方向すら定まらず、共有不可能で、共感不可能なもの。。。
その「不可能性」をもってのみ
かろうじて情を繋ぎ得るもの
思い出として語られることをも
拒むもの。。。

外部だと嘯く大人たちは、
時として「破壊的に見える」思春期の行動を
秩序や境界を突き破るものとして捕らえてしまう。

内部にいる者たちは、
大人たちの言葉を借りて、秩序や境界を破っているということもあるだろう
しかし、まだ見えぬ先の境界をまさぐっているとき、
たまたま、大人たちが作り上げた境界にぶつかってしまうだけ。。。
内部にいる者たちにとっては、
大人たちによって勝手に境界に立てられたモニュメントよりも先に
越えようとする「情」がある。。。
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知によってあらゆるものが解決可能だと
論理的・理論的に説き伏せようとする大人たちに対し、
知的説明の裏に潜む情の本質を嗅ぎつけている思春期人。。。
大人たちの設定した知的境界を貫いている情の本質。。。
その本質を追い求めんがために突っ走るがゆえ、
時として境界を破壊してしまう。。。

大人となってしまった私が回顧できるのは、
そういった思春期。。。
知に対する反発を行いつつも、気恥ずかしい情の繋がりが、
全体からの逸脱をかろうじてつなぎとめていた思春期人。。。
私の記憶がそう囁いている。。。

しかし今。。。

多数の「はくちょう」を撲殺し続けることが可能な思春期人が現れた。。。
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情の本質すら、破壊の対象として捉えられているのだろうか?

情の本質を求め続けようとする「こころ」を人質にとることで、
手械・足枷・猿轡をかませることなく、
反逆不可能な状態に追い込み「いじめ」と称する「人狩り」。。。

情をも切断しつくす、新たな思春期人達は、どこへ向かおうとしているのだろうか。。。

いや、どこへも向かおうとしていないのかもしれない。。。

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===08/05/25 02:50 リンク追加
宮崎アニメに重ね見る、極刑を越える情。。。
ハクチョウ撲殺。。。「ゲーム感覚」と「楽しいから」の背景。。。
花の切断。。。モニュメントの二重の知的切断と情と。。。
「いじめ」と「知的切断」と。。。知の優位性とその背景。。。

===08/05/25 04:20 文中写真追加
全ての写真は、クリックすると拡大されます。
つつじ(キメラ) 於:新潟市内
椿の一種 於:新潟市内
白鳥 於:瓢湖
クマノミとクラゲの子供 於:マリンピア日本海

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by kisugi_jinen | 2008-05-23 03:40 | つれづれ。。。 | Comments(1)
宮崎アニメに重ね見る、極刑を越える情。。。
昨今、悲惨な事件が多い。。。
被害者の家族は「胸が張り裂けんばかり」の思いをされておられると聞き及ぶ。。。

加害者は、「思い・情」を「知的に切断」することで、冷酷かつ無常に(彼らの想定する価値観に基づいて)被害者をあたかも「動物」、いや「モノ」のごときに扱うのであろう。。。

加害者は、ばれなければ、事件そのものが(知的に)外部と完全に切り離されうると「信じ込んでいる」かもしれないが、あらゆるものは繋がりあっていて、決して完全には切断することが不可能であることを、観ずるべきであろう。。。

加害者が、幻想的な知に翻弄され、外部との切断を信じるからといって、同じように、外部(裁くもの)が加害者を切断し、たとえば片っ端から極刑を行っていったとしても、何の問題解決にもならない。

なぜなら、発生母地としての「加害者をして、知的切断のみに真理を求めようとする情況」が、変わらない限り、第二、第三の犯罪者を生み出し続けるからである。

どうすれば、そういった情況が改善されうるのか?

知的な切断に、知的な切断をもってしても、何の解決にもならない。
例えるならば、西洋の映画にて叩き潰しても、消滅させてもよみがえってくる魔物のごとくである。

風の谷のナウシカ(コミック版、全7巻)を読まれた方は、ご存知だろうが、(知的に)臣民を苦しめる神聖皇弟・ミラルパの魂ですらナウシカは救ってしまう。また、(神聖皇弟・ミラルパによって人工的に)切り離されて彷徨い、攻撃性を得て暴走する巨大な「粘菌」をも救ってしまうのであるが、神聖皇弟・ミラルパも、そうして「粘菌」も、帰り着くところは、結局のところ「全体」の一部(内部)である。

これは、ナウシカの「もと来た所へ返す」という言葉にて表現されるところである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/風の谷のナウシカ

端的に言えば、人工的・知的に「外部」と切り離されたものを、「全体」で包み込むところに「ナウシカの真理」がある。この「ナウシカの真理」は、「千と千尋の神隠し」での、「カオナシ」を救うストーリにも片鱗が埋め込まれている。

ありとあらゆる「もの」(外見上の「まね」)を取り込み、泥でコピーを作り出して肥大化していく「カオナシ」は、自身のアイデンティティが見いだせずに、「知的欲望」に依存し、他者のコピーを取り込むことによってのみ、自身のアイデンティティが表現されうると思いこんでいるかのごとくである。
あらゆるものを吐き出した「カオナシ」は、自身のアイデンティティの拠り所が、「もの」ではなく、外部(全体)との「つながり」の内部にあることを見出す。ゼニーバ(銭婆婆)との共同作業の中に「カオナシ」は自身の居場所を自ずから知る(というより感じ取る)のである。。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/千と千尋の神隠し

さて、もし「裁くもの」が、極刑という行為にて犯罪者を完全に切り離すことができると信じ込んでいるならば、彼らもまた、加害者同様に「知」の奴隷に過ぎないのではないだろうか?

極刑という切断面で切り離しても、加害者の体・こころは、結局のところ(加害者や裁くものが、そうとは知らなくても、ないし、感じ取れなくても)「全体」に帰り行くのである。決して「消滅」するわけではない。もし、「裁くもの」が、そのことを深く知りつつ、なおかつ、切り離さざるを得ないとき、「裁くもの」の心には、涙があふれかえるることだろう。。。

もし、加害者が、「極刑にて切り離されざるを得ない」ことを知った上で、なおかつ「裁くもの」の心の涙の深さを感じ、自身の心に涙があふれかえるのならば、彼は「もと来た所」へと帰る可能性を「知り・感じとる」ことができるのかもしれない。。。

いずれにしても、「極刑」によってのみ加害者を救い得ないという情況が共有されうるのであれば、「極刑」という知的切断を越える「情」の架橋が求められ続けるだろう。。。

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)
--- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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by kisugi_jinen | 2008-05-09 22:15 | つれづれ。。。 | Comments(0)
ハクチョウ撲殺。。。「ゲーム感覚」と「楽しいから」の背景。。。
前回、
花の切断。。。モニュメントの二重の知的切断と情と。。。
にて、チューリップをはじめとする一連の栽培された花の切断事件を取り上げ、知的・論理的側面からの考察を行いましたが、花の切断も、今回の事件も、単に「楽しさ」といった感覚のみにて、「何も考えずに」おこなったというのが、大方の見方になるでしょう。

しかしながら、「単に楽しい・何も考えない」=「知的切断+情の切断」という図式も、考えられます。(以下、詳細な私論です)

(上記、文脈がおかしかったので一部修正。08/05/04 14:20)

これは、茨城県水戸市千波町の千波湖で4月28日に発生した、「コクチョウやハクチョウ計7羽が頭を殴られるなどして死んでいた事件」での表現とも絡み合います。
MSN産経ニュース:中学生2人「楽しくて殴った」と供述 千波湖の鳥死亡
2008.5.4 01:54
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/ibaraki/080504/ibr0805040155000-n1.htm

と、たとえば、
<ハクチョウ7羽死>男子中学生2人「ゲーム感覚で殴った」
5月4日0時8分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080504-00000000-mai-soci&kz=soci

での「楽しくて」と「ゲーム感覚」という言葉です。

単に「ゲーム感覚」という言葉のみがマスコミに取り上げられていたならば、「感情を消失した冷酷な殺戮ゲーム」といった感覚が先行したかもしれません。

そうではなく、「楽しくて」といった表現をしているところが重要だと思います。

以下、論理的な考察を行っていますが、「そんなに深く考えなくても、単に【楽しくて】やったんだろ?」という考えに対する示唆も含んでいるつもりです。

この事件でも、2重の知的切断(概念形成)を踏まえる必要性があります。

1.対象(ハクチョウ)が属する世界の概念(価値観の概念)の違い
誰もが皆、幼き頃に、夢中で昆虫を捕まえては「遊んだ」ことがあるでしょうし、小動物で「遊んだ」ことがあるでしょう。この「遊んだ」という行為の延長線に、たまたま「ハクチョウ」がいるという概念は、想定可能です。
これは、前回投稿での「雑草と栽培された花」との境界(概念の差異)そのものに相当します。
すなわち、「遊び」の対象となる虫たちとハクチョウとの属する世界が異なるのか、同一なのかといった概念の差異です。
マスコミに取り上げられるかどうかも、まさに、この概念の差異にあるといえます。
彼らが最初から、一般社会通念としての「遊んでも許される虫たち」と「許されないハクチョウ」といった概念形成が全くなかったのか、それとも、一端形成されていたものの、内部にて概念が(破壊され)変化して、「仲間」と「それ以外」といったような概念のみに単純化される傾向にあったのかは、定かではありません。
しかしながら、すくなくとも、彼らの(知的に切断された)概念では、(一般社会通念としての)「遊んでも許される虫たち」と「許されないハクチョウ」とは、同一カテゴリーに属しているとみなすべきでしょう。

2.モニュメントとしての「ハクチョウ」と「虫」
虫の多くは、一般的に忌避されるものとして扱われます。
たとえ益虫(という概念で扱われる虫)であったとしても、食卓の上を飛び回ったり、夜中に進入されたりしたら、たまったものではありません。
「一般社会通念」を有していると自負する大人たちでも、普段、蟻を踏みつぶしているかもしれないことには無頓着でしょうし、虫食いの野菜を選ばずに、虫が食っていない野菜を選ぶことが多いでしょう。
モニュメントとしての「虫」は、「ことば・記号」としての「虫」に相当し、それによって引き起こされる「情」は、「忌避」の割合が高いと思われます。
それゆえに、「虫愛ずる姫」としてのナウシカが、宮崎 駿によって映像化されたとき、人々に衝撃を与え得たのです。
一方、ハクチョウは、「みにくいアヒルの子」や、「白鳥の湖」、求愛行動でのハート型など、美的感覚が先行することと、(ツバメと同様)漂鳥であるといった概念が、人々に「守りたい」という「情」を引き起こすことでしょう。(※1
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「動物愛護」とか「野生動物保護」といった概念が先行するのではなく、純粋に「守りたい」という「情」が先行していることが本来的なはずです。
しかしながら、彼らは、その「情」を切断するかのごとく、一羽にとどまらずに、多数(報道では七羽)を撲殺しています。
もし、「ハクチョウ」と「情」の片鱗でも繋がりあっているのならば、一羽を撲殺した段階で、そのハクチョウの「苦しみ」とかを感じ取り、撲殺を繰り返す度毎に「かわいそう」とかいった感情が(少しであっても)生まれるはずです。(虫との差異を記述していますが、たとえ虫に対して忌避のイメージしかなくても、多数の虫を無意味に殺すときには、やはり、躊躇する心があるはずです)
←モニュメントとして確立されているからこそ、破壊しようとするのであれば、前回の投稿と同様の考察になります。前回の事件は、犯人の年齢層等が不明のため、意識的に行った犯行の場合をも想定して記述していますが、今回の場合、そこまで考えての犯行とは思われないため、割愛します。

で、もし、そういった感覚が(生まれるべき状況であったのに)生まれていないのであれば、二通りの背景が考察されうるでしょう。
A.「かわいそう」という感覚が昔はあったが、今はない。ないし、一時的に遮断された。
B.「かわいそう」という感覚が昔からない。
Aの場合、(いわゆる)社会通念と折り合わせるように誘導することが可能でしょう。しかし、もし、Bの場合であったなら、不可能に近いと思われます。

いずれにしても、情に関して、たとえば「かわいそう」といった感覚がない情態であったなら、他者ないし自己に対する「情」が切断されているとして、捉えることが可能でしょう。

そうして「ゲーム感覚で・楽しいから」といった概念のみが、二人(ないし、彼らを含む仲間)の間にて共有される・共感される「知(ゲーム)」ないし「狭義の情(楽しい)」であるならば、彼らは、一般社会との間に自ら境界を設定し、知的・情的に切断される方向性を選択しているのだと考えるべきでしょう。そうして、そういったことを、彼らは「未だに」気づいていないだけなのでしょう。。。
おそらく、大方の見解や、本人たちの言い分もこのあたりに落ち着くことと思われます。
もし、そうであるならば、早急に改善されるべきでしょう。
なぜなら、知的・情的な外部との切断・境界がずーっと続くのであれば、それは、彼らの存在そのものを二者択一的に選択せざるをえない状況に追い込むでしょう。
そのことを、単に世代間のギャップとして単純化してしまうことも可能ではあるのですが。。。

さて、もし、「かわいそう」などの感覚が生まれていて、なおかつ、撲殺を繰り返したのであれば、彼ら(仲間)間での結びつきすら、崩壊してしまうことでしょう。
すなわち、「外部」へ向けられた殺意が、「自ら」に向かう殺意として働きうるということであり、傷害事件への方向性であり、「自殺」の方向性すら示唆するものです。

※1
実際の所、ハクチョウが貪欲で、他の水鳥や他のハクチョウを攻撃してでも餌をとろうとする姿が、瓢湖のハクチョウに餌を与えるときに、垣間見られます。
(ただし、全てのハクチョウではなく、ごく一部のハクチョウです。←08/05/04 14:32追加)
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※ブログ内参照リンク先(08/05/05 23:55追加)
「いじめ」と「知的切断」と。。。知の優位性とその背景。。。
千の風になって。。。モニュメントの真意。。。切断された情を結びつけるもの。。。
「爆心地から遠くはなれて」を見終わって。。。
フランスの暴動。。。そして日本。。。
境界をなくした男。。。なのか。。。麻原彰晃。。。
自己責任と参拝と。。。2。。。
狭義の情、広義の情、知的切断面、境界について。。。
人の命の(知的)切断。。。国家による大量殺戮と個人による無差別殺人と。。。


※08/05/11 05:30追加
その後、いろいろ調べていくと、ハクチョウに対する「いじめ」は、以前から散見されていたとのこと。おそらく、エスカレートしていく「何らかの背景」があったのだろう。。。
asahi.com:ハクチョウ被害、昨年から 羽に接着剤も 水戸・千波湖 - 社会(2008年05月05日14時58分)
http://www.asahi.com/national/update/0505/TKY200805050072.html


※08/05/16 04:30 追加
報道によると、「羽根を広げて抵抗するのが楽しい」、とか発言しているようである。
やはり、最悪の情況を想定せざるを得ないのかもしれない。。。
「凶器」は落ちた枝 ハクチョウ惨殺 少年2人処分 - MSN産経ニュース 2008.5.15 03:00 
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/ibaraki/080515/ibr0805150301001-n1.htm

その昔、「さあ、ゲームを始めましょう」と、語った少年。。。その言葉(知的切断)を産み落とした背景(知による情の切断)が、深く・静かに広がったのだろうか。。。

別投稿でも触れたが、彼らを「知的・情的に、完全に切断」しようとすることは、無意味だろう。。。かつ、また、そのまま無条件に「全体」に取り込むことも、無意味であろう。。。

宮崎アニメに重ね見る、極刑を越える情。。。

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by kisugi_jinen | 2008-05-04 06:15 | つれづれ。。。 | Comments(8)
花の切断。。。モニュメントの二重の知的切断と情と。。。
花を切断する事件が続発している。。。
Excite エキサイト : 社会ニュース
実の所、報道されていないが、近隣でも目にする。

そこには、「知的境界の消失」が見え隠れする。

「知的に形成された境界を情で越えようとする」
のではなく、あからさまに
「知で楽々越えて」
しまっているかのごとく錯覚しているようだ。

「花」といっても、雑草を刈り取ったり、踏んづけたりしても、ニュースにすらならないのに、
「育てている花」だったらニュースになるということが、犯罪を助長しているのかもしれない。

もし、そうであるならば、彼らは二重の意味で知的切断を行い、そうして、情をも切断している。。。

「人間の認識能(知的認識、唯脳論的認識の能力)に限界がない」という幻想的な知的概念。。。
すなわち、人工的に栽培された花であっても、雑草と認識されうる花であっても、「差異」はなく、人間のおこがましさにて「勝手に」判断されているのだといった、知的概念。。。

もっとはっきり言えば、あらゆる生命体、あらゆる人工生命に境界は存在しないという知的概念。。。

すなわち「境界は存在しない」という知的切断(概念形成)。。。これが一つめの知的切断。。。

これによって、「雑草を踏んづけて生きているくせに、プランターの花を切断することが悪いなんてことは言わせない」といった知的切断に結びつく可能性もある。。。
(雑草・プランターの花という概念を人に当てはめると、ある意味、世相を反映している事件だともいえる)

その一方で、プランターなどの「人工的に栽培されている」といった概念形成が可能な植物を集中して狙っている。

すなわち、どうすれば注目されるかを「知って」いる。。。

人工的に花を栽培するには、それなりに園芸農家の努力があるということ。。。そうして、(たとえ人工的に栽培されたとしても)、その花を見ることで癒される人々がいるということ。。。

別の言葉で言い換えれば、「モニュメントとしての花」である。

人々が求めているものは、「花」の向こう側である。「花」を越えた先に「情」を求めている。

求めようとする「情」の途中には、「花」が似つかわしいと感じるのである。

本来的にはそういった「モニュメント」である。

切断する人々にとって、その「モニュメント」は、明らかに、あらかじめ「モニュメント」があって、(後から、)それを人々が愛でるという図式(概念)で捉えているはずである。。。これが二つめの知的切断。。。

だからこそ、切断できる。

「モニュメント」を破壊し、否定し、切断し続けたとしても、初めからあったところの「思い」は消え去りはしない。。。おそらく、「そうは思わない」から切断できるのである。

切断する人々は、「花」を介した情の有り様を、同時に切断しているつもりでいるかもしれないが、彼ら(彼女ら)が切断しているものは、実のところ、彼ら(彼女ら)自身の「情」そのものである。
もしかしたら、そのことを、彼ら(彼女ら)は、気づいていないのかもしれない。

もし、「気づいているからこそ、切断し続ける」のであれば、それは、「自殺」の方向性をプランターの花々に投影している情態になるだろう。。。

千の風になって。。。モニュメントの真意。。。切断された情を結びつけるもの。。。
交換可能性と切断面(境界)の移動。。。
巷で流行る硫化水素自殺に思うこと。。。
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by kisugi_jinen | 2008-05-02 04:45 | つれづれ。。。 | Comments(0)
春の草木花。。。そして、リンリン。。。
撮り貯めていた草木花。。。
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八重桜の花輪。ハート型にも見えなくはない。。。

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葉桜(ソメイヨシノか?)。小さなサクランボ・若枝・若葉。。。

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カエデの一種。若枝・若葉。。。

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水辺に突き出した枝の先。。。ツツジ。。。

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なぜだか目の敵のように攻撃されたチューリップ。。。白い花弁の内に秘めた赤。。。

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今は無き、リンリン。。。2008年4月初旬、於:上野動物園。。。
暖かい日差しの中にまどろんでいるかのようだった。。。
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by kisugi_jinen | 2008-05-01 22:11 | photo。。。 | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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