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裁判員制度。。。知と情と。。。
以前、裁判員制度に反対している比率が都道府県というより地方レベルで違いがあるとの報道があった。
裁判員制度は2009年の5月21日に「誕生」するそうだが、平成20年4月1日に発表された「裁判員制度に関する意識調査」結果では、地域差があるとのことだった。

最高裁判所
裁判員制度トップページ > トピックス > 「裁判員制度に関する意識調査」結果
「裁判員制度に関する意識調査」結果
http://www.saibanin.courts.go.jp/topics/08_04_01_isiki_tyousa.html
http://www.saibanin.courts.go.jp/topics/pdf/08_04_01_isiki_tyousa/siryo1.pdf


裁判員「参加NO」 北海道・東北ほど強く 迫る裁判員制度 (2/2ページ) - MSN産経ニュース
参加意欲は都市部で高く、北海道・東北地方に制度への拒否感が強いのは「管内が広く、地裁から遠い地域から呼び出されて裁判所に行くのが大変なため」(法曹関係者)との見方も出ている。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080401/trl0804012304003-n2.htm


そうだろうか?

裁判というのは、「情」を主体とした繋がりを大事にする人々にとっては、「知的」に切断され・切断する手段以外のなにものでもないと感じるのではないだろうか?

たとえば、
毎日jp(毎日新聞)
トップ > ニュースセレクト > 話題 > 記事
始まる裁判員制度:被害者参加、模擬実施 最高裁が課題検証--来月から
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080429ddm041040103000c.html
にて、
被害者の支援活動をしている弁護士らに遺族役として模擬裁判に参加してもらい▽遺族の強い姿勢の質問に影響されないか▽量刑に関する意見を、どの程度まで反映させるか▽量刑判断にばらつきはでるのかなどを検証する方針。
とあり、まさに「情的なもの」を排除する方向性が明確であろう。。。

様々な慣習の内に、知的切断の要素よりも情的結合の要素が「いわゆる」都市部よりも「いわゆる」地方に色濃く残っていると思われる。そういったことが、「義務でも参加したくない」と言わしめる原動力になっているのかもしれない。。。

参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/裁判員制度

※08/04/29 17:00 補足・追加
さて、本ブログで何度か取り上げてきた「知・情」だが、
「知的切断」=「情的切断」
ではない。
ひとことで言うならば
「知的切断」≠「情的切断」 かつ・または 「知的切断」=「情的切断」
とでもなろうか。。。

1.「知的切断」≠「情的切断」
どちらかが先行するとき、いわゆる「因果関係」にて、相互に相補的に補完されうる。
たとえば、「嫌い」という情が感情的に先行するとき、知的に(論理的に)理由付けする行為が相当する。逆の場合もある。

2.「知的切断」=「情的切断」
前回とりあげた、自殺等の完全否定や、短期の戦闘状態の場合に相当する。
どちらが先行するかにかかわらず、両者ともに切断した状態。。。

3.「知的切断」≠「情的切断」 かつ・または 「知的切断」=「情的切断」
複雑な状態ともいえる。揺れ動く総体・情・知の絡み合う状態・情態ともいえる。
たとえるならば、民族の分裂・断裂。。。長期にわたる戦争状態・紛争情態に相当するし、「平和」だと認識している状態でも、感じている情態でも、常に揺らぎ続ける知・情および意志。。。
そういった「人間らしさ」とでも言うべきもの。。。


※08/04/30 04:20補足・追加
「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。

本来的に、「人」が「人」を裁く時、情を排除することは不可能であろう。
それでも、なおかつ、そういったものを排除しようというのなら、非常に優秀な「人工知能」(人工情能ではない)を用いる必要があるだろう。

それゆえに、第三者の「知」で客観的に判断(切断)しなければならない紛争があった場合、双方に対する思いの深さ(情)があってこそ、「知的な切断・判断・判決」が意味をなし得るであろう。

もし、裁判員制度自体、最初から「情」を排除することのみ念頭に置くというのなら、知的切断(客観的判断・判決)が加わったとき、裁判員や裁判官、ならびに被告や原告が受ける、微妙な差異(ひっかかり)が、残っていくのではないだろうか?

それらは切断されて結びつくところを失った情の綻び(ほころび)として、日本中に蔓延していくのではないだろうか?。。。

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by kisugi_jinen | 2008-04-29 15:45 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
巷で流行る硫化水素自殺に思うこと。。。
硫化水素自殺が流行っている。。。
巻き添えになる人がいることを「知った上で」。。。

そのレベルでは、自爆テロや、無差別殺人と同じ。。。

玄関先に「有毒ガス発生中」と張り紙(知的切断)をしておけば、階下でスヤスヤ寝ている赤子がいたとしても、良心の呵責がないかのごとく。。。

自殺を選択した人々は、「死」は「生」よりも価値があると判断している。
たとえ、死後の世界が「ある」にしても、「ない」にしても。。。

たとえ、「生」の価値や「死」の価値を全否定したとしても、
生きている状態で自己否定」した以上、「死」は「生」よりも価値があると判断したのと同等
である。
「生きている限り死者の立場で考えることはできない」というバカの壁を知らないだけなのだろう。。。

いや、もっと積極的に、巻き添えを連れて逝きたいのかもしれない。。。
寂しいのだろう。。。


「情的つながり」の知による切断。。。

自身の判断能力と、知が情に対して優位であるという幻想的・知的・唯脳論的認識。。。

参照
交換可能性と切断面(境界)の移動。。。
自殺に関して、あるいは「死ぬ意思」と「生きる意志」について。。。


※補足・追加
自身の願望が満たされるなら、目張り・(厄除けの)張り紙さえしていれば、他人に迷惑をかけない「つもり」でいたとしても。。。
そのレベル(自殺をすること)では、鬼畜以下である。
何も「鬼畜」を下げずんでいるわけではない。
ありとあらゆるものを同一レベルにて見ていたとしても、それら同一レベルのもの「以下」であるということ。。。
「人間以下」であり、東氏のいうところの「動物以下」であるということ。。。
(以上、08/04/26 07:35追加)
もう少し、判りやすく言うならば、
「死ぬべき」と判断されて死を選択する(命令に従った)ということは、「そう判断した自分」に絶対服従したということ、すなわち「自分以下」である。
また、周囲との繋がり(情)を知的に切断して死を選択したというのなら、それは、ポストモダンでいうところの「動物化」すら排除して、知的な死のみを選択するということ。すなわち「動物以下」。
「いや、逆だ! 崇高な知能を有しているからこそ、自殺を選択可能なのだ!」と、嘯いてみたところで、所詮「知」の内部での戯言でしかない。知情意の一部分が「知ることのできない」全体(総体、「かたりえぬもの」)を否定している。。。

※注:今回、自殺全般に関して一般論的に記述しているように見えますが、私の思いは、タイトルにあるように、ある特定の自殺志望者に向いております。
(以上、08/04/26 09:35追加)

自殺を試みようとする人々の多くが近視眼的になり、論理的思考すらできないという指摘があるかもしれません。しかしながら、「思いつめている」という情況は、すなわち、「そう思っている・思い込んでいる」一部の「自分」でしかないでしょうし、そこに至る過程(一般的に皆が納得しうる理由)がある限り、「知」の関与の全くない情的・発作的な行為というものは、あり得ないでしょう。
同時に、さまざまな「知・情・意」の関与が、そういった行為へと当人を導いた情況であればこそ、なおさら、最後の決断に踏み切るために、用意周到に(すなわち「知的に」)準備する段階で、すでに「情」を切断しているといっていいでしょう。。。
(以上、08/04/27 07:20追加・補足)


情がずたずたに引き裂かれ、繋がろうとする先がない。。。
あたかも、宮崎アニメで出てくる「タタリ神」(もののけ姫)のごとく、生きている内に、情がさまよい歩く。。。

タタリ神が、人の自然に対する知的切断(人智による切り開き)という概念にて生まれるというストーリーは、当に、(巻き添えがあろうと、なかろうとに関わらず)自殺が、人の人に対する知的切断(知の情に対する優位性)という概念にて生み出されるというストーリーと、重ね合わせて考えるべきなのではないだろうか?

繋がりあおうとする情の先。。。そこにおいて「全否定」され、「全否定」しなければならなかったとき、人は、タタリ神のごとく、うごめく情を鎮めんがため、自らの命を絶とうとするのかもしれない。。。

しかしながら、自身の「知」によって生み出された「うごめく情」は、自身の「知的判断」による「自殺」では、決して鎮める事はできない。。。

そのことを、もっと深く観ずるべきである。。。


以下、「生と死」を含む若かりし頃の日記を改変した投稿からの転記。。。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/nayami_main.html#sub5
===
5.生と死 --- 「時代の申し子の嘆き」(1995.12.16の思考より)

適応するか適応させるか、
両者のせめぎ合いの中にのみ
生は存在する。
適応もせず、適応させることもできなければ
自ら死を招くことになる。
時空内で生き抜ける所へ行かねば
破滅するか破壊するかを
選択しなければならない。
共存と民族紛争と
服従と支配と
中傷、名誉、あざけり、うらやみ、妬み、愛、欲望、快楽、不安
いったい何を望んで
生きて行くというのだろう。
越えて行くべきものが
生死であるならば、
生きている内の快楽なぞ望んではならない。
死後の世界なぞ望んではならない。
何かの為に生きようなどと思ってはならない。
「此の世をも、彼の世をも望まない」(スッタニパータ:中村 元 訳,岩波文庫)
死ぬよりも苦しく、難しく、辛く、悲しく、絶望的なゆえ、
それゆえに人は生きていけるのかもしれない。


9.観念的な「生」と「死」との狭間。(思考33歳より、1995.9.2)

ニーチェ、ユング、ゲーデル、ナウシカを越えて.....
(新興宗教は言うまでもなく)
私は、
愛することも、
愛されることも、
拒み続けて生きてゆく。
「私が求めるものは、
過去に消え去り、
もはや未来には存在しない。」
そう思いながらも.....。
私は自らの「思考・思い」に死を宣告しないし、
他人によっても死を宣告されない。
この時空の流れの中にあって、
浅はかな人智を、
拒むことも受け入れることもしない。
それでも、私は
未来に、
何かを求め続けて生きていく。
何かを.....。
人は、
同じ大地に根を生やした大木の幹から派生した、
個々の枝の、
さらにその先の梢の、
さらにその先の葉の、
一枚一枚に似ている。
時空の流れが、地面から上空に移動する平面のごとくある時、
その断面に存在する幹、枝、梢の切り口が、
個々の民族、
個々の家庭をしめし、
その断面に現れた葉のほんの1枚が、
この私を表す。
木々は、
季節に応じて、
その姿を、
ユングの「共時性」などという言葉すら知らないのに、
一斉に、変化させる。
あたかも、
同時代の人々が、
同様の考えを、
同時期に思い描くかのごとく、
また、同様の感受性を同時代に有するがごとくに。
同じ大地から発生したにもかかわらず、
単に、時空の一断面だけを見ているが故に、
また、ほんの少し、紅葉する時期がずれ、
花を咲かせる時期がずれ、
日に当たる時間がずれた故に、
個々に散らばる枝の断面あるいは個々の木々どうしは、
それぞれが異なる民族だと思っている。
同じ大地に根を持つものなのに.....。
戦争をしようと思えば、
相手もまた戦争をしようと思うだろうし、
奪おうと思えば、
相手もまた奪おうと思うだろう。
同じ大地から生じたということを知らずに。
私が神という存在に心を傾けるとき、
相手もまた神という存在に心を傾けるだろう。
神が我らを救い賜うと思うとき、
彼らもまた同じことを思うだろう。
実に争いの治まるところを知らない。
人は、神を信じるなら、
その神についてもっと深く考えるべきである。
たとえ、否定することになろうとも。
神について深く考えずに信仰するものは、
神に対してこれ以上ない冒涜を犯すものである。
神が人智を越えて存在するならば、
神に対して深く考えれば考えるほど、
その神はさらに奥深い存在となることは、
自明のことである。
人に考える能力を与えながら、
人の考える能力の中に自らを埋没させるなど、
神が存在し、
人智を越えて存在するならば、
決してあり得ないはずであろう。
人は、「ヨブへの答え」を、
いや、「神の御言葉」と言われるあらゆる書物を、
また、「ブッダの言葉」と言われるあらゆる書物を、
もっと深く読み解くべきである。
それら全ては、
人の思考を越えて書かれたものなどないことを、
もっと深く読み解くべきである。
書き手の思考を越えて書かれることなど、
決してないことを知るべきである。
たとえ、自動筆記が為されたとしても、
その文章が、人の理解できる文章ならば、
それは、人の思考を介して書かれた文章であることを、
知るべきである。
神が人の思考を越えているのならば.....。
人は家族なしでは生きてはいけない。
民族なしでは生きてはいけない。
極限状態では、何らかの助けと、
身の安全を確保しなければならない。
たとえ、他人、他民族を犠牲にしてでも。
あらゆる生命は、
過去からの無数の犠牲の上に存在し、
これからも生きていく。
人は、刹那的な利益を求めるよりも、
さらに奥深い読みをすることで、
爆発的な繁栄をすることができた。
しかし、
感情が沈静化し、
理性が感情に勝利したと思えたとき、
愛は理性の中に埋没し、
理性の壁に押し込められ続けていた
感情の密かな反乱が生じる。
愛は理性の中にはなく、感情の中にこそある。
新皮質と旧皮質を合わせ持ち、
生まれ来たりて死に行くものの定め.....。
知恵が、自然のバランスを越えるとき、
人自らにも刃を突きつける両刃の剣と知りながら、
「人工物」が「自然」の一部であることを認識することすらできない人々の間に存在しても,
それでもなお、生き続けなければならない。
何かを求めて.....。
私は、
愛することも、
愛されることも、
拒み続けて生きてゆく。
それゆえに、
愛することも、
愛されることをも、
求め続けて生きてゆける。


10.生きる(1996.2.25)

私は,未来に生きるもののために生きる。
たとえ,彼らが「滅亡」であろうとも,「希望」であろうとも。
私が,「最良である」とか「こうあるべきだ」とか,
「私」が判断した基準に基づいて生き抜く。
何かを求めて,事を為さない。
「この世をも,かの世をも望まない」
神も,仏も,悪魔も,天国も,地獄も,輪廻転生も,望まない。
時が逆行しない限り,未来のために生きる。

===

いかなる苦しみから逃れようとも
我が人生からは逃れ得ず
死も,そして存在するのなら死後も,人生の一部である。

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by kisugi_jinen | 2008-04-26 04:51 | つれづれ。。。 | Trackback(3) | Comments(3)
「いじめ」と「知的切断」と。。。知の優位性とその背景。。。
最近のイジメについて、週間文春に記事が載っていた。(2008年4月10日号)
先生も親も気がつかない「最新いじめ事情」
新郷由起
(時期を同じくして、文科省が裏サイトについて調査した結果を報告している。)
関連記事:
Excite エキサイト : ITニュース

それによると、いわゆる「陰湿さ」の本質が的確に述べられていた。
すなわち、暴力・腕力といった情→力といった行為は避けられ、知的に相手の情を操作し、イジメから抜け出るような行為に対して「できないように」精神的圧力を加え、また、外部に漏らすことができないように精神的に操るそうである。明らかに情→知といった流れで「知的にいじめる」実態が赤裸々に記載されていた。
いじめられている相手が、もし「死」を選んだとしても、「それがどうしたの?」と、涼しげな回答をするという。まさに、「知」によって切断された「情」である。
人の命の(知的)切断。。。国家による大量殺戮と個人による無差別殺人と。。。

このような情況・状況には、さまざまな背景が考えられるが、私的には、下記に並べたことが関与していると思っている。

1.「受動意識仮説」などの影響。
科学的に意思を統括すると目される脳領域の「電気信号」こそが、「意思」を表しているとする考え(科学的観測可能な事実→「心」を成立させている条件、すなわち外部環境→心という因果関係)に立脚し、全ての意思・情を含めた脳機能を徹底的に明らかにすることで、知情意を含めた「こころ」は知的・科学的に解明可能とする考え方。この考えを推し進めると、周囲からの刺激にて「こころ」は受動的に生じているため、責任や意思といった概念が一方的に「決定されるもの」として認識されてしまう。
※手を動かす行動と、「動かそうとした」という脳の特定領域のパルスの出現との間の時間差から、通常思われているように、「意思」→「行動」ではなく、「行動」→「意思」といった流れであることを「仮説」として掲げる考え方。あくまで「仮説」であり、「知的考察」の範疇から出ないし、「パルス」が認められている領域に限局して「意思」を考えている。さらに、明らかに概念上「知」を含む「知情意」(内面を含む)を(外側からの)「知」のみで捕らえられるかのごとく錯覚している(錯覚させようとしている)。

(08/04/20 06:40一部加筆)

2.死後の世界に関する考え方。
科学が発達している現在、霊や死後の魂を肯定的に見る傾向と否定的に見る傾向の差が強まっている。特に、オウム事件など凶悪な組織的犯罪行為や、霊感商法などの金銭に絡む問題、さらには死体放置・ミイラ事件などの多数の報道、それまで取り合わなかった物理学会が「ニセ科学」に対する対応を表明するなど、報道による顕著な表面化の影響もあるだろうが、本質的に二極分化の傾向が強まっているように思われる。この傾向は、国際的にもイスラム原理主義にても認められるが、アメリカの教科書問題(キリスト原理主義によるID:知的設計論)にも関連している。これらに共通していると思われるのは、「知的・論理的説明にて、納得させたものが勝ち」といった傾向の強さである。また、インターネット上、脳構造や遺伝子レベルで、「神」を認識可能な人種とそうでない人種に分けられるとの主張をしているグループも出現している。これら霊・神・死後の世界を含め、知的・論理的な理論に立脚し、その内容が科学的(ないし科学的に見える)データの裏打ちにて補強される傾向が強い。
物理学会年次大会での、「ニセ科学」をテーマにしたシンポジウム、について。。。

はっきり言ってしまえば、信じる人も、信じない人も、「はじめに情」があるということを、忘れようとし、ごまかそうとし、否定しようとし、「理知的に解決・理解・納得」しようとしているだけのことである。また、そうすることで、反論する側に対して、知的な反論・防御が可能だということも理由としてあげられるであろう。
千の風になって。。。モニュメントの真意。。。切断された情を結びつけるもの。。。

因果的・非因果的。。。能動的・受動的。。。意識と情と。。。

(08/04/20 06:40一部加筆)

3.集団化という集団、孤立化という集団。
これら「知的・論理的な因果関係による納得」を利用した賛同者確保(信者確保)の傾向は、つい最近問題となった科学的テレビ番組でのデータ捏造事件による視聴率確保とも密接に関与している。
というのも、
靖国。。。思想(知的切断)。。。右翼と左翼の差異と共通点。。。
にても記述したが、集団と個との、それぞれの知的代弁は、「ひとかたまりの集団という共通概念」と「ばらばらな個という共通概念」として共有される。これら概念がどの程度浸透しうるかは、これら概念の共有可能性、共感可能性の高さに依存していると考える。これら、「共有可能性、共感可能性の高さ」は「こころ・人間」を「知的側面」で捉えるだけで容易に交換可能な状報となりえるし、昨今のキャラクター系のゲームが受け入れやすいのも、同一の要因から来ていると思われる。

(08/04/20 06:40一部修正)

いずれにしても、共有可能性・共感可能性・交換可能性の高い「知的・幻想的・唯脳論的」な概念の多くは、子供たちの(塊であろうとばらばらであろうとに関わらず)集団形成に強く関与して入るであろう。学校教育という概念自体が、(共有可能な概念・知を教え・学ぶという機関である以上)そういった方向性から逃れられ得ないと考える。「集団と個」という二者択一概念枠にとどまるならば、「いじめ」という知的切断面を介して対するしか無くなるが、「集団と個」といった概念枠から外部へ移動したならば、さらなる「個」の概念、すなわち「引きこもり」とか「不登校」とかになるであろう。
これら三者択一(さらには、多者択一)の選択を迫られるとき、さらに「逃れようとする」こともあるだろう。。。

しかしながら、「知」にのみ依拠している(執着している)からこそ、多者択一(あれか、これか)といった知的切断に陥り、死後の魂についても「あるか、ないか」を共有可能な概念として「知的に扱いうる」と考えてしまうのだろう。。。

※08/04/20 07:05追加
以上まとめると、
交換可能性の高い(、すなわち知的に論理的に共有可能、あるいは因果論的・科学的な)静的概念・知・(知的切断された、狭義の)「情」(注1)のみ存在し、
交換可能性の低い(、すなわち共有不可能、あるいは非因果的・非科学的な)動的概念・(私とあなた・その他、および関連性を含めた)総体・(知的切断を受ける前の、広義の)「情」(○○的霊性といっていいかも)は不在、ないし、(理知的に議論の対象外のため)「劣るもの」というレッテルを貼り付けられている。

限定された(狭義の)「情」は、知的に切断可能ゆえ、すでに外部から切断されている。

その観点のみに立脚すれば、(前野氏の)「受動意識仮説」は、正論として受け入れられる。

「能動性のない」意識は、還元的・因果論的に、(すなわち、無矛盾かつ論理的・科学的に)取り扱うことが可能であり、その意味で、交換可能(科学的に再現可能、再生可能)な概念として取り扱いうる。(すべて因果関係でできているのであれば、原因となる事象を再現しさえすれば結果としての意識は再生可能という概念)

「(消えても)交換可能なキャラクター」→「交換可能な人間」への概念の適応に、何ら違和感を抱かない。(注2)

という図式である。

。。。

交換不可能、共有不可能、共感不可能な「情」。。。(あれも、これも)。。。

(知的に)教育すべきものではないにもかかわらず、その本質が求められようとしているのではないだろうか。。。


参考:08/04/23 22:40
愛国心・教育の方向性としてのすれ違い。。。


08/04/23 22:30 追加
===
注1
狭義の情、広義の情、知的切断面、境界について。。。
注2
「リセット」とかいった表現にて扱われる「交換可能性の高い状態」。反対に、「交換不可能な状態」とは、一連の行為によって、「取り返しのつかない」事態に陥ることを意味する。
一言で言えば、
やり直しのきかない人生
である。
「死刑にさえならなければ、捕まってもいい」
とか
「花を切断しても、代わりの花がある」
といった概念は、すなわち、「取り返しがつく」あるいは「交換可能性が非常に高い」といった概念になるであろう。この場合、「情」を排除した「知的・論理的」側面が強調されて(社会の脳化へと進行して)いる。
「(科学的)客観性の高さ」といった概念は、対象となる事象「以外」の条件が同一であるかぎり、「再現性が高い」ということを意味している。「誰にとっても、いつでも、どこでも」である。この概念と、上記「交換可能性の高さ」の概念が相同になっている。
それゆえ、「科学的」概念の優位性は、「知的」概念の優位性と相乗効果を発揮していると思われる。

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by kisugi_jinen | 2008-04-19 05:44 | 思考。。。 | Trackback(2) | Comments(0)
靖国。。。思想(知的切断)。。。右翼と左翼の差異と共通点。。。
靖国。。。

この問題については、当ブログでも、何度か取り上げた。

自己責任と参拝と。。。
※上記は、書き足し修正が多く、読みにくいと思われます。自己責任と参拝と。。。2。。。にて、まとめ直しています。論旨については、こちらを参照してください。(08/04/17 06:25補足)
フランスの暴動。。。そして日本。。。
情の2方向。。。共有可能性・交換可能性・共感可能性の高さ。。。

要約するならば、モニュメントとしての「靖国」を語るとき、知と情を分断(知的切断)して、情を放置した二者(ないし多者)択一論という知の攻防に終始するか、知を放置した情の優位性のみを知的に語る(情の知的切断を行う)ときに、(交換不可能な、共感不可能な)「本来の情」(個々の人々にとっての、それぞれの情)自身が切断されるということになるということです。

知の情に対する幻想的な優位性は、
人の命の(知的)切断。。。国家による大量殺戮と個人による無差別殺人と。。。
にも記載したように、集団化したり、孤立化したときに、その切断力は破壊的な力を有するまでに至ることでしょう。

六文錢氏の
「画を殺すのは誰だ!」
http://pub.ne.jp/rokumon/?entry_id=1310577

にても、右翼と左翼が「現場」を知らずに、はじめに「思想(モニュメント、知的切断面)ありき」といった行動を取ることからも、明らかだと思われます。

右翼と左翼の差異、すなわち、左翼的なものとは、知的切断された(知的・幻想的に)交換可能な「個」(弱者)の知的代弁であり、右翼的なものとは、知的切断された(知的・幻想的に)交換可能な「全体」(強者)の知的代弁だということになると思います。

参照
「君は右翼か、それとも左翼か」(京都大・大西)
http://www.kyoto-u.com/koron/onisi.htm
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/2007/05/post_b224.html
--- 私のコメントは、上記mori夫氏のブログに行っています。
「靖国が危ない!」(鈴木邦男)
http://kunyon.com/shucho/080331.html
--- oniさんからの情報で見に行きましたが、右翼の中でも左翼的だとバッシングされることもあるとの指摘には頷けました。



靖国というモニュメントの真意は

千の風になって。。。モニュメントの真意。。。切断された情を結びつけるもの。。。

に記載したように、本来的には、個々の死者と生者とを結びつける共有「不可能」かつ共感「不可能」な、それぞれの「情」が先にあっての「もの」だということにあるでしょう。

映画や写真というものは、個々の「情」に対する知的切断(画像・映像)になるでしょうが、本来、像には多少なりとも多義性(多義図形性)が含有されているはずです。今回の映画の中に多義性が表現されていたとするならば、それこそが、八百万の神々の影でしょうし、撮る側と撮られる側を結ぶ思いを含めた、個々の人々の思いの切断面になることでしょう。。。

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)

厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。


関連記事
愛国心・教育の方向性としてのすれ違い。。。


08/04/10 05:00追加
事の発端として注目されている稲田朋美氏の発言が産経ニュースの【正論】文化庁の映画助成 衆議院議員、弁護士・稲田朋美
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080409/trd0804090413003-n1.htm
にてなされていた。
映画を見るまで、(映画の)内容に関するコメントは差し控えますが、映画にて取り上げられている写真を巡る人々の思い・情が交錯しているようです。

08/04/16 01:45 追加
稲田氏のサイトにて、上記発言の「割愛前」の全文が掲載されていました。
http://www.inada-tomomi.com/diarypro/diary.cgi

===08/04/11 18:45 追加。。。

本映画の内容について「語ろうとする」人々が、理路整然と理知的に語ろうとすればするほど、そういった主張・知的切断・概念が、光厳天皇の「ともし火」に対してある特定の方向から向かって行くことに相当することを深く考えるべきであると思う。

「語ろうとする思い」をもたらす「方向性・情」があって、たまたま「靖国」という映画が現れたということである。

「方向性が先に存在した」ということである。

それゆえ(八百万の神々や、死者を代弁しているかのごとくに)多弁に語りあうのである。

そうして、それは、二者択一の論争を否が応でも生み出し、争いを生み出す。。。光厳天皇の憂いを再現するかのごとく。。。
本来、心の奥深くに結びつく、宗教的・心理的な描写は、多義図形的であるべきだろう。
今回の映画が、「誰にとって」「どの程度」多義図形的であるかどうか?
非常に興味深いものである。

それは、監督の心の多義図形性、鍛冶場の炎にて揺れ動く(歴史の重みを感じておられるはずの)「刀匠の心」の多義図形性、見るものの多義図形性の全ての和にて表されるものなのだろう。。。

「語りえぬもの」。。。

南北朝の争いに疲弊し、心を痛められた光厳院(光厳天皇)。。。

その思いを、もっと深く、静かに感ずるべきであろう。。。

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)


08/04/12 02:55 追加
 映画「靖国」を巡る言葉。。。いっそのこと、ナレーション無しで、「全て」をドキュメンタリーとして再編集し直して見ることが必要かも。。。

刀匠の意志 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080411/plc0804112104017-n1.htm
http://www.excite.co.jp/News/society/20080410220900/20080411M40.111.html
靖国の広報・対応 http://www.yasukuni.or.jp/img/1207900481.pdf
監督の意図 http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080405/tnr0804052110006-n4.htm
有村治子氏の主張 http://www.arimura.tv/news/20080409.html
民族派5団体の試写 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/culture/86796.html
※08/04/19 04:40追加
【主張】映画「靖国」 助成金の適否を検証せよ(msn/産経ニュース2008.4.17 02:25) http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080417/tnr0804170226000-n1.htm
。。。

08/04/13 03:00追加
名古屋シネマテークにて交渉された方のブログ。
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/200804020001/
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/200804030004/
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/200804070000/
--- 他にも、関連記事が多数あります。
このブログについては、この記事の投稿段階からoniさんに教えていただいていたのですが、私が情報収集する時間帯と楽天の定期メンテ時間帯とが重なることが多く、十分な情報収集が困難だったため、今回、追加となりました。
読んでみて思ったのですが、私のこの記事の冒頭近くにて
右翼と左翼の差異、すなわち、左翼的なものとは、知的切断された(知的・幻想的に)交換可能な「個」(弱者)の知的代弁であり、右翼的なものとは、知的切断された(知的・幻想的に)交換可能な「全体」(強者)の知的代弁だということになると思います。

としたことに、重なると思われました。
「個」として行動した旨、再三記述されておられますが、その「情」が結びついている先は、すなわち「全体」であり、「全体」を意識した問題提起となっています。

08/04/15 05:30 追加情報
記者の目:映画「靖国」=勝田 友巳(学芸部)、毎日jp、毎日新聞
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20080415k0000m070127000c.html

「おかしな空気」という表現は的確だと思う。

これこそ、まさに、「仮想的・幻想的かつ交換可能性・共感可能性・共有可能性の高い知的切断面」(概念)に相当する。

この「おかしな空気」は、一見「情」のフリをするだけに、扱いが悪い。

「おかしな空気」として「概念化」されている限り、それは、知的切断面なのであって、その空気を貫いている「情」は、「その空気」の先を向いている。個々の人々が個々の人々にとっての霊に対する思いの「途中」に「靖国」というモニュメントが(後から)ある。

「おかしな空気」は、当に「靖国」という言葉自体に相応する知的切断面(概念)であろう。

「おかしな空気」が(先に)あって、それに情を(後から)繋ぎ込もうとすると、知的論争は「おかしな空気」にて二分され、争いが収束することはないであろう。

自身の、自身にとっての「個々の霊」に対する思いは、「おかしな空気」とか「靖国」とかいった概念・モニュメントを最初から(先験的に・超越論的に、軽々と)超越していることを、もっと深く感じる(観じる)べきであろう。。。

「East Asia」(中島みゆき)より
誰とでもきっと 合わせて生きてゆくことができる  
でも心は誰のもの 心はあの人のもの
大きな力にいつも従わされても
私の心は笑っている
こんな力だけで 心まで縛れはしない
(中略)
どんな大地でも きっと生きてゆくことができる
でも心は帰りゆく 心はあの人のもと
山より高い壁が築きあげられても
柔らかな風は 笑って越えてゆく
力だけで 心まで縛れはしない


08/04/16 01:00 追加
養老孟司氏の(唯脳論的)見方。。。
NBonlineトップ>ライフ>養老孟司先生のタケシくん虫日記  
私が中国には行かない理由 ムシが採れない文明、新聞が衰退するわけ
2008年4月16日 水曜日 養老 孟司
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080407/152456/

08/04/16 01:55 追加
有村治子氏の「4月14日謹んで反論」
http://www.arimura.tv/news/20080414.html
「世に倦む日日」での、「表現の自由」に絡めた記事
「靖国」と表現の自由の逆説 - 石井紘基と公共の福祉の規制
http://critic3.exblog.jp/8330202/

08/04/17 06:25 追加
NHKニュース(WEB) 4月15日 8時15分
映画「靖国」 初の一般試写へ
http://www.nhk.or.jp/news/t10015553031000.html
日弁連・日本弁護士連合会などが、今月23日、一般の人を対象にした試写会とシンポジウムを開くそうです。
今回の騒動では、各地の弁護士系の動きが非常に活発だったことが印象的でした。

08/04/19 04:00 追加
asahi.com>社会>その他・話題> 記事
「駄作」「労作」…右翼系団体の活動家ら「靖国」試写会
http://www.asahi.com/national/update/0418/TKY200804180326.html?ref=rss

4月18日19時42分配信 時事通信
右翼関係者が映画「靖国」試写会=内容には賛否の声
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080418-00000163-jij-soci

(2008年4月19日01時08分 読売新聞)
映画「靖国」右翼関係者が上映会、「見てから議論を」と
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080419-OYT1T00132.htm?from=navr

北海道新聞
映画「靖国」 民族派団体が論議 試写会に活動家ら150人(04/18 23:43)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/88056.html

毎日新聞 2008年4月18日 22時05分(最終更新 4月18日 22時33分)
映画「靖国」:右翼の反応さまざま…東京で試写会
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080419k0000m040125000c.html

。。。
どうやら、映画「靖国」には、私の望むところの(適度な)「多義図形性」が内在されているのかもしれない。。。



※多義図形
だまし絵について。。。1.多義図形と概念。。。
だまし絵について。。。2.多義図形・概念と境界。。。
だまし絵について。。。3.多義図形・境界と揺り戻し。。。

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by kisugi_jinen | 2008-04-06 03:27 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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