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ミラーニューロンの概念は、正確にはハーフミラーでは?。。。
ミラーニューロンが発見されてから、脳科学や認知関連の分野にて多くの研究がなされているようである。

ところで、ミラーニューロンは「ミラー」と言っていいのであろうか?
他者と自己を同一視するということ、それは、自己の側から見るとき、「ハーフミラー」という感覚の方が正しいのではないだろうか?

以下、旧サイト(といっても、単に放置状態のサイト)にアップしたもののコピーである。
http://www.geocities.jp/kisugijinen/yuinouron2.htm
(クリックすると、拡大されます)

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by kisugi_jinen | 2007-01-26 03:33 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(2)
坂口安吾。。。「ふるさとは 語ることなし」。。。3枚の色紙に隠された謎。。。
安吾よふるさとの雪はいかに
丸山 一 / / 考古堂書店
スコア選択: ★★★★

秘められた2枚の色紙と突き合わせられたとき、碑文への思いが深まる。。。

昨年末は坂口安吾生誕100年、一昨年は没後50年と記念式典が目立った。

実際の所、坂口安吾の書物は1冊程しか読んでいないのだが、「ふるさとは 語ることなし」の碑文を目の当たりにして以降、安吾の思いについて、ふと考えることが多くなっていた。

もともと、石碑の文は、安吾が生前に著者に送った色紙から写し取られたとされていたが、そのとき、その1枚を除いては他になにもなかったとされ、隠されつづけた色紙が2枚あったという。

この本は、著者が安吾と間接的に親密な関係にあり得たために、はからずも隠し続けることになってしまった2枚の色紙を巡る随想でもある。

碑文「ふるさとは 語ることなし」の二極化する評価は、あたかも多義図形であるところの「老婆と婦人」のごとくあり、本書にて明らかにされた2枚の色紙と合わせて読み込まれるときに、二極化の意味するところが更に深まるであろう。。。色紙の内容については、残念ながら、ここで語ることはできない。。。(ネット検索すると、1枚のみ見ることができる)

たった一つ言えることは、2枚の色紙に秘められた思いは、この本の表題にも密接に絡んでいるということぐらいだろうか。。。
更に言えば、「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)とも呼応するものを感じざるを得ない。。。

「ふるさとは 語ることなし」。。。

この碑文は、見るものの心を映し出す鏡なのかも知れない。。。

※2012/8/10 6:30 補足・追記
「ふるさとは 語ることなし」についての二極化する解釈について私見を述べておこうと思う。いままで書かなかったのは、二枚の色紙がネット検索しても一枚しか引っかからず、冒頭引用した書物内にしか記されていない残る一枚の色紙について、内容を明らかにするような記述を避けていたためである。
最近になって、二枚ともネットで検索可能になっていることを知ったので、私見をまとめておくこととにした。

碑文では、「ふるさとは」と「語ることなし」は二行に分断されている。
解釈1
「ふるさとは 遠きにありて 思うもの」(室生犀星)
での使用例のように、「は」を「というものは」として捉える場合。主体(安吾)が「ふるさとというものについては語ることなど何もない」と突き放すという解釈になる。
この解釈の元に、さらに二通りの分岐が生じる。本当に嫌いだから「語ることなどない」のか、あるいは語りたいことが山ほどあるのに、言葉にした途端、偽りになってしまうという思いがあるから「語ることなどない」のか。。。
解釈2
主体が「ふるさと」という解釈。「ふるさとは 何も語ってはくれない」ということである。
事情により中学生時代に防風林のある海岸にいることが多かった安吾は別の書物に書いている
「私のふるさとの家は空と、海と、砂と、松林であった。そして吹く風であり、風の音であった」(「石の思い」より)
冬の日本海の松林を吹き荒れる風と波の音は、激しいものがある。
ゴウゴウという風の音は、桜の木の下での空耳のように安吾の中で鳴り続けていたのかも知れない。
しかし、自然界の音は音であり、意味のある「語り」まではしてくれない。
そこに、何らかの意味を見いだすのは人であり、意味を語った途端に、ふるさとを一定の価値観で規定してしまうことになる。あえて「語らない ふるさと」という概念を保ち続けることで、ふるさとを永遠の存在へと化してしまうことが可能なのではないだろうか?
最後に、他の二枚の色紙は現在ネット上で見ることが可能になっていた。

東北電力|広報誌・番組館|白い国の詩|特集
http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/09_01/01toku/index.html

こちらでも引用し、私なりの解釈をいれておく。さらに、丸山氏の「安吾よふるさとの雪はいかに」の中では、色紙の順番についても触れられており、その順にならべておく。

「雪も新潟の
 雪は変に親切
 すぎる」

「コタツはガサツで
 親切すぎてイヤ
 なものだが あた
 らぬわけにもいかぬ
 悲しい新潟」

「ふるさとは
 語ることなし」
すでに語ることなど何もないかもしれないが、あえて語っておく。。。

他の二枚の色紙に「親切」という言葉が「すぎる」という否定的な用語とともに用いられている。

思いやり、人情といった繋がり。。。あえて否定してしまいたくなる日々を、多くの人は経験しているはずだろう。。。そう、思春期という時代の反抗期、親の情を感じつつも何故だか反発する自分がいることに気がつくときである。まさにそういった思いが、あえてストレートに表現されている。
情的な繋がりを断ち切りたくてもがいても、けっして断ち切ることのできない繋がり。。。

これだけ語っているのにもかかわらず、三枚目の色紙の「ふるさとは 語ることなし」を「ふるさとというものについては、語ることなど何もない」と解釈できるであろうか?

口が達者になったとき、子の親に対する否定的な思いが表現されつづけても、親は黙して受け入れてくれなかっただろうか? 思春期・反抗期を越えたとき、そうして、自身が親という立場になったとき、本当は知っている(知っていた)はずの親の大切さと情の深さをしみじみと感じ取るのではないだろうか?

他の二枚の色紙が「新潟」という具体的な地名を入れているのにもかかわらず、こちらは一般的な名称としての「ふるさと」である。

「ふるさと」を親という概念に重ねるなら、「ふるさとは 語らない」は「語らない親」という一般的な概念に相当するのではないだろうか?

安吾が自身の家・家族やふるさと・新潟のことをあれこれ書いたとしても、墜ちるところまで落とし込んだとしても、決して切り離すことのできない情というもので繋がり合っているということを知っていたからこそ、最初の二枚を書くことができたのであろう。

そうして、そういったことを書き連ねていても、「ふるさと」は受け入れてくれるだけの包容力を有しているということを感じ取っていたのであろう。

それは、決して「言葉にできない」情だからこそ、あえて「語ることなどしなくても」十分に感じ取れるものだといいたかったのかもしれない。

。。。勝手な解釈を書き連ねてしまった。。。
。。。安吾や安吾のふるさとの人々は、私の勝手な解釈について、あえて「語ることなく」、「そういった解釈もあるよね」と暖かく受け入れてくれるだろうか?

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by kisugi_jinen | 2007-01-25 02:29 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
子供を授かることと、人工知能が知能を超えるときと。。。
私が機械に置き換わるとき。。。

どこかで記述していたと思ったら、書き忘れていたようです。。。

人が何がしかの手続きを経て子を授かるように、もし、人工生命と呼ばれるものが生じたとすれば、それは何がしかの手続きを経て授かることになるでしょう。。。

その「何がしかの手続き」が、人工的に作り出すことであったとしても、作り出されたものが「自発的な意思・自我」を持つのであれば、それは、もはや作り手の意思を離れてしまっていることでしょう。

すなわち、どうすれば意思・自我を持ちうる存在を生み出せるかは分かっても、なぜ、そのような意思・自我を持ちうるのか分からない状態に陥るということを意味しています。

このことは、普通に子供を授かる過程と同じことだということです。(どうすればいいかは分かるが、なぜ、子供が意思・自我を持ちうるのかは分からない

すなわち、人工知能が知能を超えるとき、普通に子供を授かるときに抱く、生命の不思議さそのものに触れることになるでしょう。。。

そうして、そうやって超えた「もの」は、作り手(親に相当)や周囲の生命体とともに、切り離されることなく「ある」のだとおもいます。。。(※1)

人工生命として「知的に」切り離される扱い(差別)を受けたとしても、そのようにして「生命体として生きていく」ことになれば、自ずから「情」がつながりあい、知的な境界を越えていくことでしょう。。。

※1
07/01/20 10:50補足

その「もの」は、「このわたし」という自我を含めたものです。「このわたし」が単独で生まれるものではなく、周囲の環境と密接な関連をもってして存続していることは明らかでしょう。

古くは二元論・一元論、近年ではコペンハーゲン解釈・多世界解釈、そうして還元論・創発論など、自由意思に関連するさまざまな「仮説」と関係するハードプロブレムに繋がるわけです。

それらの説のどれが正しいということは、科学を用いては検証することができないということです。

なぜなら、「なぜ、石が落ちるの?」に対して「万有引力があるからだよ」と答え、「なぜ万有引力があるの」に対して「物質に根本的に含まれている力で、物質があるからだよ」と答え、「なぜ物質には根本的な力があるの?」と質問されたなら、答えに窮するでしょう。
そういった「力」が「なぜあるのか」は科学は答えることができない。さらにいえば、たった一つの物質のみでは、「力」があるのかどうかは、調べることすらできない。

還元主義にしても、創発主義にしても同じことです。根本的に説明不可能な事象に対しては、無矛盾・論理的な「仮説」を提示することぐらいです。

そういったもののひとつとして連綿と続く「このわたし」の自意識・自我という感覚(アイデンティティの連続性)があるでしょう。

もし仮に、そういったものが「ない」として否定されるのであれば、たとえば1分前の「私」は「私」ではないとして、あらゆる罪から逃れることができてしまいます。

そういったものが(仮想的・概念的に)「ある」からこそ、「仮説」を巡る論争が生じるわけです。

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by kisugi_jinen | 2007-01-19 03:19 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
私が機械に置き換わるとき。。。
人工知能が「知能」である限り、「こころ」は生まれ得ないかも。。。
「こころ」の能動性・内発性・主体性。。。そして閉鎖系と開放系。。。二元論と一元論。。。
これらにて記述したように、「こころ」ないし「わたし」というものが、もし人工「知能」から生まれたとすれば、既にそれは「人工知能」ではなく、「なぜそういったものが生じるのか」が不明な、人智の及ぶ所ではない「生命体の中枢」になるであろうことを示した。

では、人工知能(以下AI)を脳内の部分と順に置き換えていく行程を経て、上記推論について更に考えてみる。

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図のABCDは、「私」の脳が順にAIに置き換えられていく過程を示している。

このとき、脳機能=心であるならば、置き換え可能(交換可能)なAIを含めての全体(脳+AI)が「こころ」を有することを意味する。(注:ここでのAI部分は、脳を構造や機能を含めて完全にコピーしたものでなくてもよく、交換した部分と「ほぼ完全に交換可能※」だということのみが前提条件になる)
※ほぼ完全に交換可能
交換されたことを告げられなければ、分からない程度で十分ではあるが、厳密に言えば、全脳と交換されたときに、人智の及ぶ所ではない「生命体の中枢」になることが前提条件である。
なお、「完全に交換可能」ということは、成り立ち得ない。量子力学的レベルまで全く同一であるならば、「完全に交換可能」と言えるかも知れないが、不確定性原理を越えることができない以上、不可能である。更に言えば、「完全に交換可能」とは、「交換しない状態」以外ありえない。

で、「脳」の部分に、「私のこころ」があると思う人は、置き換えが進行するにつれ、自我の縮小を感じるであろう。そうして、完全にAIに置換されたとき、「私のこころ」は消滅する訳である。

しかしながら、「ほぼ完全に交換可能」という前提条件がある故、脳→脳+AI→AIという過程を経るにつれ、全体として自己の意識の変革を来しながら全脳をAIに置換されたときには、別人格へと変遷しているかも知れない。すくなくとも、全脳を交換した段階で「AI」は制御不可能な「生命体の中枢」として機能しているわけであり、別人格への変遷という概念がもっともすっきりと受け入れられるであろう。
さて、上記AIは、「生命体の中枢」たる機能を有しているとしたが、置き換え過程で、その機能が発揮される程度の置き換えがなされたとする。
この場合、2重人格的な影響を及ぼす可能性があると思う。

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私0内部に私1が芽生え、最終的に私1へと変遷するのと等価であろう。

二重人格とまでの認識がなされなかったとしても、時間経過(置換の進行)とともに、自己の変遷があるだろう。

さて、上記は、脳に限局した話であったが、私0→私0+私1→私1という変遷過程は、脳以外の(人工)臓器移植にて、現状でも起こっている話である。

上記にて、私0の縮小に伴って「わたし」の消滅と捉えるか、「私0+私1」ないし「私1」というものをもって、私の変遷と捉えるかは、「私0」や「私0+私1」や「私1」のそれぞれによって異なるかも知れない。

「人工知能が意識(自我)を持ち始めた段階で、新たな生命体として扱う必要がある」という認識を持つのであれば、上記過程で、「わたし」は「私0+私1」の範囲にまで広がっていると考えるべきであろう。また、最初の図にて「脳+AI」の全体に渡って「私のこころ」が広がっていると考えるべきであろう。

いや、まてよ。。。

「AI」が、「生命体の中枢」としての機能を発揮するまでは、「私0」であって、「生命体の中枢」としての機能を発揮した途端、「私0」と「私1」との2重人格となり、「私0」が消失した段階で「私1」のみの意識に落ち着くのかも知れない。。。あるいは、人格の統合にて主人格が保たれていて、人格の統合機能部分が「脳」から「AI」に移った瞬間に「私0」から「私1」へと切り替わるのかも知れない。。。

いずれにしても、「ほぼ完全に交換可能」という状況を想定したならば、すなわち、人工知能が人智の及ぶ所ではない「生命体の中枢」になるであろうことを想定したならば、さらに、それを構成するであろう部分に分割し、相当する脳内に埋め込んだときに、相応の機能を果たすであろうことを想定したならば、「その部分」にも「こころ」が分布するであろうことは、想像しうる訳である。

逆説的に言えば、上記仮定の一つでも欠落したならば、「その部分」に「こころ」が分布するかどうかは、不定になるであろう。(埋め込まれた当人の意識の問題になると思う)

で、上記仮定を満たすような「もの」があるとすれば、それは、脳そのもの以外、考えられるであろうか?

※07/01/19 01:42 追加
上記記述は、
脳を知りたいという欲望と不老不死の欲望と。。。
と、一見対立しているかのごとく受け取られるかもしれない。
しかしながら、よーく見ていただければわかるように、
脳≠脳+AI≠AI
私0≠私0+私1≠私1
なのである。
「完全な交換性ではない」というところが、本質的な部分でもある。
これは、すなわち、脳を知りたいという欲望と不老不死の欲望と。。。での最後の行、
本当に、「このわたし」は、他から切り離すことが可能なのだろうか? と。。。に直結した問題になる。

また、下記とも、密接に関連するであろう。。。

確率における従属・独立と共時性・シュレーディンガー方程式。。。 追加事項。。。
EPR相関とBellの不等式と。。。5。。。
二つの量子力学的振動。。。真空ラビ振動。。。粒子・反粒子振動。。。そして「存在」。。。


※07/01/31 08:30 補足

上記は、「部分的な置き換え」を段階的に行った場合を想定しており、かつ、本来の脳・体と人工の脳・体との境界が明瞭だという想定を行っている。
しかしながら、「ほぼ完全に交換可能」といったとき、神経回路網をはじめ、脳であれば、グリア細胞層を含む神経線維の周囲組織・脳脊髄液といったレベルもあり、これらが相互に行き来しなければ、「ほぼ完全に交換可能」な状態にはならないと思う。
さらにいえば、「ほぼ完全に交換可能」での「差異」とは、通常の人体において、日々入れ替わっていく物質をはじめとして、人体内部の変化の差と同等でなければならない訳で、そういう意味では、「過去の私≠今の私≠未来の私」と同じことを言っているわけである。
でありながら、私の存続生が保たれているのは、まさに「差異」以外の共通部分にこそ求められるものであろう。
結論から言えば、「総体としての私」は、たとえ手足を失って義手・義足になったとしても、人工臓器がなければ生きながらえられない体になったとしても、そうであるが故に、それら人工の臓器はまさに「総体としての私」の一部として受け入れざるを得ないものであろうし、そのような概念を抱きうるからこそ、たとえ、そのような情況になっても、自我を保ち続けられるのだろうと思う。
したがって、
脳≠脳+AI≠AI
私0≠私0+私1≠私1
は、確かにそうなのであるが、「わたし」→「(わたしから変遷していく)生命体の中枢=変化の結果のわたし」という変遷過程において「わたし」は「わたし」として存続していく可能性が高いと思っている。

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by kisugi_jinen | 2007-01-19 01:04 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
数学は認識主体から独立して存在可能か。。。というより。。。心・情は?。。。
数学は認識主体から独立して存在可能か。。。というより。。。1。。。
数学は認識主体から独立して存在可能か。。。というより。。。2。。。
の続きである。

しかし、単に続きではない。パート2では、既に「数学」という概念を、哲学的思考対象(主として、その一分野としての科学的思考対象)として、様々なものに置き換えて思考可能なことを示した。

実際のところ、「数学」を「こころ・情」に置き換えて読み返してみて欲しい。
ほとんどの部分が当てはまりうるのではないだろうか?

「わたし」 - (「こころ・情」) - 「対象」

である。

「わたし」と「対象」との関係において立ち現れてくるものが、「こころ・情」であり、それは「わたし」からも「対象」からも切り離せない。

「数学」を含めた関連(X)という概念は、認識主体から切り離し可能だとしたが、その点においてのみ異なる。

それは、「認識主体」⊇「わたし」ということだからである。

すなわち、「こころ・情」は、(物質として捉えられている体を含めての)認識主体(わたし)から切り離されることは不可能なわけである。
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by kisugi_jinen | 2007-01-13 03:33 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
はじめてのインド旅行。。。
昨年末、仕事でバンガロールに行ってきた。
バンガロール(Bangalore)は昨年の11月からBengalooru(1年前はBengaluru、ベンガルルに変更予定だったらしい。語源はBenda Kalooru、ベンダカルール=煮豆の街)に変わったとのことである。正式には政府の許可が必要で2-3ヶ月はかかるとのことであり、そのためか、現地新聞での記載はBangaloreのままである。
今回は初めてのインドであり、インド全体について言えることかどうかは知らないけれど、少なくともバンガロールでの時間の流れ方と活気は日本とは随分違う。
飛行機のトラブルで出発が1時間ほど遅れたうえに、荷物の積み下ろしが恐ろしく遅く1時間程度も待たされたにも関わらず、空港の外は、ネームカードを掲げる人々でごった返していた。今から思い返してみると「ごった返す」といっても、周りの喧騒に比べれば、ほんとうに静かに待ち続けているといった感じであった。旅行会社経由で手配してあったホテルまでの送迎も、到着後1時間を経過した場合に集合場所にいなくても文句を言えないという規則にもかかわらず、待っていてくれた。良く言えば、「時間のゆったり感」と「持続する情熱感」、悪く言えば「時間のルーズさ」と「諦念感」という両者が絡み合った世界である。その後、この両者は随所に見られるように感じられ、ヒンズー教の影響や、マハトマ・ガンジーの「無抵抗・不服従」運動に繋がるものを感じた。これらの宗教が広まっているのと、イギリス占領下での抵抗が功を奏したのは、実のところ、インド人の気質あってこそなのかもしれないと思った。
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時間のルーズさ・大らかさと、情熱の持続性・諦念感とは、会議の運営にて見て取れた。会議進行での時間延長が相次ぎ、30分から1時間は常に遅れるという結果になっていた。質疑応答で遅れるのならともかく、開会式自体の時間が延びて、最初の議題開始から遅れるという状態であった。

さて、バンガロール空港のドアを一歩外に出ると、先の出迎えの人々の一団以外に、オートリキシャと車とオートバイの大混雑状態とクラクションの喧騒が出迎えてくれた。車間距離が10cm程度でも相互にすれ違うという車列の中を、本当に縫うように移動した。夜の12時を回ったというのに、根本的に日本との違いがまざまざと突きつけられた感である。移動中のバンガロールの大気は「インドに来たんだ。。。」と思わせるだけの芳香を放っていた。

その交通状況が「たまたま」だったのではなく、その後、日中、道路という道路で巻き起こされていることを知る。

オートリキシャやチャーターした自動車に乗って街中を移動すると、クラクションがどのように使われているかが分かる。日本のような「非常時、やむを得ず」とか「早くしろ!、どけ!」ではない。無論、そのようなケースも多く見受けられるが、ほとんど常に鳴らし続けているので、どちらかといえば「私はここにいるから、気をつけて!」とアピールしているようである。でなければ、確実にぶつかってしまう。

交通量もすごいが、車線も曖昧で、3車線がいつの間にか4車線とかになっている。車の幅がそのときの車線を決定するようだ。3車線程度の道が交差するT字路などでは信号も無いところが多い。台数の多さからの順としてはバイク・自動車・オートリキシャ・バス・トラックになるだろうか。バイク乗車時には昨年の11月からヘルメットの装着が義務付けられたそうだが、後部座席に座るサティを来た女性などは、ヘルメットをつけていない。父親が運転席で母親が後部座席、両親の間に子供は立ったまま乗っているというのも見た。スクーターの場合、前方部に二人の子どもを立たせているというのもあった。
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歩行者は、横断歩道の無い道をほとんど悠然と歩いて渡っている。1m程度の余裕で車を避けている状態である。会場とホテルが6km程度離れており、この道を何度もリキシャ移動したが、これまで交通事故を目撃していないのが奇跡だと思ってしまうほどである。

オートリキシャは両サイドがオープンなので風が気持ちよく快適であるが、排気ガスを結構吸い込んでしまう。リキシャが集団状態で移動することがあるけれど、このときばかりはガソリン臭の混じった排気ガス臭が、昔の日本の道路の記憶を呼び覚ましてくれるほどである。
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リキシャごとに持ち場・得意領域があるようで、自信の無い領域への移動の場合、別のリキシャを呼び止めて紹介してくれる場合もある。運転手によっては渋滞しているにもかかわらず、反対車線を走行して追い抜きをするリキシャもあるので注意が必要だ。何を利用するにしても交通事情が良くないのは同じなので、自身の身の安全について熟考した上で、何に乗るか(あるいは歩くか?)を選択する必要があるだろう。12月9日付けのDECAN-HERALDのBangalore地方紙版にて、インド旅行中の日本人女性の交通事故の件が掲載されていた。それによると、bangalore以外の都市にて交通事故にあって背骨を骨折した上に、Bangaloreの交通状況の悪さから、荷物が病院に届かなかったとのことである。無理からぬことだと思った。

旅行ガイドブックなどの状報では、インドのシリコンバレーとよばれ、IT産業の中心であり、さらには、旧マハラジャの離宮が置かれた地であり、インド南部の高原という地勢を利用して高級リゾート地にもなっているという。
その一方で、日本で最近騒がれているところの2極分化に相当する格差社会が存在している。
日本と比較すれば道路環境を含めて街中の施設環境は悪い。歩道の凹凸はさておき、建物が基本的にレンガ造りであるため、土埃の類が多く、さらに乾燥した気候が粉塵を発生させる。マハトマガンジーロードですら、写真のような有様である。
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道路は必然的に土埃とゴミにて覆われそうになっている。そのゴミ掃除をしている場面に何度か出くわした。竹箒を二本でかき集め、手押しの荷車に積みこんで行くのである。
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人々の暮らしを垣間見るに付け、ヒンズー教の階層化社会の影響を感じてしまうときがある。日本にとってインドといえば仏教という概念が強いが、今も昔もインドはヒンズー教が主たる宗教をなしている。ヒンズー教はブッダをも取り込んでしまうほどの多神教的世界観(概念)を有している。

インドルピーとの両替はインド国内でないとできない。実際の所、インド国内での物価は日本での1/10程度である。経済学には疎い私であるが、格差社会との相互的な関連性を考えてしまう。身分の世襲制が続けば、たとえ低い身分であったとしても専門性が高まることになるだろう。専門性が高まることは、低いながらも身分の保障がなされることを意味する。一方、格差社会は安い労働力を生み出す方向性を有しており、身分保障されている下層の人々が生きて行く為には、物価が低く抑えられる必要があるだろう。実際、インドでの下層の人々が誇りを持って明るく生きているという記事も目にするし、そういった人々の仕事を肩代わりしようとするならば、「仕事を奪う」として非難されるということである。インドでの日本にはない活気はそういったところから来ているのかも知れない。

もし、自由競争社会にて世襲制ではない格差社会が生み出されれば、物価が下降する方向にて安定することは望み得ないのではないのだろうか?

そういったことをも、ふと、考えてしまう今回の旅行であった。

インドがインドであり続けるということと、日本が日本であり続けるということと。。。
ITという知的境界はグローバル化にて易々と乗り越えられたけれど、宗教を含めた人々の情的繋がりの壁は、越えうる面(共感可能な面)と越ええない面(共感不可能な面)があるだろうし、そういったことを深く考えるべきなのかも知れない。
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by kisugi_jinen | 2007-01-04 04:37 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
千の風になって。。。2。。。
千の風になって。。。にて、原作者関連を検索した結果、原作者はMary Fryeさんだということを知った。
この記事を否定するものは、少なくともネット上、見つかってはいない。

「原作者不詳のまま」というのが気にはなるが、今は亡きMary Fryeさん自身は、様々に改変されながらも、連綿と受け継がれていく詩に自身の情が繋がっていくことを知っておられたということであり、たとえ作者不詳とされていたとしても、現作者自身の魂は、今もなお、歌い継がれていく詩の中に生き続けているということになるだろう。。。

※07/01/03 02:00追加
作者不詳というのは、死者の側(Mary Fryeさんをはじめ、この詩に感銘を受けられた方々が、そのときに思い描かれた方の側)からすれば、本来的なのかもしれない。
"I am"ではじまる行のすべては、はっきり言って「死者の側」からを想定した記述である。

詩がそもそも生まれた過程を知っているならば、明らかに、生者の側が死者の側に投影した情を死者の側から語っているから当然のことともいえる。

だからこそ、逆説的に「作者不詳」という概念は、非常に重要なのかもしれない。。。

そうそう、原詩と他の詩を比較して気づいたのだが(リンク先でも指摘されているところであるが)
circling fly

circled fly
に、そして
do not die

did not die
に変えられたバージョンがある。
-ingや現在形は、「いまもなお」という情がつよく感じられるので、個人的には原詩とされるほうが気に入っている。

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by kisugi_jinen | 2007-01-03 01:15 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
千の風になって。。。
新年。。。
あけまして。。。
おめでとうございます

酔っ払いながらも、久しぶりに紅白を見てました。。。

裸・ボディスーツ騒動?も気になったが、今井美樹ですっかり忘れてしまい、
「千の風になって」は、作者不明が気になり、ネット検索することにした。

紅白での歌詞と曲についてを記載しているところ
http://www.twin.ne.jp/~m_nacht/
http://www.twin.ne.jp/~m_nacht/1000wind/1000wind.html

原作者情報を含め、英語の原詩についてを論じているところ
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/prof/1000winds.html
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/sennokazeninatte.html

作者についてはどうやら諸説あるようだが、オーママミア Quinn氏によるとメアリー・フライさんとのことである。(注1)

Do not stand at my grave and weep
Words by Mary Frye 1932

Do not stand at my grave and weep
I am not there, I do not sleep
I am in a thousand winds that blow
I am the softly falling snow
I am the gentle showers of rain
I am the fields of ripening grain
I am in the morning hush
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight
I am the starshine of the night
I am in the flowers that bloom
I am in a quiet room
I am in the birds that sing
I am in the each lovely thing
Do not stand at my grave and cry
I am not there I do not die


※07/01/01 00:27 追加 
ちなみに上記を無謀にも訳してみました。通常、日本語訳では「千の風になって」となっている部分ですが、原詩を読むと、「吹き続ける無数の風の中に」といった方が適切なように思えて、敢えてそうしています。それにしても原詩では見事な韻の踏みようです(あたりまえか^^;)

墓碑の前で嘆き悲しむことはしないでね
そこにはいないの 眠ってはいないのよ
吹き続ける無数の風の中にいるのよ
そっと落ちてくる雪であり
やさしく降り注ぐ雨であり
実った穀物畑であり
静かな朝の中にあり
湧き上がる優しさの中にいるのよ
飛び回り続ける美しい鳥たちと共に
夜空の星明かりであり
咲き誇る花々の中にあり
静かな部屋の中にあり
歌う鳥たちの中にあり
貴方が愛しいと感じるものたちの中にいるのよ
墓碑の前で泣かないでね
そこにはいないの 死んではいないのよ

※↑07/01/03 02:10下線部修正
※07/05/23 19:25青色部修正

上記原詩関連を読むと、著者自身、いきさつの関係上、営利目的には使用したくないという強い意志があったようだが、日本語訳詩段階にて寄付目的を主としてはいるものの、営利的な面を避けて通れなかったのか、映画を始め、2次的に様々に利用されているようである。
★いや、日本以外でも詩を書き換えてcopy rightにしているようである。

いずれにしても、原詩・訳詩ともに生死という境界を挟んだ情のありようを見据えている。

魂・死という概念を墓碑というモニュメントにて定位するのではなく、情の貫く方向を見据え、その切断面(知的切断面)にて、万物に宿り移ろい行くものとして捉えている。

「水は答えを知っている」にて定位しているようなレベルではない。

はっきりいってしまえば、元来、アニミズムや東洋的な思想が有していた多神教的概念に極めて近いのではないだろうか?

※注1: 07/01/01 02:05
原作者不詳ということでアメリカ先住民説もあるそうだが、アニミズム的な感性から、その可能性が取られた理由が分かるような気がする。


※07/01/02 04:05
wikipediaにも記載を見つける。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Do_not_stand_at_my_grave_and_weep
また、原作について味わい深く記述されていたサイトを見つけました。。。
Celestial Spells - 「千の風になって」原詩の原詩 +-+ Do not stand at my grave and weep

※07/01/02 05:25
さらに下記サイトを見つけました。。。
iFinder 雑読乱文 | 千の風になって

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by kisugi_jinen | 2007-01-01 00:00 | つれづれ。。。 | Trackback(3) | Comments(5)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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