AX
<   2006年 12月 ( 6 )   > この月の画像一覧
構造構成主義と竹田現象学と私の知の思想史と。。。そして情と。。。
構造構成主義というのが西條剛央氏によって生み出されている。
旧:http://www.geocities.jp/structural_constructivism/
新:http://structuralconstructivism.googlepages.com/(07/12/16追加・修正)
竹田青嗣の現象学、池田清彦の構造主義科学論、ロムバッハの構造存在論などを源流としているとのことである。

著書であるところの「構造構成主義とは何か」は非常に分かりやすく、副題の「次世代人間科学の原理」にあるように、人間を主体として、信念対立を超克する思考方法
1.中核原理としての関心相関性
2.システム・構造としての存在的・存在論的な視点から、存在論的複数性を経て、相補的なメタ理論へ
を基軸に、周辺へと適応分野を広げている(著者は継承としている)。
構造構成主義を知ったのはmixiに入ってからであるが、もう少し早く知っていれば良かったと思っている。

なぜならば、私の「知」から「情」への思考の変遷過程でも、特に「知」の変遷過程にて西條氏と同様に、竹田氏の現象学が影響し、出発点に近かったからである。
※07/07/02 22:00 補足
以下、記述が散漫になっていて、構造構成主義と無関係なように読み取れることと思います。しかしながら、実のところ、構造構成主義にて用いられている各種手法・方法論は、下記記述内部に深く根ざしていると考えています。おそらく、その対応関係の深さ故に、構造構成主義の本に記述されている事柄は、何の違和感もなく、私の中の各種概念に突き合わされ得たのだと思っております。
その出発点となる記述は、

私のどちらかといえば「知」を基軸としていたサイト(現在、放置中)
きすぎじねん(来生自然)ホームページ

7.「神」の考察。その2にて

人類は,形態学的・解剖学的・生化学的・生理学的に類型パターンを内在している。
特に大脳の類型パターンは,共通の思考パターンを生みだし,
環境因子が近いほど思考パターンは似てくる。
このことは,集団で共有しうる善悪の価値判断の基準を容易に形成する原動力たりうる。
思考パターンの類型は,「神・悪魔」の区別にも類型パターンを生じせしめうる。
すなわち、地域、住民、文化、歴史、言葉、触れ合い、戦争、協力の様々な環境によって、
「神・悪魔」の区別にも類型パターンが生じる。
哲学の領域でこの問題に解決を与えられそうなのは「現象学」であろう(と勝手に考えている)。

であり、この中に、「現象学」という言葉を入れているが、これは、高校生時代1993年から1994年に竹田氏の「はじめての現象学」を読んで触発されて記述した部分である。
※07/06/24 04:00下線部修正
引用元の記述(94年のテレビ放送関係の記述)から逆算して、就職後5年目位に読んでいたことを確認しました。上記本の出版年が1993年なので、書店に平積みされていたのを購入したものと思われます。

はじめての現象学
竹田 青嗣 / / 海鳥社
スコア選択: ★★★★★

哲学書の類として、最初に読んだ本。竹田現象学については、この一冊だけで理解した気にさせてくれます。

さらに深みにはまるには、フッサールやメルロ・ポンティ(視覚の現象学)を読み進めることをお勧めします。


竹田氏の「はじめての現象学」を読んだ後、私の中高生時代の悩みの根源に迫るには、現象学というものを勉強する必要があると、フッサールの現象学関連の本を手にしてみたものの、理系とはあまりにかけ離れている分野でもあったため、挫折せざるを得なかったという経緯がある。さらに言えば、「竹田氏の現象学」は、真の現象学とは異なるのでは?という憶測が働いたからでもある。
もし仮に哲学分野に進んでいたならば、竹田氏の元に馳せ参じていたかも知れない。

というのも、フッサールの現象学にて躓いたために、10数年のブランクが空いていた。その後、JAVA系を含めた画像診断系のサイトにするつもりだった「きすぎじねん(来生自然)ホームページ」に自身の思春期から青春期(?)の心の変遷過程を書き始めて、苦手意識の強かった哲学系サイトを巡り渡って後、現象学における竹田氏の立場を(再)認識したからである。

竹田氏の現象学は、略して竹田(の)現象学とか呼ばれているが、その位置づけは下記の記述に明確に現れている。

シリーズ<現在>への問い・「創造力の行方」 、「毎日新聞」2005年10月3日(月)掲載
①ポストモダン思想は終わったのか?

ポストモダン思想は、古典的な絶対的「正しさ」の観念を相対化し、現代社会の「内的な自由」の精神の核心をよく表現したという点で、きわめて大きな存在意義をもっていた。しかし、われわれはいま、それが現代の批判思想として挫折している本質的な理由をよく理解する必要がある。その多様な側面をさまざまにつなぎ合わせて何か新しい思想を生み出せるかも知れないと考える人も多いが、それは空しい錬金術にすぎない。このことの明確な自覚だけが、われわれにチャンスを与えるだろう。私としては、たとえば近代哲学の出発点といった場面まで遡って、もう一度近代の批判思想を再始発させたいと考えている。
http://www.phenomenology-japan.com/takeda/mainichi051003

この立場は、まさに、私や、構造構成主義の立場そのものを表していると言って過言ではないと思われる。

私が、哲学的な領域に足をつっこんだのは、幼少時から宗教と科学との関係、宗教同士の対立といった、父子間の対立が根源にあったからであり、当初は、どちらかといえば、宗教的な領域の書物を主体に思考を巡らせていた。特に仏教思想の中でも原始仏教に近い領域に関心を抱いた。そのなかでも哲学としての仏教的思考(とくに、岩波文庫「ブッダの言葉スッタニパータ)」中村 元訳での、「八つの詩句の章」)では、上記竹田氏の考え方に繋がる「最上に関する八つの詩句」が記載されており、今でも、思考の源泉の一部となっている。(内、4つを引用)
※直接の引用元はhttp://sugano.web.infoseek.co.jp/index.htmである。このサイトでは中村氏の「ブッダの言葉」から引用しているとのことであるが、一部異なる部分がある。07/01/01 02:22

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
※06/12/31 09:45追加、同:「並ぶ応答-小編」(上記8つの詩句の章の理論を展開、この後、並ぶ応答-長編が続く)。今回の論旨において、こちらの「並ぶ応答-小編」の方が分かりやすいと思われたため、追加しておきます)。
878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?
880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。
882 諸々の愚者が相互に他人に対していうことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか?
884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。
885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? かれは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?
886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。
891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。
893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

この部分は、形而上学的な論争を避けるという主旨になるだろうが、「この」私・人間という「いま・ここ」を離れてしまうと、虚無思想に繋がりかねない。

仏教には、「般若心経」での有名な文句「色即是空・空即是色」があるが、よく、質量エネルギー(E=mc2)と対比させて捉えられている。すなわち、物質がエネルギーへと変化し、エネルギーが物質へと変化しうることから、時間軸を無視した状態をイメージすることに繋げて、時空概念(「いま・ここ」概念)から自身を切り離す(知的切断)するための手段・概念として解釈されがちな部分である。

この「色即是空・空即是色」の一側面的(知的切断的)な解釈は、「いま・ここ」を離れるがゆえ、虚無思想へと落ち込んでいく。
※06/12/31 10:00追加
特に、886にて「世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。」を読むと、そのような考えに囚われてしまいがちになるだろう。
※06/06/23 06:00補足・追加
884 での「真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。」
ここで、「真実」と「真理」とを使い分けていることに注意してください。
「真実」とは解釈(主観)によらないものですが、「真理」は解釈(主観)に依存します。
したがって、総体・全体(真実)は一つであるにも関わらず、その解釈(真理)が多岐に渡る場合のことを指しています。特に、形而上学的存在(神、真理など)の有無が該当するでしょう。そういった意味で、ここでの「真理」は本ブログでの「知的切断」に相当します。
2007/07/02 22:10追加
更に言えば、上記(主観性を有する私を含む)「真理」は、構造構成主義における、関心相関性にて立ち現れてくる構造に相当することでしょう。

虚無思想は、「風の谷のナウシカ」(コミック版、原作版)でも的確に描出されており、同じ教え(知)を共有していても、その「教え」を貫く「情」の方向性が「生きようとする」方向を向くのか、「滅びようとする」方向を向くのかにて決定的に異なることが、主人公ナウシカの心情を通じて、ひしひしと読者の心に訴えかけてくる。

話が虚無思想に逸れたが、仏教の根本思想について、(「いま・ここ」に相当する柄谷氏の)「この」性への立脚点にて、ポストモダンを経由した視点から記述している文章をネット上でも見ることができる。
仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しかし、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。
(柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間Ⅱ-18』太田出版)


である。
※06/12/31 10:00追加
上記は、引用のリンク先を見られても分かると思うが、「浄土真宗の仏教青年Q&A 魂という概念」にて記述されている。浄土真宗の概念が日本一般における魂・輪廻観と異なっているというところが、様々な境界を生み出し、問題を引き起こしているというのも、また、深く考えるべき問題であろう。

※07/06/24 03:10 補足・追加
上記文中、哲学的な専門用語が散見されるので、背景となる思想を紐解いてみるのもいいかと思われます。
1.(諸関係)の束 --- ヒューム(知覚の束)、メルロ・ポンティ(機能の束)
2.ディコンストラクト(再構築) --- ジャック・デリダ

このあたりの「魂」「輪廻」という概念は、日本における通俗的な仏教解釈での扱いと異なり、原始仏教での扱いであるので、注意が必要である。

日本では、仏教がどちらかといえば死者・死後のものという感覚が強いが、上記「輪廻・魂」概念を読めば、「ブッダの言葉」の「洞窟に関する八つの詩句」

779 思いを熟知して、流れを渡れ。聖者は所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。
における、「この世をもかの世をも望まない」という言葉を、より強烈な「情のほとばしり」として読み取ることができる。

これは、通俗的な仏教的「ない」に否定的な感覚を覚えて人生そのものを否定的に見るか、原始仏教的に(否定神学的に)「ない」を捉えて人生そのものを積極的に見るかといった(方向性の)違いに繋がる。私的には、後者として読み取ることを選択しているが、両者の読み取り方のどちらが誤りといった概念では捉えてはいない。

以上、ざっと竹田現象学を中心にして自身の思考の変遷過程を追ってきたが、その途中で柄谷氏や竹田氏、東氏といった現代の日本の思想家の諸概念に触れることができ、自身にとって比較的有意義なネット生活を送ることができたといえる。

しかしながら、ネット社会は人と人の境界、特に、年齢・経験方向(上下方向)の境界を取っ払う作用が強すぎるため、竹田氏が危惧しているポストモダン以降の問題点に直結している(このあたりは、東氏の記述にても読み取れる)。

逆説的に言えば、私が、私自身の思考を、「この」私の考えとして書きつづることができるのは、まさに、そういったネット社会以前に十数年かけて悩み続けてきたからである。(この「である」は、「いま・ここ・この」私を、ネット社会が十数年早く浸透していたならという条件下での「仮想の」私と交換することが不可能であるゆえ、断定的にしている)

いずれにしても、「いま・ここ・この」を離れては、移動することができない「知」は上下方向(ツリー的)へも、水平方向(リゾーム的)へも動きうるが、それを貫き通す「情」の方向性も同時に意識すべきなのだろう。

※06/12/31 10:40追加 16:45修正
いや、「知」でのみ捉えた場合に方向性のない切断面(概念・構造)と化してしまうゆえ、総体としての「情」が見失われるに過ぎない。「情」は、まさに「いま・ここ・この」私が、たとえば「ブッダの言葉」を読んだり「風の谷のナウシカ」を読んだりしたときに、多義図形的に立ち現れてくる関係性と総体(構造構成主義での言葉を借りれば、関心相関的に立ち現れる現象・解釈と構造、いや、それだけではない意識されない領域にも)に含まれており、元来切り分けられるものではない。

水平的・垂直的に交わる知的平面(私の記述しているもの全て、そうして、竹田氏の現象学をはじめ、構造構成主義といった記述可能な全てを含む)が(総体と切り離せない)情的方向性を切断するというのは、そういった概念である。情を含めた総体が分離不可能(交換不可能)であり、それゆえ共感可能性と共感「不」可能性を有しているのが「情的方向性」であるということになる。


※07/06/24 03:30 補足
竹田氏の現象学については、様々な本が出ていますが、現代思想との関連から読みたいのであれば、たとえば、下記の本が参照になると思います。
わかりたいあなたのための現代思想・入門
小阪 修平 / / 宝島社
スコア選択: ★★★★

(竹田の)現象学を中心に、実存主義、記号論、構造主義、ポスト構造主義について、代表的な思想家同士の関連図を絡めながら、比較的分かりやすくまとまっています。
[PR]
by kisugi_jinen | 2006-12-30 05:35 | 思考。。。 | Comments(9)
サンタさん。。。共同体概念。。。スピノザの神。。。
すでにクリスマスの季節を過ぎてしまいましたが、この時期になると決まって「サンタ論争」がどこからともなく勃発します。

ひょんなことから、mixi内部の、とあるトピにて扱われていたので、現時点での私の考えを書き込みました。以下、一部(mixi内部での引用)を変更したものです。

===
「サンタさんからプレゼント」というメッセージを子供たちに投げかける大人がいる限り、「サンタさん」という概念は決して消え去りはしないでしょう。その「概念」が共有可能である限り、「サンタさん」は「神」のごとく否定神学的に存在し続けることになるでしょう。

否定神学と交換可能性との関係。。。
ナンシーの原著が手元にないので。。。

で、べつに「サンタさん」でなくても良かったはずだと思います。

親が子にご褒美をあげたいとき、特に、家族という<共同体>にて共有される仮想的・幻想的な<中心>という概念を経由してプレゼントをしたくなるときがあるかもしれない。
<誰から>?といったとき、<家族>からのプレゼントになるでしょう。

<キリスト教>を信仰している<共同体>であれば、自然とその<中心>である<神>からになるでしょう。

たとえ、親が購入し、子供に与えるとしても、そのプレゼントは<サンタ・クロース>からのプレゼントだといい続けられるわけです。既存の概念としての<サンタ・クロース>が否定されたとしても、別の物語が<サンタ・クロース>を復活させうることになるということです。

たとえば、<共同体>がオリンピックという概念の時には金メダルの授与式に相当するような行為をしたいときに相当する。いったい<誰が>その金メダルを与えたのか?
授与式での代表者が与えたのか?
点数を出した人が与えたのか?

おそらく共通認識されるところとすれば<共同体>であるオリンピックが与えたということになる。法人・県・国に相当するでしょう。<共同体>が何がしかの行為を行ったとき、代表者がその中心概念を経由して行為しているかのごとく扱われます。これらは明示的な「存在」としていいでしょう。そのような「存在」を否定してしまえば、「誰から?」が不在になってしまう。

そういった<共同体><中心>概念を皆が共有できるということと、サンタさん概念を共有できるということとは不可分でしょうし、<共同体>があるかぎり、その<中心>的な概念は「存在する」わけです。明示的な場合、法人格みたいなものでしょうし、暗示的な場合、「神」や「サンタさん」になるでしょう。
===
<共同体>として何らかの行為が行われるとき、その行為を発動する基準が、<共同体>内部でも、外部でも通用するように設定されているならば、問題は発生しないでしょう。たとえば、オリンピックの金メダルの様な点数制度。しかし、審判の判断基準で揉めることがありますが。。。

<共同体>内部でしか通用しない基準の場合、その行為が外部にまで影響を及ぼし、かつ、危害をおよぼすならば、外部からは攻撃されうるでしょう。(オーム真理教関連事件など)

<共同体>内部でしか通用しない基準であり、かつ、外部に影響を及ぼす基準であったとしても、何の問題もないかの如く、外部側が受け入れてしまうことがあるでしょう。

「サンタさん」の日本における連綿とした受け入れは、まさにこのような事例に相当すると思われます。

<共同体>内部に属する懐疑論者であれば、規則・戒律・教義等を変革する運動を起こすでしょう。現にそうやって分裂していく宗教も多々あるわけです。

<共同体>「外部」に属する懐疑論者であれば、該当する行為自体の概念が「外部」では成り立たないことのみを検証しさえすれば、通常は事足りるでしょう。被害が拡大するということが懸念されるときを除いて、通常<共同体>「内部」でも成り立たないことを検証する必要性はないはずです。なぜなら、「外部」と「内部」とで、共通する・交換可能な法則を前提として懐疑しているわけですから。

しかしながら、ひとたび「内部」に対して検証を行おうとすると、往々にして「共通しない・交換不可能な」法則が「内部」から提示されることがあります。

そういった場合、その「内部」から提示された法則が、「外部」の法則の上位に位置する(すなわち、彼らにとって、「外部」は「内部」の内部にある)かの如く、認識がなされていることが往々にしてあるように思われます。

こうなると、「外部」の懐疑論者は色めき立ちます。「今が叩きどころだ!」と。

で、「サンタさん」という概念に立ち返るとき、時間経過(子どもの成長発育)に伴って<共同体>の内部・外部という概念が変化していくことになるでしょう。上記<共同体>の内部・内部区分が時間軸を無視した水平的なものであるならば、「サンタさん」は垂直的な境界も有しています。

親が外部にあって、子どもが内部にある。そうして、自身の経験と懐疑主義の一端もそこに繋がっている。そうなると、純粋に「外部」の懐疑論者とは言えない分けです。

すなわち、日本における「サンタさん」論争は、ほとんどが一見外部同士の対話であって、世間話の領域を越えないにもかかわらず、「内部」にいる「子どもたち」(自分自身の過去も含めて)を巻き込むわけです。

もし概念としての「サンタさん」の存在を否定しようとするならば、世界中で一斉に「これは、家族からのプレゼントだよ」と言い始めればいいでしょう。

そうすれば、「サンタさん」という概念は消え失せてしまい、<サンタさん共同体>は消え去るでしょう。

はっきりいって、それだけのことですが、でも、それが困難であることは親、特に近所付き合いを大切にするであろう(そういう意味での<共同体>内部にいる)母親がよく知っています。実際に子どもたちが仲良く遊んでいるところにサンタ論争を持ち込むことは憚られるからです。そうして、時間と共に(成長と共に)「自身にとっての最初の懐疑論」として記憶に残るかもしれません。

もし「サンタさん」概念が消滅したとしても、いつか・どこかで・だれかが「タンサ・スロークさんからのプレゼントだよ」と言い始めた途端、タンサ・スロークさんとして「サンタさん」概念が復活するわけです。

子どもには真実を教えるべきだという観点から、一部の人々がサンタさんを否定して子育てしたとしても、「サンタさん」という概念は連綿と受け継がれていくわけです。

ちなみに、我が家での変遷。。。

クリスマス。。。
クリスマス。。。再び。。。
クリスマス。。。再々。。。
子供たちの夢や希望を奪っているもの。。。

===
「存在するか?」と問うとき、少なくとも「2種類」の存在を考える必要があると思います。(少なくともといったのは、哲学的視点にたてば、さらに複雑に分かれるからです)

自然科学的に存在するのか?
概念的に存在するのか?

概念的な存在は架空の存在として、何ら行為は為しえないと思われがちですが、必ずしもそうではないことは、上記に例示しました。端的に言えば、宗教団体の「その内部において」は、信仰対象の「神」は人格相当として存在する分けです。

で、宗教関連での「存在」が懐疑論の対象として扱われるとき、
「神」や「悪魔」が、概念的にのみ存在するなら分かるが、自然科学的に存在するというなら論破してやる!
といった傾向が(懐疑論の一部には)あるように思われます。

しかし、自然科学的に存在するとみなしうる「神」概念もあります。

アインシュタインが信じているといった「神」は、自然科学的に「も」存在するとみなしえます。その神はスピノザの神であり、「物理学的法則」を含みます。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1730729
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6

サンタさんをスピノザの神概念に投影することは困難かも知れませんが、たとえば「親がサンタさんの代理人」という概念であれば、スピノザの神概念に重ね合わせることは可能かもしれません。

たとえば、スピノザの神概念レベルでのサンタさんを思い描きながらプレゼントを渡すとき、あたかも、自然の恵みが自然からプレゼントされるかのごとくにイメージし、それにふさわしいようなプレゼントを用意するならば、そうして、子供たちに、懐疑主義ないし自然や神という概念(たとえば神即自然など)を教える最初の躓きないしステップとするならば、非常に有効に活用できるかもしれません。

いずれにしても、子供たちに「サンタさんからのプレゼント」という言葉を発するとき、親として子供に自身の宗教概念を提示できるだけの覚悟と準備が必要なことには変わりないでしょう。(懐疑主義であっても無神論者であっても汎神論者であってもです)
===
[PR]
by kisugi_jinen | 2006-12-27 04:52 | つれづれ。。。 | Comments(0)
愛国心・教育の方向性としてのすれ違い。。。
脳を知りたいという欲望と不老不死の欲望と。。。

上記における疑問点は、そのまま、国と国との関係にまで及びうるのではないだろうか?

「知」による「全体」の統制という方向性(トップダウン的な方向性)は、二者択一の概念がもたらす究極の状況になるだろう。

国と国とが良好な関係を持ち続けうるのかどうかは、国同士の境界を挟んだ「知的論争」では解決不可能な問題である。

ようするに、脳を知りたいという欲望と不老不死の欲望と。。。にて述べた「このわたし」が、「このくに」であり、「このあなた」が「かのくに」なのである。

「このくに」と「かのくに」とが、(あらゆる物事について)交換可能だという仮想的・幻想的な共通了解の知的合意の平面を目指して軟着陸しようとしても、無理があるのではないだろうか?

すなわち、「このくに・かのくに」の正体が、<共同体>という知的に仮想的・幻想的であって、同時に情的に編み込まれているものである限り、知的な側面でのみ、問題解決を図ろうとするならば、「このわたし」に相当する「このくに・かのくに」は、脳や体から切り離される如くに、民・土地・自然を切り離してしまうだろうということである。
それがたとえ、好戦的であったとしても、自虐的であったとしても、である。

要するに、知的・論理的批判は知的・論理的批判を生み出し、泥沼化することは、常に約束されたことだと言うことになりはしないだろうか?

問題に対する「このくに」と「かのくに」との視線の交錯は、多義図形における「老婆」と「婦人」に相当するであろうし、そうである以上、(たとえば、竹田の現象学的に)そのような構造を作り出さざるを得ない情況を認識し、そういった仮想的・幻想的な知的切断面(形成された概念・構造)を越える「情」を育む努力求められ続けるのだろう

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)

「愛国心」。。。それは「情」であるが故「知」では捉えられないもの。。。
「愛国心」。。。それは「情」であるが故、ボトムアップ的に織りなされるもの。。。
「愛国心」。。。それは「情」であるが故、トップダウン的な「教育」で統制され得ないもの。。。

「愛国心」。。。それは「情」であるが故、ボトムアップ的に希求され続けるとすれば、「愛したくなるような国作り」がなされることを、個々の人々が、政策レベルに求め続けることだろう。。。

したがって

「愛国心・教育」。。。国の内外において、お互いに尊重しあい、助け合い、情を持って接しあおうとするような心が育まれうる教育。なのだろう。。。
[PR]
by kisugi_jinen | 2006-12-22 20:18 | 思考。。。 | Comments(0)
脳を知りたいという欲望と不老不死の欲望と。。。
人はなぜ、「わたし」の根源を知りたがるのだろう。。。

多くの人々は、「脳」を知れば、そうして、「脳構造・脳機能」を人工的に作り出せれば、さらに、記憶を移植できれば、「このわたし」は永遠に生き続けることができると思っているかもしれない。。。

いや、そんなことを思っていないとしても、「何か」を求め続けるということは、その「何か」が得られない限り、永遠にいき続けたいという欲望が背後にあることを意味している。「脳を知りたい」という欲望は、不老不死の欲望と表裏一体のものであろう。。。

一方、「もはや生きていてもどうしようもない」と、「このわたし」に終止符を打てると思っている人もいるだろう。。。

この両者は、実のところ、同じ概念に依拠しているといわざるを得ないのではないだろうか?

。。。

ロボットの体に移植すれば、「このわたし」が永遠に生き続けることができる。
とか
自身の意思によって、「このわたし」に終止符を打つことができる。
とか

一見、何の関係もなさそうな二つの事柄だが、そのどちらもが、「このわたし」というものを、取り出して眺めているかの如く扱っている。。。

果たして、「このわたし」を、本当に「取り出すこと」ができるのだろうか?

「このわたし」の扱いを巡って、哲学の領域でも、さまざまな考えが飛び交っている。。。

カントの先験的哲学が表現する「超越論的動機」に関して、”誰もメタレベルに立てないという原則の確認”といった解釈もあるが、妥当とはいえない。それが意味するものは、当時の文脈に即してより正確に言い直せば、誰も「主観」の外に出て「客観」を直接確認できないという認識論的原理の確認であり、認識問題はこの前提の上でのみ構想されねばならないという思考原則の提示である。「言語的思考へ、脱構築と現象学」、竹田青嗣、径書房p.90-p.91


竹田氏の「主観・客観」概念では、主観と客観との間の切断が(認識論的に)不可能であることが示されている。

いや、むしろ、柄谷氏の「この」性(this-ness, 単独性singularity)が適切だろうし、よりわかり易い。

私はここで、「この私」や「この犬」の「この」性this-nessを単独性singularityと呼び、それを特殊性particularityから区別することにする。単独性は、あとでいうように、たんに一つしかないということではない。単独性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体性である。、「探求II」、柄谷行人、講談社学術文庫


もし、仮に、「このわたし」を移植し続けることで、永遠に存続させることができるとする。「このわたし」の体は、脳を含めてすべて失われ、まったく別の体・脳に移植されたとする。そのときに、「このわたし」は、それまでの「このわたし」と同じなのだろうか?

もし、仮に、「このわたし」に終止符を打つことができたとする。「このわたし」は、体・脳を残して、永遠によみがえることができなくなったとする。そのときに、「このわたし」を存続させてきた体・脳は、「このわたし」には、もはや何のかかわりもなくなったものなのだろうか?

両者ともに、同じことを述べ立てている。
脳や体は、「このわたし」を成り立たせるための手段にしか過ぎず、使い捨てが可能であり、取替え可能な物質に過ぎない。「このわたし」が最終的に絶対優位なのであって、脳や体は、「このわたし」の欲望のためには、どのように扱われても、文句は言わないし、言えないのだ。
と。。。

それが、如何に「非道徳的」で「非倫理的」かという議論以前に、考えるべきことがある。

本当に、「このわたし」は、他から切り離すことが可能なのだろうか? と。。。

※2012/07/21 11:35 追記
もう一つのリンクを埋め込んでおきます。
こちらの方が、より本質的かもしれません。
「本当の私」という知的切断面。。。
http://jinen.exblog.jp/3446167/

[PR]
by kisugi_jinen | 2006-12-22 06:44 | 思考。。。 | Comments(4)
記事を見て不安になられた妊婦の方々へ。。。
※06/12/21 03:10 リンク関連を追加
産経新聞での記事(IZA版)が気になります(産経のホームページ版)。。。

歯周病を超音波で捉え、可聴音に変えて診査するシステムの紹介文の中で、
通常、骨の状態はエックス線で検査するため手間がかかる上、被曝(ひばく)の問題で妊婦は検査を受けられない。

と記述しておられるからです。

国家試験で出されたら、はっきりと「×」になるところです。

装置を開発した方から間接的に漏れ聞く状報では、誤解を招くように発言を大幅に変えられた部分だといいます。

結論から言えば、
妊婦であっても、口腔のエックス線検査は、何の心配もなく受けることができる。
です。

※06/12/14 05:20追加
以下、線量比較を簡単にするため、頭部・口腔・胸部の単純撮影に限定しています。他部位やCT検査の場合、値が異なるので、ここでは言及しません。

自然に浴びている放射線の線量と比較し、頭部・口腔・胸部のエックス線撮影にて胎児ないし生殖腺が浴びる線量は、それ以下になります。具体的には、1年間に浴びる自然放射線量が2.4mSvとして、1日あたりの自然放射線量は6.58x10-3mSvとなりますが、頭部・口腔・胸部での撮影にて胎児や生殖腺が浴びる線量は同等以下(具体的には1x10-3mSv以下)になります。
※胸部については胎児の浴びる線量は0.01mGy以下でした。(←07/06/27 05:00追加・訂正)
また、自然放射線の内、大地からのものは、地方によって異なり、日本の倍以上の線量を浴び続けている人々(インド中国)もいますが、発ガン率に差はなく、健康上なんら問題は認められていません。
さらにいえば、妊娠した状態で飛行機で移動する場合、自然放射線量が増加しますが、この量は、歯のエックス線検査で胎児が受ける被曝量を越えてしまうほどです。
従って、口腔・歯のエックス線検査を受けることで、胎児への影響を心配することは、日常生活で常に浴び続けている放射線(エックス線を含む)を心配しなければならないことになり、妊婦にとって、如何に精神衛生上不健康な状態に置かれるかということを認識すべきだと言うことです。
---06/12/14追加分ここまで



女性の腹部に関する有名な法則(でしたが、現在は過去の遺物として有名)は「10 days rule」があります。

防護関係では分かりやすい書籍を多数発行しておられる草間朋子著の「あなたと患者のための放射線防護Q&A 」や、ネット上では、エーザイの「画像検査と妊娠」というQ&Aでも明記されていますが、直接腹部に照射されるエックス線検査でないかぎり、何ら心配はいらないのです。ICRPという国際機関が1999年の勧告し、、「妊娠と放射線」(日本アイソト-プ協会、2002年)と題した翻訳本にて記述されている
毎年数千人の妊娠している患者さんや、放射線従事者が被ばくしている。しかし、知識の不足ため大きな不安とおそらくは、不必要な妊娠中絶が生じている。妊娠中絶は、多くの要因が関係する個人的な決定である。しかし、放射線診断に伴う胎児被ばくの線量が100mGy未満の被ばくでは、放射線リスクを妊娠中絶の理由としてはならない。なお、妊娠している患者さんに対しては、胎児被ばくによって発生するからも知らない放射線影響について知らせる権利がある。また、放射線診断の専門家は、不必要な不安を与えないために、放射線の胎芽および胎児への影響について熟知しているべき
は、重要な文章です。(医療放射線に関する情報、妊娠と放射線 :菊地 透氏のサイトから引用)

これらの経緯は、ICRPの勧告の変遷と国家試験問題の見直しがそのことを物語っております。

もし、上記産経新聞の記事を見て、不安に感じられる妊婦の方がおられたりしたら、その「心配」が胎児に悪影響を及ぼすということになります。

場合によっては、妊娠中にエックス線撮影したことを親戚に責められたりするかも知れませんが、このページからのリンクをたどって情報を提供してあげてください。
また、無知が原因で、堕胎に及ぶかも知れませんが、そんなことがないことを祈っております。

「妊婦・被曝」という境界を越える情を持ち得なかった(「情報」不足であった)記者は、その境界に区切られた範囲内での「状報」のみに頼って、記事をふくらませすぎたのでしょう。。。


最後に
「妊娠と放射線」フォ-ラム(2003.2.14) 要旨集の原稿
なぜ妊娠可能な女性と胎児の放射線防護を考える
自治医科大学RIセンタ- 菊地 透
からの引用にて締めくくっておきます。

放射線診断に伴い胎児が被ばくを受けた場合、患者さんが必要以上に心配し、不安感があるにも拘わらず、医療関係者が必ずしも適切な対応を行っていないことは、長年にわたる患者さんからの相談を通じて痛感する。また、残念なことに患者さんも意図しない妊娠に対しては、放射線の被ばくを理由に妊娠中絶を選択する場合もある。
古来、妊娠と出産は、女性にとって人生最大の喜びであると言われてきた。しかし、生まれてくる子供への期待が大きいだけに、妊娠期間中に妊婦が感じる不安も大きくなる。妊婦の健康保持のために必要な放射線診療が、放射線の影響に関する誤解や不適切な説明のために、いらざる不安で妊婦を苦しめたり、不幸にも妊娠中絶の選択を強いることのないようにすべきである。また、少なくても100mGy以下の胎児被ばくの放射線を理由に、妊娠中絶をしないために何をすべきについては医療関係者ばかりでなく、妊婦を取り巻くさまざまな人々の暖かい理解と協力が必要である。


参考サイト
放射線科学センター
北里大学病院放射先部・医療の中の放射線基礎知識
独立行政法人科学技術振興機構(JST)原子力図書館(げんしろう)
← サイトの変更に伴い、下記に変更になっています
原子力百科事典(ATOMICA) (本ブログ内のリンク更新:08/01/10 01:00)
※07/01/10 05:47 補足

Sv(シーベルト)とGy(グレイ)という単位が出てくるが、診断で使われるエックス線に限って言えば1Sv=1Gyとしていいです。

※07/01/22 19:15 補足の追加

1Gy=1Svとしたが、一般的にはこれは、確定的影響に対しての指標(等価線量)※1において意味がある。確率的影響については、実効線量※2が用いられるが、胎児に対しては、全身均等被曝相当とみなせるため、こちらも1Gy=1Svとしていい。
※1
吸収線量(Gy)に線質係数を乗じた値。通常のエックス線検査の場合、線質係数は1であるため、1Gy(吸収線量)=1Sv(等価線量)となる。
※2
実効線量とは、等価線量に組織加重係数を乗じた値になる。
組織加重係数とは、全身に均等被曝したときの組織の受ける損害(確率的影響)の比率であり、全身を1としたとき(すなわち総和を1としたとき)の各臓器の値となる。


ちなみに、たとえば、成人頭部のCT検査においては、換算において1Gy=1Svは用いることができない。(したがって、1Gy≠1Svである) ← 07.01.26 02:11、この行訂正しました。

エックス線検査での線質係数=1と組織加重係数(全身均等被曝を1として比率を出しているため、1以下)を乗じた値になる。たとえば、脳の場合、WT0.01であり、骨髄では0.12である。被曝した局所ごとに組織加重係数を乗して得られた値の総和が、当該被曝における実効線量(Sv)になる。
<参考>
ICRP Publication 60 、国際放射線防護委員会の1990年勧告 (国際放射線防護委員会(ICRP)著、日本アイソトープ協会 翻訳・発行、1991、 丸善)

放射線審議会第87回総会議事次第 [資料第87-5号]
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/housha/ssiryo87/04080301/005.htm

[PR]
by kisugi_jinen | 2006-12-06 14:07 | つれづれ。。。 | Comments(0)
水平的(リゾーム的)であることと、垂直的(ツリー的)であることと。。。
善悪の概念、否定神学のごとく。。。
にて、記述したが、昨今の子供向けヒーロー番組の多くは、大人の複雑な思考・思念を織り込んでしまっている。通常、子供たちが成長して行く過程で、自身が経験し、反抗期という「知・情」の相克・葛藤・融和などといった状態・情態(平たく言えば、青春時代を経て大人になるという過程)を経て、自身の考えとして身につけて行くべきものが、思考が開始される時期から、そのまま流されているものを享受可能なわけである。

哲学の領域では、ドゥルーズ・ガタリのリゾーム的な思考がでてきているが、本来、これらは、垂直的(ツリー的)な思考を否定するものではないと思う。「一つの側面として、そういった考え方もあるよ」というに過ぎないのだと思う。

にもかかわらず、東氏の動物的という概念が現代社会に当てはまってしまいうるのは、垂直的な方向性を越えることができず、一側面でしかない「水平的・リゾーム的」な方向性のみに安住しやすくなっているからではないだろうか?

これは、格差社会とか、2極分化とかいった現象と不可分なことなのかもしれないし、若年者での犯罪の増加と関連しているかもしれない。

本来ならば、「垂直的(ツリー的)な見方」へと自身の力で登りこんでからこそ、「水平的(リゾーム的)という見方」が意味を持ちうるにもかかわらず、「水平的(リゾーム的)」な思考のみにて、思春期を越え得ない人々が増えてしまっているのかもしれない。。。
[PR]
by kisugi_jinen | 2006-12-03 05:17 | 思考。。。 | Comments(2)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
検索
カテゴリ
最新の記事
お知らせとリンク。。。
お知らせ
●コメントスパム対策のため、承認制に変更しました(2010.09.29)
●トラックバックのリンクチェック機能を追加しました。excite以外からのトラックバックをされる場合、当該記事へのリンクを埋め込んでください。
リンク
ゲストブック
---全体的なコメント等は、こちらへどうぞ。。。
来生自然のホームページ
---私の知の思想史。。。
鉄鼠
---「考える」ということに向き合う。。。
Genxx.blog
移転後http://blog.genxx.com/
---「情」を含めて専門的な立場から「こころ」を模索し続けるGenさんのブログ。。。
研幾堂
---山下裕嗣氏による哲学のサイト。以前、形而上学についてやりとりさせていただいた。
記事ランキング
最新のコメント
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 01:29
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 03:51
kisugi_jinen..
by Kandomonmasa at 14:28
> SumioBabaさ..
by kisugi_jinen at 10:41
「神」を完全に解明しまし..
by SumioBaba at 05:06
最新のトラックバック
venuspoor.com
from venuspoor.com
venushack.com
from venushack.com
whilelimitle..
from whilelimitless..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
以前の記事
フォロー中のブログ
外部リンク
ブログパーツ
ライフログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧