AX
<   2006年 11月 ( 6 )   > この月の画像一覧
知情意。。。多重知能。。。
「知情意」にて検索をかけていたら、(ガードナーの)多重知能(MI:Multiple Intelligences)や情動的知能(EI:Emotional Intelligence)という言葉が見つかった。さらにMixiでのやりとりにて、前頭前知能指数(PQ:Prefrontal quotient)なるものの存在を知り、「私の感覚で」、知情意との関係、さらには、これまでのこのブログでの知的切断面、情の扱いを含めて図にまとめてみた。
なお、EQやPQのQはquotientなので、評価可能な指数を意味するため、評価対象側としてのEI(Emotional Intelligence)など、Iを使うこととした。

b0032038_55833.jpg


※07/08/04 07:11補足
この図にて、実質的に「脳」は、「(脳)科学的に扱いうる切断面」そのものである。
「意識」だと認識されたり、「情」だと認識されうるものは、「脳」にて「知覚されるもの」であり、本来の「意識」や、本来の「情」ではない。(※1)
しかしながら、このことをもってして、「脳」や「実体」と離れた「意識」や「情」を想定しているわけではない。「意」や「情」だと認識されるものがあるということは、「知」だと認識されるものがあるのと同等に「ある」ということ以上のことは言っていない。(※2)
たとえば、認識される「情」というものが、家族に対する愛情であったり、恋人に対する愛情であったり、故人に対する情念であったりするわけである。それら「認識された情」が、「脳内にて知覚されるもの」そのものだといわれたら、皆憤慨するであろう。かといって、脳機能が失われた場合などに、そのような情を抱くことができなくなったのなら、「脳内にて知覚されるものである」として、納得するであろうか?
「情」や「意」というものは、脳機能と密接に関連しているからこそ、脳機能と離れることができないにもかかわらず、脳機能内部にとどまらないというならば、いったいどのようなものをさすのであろうか?
「意」にしても「情」にしても、脳機能の一部機能である「知、特に、意思の疎通としての言語機能」を介在することで、共通の概念・構造として認識しうるわけである。

多重「知能」という概念のすばらしいところは、そういった対象を「科学的に」処理可能なものとして「知能」というレイヤーを想定し(いや、限定し)ていることに尽きると思っている。

上記図は、そういった意味での概念図である。

07/09/19 01:40 補足・追加
※1:このあたりは、狭義の情、広義の情、知的切断面、境界について。。。を参照してください。
※2:構造構成主義的表現をとるならば、「知情意の概念(構造)は、そういった概念(構造)を考える「わたし」(自己認識する主体)に対して、関心相関的にたち現れる」となるでしょうし、私的表現をとるならば、「知情意の概念(知的切断面)は、そういった概念(知的切断面)を含む多義図形的概念の、まさにその概念を「わたし」(自己認識する主体)が選択していること・認識していることになる」です。


参考サイト
http://www.emotionaleducation.net/special/01.html
「教育におけるEQの可能性を探る」
http://www.jil.go.jp/column/bn/colum017.html
独立行政法人 労働政策研究・研修機構/コラム
情動的知能と職業

http://www.school.hyogo-u.ac.jp/element/study/human.html
兵庫教育大学附属小学校

http://karin30.flib.fukui-u.ac.jp/kiyo/2004/onogi.pdf
情動知能指数(EQS)と自我態度スケール(EAS)および
短縮版ネオ人格目録改訂版(NEO-FFI)間の相関的関連性
大野木裕明

http://www.flib.fukui-u.ac.jp/kiyo/2005/kiyo-4.files/oonoki.pdf
EQS(情動知能指数)とFFPQ(5因子性格検査)間の相関的研究
大野木裕明

http://elekitel.jp/elekitel/sci_talk/cont99/ai/ai01.htm
情動システムと人工知能の心
無意識の世界が感情をつくる Chap.1
http://elekitel.jp/elekitel/sci_talk/cont99/ai/ai02.htm
情動システムと人工知能の心
無意識の世界が感情をつくる Chap.2
Presented by 『ゑれきてる 1999 第75号』

PQ Prefrontal Quotientについて
http://www.sony-ef.or.jp/preschool/jissen/2003/moiwa_koen.html
ソニー幼児教育支援プログラム「科学する心を育てる」
もいわ幼稚園実践交流会開催レポート
記念講演
「子どもの脳をいかに育むか」
北海道大学大学院医学研究科脳科学専攻
神経機能学講座 高次脳機能学分野教授
澤口 俊之氏

=====
06/11/30 19:16 追加
06/12/02 08:30 More形式から通常形式に変更

前回上述の「私の考え」は、一つの概念であり、知的切断面・だまし絵的な像になる。
はっきり言ってしまえば、知的切断面・概念としての上記図は、見る人によって下記の如く複数の静的概念(多義図形の各々)になるであろう。
「わたしのこころ」とは、まさに、「個々の心」であるがゆえ、共有不可能であり、境界が「無数にある」ことになり、同一の人であっても時間経過によって「動く」ものなのである。

b0032038_19155927.jpg


最も広い領域を「わたしのこころ」として捉えると言うことは、
1.交換可能であるという場合、科学的な客観性にて全て記述可能という概念になる。
2.交換不可能という場合、哲学的な狭義の独我論の概念に相当するであろう。

(狭義の)「情」(関連性)を含む・含まないという境界の揺れは、現代社会における、情報・状報の使い分けがなされないままの状態・情態に相当するであろう。

もっとも狭い範囲としての「意」の領域を選択した場合には、科学的客観性に対して「自由意思」を死守したいという思いがあるかもしれない。

どれが正しくて、どれが誤っているのだろうか?

無論、「私が提示した概念図」そのものが誤っている可能性もある。
しかしながら、「何らかの概念図」がある(もしくは、「ない」)ことを、知的・幻想的に共有することが可能であるならば、その「概念図」に対して、上記のように「多義図形」としての重ね合わせを考えざるを得ないわけである。
なぜならば、それぞれの人が、それぞれの思いで、自身の心を「わたしのこころ」として、認識しているわけであるから。。。

※06/12/02 09:25
「こころ」を脳の機能として捉えたとき、すなわち、上述の図全体が脳内での思考から離れることができない(すなわち概念=知的切断の限界な)わけですが、逆説的に言えば、そうであるからこそ、認識論的唯脳論はありえても。。。存在論的はありえない。。。にて記述したように、「存在の全体性」が立ち現れてくると思います。
ただし、だからといって、「独我論」単独に陥るわけでもないのです。そういったことについては、下記を参照してください。

「わたしのこころ」については、「わたし」という存在について。。。を参照してください。
「わたしのこころと境界」については、主観と客観と交換可能性。。。交換可能性と切断面(境界)の移動。。。を参照してください。
また、私の考えるところの「こころ・たましい」の概念の変遷については、出会い。。。3。。。心と魂と。。。1。。。を参照してください。
「わたしのこころ」の極小方向への思考については、主観と客観と交換可能性。。。を参照してください。
「わたしのこころ」の極大方向への思考については、こころ。。。関連性の束縛を越えて。。。1。。。を参照してください。
「こころの定義」についての考察については、こころの定義と物理学的相互作用と。。。を参照してください。

[PR]
by kisugi_jinen | 2006-11-30 04:54 | 思考。。。 | Comments(8)
目次:情。。。思考編。。。
私が扱っている「情」とは、シニフィエとかシニフィアンとか言ったレベル(意味・記号といった知的に扱えるもの)ではなく、また、「わたし」と「対象」とをつなぎ合わせている「関係」でもない、強いて言えば、「わたし」・「対象」・「関係」の切断不可能な全てをつなぎ止めているもの(というより全体そのもの)であり、あえて言えば「総体」と呼ばざるをえないものである。
シニフィエ・シニフィアンというレベルは、そういった「総体」を知的に切断した断面であり、相互認識可能(交換可能な状報)にしか過ぎない。。。

切断された情の行く末。。。
個人情報保護法。。。個人状報保護法。。。境界と越えるものと。。。
出会い。。。3。。。心と魂と。。。2。。。
知・法の境界と心・情の境界と。。。
概念、静的・動的、客観・主観、知・情・意。。。
こころ。。。関連性の束縛を越えて。。。1。。。
「わたし」という存在について。。。
大量移民の可能性と切断された情。。。フランスとの対比。。。
ナンシーの原著が手元にないので。。。
フランスの暴動。。。そして日本。。。
境界をなくした男。。。なのか。。。麻原彰晃。。。
母親に対する毒盛り事件。。。
越ええぬ思い。。。越えうる思い。。。
情の2方向。。。共有可能性・交換可能性・共感可能性の高さ。。。
情。。。ポストモダン。。。動物的。。。
二つの絶対優位性。。。無知の知と哲学との差異。。。
情と情報と状報と。。。
言葉という知的切断面と情。。。
境界。。。二つの方向性への移動と「だまし絵」。。。
情と知(概念)との編みこみの並列。。。
共同体の2重の壁。。。
思いとしての二元論と交換可能性としての二元論。。。
「知」にて捉えることが困難な総体としての「情」。。。
共有可能性と不可能性。。。
記号化可能=状報、記号化不可能=情報。。。
知的切断面と情と。。。
情の知的分断と情への回帰。。。そして排除の可能性。。。相補的。。。
情と状と心と。。。更なる考察。。。
女性と男性の共同体。。。
言葉遊び・ふたたび。。。
「情」の知による表現とその限界。。。
デリダの死。。。「存在論的、郵便的」(東 浩紀)を読み返して。。。
情と知。。。
知と情。。。そして意。。。

===途中===
[PR]
by kisugi_jinen | 2006-11-26 11:35 | 目次。。。 | Comments(0)
目次:境界。。。
ダブルスタンダードと境界。。。エレベータ問題と医療との関係。。。
出会い。。。3。。。心と魂と。。。2。。。
無常な結末にならないための、伝言ゲームに対する案。。。

ネット参入時にお世話になった方にお会いして。。。
「こころ」の能動性・内発性・主体性。。。そして閉鎖系と開放系。。。二元論と一..
名古屋コーチン卵八丁味噌いちじくブッセ。。。新潟・イタリアン。。。
個人情報保護法。。。個人状報保護法。。。境界と越えるものと。。。
===編集途中。。。
[PR]
by kisugi_jinen | 2006-11-23 00:48 | 目次。。。 | Comments(0)
目次:交換可能性。。。
交換可能性を含んだ投稿リスト

※交換可能性とは、科学的には、「客観的に扱いうる(性質)」と同義である。

私の私に対する交換可能性と絶対優位性。。。
主観と客観と交換可能性。。。
私の考えの「にこごり」。。。
確率における従属・独立と共時性・シュレーディンガー方程式。。。
否定神学と交換可能性との関係。。。
天動説と地動説と相対性と。。。
「対立がない」という対立。。。
思いとしての二元論と交換可能性としての二元論。。。
境界。。。二つの方向性への移動と「だまし絵」。。。
交換可能性と切断面(境界)の移動。。。
境界と密度と素通り。。。
「爆心地から遠く離れて」を見終わって。。。
情の2方向。。。共有可能性・交換可能性・共感可能性の高さ。。。
自己責任と参拝と。。。
糊を使わないで作るメビウス(メービウス)の輪。。。
責任回避の傾向。。。トップダウン。。。
確率における従属・独立と共時性・シュレーディンガー方程式。。。 追加事項。。。
「わたし」という存在について。。。
「こころ」。。。科学的に扱うことが可能か。。。2。。。
こころ。。。関連性の束縛を越えて。。。1。。。
名古屋コーチン卵八丁味噌いちじくブッセ。。。新潟・イタリアン。。。
二つの量子力学的振動。。。真空ラビ振動。。。粒子・反粒子振動。。。そして「存在」。。。
[PR]
by kisugi_jinen | 2006-11-23 00:28 | 目次。。。 | Comments(0)
切断された情の行く末。。。
人が生まれ、死んで行く。。。
その過程での「知・情・意」の分離が、「生き生きとした心」そのものを作り出している。。。

しかしながら、「知」の「情・意」に対する優位性は、悲惨な方向性へと、人々を誘いかねない。。。

b0032038_6233122.jpg


法制度での「法」は、まさに「知的切断」である。
しかしながら、古くからの「大岡裁判」のように、最終的には人の「情」が添えられることを、人々は望んでいるのだろう。。。

悲惨な事件が報道されるたびごとに、捉えきれない情。。。あふれる思い。。。交換・共感不可能な思い。。。そういったものを「メディア」という衣を着せて流すとき、受け手の人々は、無理やり「交換・共感の可能性」を求め、記号的な意味(シニフィエ)を想像し、シニフィエという「仮面」を被せて受けとってしまう。。。
[PR]
by kisugi_jinen | 2006-11-04 06:33 | 思考。。。 | Comments(0)
個人情報保護法。。。個人状報保護法。。。境界と越えるものと。。。
個人情報保護法を解釈する上で、個人情報というものを、所有権モデルで捉えるとらえ方と、所有権モデルの限界を越えているという考え方があるそうだ。
所有権モデルで捉える場合、このブログで記述してきた「知的切断面」と同様の側面が生まれる。すなわち、「私のもの」という境界が法的に明瞭に設定されるということが、所有権モデルである。
「じょうほう」を「情報」として、すなわち、能変(主体思量識)としての「繋がり合っていて切り離すことのできない心情を含む」として捉えるならば、「所有権モデルの限界を越えている」は当たり前のことになるであろう。
さらに言えば、「じょうほう」を「状報」として、すなわち、「所変(客体印象識)」としての「心情を含まない、知的に切断可能な」として捉えるならば、「所有権モデルとして扱える」は当然のことのように思われる。

※情報と状報、情と状について 2006/11/03 01:57 補足説明
このブログでも情と状の違いや、小野氏の論文について触れているが、方向生として、情報はボトムアップ的であり、状報はトップダウン的であろうと考える。これは、「知」が共通の理解を前提条件にしようとする(すなわち客観的方向性を求める)のに対し、「情」が繋がり合おうとする個々の「こころ」に根ざしている(すなわち主観的方向性を求める)からであろう。。。

日本において、「状報」と「情報」の区別がなくなったまま、今日に至っている状況・情況こそが、本来ならば成立不可能な個人情報保護法を、成立可能(だと幻想的に共有可能)な個人状報保護法として成り立たせているのかもしれない。。。
[PR]
by kisugi_jinen | 2006-11-02 02:24 | つれづれ。。。 | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
検索
カテゴリ
最新の記事
お知らせとリンク。。。
お知らせ
●コメントスパム対策のため、承認制に変更しました(2010.09.29)
●トラックバックのリンクチェック機能を追加しました。excite以外からのトラックバックをされる場合、当該記事へのリンクを埋め込んでください。
リンク
ゲストブック
---全体的なコメント等は、こちらへどうぞ。。。
来生自然のホームページ
---私の知の思想史。。。
鉄鼠
---「考える」ということに向き合う。。。
Genxx.blog
移転後http://blog.genxx.com/
---「情」を含めて専門的な立場から「こころ」を模索し続けるGenさんのブログ。。。
研幾堂
---山下裕嗣氏による哲学のサイト。以前、形而上学についてやりとりさせていただいた。
記事ランキング
最新のコメント
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 01:29
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 03:51
kisugi_jinen..
by Kandomonmasa at 14:28
> SumioBabaさ..
by kisugi_jinen at 10:41
「神」を完全に解明しまし..
by SumioBaba at 05:06
最新のトラックバック
venuspoor.com
from venuspoor.com
venushack.com
from venushack.com
whilelimitle..
from whilelimitless..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
以前の記事
フォロー中のブログ
外部リンク
ブログパーツ
ライフログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧