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<   2006年 08月 ( 12 )   > この月の画像一覧
perl。。。覚書。。。1。。。
perlでのパターンマッチ・置換の代表であるところの置換演算子
s/パターン/文字列/であるが、どうも、思ったような動作をしなかったので、いろいろ試してみたところ、とんでもない癖があることがわかったので、メモしておく。手元の2冊のマニュアルには触れられていなかったが、おそらく、その道の専門の方々にとっては、既知の事柄であろう。。。

問題点
$obj =~ s/$pattern/$string/
としたとき、$stringに$1,$2などの後方参照が含まれていた場合、評価されない。
対応策
全体をダブルクォートし、eval関数にて評価してやる。
ブロックとしてeval関数にて評価しても、なんにもならない。


$pat = '([0-9]*)\.([0-9]*)\.([0-9]*)';
$str = '$1:$2:$3';

$e = $d = $c = $b = $a = "332.345204.56";

$b =~ s/$pat/$str/;
     #<--- 一見よさげだが、おかしい。
eval { $c =~ s/$pat/$str/ };
     #<--- これでもだめ。
eval "\$d =~ s/$pat/$str/";
     #<--- この形にする必要がある。
$e =~ /$pat/;
$e = $1.":".$2.":".$3;
     #<--- 念のため、パターンマッチと置換とを分離して確認。

print $a."-->".$b."\n";
print $a."-->".$c."\n";
print $a."-->".$d."\n";
print $a."-->".$e."\n";

実行結果
C:\bin>perl test.pl
332.345204.56-->$1:$2:$3
332.345204.56-->$1:$2:$3
332.345204.56-->332:345204:56
332.345204.56-->332:345204:56

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by kisugi_jinen | 2006-08-31 18:38 | program。。。 | Comments(0)
名古屋コーチン卵八丁味噌いちじくブッセ。。。新潟・イタリアン。。。
ネット参入時にお世話になった方にお会いして。。。
にて、横道にそれたついでに。。。

名古屋コーチン卵八丁味噌いちじくブッセ。。。
全ての素材を統一すべき存在であるところの味噌。。。
その味噌の味が、従来の味覚によるブッセの概念(知的切断面)を揺さぶる。。。

イタリアン。。。
ヤキソバの概念(知的切断面)とスパゲッティの概念(知的切断面)を交錯させる。。。

両者共に、情による一つの方向性、たとえば交換可能性・汎化・再構築といった方向性を境界を越えて適応しようとしているかのごとくに映る。。。

乗り越えがたき知的切断面を、あっさりと乗り越えることができたとき、それは、新たな商品として衝撃的なデビューを飾りうるだろう。。。

しかし。。。その知的越境を拒絶しようとする情が働くとき、知的切断面は知的には乗り越えるべき境界ではないということを意味している。。。

すなわち、厳然たる境界として認識すべきなのだろう。。。

そうして、情こそが、いや、まさに情のみが、その境界を越えて行くことが出来るのだろう。。。

※06.08.31 01:20
和と洋の越えがたき境界は、味噌の味とかいった「すべからく和の料理に調和しうる」という感覚を持ちうるものに関しては、特に越えがたきものになるのではないだろうか?

何をもってして「和・洋」の味を分けうるか?というとき、個々の構成要素の中でも、和なら和、洋なら洋の料理において、「すべからく○○の料理に調和しうる」味といった、それぞれの分野内にて広く交換可能な味こそが、本質的なのではないだろうか?

そうして、そのような味というものは、その土地に暮らすものにとっては、ごくごく当たり前すぎて気づくことすらないものになっている可能性が高い。

逆に言えば、そのような「空気みたいな存在」だからこそ、境界の外側との交流が生まれることで、「違う」という概念が呼び覚まされたなら、境界の外側へと持ち出したくなるものなのかもしれない。

そういった「空気みたいな」存在だからこそ、境界を越えることは、もっと大きな壁(たとえば文化そのもの)を越えようとすることに相当してしまうのだろう。。。


※07/02/09 07:15
いや、びっくりした。

「名古屋コーチン卵八丁味噌いちじくブッセ」でググったら、この投稿が2番目になっていた。。。
やたら小難しく書いているので、参考にならないでしょうにね。。。無論、リンク先を見ていただくことになるのでしょうが、「まずい」なんて初っ端に書いてあるので、関係者の方々はドキドキものでしょうね(笑)

と、そうそう、味噌味について、非常に誤解していました。ある日、どこかの料理番組にて、味噌+トマトがマッチするということを知りました。その日には、2本の番組にて同様のことが述べられていたので、びっくりしました。どうやら、味噌のアミノ酸とトマトのアミノ酸とが上手く合うらしく、「和・対・洋」といった観念的な対立のみでは、単純に片付けられないことを知りました。

トマト+味噌でググるだけで、相当量のレシピを見ることができます。

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by kisugi_jinen | 2006-08-29 04:40 | つれづれ。。。 | Comments(0)
「こころ」の能動性・内発性・主体性。。。そして閉鎖系と開放系。。。二元論と一元論。。。
※06.09.22 04:32、下線部・ゴッシク部分追加、※の補足追加

人工知能が「知能」である限り、「こころ」は生まれ得ないかも。。。など、一連の「こころ」に関する投稿は、実のところ、一つのことしか言っていないといえる。

それは、
1.「こころ」に能動性・内発性・主体性を見出すということ
2.「こころ」は開放系であるということ
3.「こころ」は二元論的に捕らえられうるにもかかわらず、総体として一元論的にも扱い得るべきものであるということ

を組み替えては、繰り返していることである。

「こころ」が、物質的側面のみ、科学的知でのみ記述可能だと仮定すれば、以下のように述べることもできるであろう。。。反論は、後で記述する。。。

1.「こころ」に能動性・内発性・主体性を見出すということは、幻影であり、何らかの(内部・外部からの)物理的な刺激によって、そのように見受けられるだけである。たとえば、心筋細胞は、非線形な周期運動同士が相互に影響しあって、一定のリズムを刻み始めるなどから類推可能。

2.「こころ」は、脳の機能的側面であり、強いて開放系として捉える筋合いのものではなく、脳という器官に限局した閉鎖系として捉えても、なんら不都合はない。

3.科学者の多くは、特に、量子力学でのコペンハーゲン的な思考を行おうとする人々は、「こころ」を二元論的に捉えようとしている。すなわち、「こころ」は一元論的に記述可能であるが、閉鎖系ゆえ、「他から切り離してしまうことができる」ということ。

といった、記述である。

さて、上記意見は、正しいのであろうか?

上記意見が正しいと仮定するのであれば、その裏返しに近い下記意見も正しいと仮定せざるを得ないのではないだろうか?

外部ないし内部からの何らかの刺激が「ある」ことによって、「こころ」の能動性・内発性・主体性が生まれうると仮定しても、それら(内部および外部からの)「刺激」を含めて、「こころ」と再定義することが、本来の「こころ」に近いのではないのだろうか?
なぜなら「能動性・内発性・主体性」と呼び習わされていることの原因が、「こころ」の外側にあるとすれば、それは、「受動性・外発性・主体性のなさ」に繋がるがゆえ、本来的な「こころ」とは、いえないのではないのだろうか?(※)

そういった意味から、「こころ」を脳に限局した閉鎖系として捉えるならば、それは、本来的に認識されうる「こころ」から逸脱してしまう危険性を孕んではいないだろうか?それゆえ、「開放系」として捉えるべきものではないのだろうか?

「こころ」が開放系であるならば、それは一元論的であると言うべきなのではないだろうか?逆に、閉鎖系であるならば、それは、二元論的であるというべきなのではないだろうか?
おそらくこのような閉鎖系の幻影が、量子力学系におけるコペンハーゲン的解釈を選択したがる人々にとって、一元論的でありながら、二元論的な方向へ向かわしめる原動力となっているのではないのだろうか?

※06.09.22 04:32補足説明
何度も繰り返してきたが、
内発性・外発性、能動的・受動的を決定する「こころ」の境界を考えるとき、「こころ」を人工的に作ることが出来る(というより、作った上で、管理・制御が出来る)という立場に立てば、「こころ」の内発性・能動性は失われる(すなわち、境界が無限小へ退縮する)。しかし、「こころ」は人工的に作ることが出来ない(ないし、作ることが出来ても、「こころ」が発動したとたん、管理・制御が出来ない)のであれば、「内発性・能動性」の境界は外側へとふくらみ始める。
この境界こそが、「こころ」を定義すると思われる。
エヴェレットの多世界解釈を受け入れようとする人々は、「こころ」を一元論的に扱おうとする人々である。究極の開放系・一元論信奉者といって過言ではない。

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by kisugi_jinen | 2006-08-29 03:45 | 思考。。。 | Comments(5)
ネット参入時にお世話になった方にお会いして。。。
旧:じねん(自然)ホームページ、現:きすぎじねん(来生自然)ホームページ
このサイトを存続させることができた恩人とお会いした。
といっても、2回目になる。

1回目は所用があって名古屋に出向いたとき。
2回目は昨日、先方が名古屋から来られた時だった。

そうそう。。。
お土産をいただいた。

その名も、「名古屋コーチン卵八丁味噌いちじくブッセ」である。

そもそも、1回目に名古屋に出向いたとき、お土産カタログに載っていたものの、
「な、なにこれ???」

と、あまりにものネーミングと、セントレア空港限定販売とのことで、手にする(いや、口にする)ことのなかったお菓子である。

b0032038_4554158.jpg


それを覚えていて(敢えて?)買ってきていただいたということで、ありがたいことである。

b0032038_458232.jpg


いったい、中身はどーなってるんだろ。。。

b0032038_4591780.jpg


ふむふむ。。。

b0032038_512269.jpg


ほほぅ。。。

b0032038_534055.jpg


スポンジ部分。。。卵と味噌が絡んでくる。。。
クリーム部分。。。ん?。。。イチジクのスライスが。。。
さすがに、クリームの代わりに味噌をそのまま入れ込むことができなかったというところだろうか?。。。

う~~~んんん。。。微妙。。。

何も知らない家族の一言。。。「まずい。。。」(※1)

う~~~んんん。。。。微妙。。。

なんというか、ばらばらの味が微妙に個性を主張していて、合いそうにないところを無理やり合わせたという感じが口の中に広がってくる。。。

と、もごもごしながら、表書きを見てみる。。。

「ん?」

b0032038_59878.jpg


どこだろ。。。

ふーむむむ。。。。

b0032038_5101236.jpg


日本語、中国語、ハングル以外は、「卵」と「イチジク」の単語のみ変えれば通用するみたい。。。

。。。と、9ヶ国語目を見つけた?!

b0032038_512234.jpg


いゃー。。。これだけで十分な気もしないではないのだが。。。

八丁味噌と同じ「八」の漢字をつかっているところから察するに「8」にこだわった。。。というところか?

と、写真撮影をしつつ、二つ目をほおばっている。。。

ん~~~~よくわからない食べ物である。。。

微妙なのは、やはり、味噌の味が「ブッセ」という味の概念を、根底から覆しているというところか。。。

和風ブッセ。。。八丁味噌ブッセ。。。いや、名古屋ブッセという新手の食材に分類したほうがいいかもしれない。。。

名古屋の味噌文化って、「イタリアン」に通じるものがあるのかもしれない。。。

おっと、恩人の話をするのを忘れてた。。。

続きはいつになることやら。。。

※06.08.31 01:12
先日(といっても2日前)、残りのブッセを食べようと思ったら、なくなっていた。
「どうした?」
と聞くと、
「食べちゃった」
とのこと。うーーんんん。。。「まずい」といったのは、誰なんだ???

無くなったら、無くなったで、食べたくもなるところが、やはり不思議な存在なのかもしれない。。。

※1 「まずい」について
06.09.06 02:50 追加
書くのは野暮だとは思うのですが、誤解を生むかもしれないので、書いておきます。
上述にて引用している、「イタリアン」内にも記述があるが、「人によっては、まずいと感じてしまう」というニュアンスである。
はっきり言ってしまえば、乗り越えられない境界に対する一つの具体的な表現(知的切断)である。そのくせ、私の留守中に全部食べてしまう(笑)ということは、「おいしかった」の裏返し表現以外のなにものでもない。

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by kisugi_jinen | 2006-08-28 05:47 | つれづれ。。。 | Comments(1)
二つの量子力学的振動。。。真空ラビ振動。。。粒子・反粒子振動。。。そして「存在」。。。
EPR相関とBellの不等式と。。。5。。。

までの一連の投稿でも記述したが、エンタングルメントを感覚的に理解(?)しようとすることが、量子力学の本質を理解しようとすることに繋がるだろう。。。

量子もつれ(エンタングルメント)が光子1つと電流(マクロ)との間で生じる現象を利用した回路が作られているようだ。
マクロな超伝導電流と単一光子の量子もつれ制御に成功

NTTでの記事

ここで、真空ラビ振動というのが出てくる。

量子状態が相互に振動しているというものである。

これとは別に、以前から気になっていたのだがwikiに
粒子反粒子振動
というのが記載されている。

KEKでも実験結果が報告されている。

これが事実なら、「存在に関する」エヴェレット解釈もコペンハーゲン解釈も「粒子の実在説」を中心としている概念が根底から揺るがされてしまうというwikipediaでの指摘である。
※注:2007/05/25 06:20 wikipediaにて編集が繰り返されており、上記"粒子説"に関する文章がばっさりと削除されていました。
編集履歴の
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B2%92%E5%AD%90%E5%8F%8D%E7%B2%92%E5%AD%90%E6%8C%AF%E5%8B%95&diff=prev&oldid=10334502
を参照してください。

確かにそうなるかもしれない。。。(ほんとうだろうか?)(※1)

さて、時間軸方向での反転現象であるが、連続した現象ではなく、離散現象である。粒子・反粒子の間の「中間的な状態がない」ということを考えれば、至極当然なわけである。

これが何を意味しているのか?を考えたとき、時間軸方向の単位が量子力学的に連続として扱えずに、離散的な量として扱うべきなのかもしれないと、ふと思うわけである。

これは、ループ量子重力理論※(空間を連続体とみなすのではなく、量子力学的な単位で構成されているとして離散的に扱う)を採択すれば、矛盾なく理解されうるだろう。。。と、勝手に思っている。。。(笑)

そうして、このことは、ゼノンのパラドックスとも密接に関連してくる。。。

※ループ量子重力理論
量子重力理論---wikipediaの解説
←リンクコピペ時に文字化けしていました。訂正しておきます(07/12/24 22:25)
ループ量子重力理論---吉田伸夫氏のQ&A形式による回答
ループ量子重力理論---wikipediaの解説((07/12/24 22:25追加)

※1 06/09/20 04:03 補足
高速振動が、
1.もし仮に、「規則正しく」繰り返されているのであれば、「規則正しく高速振動させる」何かが「ある」わけである。
1-1.もし仮に、その「規則正しく高速振動する」こと自体が、シュレーディンガー方程式のような「存在確率」の均質性だけに依存しているのであれば、多世界解釈は否定されうるものにはならないだろうし、「存在確率の均質性=規則正しい高速振動」をもたらす「何か」は、多世界解釈を成り立たせうる(量子力学的な確率現象の均質さを保たせるところの)「交換可能性の高さ」と密接に関連することだろう。。。
1-2.もし仮に、「規則正しく高速振動すること自体」が、(多世界解釈の説明可能性よりも、この世界単独での説明可能性にて扱いうる)「観測可能な何か」によって説明されうるとしても、「観測不可能な何か」としての「確率の均質性をもたらすもの」とは関連しないため、多世界解釈を否定する根拠としては使えない。
2.もし仮に、「不規則に高速振動する」としても、時間軸方向にならして見れば、おそらく、2重スリットなどでの実験系と同様、「十分な時間」後には、二つの粒子の存在確率は「等しくなる」であろう。であれば、「不規則な」は、「規則的な」での考察同様になりうるし、どちらかといえば、1-1での考察そのものになるだろう。そうして、そういった2粒子の相互振動こそが、多世界解釈を説明しうる一つの現象として捉えることも、可能になるわけである。


※06/12/02 08:55補足
上記規則性ないし均質性は、2重スリット実験系でのスクリーン上の輝点が、「まんべんなくばらつく」(同じ点が光らない)ということと、密接に関連していると思われる。
ようするに、ネーターの定理でのエネルギー保存則が成り立ちうる条件、「時空間が本質的に対象であるということ」と、密接に関連しているのではないだろうか?
それゆえ、「対称性の破れ」として観測されている種々のケースは、「時間軸の非対称性=逆方向に流れない)」と関連しているのかもしれない。(どなたか、専門の方、お教え下さい)
また、上記対称性ないし非対称性が保たれている範囲において、「まんべんなくばらつく」とかいった事実は、一見、サイコロなどの確率的事象と等価であるように見える。サイコロが、確率的な振る舞いを見せる背景には、各目が出る事象に対して、周囲環境が「同一の」(交換可能な)状態を維持しているからに他ならない。
すなわち、たとえば「1」の目を上に向けて、そっと落とすと、「1」の目が出やすいという、ごく当たり前の事実(交換不可能な状態)を極力排除することで、「均質=ランダム」な目が出ると言うことからも明らかなように、周囲環境が「何も影響を及ぼしていない」かの如く思われる状況は、周囲環境が「均質に影響を及ぼしている」状態と等価なわけである。
量子力学的な事象が、エンタングルメンという関連性を有している限り、観測不可能になったエンタングルメントは、実際の所、無数の粒子とのエンタングルメントの均質な影響を受けることで、あたかも影響を受けていないごとくに観測されていると言うことにならないであろうか?

このことは、EPR相関とBellの不等式と。。。5。。。
にて書いていること、そのものである。


※07/06/23 07:00追加・補足
上記記事を書いていたときには、粒子反粒子振動についてネット検索しても引っかかってこなかったのだが、最近、多くの優れた記述が検索可能になっています。
ざっと読んだ限り、
「CP対称性の破れ」=「(粒子・反粒子の)対称性の破れ」→「質量の差」=Δmとしたとき、
ΔE=Δm・c2 ← (質量エネルギー)
ΔE・Δt=hω ← (不確定性原理、h:プランク定数、ω:角振動数)
Δt=hω/ΔE ← (湯川博士の中間子の存在時間計算と同じ計算)
という式にて、存在時間(交換サイクル)が決定され、その時間間隔にて規則的に振動するということになるようです。
ようするに、多世界解釈云々とか、粒子の存在性云々とかとは、全く異なるレベルでの話だったわけです。

※参照URL
http://ocupc1.hep.osaka-cu.ac.jp/news/20060925_Bs_Oscillation.html
Bs0大阪市立大学・高エネルギー物理研究所 「中間子の粒子・反粒子振動を初めて観測」

http://www.kek.jp/ja/news/press/2006/CDF_Bs.html
高エネルギー加速器研究機構、「大型国際共同実験CDFがBs中間子の粒子反粒子振動の初の観測に成功」
電荷を持たない中性の粒子では、粒子と反粒子が生成される際の状態と崩壊する際の量子力学的な固有状態が異なることが知られている。この時、固有状態の質量に差があると、粒子反粒子振動が起きる。クォークでできたK中間子やB中間子などの生成と崩壊の間の関係は小林益川行列で記述される。
--- http://www.kek.jp/ja/news/press/2006/CDF_Bs.htmlから引用


http://www.nikkei-bookdirect.com/science/topics/bn0607_1.html
日経サイエンス、「新局面を迎えた小林・益川理論の検証実験」

http://www.px.tsukuba.ac.jp/Nenji97/ehep/an99/hep99.html
筑波大学・物理学系、年次報告「素粒子実験グループ」
他のボトムクォークの物理としては中性B中間子の崩壊における粒子反粒子振動の観測が挙げられる。この振動は二つの中性B中間子の間に質量差Δmがあることに起因し、その角振動数は質量差Δmに等しい。
--- http://www.px.tsukuba.ac.jp/Nenji97/ehep/an99/hep99.htmlから引用



※08/11/12 22:50
これら二つの振動は、実は、直交する虚数軸と実軸とで作られる空間内の回転現象を実軸にて観測した場合として捉えられうる。
問題なのは、「どうして一定周波数にて」(断続的に)回転しうるのか?である。一定周波数(=一定の角振動数)が保持されるには、空間の回転に対する対称性が不可欠(ネーターの定理)であろうし、その対称性(→保存則)こそが、量子力学でのエンタングルメントを保持させることになるのだろう。。。

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by kisugi_jinen | 2006-08-22 05:38 | 思考。。。 | Comments(0)
数学は認識主体から独立して存在可能か。。。というより。。。2。。。
数学は認識主体から独立して存在可能か。。。というより。。。1。。。
では、小難しく書きすぎた、というより、そう書かざるを得なかった。

なぜなら、問題は「数学」という分野に収まらないからである。
対象は「広義の哲学的な知」になってしまうからである。
※一般的な意味での「広義の哲学」(知の領域、知的切断面の範囲として)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6

あの文章は、そういう意味で書いた。

数学という概念は、少なくとも2重の概念(水平的な方向性)の重ね合わせからできている。
一つは、応用数学という側面であり、もう一つは、純粋数学に代表される数学的探求という側面である。

両方向とも、その「対象」(現存してもいいし、仮想でもいい)とは切り離せない関係を有している。
たとえば、その「対象」に共通する(すなわち、交換可能な)記号列とその操作を抽出するのが純粋数学であるだろうし、交換可能性の高さから、「対象」を選択して、適切な方法を選択し、場合によっては、道具としての数学を改変し、適応していくのが応用数学であろう。こちら側は、機械的に操作可能であり、コンピュータの得意分野でもある。

また、数学という概念には、少なくとも2層の概念(垂直的な方向性)の重ね合わせからできている。

表層部は、操作主体・認識主体とは切り離せない「知的・論理的・理論的思考」としての側面であり、深層部は、「対象」と切り離せない側面である。

抽出−数学−適応
操作主体・認識主体−数学−対象

この2重の直交する3者の関係をもって、数学が数学足り得るとするならば、操作主体・認識主体が消え去った場合、なにが残るであろうか?(操作主体が消え去る故、コンピュータも消え去るということ)

抽出−数学−適応

は、操作主体・認識主体が消え去ると、消え去るであろう。
であれば、残るのは、
(数学)−対象
という部分だけである。
(数学)としたのは、2重の直交する3者の関係が保ち得ない状況では、もはや数学とは呼べないので、カッコ付きにした。
では、(数学)とは、いったい何なのだろうか?

それこそが
数学は認識主体から独立して存在可能か。。。というより。。。1。。。に書きつづった(対象が内在している)「共通する何らかの制約・制限」である。
※06/08/21 18:40追加
端的に言えば、「状報」である。すなわち、「共通する」=「交換可能な」状報になる。後述しているが、これに対して、「交換不可能なもの」が、「情」を含む、本来的な「情報」になるだろう。。。


知が「わたし」の一部であり、その(形而上学的・幻想的に共有可能な故に、他者との)交換可能性が高いということ。

と。。。

数学が「対象」の一部(共通部分として抜き出しうる抽象概念)であり、その抽象性の高さ故、交換可能性が高いということ(たとえば、平行線公理が交換可能な世界としてのユークリッド空間を想定すれば、その公理を用いた数学的記述が、その世界全体に適応可能だということ)
もしくは、
言葉・記号が「対象」の一部(共通部分として抜き出しうる抽象概念)であり、その抽象性の高さ故、交換可能性が高いということ

と。。。

この両者の重ね合わせがある故に、数学は数学として存続し、○○学は○○学として存続しうるわけである。そうして、それら諸概念は、「全体」の中の「知的切断面」であり、「情」(など)と直交する。。。

※(数学)-対象についての補足。。。06/08/16 07:22追加
これは、化学式におけるH-O-とか、H-C-とか、H-N-とかに相当する
すなわち、たとえば対象が水素である場合、(X)-Hになる。
化学結合という概念での「共通する何らかの制約・制限」とは、すなわち(X)部に、化学結合という概念で交換可能な原子・分子を付け替えることのできるときに示すH(水素原子)の性質そのものである。

以下、順を追って抽象化していく。

この(X)の部分に(数学)を入れたときには(数学)-Hとなる。さらに、(数学)-Oとか、(数学)-Cとか、が可能である。(数学)-Nとかいった概念が想定されうるとき、(すでに、原子という恣意的な選択が為されていることに注意)、「原子に共通する何らかの制約・制限」として抽出可能な(恣意的に)数学的な「もの」が(数学)になる。

※07.01.13 08:45補足
たとえば、(数学)-Hにて「1」、(数学)-Oにて「-2」は、共有結合するときに与える(あるいは受け取る)最外殻の電子数に相当する。言い換えれば、H+、O2- であり、
OH-
とか、
H+ + OH- ⇔ H2O
といった化学式相当になるわけです。
※補足説明終わり

(数学)を(X)に戻し、化学結合という概念に縛られず、一般的な概念とすれば、(X)-Hとか、(X)-Oとか、(X)-Nとかは、(すでに、原子という恣意的な選択が為されていることに注意)、「原子に共通する何らかの制約・制限」として抽出可能な「もの」になる。(化学結合的とか数学的だという恣意性は排除されているが、それら複数の○○的という概念が「多義図形」のごとく重なり合っている状態になる)

さらに、「すでに、原子という恣意的な選択が為されていることに注意」という恣意性を排除した場合、すなわち、(X)-対象と一般化した場合が、数学は認識主体から独立して存在可能か。。。というより。。。1。。。になる。

さて、(X)として記述した(例えば水素原子)が有している「共通する何らかの制約・制限」は、認識主体の存在とは関わりなく「ある」と言わざるを得ない。

これは、ある意味、アフォーダンス理論にも通じるものがあるが、アフォーダンス理論の場合、「意味の伝達」とか「情報の伝達」といった概念で語られる場合が多く、「意味」および「情報」についての定義が不十分な場合に、アフォーダンス理論は誤解を招きうる。本来ならば、「意味」とか「情報」とかではなく、たとえば(X)として記述すべきものである。
更に言えば、「情報」は「状報」にすべきである。特に、アフォーダンス理論が扱うのは、所変(客体印象識)である「状報」であって、能変(主体思量識)である「情報」ではない。

この(X)は、関係性ともいえるため、たとえば、「両手を打ち合わせたときに音の出所はどちらの手か」といった概念における「関係性」に相当する。

アフォーダンス理論は、認識主体の側を強調しすぎた従来の考え方に対して、対象の側を強調しすぎる嫌いがある。

どちら側に「主体」があるわけではない。「認識」と「存在」との関係の間に(X)が立ち現れるのである。

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by kisugi_jinen | 2006-08-16 05:32 | 思考。。。 | Comments(0)
数学は認識主体から独立して存在可能か。。。というより。。。1。。。
mixiにて書き込んだものを、少々手直しして、こちらにアップしておきます。。。

===

細胞分裂と局所の加算が大局的な美しさを作り出す例としての黄金比、フィボナッチ数列。。。

「数学」という概念は、その概念を扱う存在(たとえば人)が、「共通の(交換可能な)」論理記号として抽象化可能な「もの」を「現象」(対象、たとえばオウムガイ)から引き出しうるときに成立するのでしょう。
※「共通する」=「(対象間で)交換可能な」:たとえば、「羊と羊」「狼と狼」とは交換可能ですが、「羊と狼」とは交換不可能という概念です。

そういった、「現象」の解析なり記述といった行為は、主体が存在しなければ成立しないでしょう。

一方、すでに論理記号として記述されてしまった「もの」は、アルゴリズムやプログラムとして、コンピュータ上の論理記号に書き換えることができます。

そのような、「計算」としての行為は、それを認識する主体が存在しなくても、存続し続けることができます。

自然界にて細胞分裂を繰り返したり、核分裂・核融合を繰り返したり、量子同士が相互作用をしたりする際に、どういうわけだか、「数学・物理学を理解することが出来る主体にとって、ある一定の法則にしたがっているように見える」わけです。
細胞や原子核や量子は「これら法則」にしたがっているわけではなく、「共通する何らかの制約・制限」としての「もの」があるから、「法則にしたがっているように見える」だけです。

たとえば細胞分裂で1→2というのは、DNAが2重螺旋だからであり、3重螺旋であれば、1→3になっているかもしれないわけです。

そういった「共通する何らかの制約・制限」という「もの」が、論理思考を交換可能な人々の間では「数学の対象」として扱われうるわけですし、論理計算可能なコンピュータにとっては「計算可能な対象」になるわけです。「共通する何らかの制約・制限」としての「もの」が論理的に扱いうるということが明らかである以上、認識主体である「人間」がいても、いなくても、「論理的に記述可能」な「もの」は、たとえ論理的に記述されなくても、存在し続けるわけです。

「共通する何らかの制約・制限」がない
といった場合、2つの状況がありえます。
1:「共通しない何らかの制約・制限」がある
2:「何らかの制約・制限」がない
1の場合は、狼・羊を区別したまま混同した状態、ないしユークリッド空間と非ユークリッド空間を区別したままごちゃ混ぜにしたような状態であり、2の場合は、「何でもあり」の状態です。

「共通する何らかの制約・制限」としての「もの」自体に数学という概念の根本が組み込まれていると見る観点がアリならば、人間がいなくても、「数学という概念の根本」は存在するといえます。

===
恣意性の問題は、「認識主体の概念間の交換可能性・不可能性」に限定されるでしょう。

これは、「交換可能」な「共通する何らかの制約・制限」を「全体」から切り出す段階で、問題になるでしょう(羊と狼の例、生き物というカテゴリーで切り出すか否かといった恣意性)

「全体」を分ける操作は、上述の「共通する何らかの制約・制限がないもの」と「共通する何らかの制約・制限があるもの」とを分けるという操作そのものです。

この操作は、「共通する、交換可能な」という概念形成そのものの裏返しです。

簡単に言えば、「羊と狼が異なる(交換不可能)」という概念形成が可能であるということが、即「羊と羊が交換可能であり」「狼と狼とが交換可能である」という概念形成につながるわけです。

で、そもそも、2者以上の交換可能性・不可能性を、(2者の外部からの)認識主体が認識可能であるといった段階で、「共通する何らかの制約・制限」としての「もの」があることを明言しているわけで、その「もの」の存在には、認識主体の恣意性(共通する「もの」をどういった概念にて切り出す、認識する、分断するか)は、影響しないでしょう。

ただし、認識主体が2者以上の内部に含まれる場合には、影響するでしょう。

たとえば、私が狼であったばあい、「あの羊は決して食べない、友達だ」といった場合が、恣意性が影響する例として該当します。

※ここでいうところの「共通する何らかの制約・制限」としての「もの」とは、全体・総体に対する「知的切断面」になりうるものです。
知的切断面は「概念」そのものでもあり、総体・全体に対する幻想的・知的に共有可能な切り口です。

この「もの」が「存在するかどうか」という疑問が湧いてくるかもしれません。

「もの」は、抽象概念でもあり、形而上学的存在でもあり、そういった意味での共通項です。超越論的存在(認識主体から切り離されることのない存在)でもあります。知的生命体にとっては、そのような「もの」ですので、「幻想的・知的」にのみ共有可能であるため、そういう意味で「存在」しているといってもいいです。すなわち、「数学」が存在するのかどうか?「音楽」が存在するのかどうか?ということと同次元の話になります。

草や花を真上から観察したときに見られる幾何学的な美しさ や、複数の種の生命体が共生していく背後、細胞が分裂し左右対称の形態を作り上げていく過程、もし、その美しさに、知的生命体が「共通する何らかの制約・制限」を見出し、「数学的」な理論・論理性を見出し得るならば、複数の種の生命体も、分裂していく細胞自身も、そのような状況に向かいうる、なんらかの「共通する何らかの制約・制限」を受けているわけです。

私の言っている「もの」は、人の認識の対象に限りません。ネズミの認識でもいいですし、猫の認識でもいいのです。さらにいえば、無生物・無機物でもいいのです。

玉の入った袋(誰が入れたかは問わないとして、笑)、これが突如の地震によってひどく揺らされたとします。それまで玉自体は自身の周囲の状況なんてどうでも良かった(「玉自体が感じ取る制約はなかった」)にもかかわらず、揺れ動くにつれ、袋の大きさや、中に入っている玉の数に動きが制約されていることに「気づく」。このときの制約が、人知によって「数学・物理学」として記述可能な「もの」になるわけです。人がいなければ「記述されない」だけのことです。
「もの」は、だまし絵(多義図形)にて読みとられる一つの「解釈」に相当します。

「もの」が認識主体がいないと消え去るのであれば、その母体である「だまし絵(多義図形)」に相当する「全体・総体」が消え去るということになります。これは、究極の独我論であり、強い人間原理に繋がります。


色もそうです。
人間の網膜のタンパク質(たとえば赤であれば、ロドプシン)が特定波長の光にて形態が変化することで、視神経に信号を送り出します。
このとき、「共通する何らかの制限・制約」は、ロドプシンというタンパク質の可動部分に対する共鳴周波数が、「もの」になるでしょう。
紫外線のセンサー相当を持つ蝶の目でも同様です。

そこから先の脳内、すなわち、民族や文化による影響がもしあったとしても、「民族・文化」として概念が形成されうる「共通する何らかの制限・制約」が、その場合には働いているでしょう。それが論理的・理論的(数学的・物理学的)に扱いうるかどうかとは無関係に「ある」わけです。
なぜなら、「民族や文化によって相違がある」と認識可能なわけなのですから。。。
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by kisugi_jinen | 2006-08-14 06:16 | 思考。。。 | Comments(2)
無常な結末にならないための、伝言ゲームに対する案。。。
民営化のツケと伝言ゲームと。。。で述べたが、末端での確認作業と状報(情報ではない)の伝達度とを確認するシステムが必要であろう。

早い話、ネットがこれだけ普及しているのだから、通達文書はネットでオープンにし、関連する下位レベルの各部署が、「通達した、下位部署の名称、年月日」を記入して、末端へと伝言ゲームを行なっていくシステムにし、さらに、実質担当者レベルでは「通達を受けた・確認日、実施した・実施日、実施しようとしたが不可能だった・その理由、通達を受けていない・確認日」などを記入して行くシステムを構築すれば、いいように思われる。

と、勝手なことをブツブツ言っています。。。

P.S.
文科省も「通知の在り方を検討する」といっているのだが、末端・実質の担当者との双方向的なやり取りが不可能であれば、何時までたっても「無意味な通知」はなくならないように思われる。。。

P.S.のP.S.。。。
更に付け加えれば、下位からの意見が階層的に扱われて、どのレベルの意見をも、関係者が閲覧可能にすれば、状報のやり取りがスムーズに運ぶかもしれない。ここで重要なのは、物理的な階層が存在するならば、「その階層という境界を明確に設定しておく」ということである。
階層間の境界を取っ払うのではない。境界を境界として設定しながら、閲覧可能にするというものである。

直接的に最上位に対する意見を記入することに対して等に制限を設けるということではない。
法律的・直接的な関係・関連を持ち合う上下関係の部局間、ないし雇用者間の間でのみ、記載事項に責任が伴うということにしておくのだけれども、それぞれの実施状況と問題点の把握に関して、有効にフィードバックが働く機構ができれば、それに越したことは無いと思うだけである。

これらシステムには、おそらく、匿名性と非匿名性とが両立するようなシステムが必要であろう。直接的な上下関係の部署間では、非匿名性が重要であろうし、それ以外の間接的に上下関係にある部署間では、匿名性が望ましいように思われる。

おなじ意見書の類が、直接の上司系には非匿名で閲覧され、間接的な上司系には匿名性で閲覧されるといったところである。

現場に近いところと、遠いところでの問題認識のズレが、上記システムでは解決されうるように思われるが、いかがであろうか?

p.s.のp.s.のp.s.。。。

上記は、「トップダウンとボトムアップ。。。」とも、深く関連しています。。。

p.s.のp.s.のp.s.のp.s.。。。

たとえば、今回のプール問題の場合、通達に対して、実質作業責任者が「重さ125キロの底に沈んでいる蓋ですが、持ち上げることが不可能な蓋に対しても、ボルトで固定する必要があるのでしょうか?」といった疑問を抱いたとして、従来であればトップレベルにフィードバックされる手立てがほとんど無い(逆の伝言ゲームになるか、「運用で」といったトップレベル側の逃げ文句にて消滅することが多い)が、上記システムであれば、実質作業者が「通達・確認、実施に疑問・理由:。。。、ボルト不要と判断した」といった文章を書き込むことで、直接の上司が同意するか同意しないか、間接的な上司(今回の場合、文科省)が同意するかしないかを含めて、意見がスムーズに流れるように思われる。。。のだが。。。どうだろ。。。?

間接的な関係間に法律的な縛りを設けないという記述したが、設けなければ、上記疑問・意見に対して上位レベルの部署・機関が「周知徹底」を行なううえでの、問題点の排除ないし対策、見直し等に反映されうるかどうかは疑問ではある。。。のだが。。。うーんんん。。。法規関係は素人なので、良く分からないけれど、「現場」と「中央」との状報交換がスムーズになってもらいたいものである。。。ただ、それだけなのだが。。。
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by kisugi_jinen | 2006-08-10 01:09 | ひとりごと。。。 | Comments(0)
民営化のツケと伝言ゲームと。。。
プールの吸い込み口の問題は、ある意味、形式的な「周知徹底」の脆さを露呈した感がある。
どんな事業所でも同じだろうけれど、上位レベルからの「周知徹底」といった類の文章が、どれほど、末端まで行き届いているかは、疑問に思うところである。
私の職場では、末端レベルでも、1週間の内に目を通すべき事務連絡系の書類がA4で50枚程度はざらにあるように思われる。さらには、ホームページ上に掲載されているので目を通して置くようにといった通達が含まれている。これら書類を仕事の合間に流し読みして「読んだ」という意味のサインをする。それぞれの担当者が異なるので、「あの書類は、どの担当者が持っていたのか?」とか、通達だったのか、規則だったのか、案だったのか不明になることもしばしばあり、担当者にメールで問い合わせることも多い。

それにしても、今回の事件は痛ましい。

従来ならば、直接的に「周知徹底」文書が回ってくるところに、民営化部門が挟まり、さらには、下請け、バイトと、伝言ゲームの枝葉が伸びて行く。

実質担当者のサインなりにて、確実に末端まで連絡が届いているかどうかを確認しない限り、「周知徹底」が図られていないことは当たり前ともいえるのだが、元々の文章を発令した元は、末端までの「周知徹底」が図られていることをどうやって確認しているのだろうか?

単に、「周知徹底するように」という指示を出すだけで、「後はよきに計らえ」という感覚がないといえるのだろうか?

「自己責任」という言葉が頭を過ぎる。。。

「周知徹底するように」ということを伝えただけで、責任は回避できるのであろうか?
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by kisugi_jinen | 2006-08-10 00:58 | ひとりごと。。。 | Comments(0)
乗り越えられたことと。。。乗り越えられなかったことと。。。
4歳の息子が
「象の目玉を持ち帰ってきた」
と、電話を受けた。

いや、正確に言えば、木のブロックでできたパズルの部品なのだが、妻と友人と息子が昼食を食べた喫茶店においてあったパズルの部品を、息子が勝手に持ち帰ってきたのだという。。。

最初、「誰かに貰った」とか何とか言っていたようだが、問い詰めると「勝手に持ち帰った」ことが判明したという。

ちょうど、帰省のために夏休みをとる前日の夕方の出来事だった。。。

夕方の会議終了後、仕事はいつもの如く夜中に片付けるつもりで自宅へと飛んで帰った。
夕食の準備で忙しい妻は、喫茶店への電話がつながらないと、ぼやいていた。

「少し遠いし、帰省後返しにいくのでもいいかもしれない」

と、妻がいうのを押し切り、息子を連れて家を出た。

車や自転車で行くべき距離なので、タクシーの利用も考えた。

。。。

歩くことにした。。。

二人で手を繋いで歩きながら、
私:「なぜ、勝手に持ち帰ったんだい?」
息子:「わかんない。。。んーと。。。夢を見ていたみたいな感じ」

ちょうど、警察署の前を通るところだったので。。。
私:「ほら、警察だよ。勝手に物を持ち帰ったら、ドロボウだよ。警察官につかまって、連れて行かれちゃうんだよ」
息子:「。。。でもねぇ。。。夢を見ていたみたいな感じだったんだよ。。。」

私:「夢?、夢の中でも悪いことをしたらだめなんだよ」
息子:「。。。うん。。。分かった。。。」

と、そんな取りとめも無い会話をしながら、手を繋いで15分位歩いたころ、
息子:「お腹が痛い。。。」
私:「歩けない?」
息子:「うん。。。」
というので、おぶって行きました。

店の近くに来たとき、「歩ける?店がどこにあるのか知らないから教えて」と聞くと「うん」と答えて店を探し出してくれました。

昼間と夜の営業の合間に休みがあるお店のようで、電話がつながらなかったようでした。
店につくまでの間に、妻が電話をしてくれていたので、

私:「すみません。お昼に息子がパズルの部品を勝手に持ち帰ってしまったようで、申し訳ございませんでした」
というと、
店員:「あ!、はい。。。電話で連絡のあったかたですね?」
と、すぐに察してくれた。
息子に部品を手渡して
私:「ほら、ごめんなさいっていって返すんだよ」
息子:「ごめんなさい!」
と、素直に返し、さっぱりした表情で帰路に着きました。

帰りはバスが近くを通っているのが分かったので、バスで帰りました。

実を言えば、この事件が起こる数日前に、数件の小さな事件があったのを、帰路のバスの中で思い返していました。

すべてが「善悪」の区別と、その行為に対する自身の対応の仕方が良く分からない状態に落ち込んでいるかのごとくに思える事件でした。

一つの事件は、私が日曜大工をしていて相手をしてやれなかったときに、釘抜きでタンスに傷をつけてしまったというものでした。

掴まり立ちができて、ようやく伝い歩きが出来るようになった妹:○○がいるのですが、
息子:「○○がコンコンしてた」
と嘘をついてきたので
私:「どれを使ってコンコンしたの」
息子:「えーっと。。。赤いの。。。」
私:「これ?」と釘抜きを示すと
息子:「うん、そうだよ。。。」
私:「でも、○○ちゃんだったら、こんなに高いところ、コンコン出来ないよ」
息子:「。。。」
私:「お父さんがしたのかもしれないね」
というと、
息子:「うん、そうだよ、おとうさんがしたんだよ」
と言って来たので、
私:「お父さんじゃぁ無いかもしれないね。。。誰がやったのか知っているのなら、伝えてくれる?。。。その人に、『お父さんは怒らないから、言いに行くように』って言ってくれる?」
と何度が言い、耳元で「誰がやったのか教えて」と言っても、ぐずぐずしていたので、
私:「□□君がやったんじゃあないの?」
と、とうとう、息子の名前を出しました。
息子:「。。。うん。。。」
私:「ごめんなさい、は?」
息子:「ごめんなさい。。。」
私:「○○ちゃんのせいにしたら、○○ちゃんがかわいそうでしょ。分かる?」とか、
私:「タンスに付いた傷は、ずーっと残るんだよ。消えないんだよ」とかいうと、
息子:「やだ。。。」
と、泣き出してしまいました。

と。。。少し端折っていますが、そんなこんな事件の背景には、「怒られるのが嫌だ」といった気持ちと「悪いこと」といった気持ちのせめぎ合いの中にて、自身を捉えることの揺らぎが見て取れるようでした。

「悪いことは悪い」と叱ってしまう事は、それで正しいのでしょうし、「分からない」状態では教えて行くべき事柄になるのかもしれません。。。これは、「知的切断」になります。

でも、その背景にある「感情」にまで踏込んで、「どうして、悪いんだろう?」というところを、なるべく話して行きたいと思っています。。。これは、「乗り越える情」になるでしょうか?。。。

これから、どうなることやら。。。
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by kisugi_jinen | 2006-08-06 07:00 | つれづれ。。。 | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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