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「わたし」という存在について。。。
前回までの投稿は、ひょんなことから、このブログの2本柱であるところの「情」を排除して記述してきた。
ようするに「わたし」の交換不可能性とはいったい何なのか?
ということについてである。

めちゃくちゃわかりにくく書いているかもしれないので、分かりやすく書いてみる。

科学的な「交換可能性(客観性)」は、早い話、「平均値」である。
それに対して「交換不可能性」とは、「差異」である。

何のことはない、「わたし」=「平均」+「差」と言う話を、延々続けてきただけである。

すなわち、個々の人々の身長が、平均身長+差という式で表されるようなものである。

科学は「平均値」というものに対して、経験的側面に適合し、かつ、理論的に説明可能な数式を当てはめることで、予測性という大きな力を誇示出来るようになった。そうして、「差」に相当する部分に対して、詳しく調べていくことで、近似解としての旧の理論を包含する新の理論を構築することが出来たといえる。

で、最後に残された「差」という領域が、量子力学の領域である。

この領域における量子の確率的な振る舞いは、量子熱力学を介してブラウン運動などのランダム性の説明や、エントロピーの説明に寄与していくのだろう。

で、そういったことこそが、逆説的に、「わたし」=「平均」+「差」の「差」の部分の最後の最後まで科学的に説明不可能な部分に相当するであろう。

この領域は、ある意味、トンデモの格好の餌食になっている。

なぜなら、「差」の部分は、哲学的な「差異・差延・脱構築」の領域に重なり合うし、科学的に説明不可能で、かつ、実験時には切り捨てられる「ノイズ」に相当するからである。

科学が最終的に切り捨てるべきものが、「主観」と「ノイズ」であるならば、「差」として残された「わたし」の一部は、科学的に「ノイズ」として処理される部分と、何らかの関連性を持っていてしかるべきであろうと言うことは、誰でも気づきうることだと思われる。

そうして、両者を結びつけるものは、科学的に説明可能な因果関係ではなく、ユングの共時性、非因果的連関にならざるを得ない。

このような言葉には、オカルティズム、トンデモの香りを感じる人がいるかもしれないが、ユングの伝記本(「ユング-現代の神話」 M・L・フランツ/高橋巖訳 、紀伊国屋書店)などを読めば、どれだけ真剣に臨もうとしていたかが分かるであろう。

逆説的に言えば、「差」の部分がトンデモの餌食であるように、科学・宗教・哲学の狭間でもあるわけである。

そうして、その部分にこそ、「わたし」を「わたし」たらしめるものが含まれているというわけである。
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by kisugi_jinen | 2005-12-31 17:04 | 思考。。。 | Comments(2)
「こころ」。。。科学的に扱うことが可能か。。。
※最終更新日時:06/01/07 14:15

論理的・無矛盾に「こころ」を科学的立場から説明可能になったとする。
定義可能になった「こころ」を「心」とする。

その時、前回の「宇宙に法則はあるのか」における、ジョン・D・バロウ氏の仮定
1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。
9.これらの前提は、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。
を前提条件にして、導き出されたとする。

さて、「心」というものが、たとえば、10個の公理と20個の定義と30個の論理から成り立っていたとする。
別に10とか20とか30でなくてもいい、とにかく、有限個の論理的な文章から説明されたとする。
皆が納得できる説明であり、かつ、(仮想でもいい)しかるべき装置があれば、「心」というものを人工的に実現可能だと皆が信じるに足るだけの、論理性を備えていたとする。

もし、そう言うことが実現されたならば、その説明文には不完全性が内在されてしまう。

「心」が論理的に理解可能だと考え・思う「心」は、自己参照系になっており、上記論理的文章をゲーデル数に置換しさえすれば、ゲーデルの不完全性定理にそっくりそのままはまりこんでしまう。

なぜならば、「心」は自然数を扱うことが可能だからである。(詳細な証明は、専門書に譲る)

すなわち、上記の「心を説明した論理的な文章」自体が無矛盾であるならば、完全性を満たすことが出来ない(証明不可能な命題を含んでしまう、第一不完全性定理)。

また、「無矛盾な系として説明可能」としても、自己の無矛盾性を証明できない(第二不完全性定理)

で、ゲーデルの不完全性定理における自己言及のパラドックスは
「この命題は証明できない」

という類のものであるため、「信じる・信じない」ということを含めてしまうと、パラドックスにならないし、逆説的に言えば、定義可能な範疇での「心」とは、そのようなものともいえる。

すなわち、
1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。
9.これらの前提は、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。

を前提条件に据えたとたん、「心」は、「信じるか信じないか」の選択問題と化してしまうわけである。

結局のところ、そう言った「信じる・信じない」問題を抱え込む「こころ」は、(もし仮に、科学的に定義されたとしても、そうやって定義された)「心」とは不可分なわけである。


したがって、「こころ」の問題を考えるとき、私の仮説を組み込むならば、1は、

1’.われわれの心に対して外部世界と認識される領域は、心とは不可分な関係にあるとし、両者を切り離さずに、相対的に扱わねば、心を捉えられない。そうしたうえで、心の働きをランダムノイズレベル以下として扱うことが可能な外部世界を制定することが出来る。

とせざるを得ないだろう。
そうすることによって、

9’.これらの前提は、「心」の能動的な側面をランダムノイズレベル以下として統一的に扱いうるとき、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。

となりうる。

上記仮説の「ランダムノイズ」とは、「こころ」をどう捉えうるかというときに量子力学が直面した2重スリット問題での、量子の存在確率と波束の収縮との関係において現れてくるところの確率問題そのものに相当する。

*注 以下、05/12/30 09:50追加、05/12/30 10:22一部修正

1と9の前提条件と、不完全性定理との関係を記述し忘れました。
1と9の前提条件は、「心」に対応する外部世界を切り離し可能ということを意味しています。すなわち、主観・客観の完全な切り離しを前提にしています。このことは、科学的に取り扱うとき、「心」を客観的に扱うということになり、外部世界と切り離された「心」を扱うことになります。で、そうなったとき、「心」というものは、刺激に対する反応といったインターフェース部分を除いて、外部とは何ら関係していない状況として、認識されなければなりません。そうであれば、心というものが全体から切り離されて、有限の論理的な記述によって語り尽くされうる可能性がもたらされるわけです。

この段階では、「自然数論を含む心」を「心」へと写像することで、ゲーデル数を用いた証明に置き換えることが出来ます。

もし、「こころ」が外部世界から切り離されないとするならば、「こころ」を語り尽くそうとすることは、総体であるところの「宇宙全体」そのものを語り尽くそうとすることに相当し、有限の論理的記述では語り尽くせないことになります語りつくせるかどうか不明です。(同じく、ゲーデルの不完全性定理に対応する) --- (a)

もし、語りつくせるとした場合、この段階では、「自然数論を含む宇宙(心)」を「宇宙(心)」へと写像することによって、ゲーデル数を用いた証明に置き換えることが出来ます。

さて、「こころ」と外部世界との切り離しが不可能な場合、その境界線は、個々の「こころ」によって想定が異なることになるでしょうから、論理的な記述すら拒むことになるでしょう。


※05/12/30 10:30追加
上記において、「こころ」全体を対象としたが、部分的な要素のみを切り離して考える場合には、ゲーデルの不完全性定理は適応されない。この場合、自己参照に陥らない領域を対象にしていればいいわけである。
逆説的に言えば、自己参照をする「こころ」全体は、科学的解明(いわゆる、客観的解明)は不可能であり、主体としての「わたし」は、結局のところ取り残されてしまうわけである。


※05/12/31 10:03下記文章追加、および記号(a)を上記文に追加。
上記「心を科学的に記述可能としたとき」という前提条件を、誤解される方がおられるかもしれない。この前提条件は、経験論的に求められたうえで、なおかつ、境界が曖昧にぼやけた状態で捉えられた「心」、ではない。前提条件の1と9とを再確認すれば分かることだが、科学が「万人にとって」有効な効力を持ちうるということは、すなわち、「心」と「外部」とを明瞭に切り分けることが可能であるという前提条件が必要なわけである。
そういった意味での「心」である。もし、「心が解明された」といいながら、経験論的に明らかになっただけなのであれば、それは「心が解明された」とは言わない。なぜなら、心が明らかになったというときには、外部が明らかになったときと等価であり、「全体における外部以外」と等価なわけである。
でなければ、両者の間に曖昧性が残ることになり、「心」は9の前提条件を満たすことが不可能になってしまう。--- (a)に相当
ちなみにこのことは、以前記述した天動説・地動説のような視点の違いとは全く異なるし、ニュートン力学が相対性理論の近似解であるといった概念とも異なる。

なぜに、二重スリットを同時にすり抜けた一つの量子が、離れた二つのスリットの状報と相互作用しあって、スクリーン上に、確率的にたった一箇所のみの点として現れ、かつ、その世界に「わたし」という存在が同時に含まれているのか?

その深遠を深く覗き込んだならば、私の提示している仮説の前提条件は、理解可能になると思われる。

※05/12/31 10:10 追加
私の提示している仮説は、現段階まで明らかになっている科学という分野にて、心が受ける制約という側面から記載している。
これは、科学が扱いうるエネルギーなどの一般対象に対して、相互作用する範疇から絞り込んだ「こころ」であり、その場合、ランダムノイズ以下でしか扱い得ないだろうという仮説である。
そうして、この仮説は、「こころ」の範囲および境界については規定していない。
強いて言えば、「境界がない」ということである。


※05/12/31 14:15
いや、しまった(笑)
差異ばかりを強調しているが、(すなわち、交換不可能部分のみを強調していたが)、交換可能部分というものを排除しているわけではない。
たとえば、「こころ」=交換可能部分+交換不可能部分(ランダムノイズ以下)とした場合、今回および、前回から強調しているのは、「交換不可能部分」である。
すなわち、交換可能部分および交換不可能部分への浸透性という概念で「こころ」を捉えるならば、差異として認めうる「交換不可能部分」を論じている。

「量子力学と心と。。。」でも、記述しているが、「交換不可能部分」は心の一部でしかない。
しかしながら、そういった「交換不可能部分」があるからこそ、個々の「こころ」は個々の「こころ」であるといえるだろう。


※06/01/04 07:00
ゲーデル関係の最も信頼に足るサイトが行方不明になっていたのだが、検索しなおして、見つけた。
Historical and Sociological Studies(旧「ゲーデルと数学基礎の歴史」)
である。
分かりやすい説明としては、「メタの世界」
ゲーデル・数学基礎論:世界を丸ごと理解できるだろうか
などがある。


※06/01/07 14:15追加
「こころを科学的に、かつ、論理的・無矛盾に扱いうるとき」という前提条件にて、「不完全性定理に落ち込む」という概念について、上記説明では分からないというコメントがあったので、再度記述しなおします。

ここで、「科学的に、かつ、論理的・無矛盾に扱いうるとき」というのは、全ての状報をコンピュータに入力してシミュレーション可能であるという状況と等価です。すなわち、コード化可能だということです。

さて、こころをMとし、全宇宙をCとします。Mは自然数を扱えます。一元論的に扱えるという前提条件から、MはCに含まれています。
CとMとが切り分けられないとき、C全体を記述できなければなりませんが、記述できたとします。そのときのコード全体をΩとします。
CとMとが切り分けられるというとき、C全体を記述する必要はありませんが、科学的に直接Mを扱うことは、1と9との前提条件から困難であるので、C'=C-Mという科学的に直接扱いうる範囲を全て記述できたとします。そのときのコード体系をΩ'とします。姑息的ですが、Ω'を記述できた段階で、Mを記述できたとします。すなわち「MはΩ'以外」という表現で表すことが可能だということです。
まず、Ωを扱うMについてですが、Ωの体系は論理的記述になっているはずです。それぞれの記述をMの内部である自然数の一部としてのゲーデル数に置き換えることが可能です。すなわち、自己参照を行なう論理的体系になっているということです。
さて、Ω'を扱うMについてですが、Ω'に「MはΩ'以外」を加えることで、Mを論理的に記述できます。あとは、同様です。
なお、ΩないしΩ'をゲーデル数に変換したものを自然数体系を含むM内部へ写像した後の証明過程は省略します。

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by kisugi_jinen | 2005-12-30 09:07 | 思考。。。 | Comments(3)
物理学と哲学と。。。「宇宙に法則はあるのか」。。。
「宇宙に法則はあるのか」 ジョン・D・バロウ 著、松浦俊輔 訳、青土社

久々に、良書にめぐり合えた感がある。2004年6月に出版されていた。
本屋に行く機会が激減していたため、見落としていたともいえる。
原著は2000年に書かれている。

この手の思想対比本は、内容を十分消化しきれていない著者が記述したものが目立っていたが、今回のもので、とりあえず、落ち着くのではないだろうか?
それほどの安心感を抱かせるだけの本である。

物理学を基盤に、人間原理、反人間原理に至るまで、あらゆる可能性について対比して考察しており、科学的な思考の暗黙裡の九つの前提条件も、明確に提示されている。(ただし、あくまで、平均的な科学者の頭の枠組みということで、提示されている)

で、九つの前提条件の一つ目と九つ目

1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。
9.これらの前提は、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。

他の七つは、この二つから導出可能だと思われる。
私自身は、科学的といったとき上記二つのみをあげている。
特に、9番目は、「交換可能」という概念で記述している。

このブログ自身は、1と9(ないし1から9)とで成立する科学的概念を基盤として、1の境界を取っ払うことで、9の交換可能を「交換不可能」という立場で、考察してきている。

1と9とで、対象と完全に分断された科学的な「こころ」という概念は、量子力学の全宇宙への適応可能性ということによって、シュレーディンガーの猫問題にてあからさまにされた。

他でも指摘されていることであるが、シュレーディンガーの法則について、重力理論との整合性が求められるときに、非線形で、解の時間的反転が不可能なものに変わるかもしれないとのコメントもきちんと記述されている。ただし、ニュートン力学がそうであったように、シュレーディンガー方程式も近似解として扱われなければならない。

どの程度の変更が加わるか不明であるが、そういった場合、前回までに、私が論じていた仮説の前提条件の一つが崩れる可能性があるということになる。

ただし、「こころ」が量子力学(シュレーディンガー方程式)にどの程度影響されるか?が、焦点になるだろう。

逆説的に言えば、量子力学と統合されるべき理論(現時点では重力理論)の影響を「こころ」がどの程度受けているのか?が問題視されるかどうかが、ポイントになってくると思う。
残念ながら、「こころ」を「観測者」として明示的に取り扱いを真剣に考えられたことは、量子力学以外では無いと言える。

このことは、「こころ」というものがどういったものであるか?を、暗に提示しているような気がしてならない。
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by kisugi_jinen | 2005-12-26 05:20 | 思考。。。 | Comments(0)
「唯物論・付随論」における「こころ」の定義の影響。。。
「こころ」というものが、物質一元論的に(もしくは脳機能付随論的に)扱われた場合ということを、前提条件に、物質との相互作用という観点から、どの程度までの相互作用の可能性(上限)がありうるのか、という考察を前回行なったが、「情」を絡めたので、誤解を生みやすかったと思う。

人の思い(情)についての議論は、今回の論述では据え置いておく。

たとえば、「こころが念じる」という概念について考える。少なくとも、自身の身体に対して「こころが念じる」ということは、「手足を自由に動かそうとして、動かすことが出来る」という概念である。

前提条件から「こころ」は、脳と相互作用している。

この段階で、「こころは脳機能に付随しているのだから、受動的なものでしかない」という考え方も可能だろう。ここで、枝分かれが生じるので、a.受動的なもので能動的なものではない、b.相互作用するもの、c.能動的なもので受動的なものではない、の3つの可能性を取り上げることにする。

a.受動的なもので能動的なものではない
この場合、「こころ」は脳の影のようなものという感覚に近いと思われる。すなわち、強いて「こころ」などという言葉を用いることすら無意味という概念である。
では、この場合「こころで念じる」とかは何を意味するのだろうか?
これは、すなわち、脳そのものが働いているということを意味している。すなわち、脳の状態が変化するということを意味している。
※07.03.15 06:15 補足:これは、前野氏の受動意識仮説そのものに相当し、前野氏が「意識」として想定していない「脳活動領域」を「こころ」の一部(無意識レベルのこころ)として扱うことに相当する。

b.相互作用するもの
この場合、「こころで念じる」という「こころ」の変化は、脳に何らかの状態変化を引き起こすと考えられる。

c.能動的なもので受動的なものではない
この場合、「こころで念じる」という概念はbと同じであるが、「(こころで)感じる」ということが出来ない状態に陥るとも考えられるが、あるいは、受動的な側面は脳にて処理されるということもありえるだろう。

いずれにしても、「こころが念じる」という概念をトレースした場合、少なくとも、自身の身体に対して「こころ」が作用するという場合、「こころ」をどのように定義しても、「脳」を介して身体が動くというのであれば、何ら問題ないと思われる。
このことに関しては、誰も否定しえないだろう。

また、「こころが念じている」状態でも、身体が動かない金縛り状態というのがある。この場合には、aの立場であれば、脳・神経系の伝達障害という概念で説明できるであろうし、bないしcの立場であれば、「こころ」から脳への伝達ないし脳・神経系の伝達障害のいずれかを想定すれば良いだろう。

さて、a,b,cのいずれにおいても、脳の状態変化がありえるということになる。

では、逆に量子力学の世界から、2重スリットを通り抜けてきた量子がどこに着弾するか?ということを考えてみる。外部との相互作用がなされた段階で着弾点が確定していくわけだが、現代物理学の力をもってしても、確率的にしか着弾点は割り出せない。シュレーディンガー方程式とは、そういった意味の式であり、また、不確定性原理とは、そういった意味の不確定である。

そうやって相互作用した相手とは、マクロ系としての「全体」である。すなわち、宇宙全体へと繋がっている。

このこと(全体が物理的に切断されえない)は、ビックバンからの流れとEPRパラドックスを考えるだけで十分である。
宇宙開闢が一点から始まったとするならば、全ての素粒子は相互作用しながら拡大していったことになる。すなわち、EPRパラドックスにて示されるように、宇宙の端での素粒子の相互作用の結果は、反対側に飛んで言った素粒子の状態を「相互作用なし」に決定してしまう。
瞬時に、光の速さを越えてである。

これは、何を意味しているのか?

人間をはじめ、一元論で捉えうるのならば、「こころ」も一元論的に説明可能であるのならば、「こころ」の状態変化は、宇宙全体の「どこか」の素粒子の状態と密接に結びついていると考えざるを得ないということである。
※07.03.15 06:15補足:「どこか」の素粒子
限定された意味での「どこか」ではなく、「ありとあらゆる」といったほうがいいかもしれない。限定された「特定の」であれば、科学的に「どの」を検出可能なわけだが、下記「ランダムノイズ以下」という概念からも明らかなように、「特定の」ではありえない。もっと端的に言えば、「ビッグバン」にてあらゆる物質が「最初」にて結びついていたのなら、そこから分裂・派生した「物質」は、「何らかの関連」を持っていることは明らかであり、「全体」の内部にて相互に関連を持っているがゆえ、「関連がない」ごとくに捕らえられるわけである。
そうして、「最大限」ランダムノイズ以下で無ければならない。。。
※05/12/16 05:20注
ランダムノイズ以下という制約がもたらされるのは、客観的実験系において、制御不可能な項目として残ってくるものが、熱力学的ないし量子力学的なランダム性だからである。すなわち、主観側を極力排除した結果制御不可能なものとは、排除したはずの主観側を含めた実験系の外部であり、それら「全体」との量子力学的な相互作用(シュレーディンガー方程式での重ね合わせ)が、実験系内部との相互作用の結果、ランダム性が付与されたと考えるべきでしょう。

なお、量子統計力学というのがあります。
量子力学の時間発展の双対性と統計力学(最上嗣生、理化学研究所)
homepage3.nifty.com/mogami/articles/irrev.pdf
京大数理研共同研究「量子解析におけるミクロ・マクロ双対性」
http://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~yasuyuki/rims0511.htm


もし、そういう仮説を受け付けられないというのであるならば、二元論を信じる(すなわち、物質をすり抜け、時空を行き来するような「たましい」の存在を肯定する)とかしなければならなくなるのでは、ないだろうか?※注1

※基本的な考えは、過去の記事
私の考えの「にこごり」。。。
「にこごり」の続き。。。
などにて記述しています。。。

※注1
05/12/16 08:55
よくよく考えてみたら、多世界解釈の「多」の字も出す必要がなかったんですよね。。。
前提条件とは、「物質一元論」「シュレーディンガー方程式に全てが縛られる」だけ。
で、上記の仮説を否定するということは、
1.物質一元論を採択しない
2.全ては、シュレーディンガー方程式に従わない。
の、少なくとも、どちらか一方を選択する必要があるのではないか?というのが、私の提示です。


※05/12/16 23:55補足
「最大限」ランダムノイズレベルについて
、「全体」が量子への着弾点に影響を及ぼすとしたときに、「こころ」が物質に対して全く何の影響をももたらさない状況を考えた場合、「こころ」は、量子の着弾点に対して何の影響ももたらさないであろう。。。
「こころ」が物質に対して全く何の影響をももたらさない状況とは、「何も考えない、何も思わない」時もありうるし、物質と相互作用しない状態での「こころ」、すなわち、相互作用しない二元論的な「こころ」を想定しえた場合に相当するであろう。。。

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by kisugi_jinen | 2005-12-15 22:16 | 思考。。。 | Comments(0)
「わたし・こころ」の境界と「きもい」という感情と。。。
「III」さん、「たしかに」さん、コメントありがとうございます。
(Exciteのコメント欄って制限文字数があって嫌になることがあります)

いや、たしかに「きもい」という感覚は大切ですよね。。。

なぜ、「きもい」と感じるのか?

私の提出している仮説は、「わたし」の境界についての一つの提案でしかありませんので、その点を含み置いてください。

1.脳を介しての直接的な神経伝達系にて動く体をもってして「わたし」の境界とするという考えで、通常、何の問題もない。

2.しかし、体の構造は人工臓器や機械で置き換え可能だという考えもある。最終的に残るのは「脳だ」と、そうして、「脳」すら、人工知能(頭脳)に置き換え可能だという考えもある。

3.であれば、「わたし」が「人々」と「こころ」を通じ合って生きているという状況を考えたとき、「わたし」の境界はぼやけて、「人々」との境界と混ざり合っているのではないかという考えも成り立つのではないでしょうか?

科学的実験系では、「わたし」というものを如何に排除しうるか、すなわち客観性をどこまで高められるか(対象物に対して、周囲環境を如何に交換可能な状態に保ちうるのか)ということが、重要になってきます。

こういった実験系、すなわち「科学的である」とは、2の立場に他ならない。
「科学的であることが最良である」という認識であれば、2の立場に立つでしょう。
2の立場からすれば、悪い臓器は捨て去って、良い臓器を埋め込めばいいという見方になる。臓器売買すら、肯定されうる。

で、通常の1の立場から2の立場を見れば、「わたし」という概念すら、極小の点に押し込められるような感覚にとらわれうる(「きもい」と感じる人もいる)
1の立場から、3の立場を見れば、非科学的で、旧態依然とし、全体主義的で、宗教的で、抹香臭いという意味から「きもい」と感じる人もいる。

3の立場から見れば、1は個人主義的に見えるでしょうし、2は人間を非人間的に扱っているようで「きもい」と感じるでしょう。

では、なにがいったい「わたし」の境界なのか?

「わたし」の境界は、誰でもない、「このわたし」が決めるのではないでしょうか?

※私の境界という概念については
「私」と「境界」と「宗教」について。。。
を参考にしてください。
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by kisugi_jinen | 2005-12-15 22:03 | 思考。。。 | Comments(4)
量子力学と心と。。。
量子力学で扱われるシュレーディンガー方程式。。。

その自乗が存在確率。。。
二重スリット問題で一つの量子が二つのスリットを同時に通り抜ける。。。
シュレーディンガー方程式の干渉縞。。。
スクリーンというマクロにぶつかったときのdecoherent(もしくは波束の収縮)。。。
二方向に分かれた量子の片方が「その他」との相互作用を生じたときのdecoherent。。。

スクリーンというマクロも「その他」。。。

さて、「その他」とは、何なのか。。。

もし、シュレーディンガーの猫を閉じ込めたのと同じだが巨大な箱の中の「その他」と相互作用したとしても、箱の外の「わたし」には、相互作用したかどうかすら不明。。。すなわちdecoherent(もしくは波束の収縮を)した状態としない状態とが重なり合っている。。。

もし、シュレーディンガーの猫を閉じ込めたのと同じだが巨大な箱の中の「その他」に「わたし」が含まれていたならば、「わたし」には、相互作用したかどうかは自明。。。

「わたし」とは「認識主体・こころ」。。。

あたかも、シュレーディンガー方程式で扱いうるかのごとく錯覚してしまいがちな「こころ」。。。
いや、扱いうるかもしれない「こころ」。。。

少なくとも、「認識主体・こころ」は、受動的に受け入れるだけではない。能動的に働きかける力を有している。。。

もlし、脳がシュレーディンガー方程式と関連を持ちうるのであれば、存在確率の平方根において、量子と相互作用する「こころ」が存在することになるだろう。。。

ただし、物理量としての切断を受けるので、情報に含まれる「情」が切り落とされて「状」となり、「状報」のみが、「こころ」から「外部」へと伝達されるだろう。。。

そこにおいては、ユングの共時性レベル、非因果的連関といったノイズレベルに埋もれてしまう「状報」がやり取りされうるだけであろうし、そういった関係があったとしても、検証不可能であろう。。。

===05/12/14 08:10 追加
で、「その他」の状態は、刻々と変化し、決して同一状態(交換可能な状態)にはなり得ない。

実験室内部(※)の温度・湿度などありとあらゆる周囲環境について、交換可能な状況にすればするほど、すなわち、科学的実験系を完璧に近いまで「客観的」と言われる状況に近づければ近づけるほど、干渉縞を描く確率分布に従うものの、一つ一つの量子の着弾点のランダム性は増すだろう。決して同じ地点には着弾しないはずだ。

なぜなら、相互干渉しあう相手が「その他」すなわち、宇宙全体だからである。

そう言う意味でのノイズ。。。

そのノイズの中に、「わたし・こころ」が含まれることは自明であろう。。。


05/12/26 05:45修正
そのノイズの中にも、わたし・こころ」が浸透していることは自明であろう。。。

※実験室はシュレーディンガーの猫を閉じこめうる箱にはなりえないので注意。

===05/12/14 08:25 追加

逆説的に言えば、そのランダム性・ノイズこそが、「その他」に宇宙全体(そして「こころ」)が含まれることの動かざる証拠なのではないだろうか?
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by kisugi_jinen | 2005-12-13 22:12 | 思考。。。 | Comments(2)
こころ。。。
こころが脳に局在するという考え方が主流ではある。
しかしながら、こころが脳の外にまで広がっているという考え方も出来る様に思われる。
一つには、もし、こころが脳の状態によって決定され、他の要因によっては決定されえないという説を採ったとしたばあい、他の要因がどんな状況になっても、脳に変化が起きなければこころは平安を保ち続けることが出来るという概念になる。
このような状況を作り上げるには、水槽脳(最近の映画では、マトリックスに相当)の概念が当てはまる。すなわち、脳への神経系の入力のみをコントロールすることで、他の身体的要因を全て人工的な信号に置き換えうるという発想である。
これは、シュレーディンガーの猫の拡大バージョンに相当する。
シュレーディンガーの猫は外部との連絡を完全に遮断した状況を想定可能な箱の中に入れられた猫が、放射性同位元素の確率的な崩壊をトリガーとして毒ガスが発生したときに死ぬという状況下での、仮想的な思考である。
これは、量子力学での存在確率を表す複素関数の2乗の値によって、状態が決定されるという概念を思考実験的に記述したものである。
この解答に対する量子力学の取り扱い方は多々あるものの、多世界解釈が最も簡単に説明しうると思っている。

で、認識主体である「こころ」を箱の外部に置いた状況で、猫を入れた箱をどんどん大きくしていくと同時に、箱を大きくしたことを認識不可能な状況に仮想現実機械を感覚系および運動系に取り付けるという作業を行なったとする。すなわち、自身以外の世界を箱の中に置いた状況、さらには、切断可能なレベルをどんどん脳の近くにもって行き、神経系に対しては、仮想現実的な信号を送る装置をつけて、あたかも、箱が大きくなったことを知らしめない状況を作り上げたとする。
上記状況の変化は、「わたし」を含む世界と猫を含む世界の境界をどんどん脳にまで移動させることに相当する。
どこまで、移動可能であろうか?
さて、ここで注意しなければならないのは、外部世界が変化していないような感覚をもたらすために脳に接続した仮想現実の装置である。
その装置は、切り離した箱の内部と等価でなければならない。ただし、波動関数の重ね合わせによる確率の結果は異なってもいい。すなわち、箱の内部で起こっていることと、仮想現実の装置が作り出す世界が異なっていてもいい。
この状況下で、箱の中身は仮想現実の機械と結果だけが異なり、「こころ」に対する作用には差が無いといえる。

さて、ここからが問題である。

脳側と機械側を結びつけるのは神経系の電気信号のみである。

で、脳そのものが物質としてあり、「こころ」が脳の複雑化によって生じる創発とよばれるものから生じる機能的側面であるとする。(現在主流の考え)

さて、脳の複雑さと脳に仮想現実を突きつける機械の複雑さとの差はいかほどであろうか?
脳内部に「こころ」があるという主張をする場合、脳に直接的な作用を及ぼす薬剤とか、直接脳をいじることによって「こころ」が影響を受けるということをもって証明されうるという考え方がある。
では、仮想現実の機械内部の状態を変化させるとか、両者を結ぶ神経系を切断するとかしたら、「こころ」は影響を受けないであろうか?

もっと端的に言えば、仮想現実の機械内部の変化と「こころ」の状態変化とは切り離すことが可能であろうか?

ここで、3つ(および一つから派生する3つ、計5つ)の仮説が可能になると考える。

1.こころは脳に局在する。
2.こころは仮想現実の機械側に存在する。
3.こころは脳と仮想現実の機械の両方に渡って存在する。
3-1.こころの中心は脳である。
3-2.こころの中心は仮想現実の機械である。
3-3.こころの中心はない。

さて、あなたなら、どう考える?
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by kisugi_jinen | 2005-12-11 03:44 | 思考。。。 | Comments(2)
確率における従属・独立と共時性・シュレーディンガー方程式。。。 追加事項。。。
確率における従属・独立と共時性・シュレーディンガー方程式。。。 にてコメント欄に書き込んでいたものですが、別投稿として、掘り出しておきます。

Commented by kisugi_jinen at 2004-12-08 22:05 x
今後、私にとっての、基本的な考えになるので、ホームページにアップしました。
http://www.geocities.jp/kisugijinen/
http://www.geocities.jp/kisugijinen/kanren-dokuritsu.html

※05/12/10 00:55 コメント
上記アップ内容での

上記考察において、事象が全体からの「切り離しが不可能」ということは、非常に重要なことである。
これは、いかなる状況下においても成立していることが前提条件になる。
もし、そういう条件が崩れる、ないし、揺らぐとき、仮に、対象となる事象が「精神世界」として認識されるものであれば、そこに「奇跡」といったものが発生する可能性を秘めている。
逆に言えば、精神世界のある一方向への傾倒が、世界全体をそちら方向へ押し流してしまう力を説明できるかもしれない。

ですが、舌足らずです。
この部分では、確率事象が偏って発生するときを想定しています。卑近的な例で言えば、宝くじが10回連続で一等を引き当てるといった偏りです。そういったことは起こりえないのですが、確率としては記述可能です。そうして、起こってしまった後には「事後確率=1」という事態が待っています。アインシュタインをして「神はサイコロを振らない」と言わしめたのは、物事が確率にて扱わざるを得ないことを嫌ったからです。ようするに決定論的であるべきだという概念です。しかしながら、観測事象はことごとく「確率論的」にしか見えない。
そういったところでの「意識・こころ」というものを考えたとき、総体の一部としての「自発的」と思われる思考の源泉との関係を考えることが可能なように思われます。


Commented by kisugi_jinen at 2004-12-10 03:35 x
「切り離し不可能な事象における確率概念」の背景には、偏った考え方があるように見えるけど、それは「前提条件」の設定(考え方)に依存している。
後日、そのあたりを、もう少し突っ込んで整理する予定だが、概略をメモしておく。


Commented by kisugi_jinen at 2004-12-10 03:36 x
たとえば、量子の二重スリット問題。。。
実験系は、過剰なまでに外部と「切り離されている」。
一つの量子と二つのスリットとスクリーン
一つ一つの量子が順々にスクリーン上に点描されていくとき、その点描の位置はシュレーディンガーの方程式(の自乗の確率)に依存する。
そうして、多数の量子を二重スリットめがけて打ち込んでいくと、次第に美しい干渉縞が形成されていく。。。
こういった実験系は、一見「厳密に」切り離されているように見えるが、実はそうではない。
すなわち、打ち出される量子とスリットとスクリーンを含む空間から、これらと「相互作用するもの」を排除しようとするということは、毎回打ち出される量子に対して、量子が通過するであろう空間の条件を一定に保つ(不変にする)という操作に他ならない。
すなわち、実験系に対して、周囲環境は「交換可能」でなければならない。
もし、「念力」なるものが存在するならば、こういった実験系にて、干渉縞は、いとも簡単に消え去ってしまったり、逆に、いろんな図形すら出来上がるであろう。
でも、実際にはそんなことは起こっていない。
「誰が」実験しても、同一の結論に至る。

Commented by kisugi_jinen at 2004-12-10 03:36 x
一見、彼の念は、実験系に「何ら」影響を与えないということが証明されているかのようである。
でも、実験系の周囲環境を「一定に」(交換可能に)保つという「意思」があって、はじめて実験系が一定に保たれている。
もし、実験系に影響を与えようと思うのなら、彼は行動しなければならない。
たとえば、スリットの温度を変えるとかである。
したがって、スリットの温度を一定に保とうとする意思「+行動」の影響の方が、(もしあると仮定して)「干渉縞よ現れるな!」と念ずる思いの影響よりも、「遥かに強い」のである。
何万人、何百万人がそう思ったとしても、単に思うだけでは、実験系に対する交換可能性は、たった一人の「一定に保とうとする意思+行動」&「シュレーディンガーの方程式」は崩せない。

そういった、「前提条件」が含まれている上での、確率概念である。

Commented by kisugi_jinen at 2004-12-10 03:54 x
で、一つ一つの量子が、「どこに」着弾するか?
実際のところ、実験系を一定に保つということ(実験系に対する外部条件を交換可能にするという操作)は、この確率(シュレーディンガーの方程式の自乗)に対する影響を、均質化することに他ならない。
その、均質化された部分(排除されたように見える部分)と、切り離されたはずの量子は、打ち出される前から既に「外部と量子論的に繋がって」おり、実験系内に打ち出される直前まで、外部と相互作用している。
実のところ、打ち出されてスリットを通り、スクリーンに到達するまでの間は、「相互作用しないよう」厳重に管理されているのだが、打ち出す直前までの状態が、「どこに着弾するか」に微妙な影響を与えていることは否定できない、というか積極的に影響を及ぼしていることは、量子力学的にも証明されている。であろう。←08/08/07 02:00 修正

すなわち、切り離されたはずの実験系と量子を打ち出した外部との量子力学的状態変化が、実験系内で「量子がどこに着弾するか」と不可分なわけである。

Commented by kisugi_jinen at 2004-12-10 04:06 x
そういった意味で、私の言うところの確率論的に「切り離し不可能」とは、「相互作用しうる全て」の影響が「均質に働く」(=物理学的自由度に制約を与えないに相当)ような状況下では、ノイズレベルにしかなりえないということである。

Commented by kisugi_jinen at 2004-12-10 04:27 x
しかし、よくよく考えてみると、「ノイズレベルにしかなりえない」の影には、恐ろしく大きなものが隠されている可能性を否定できない。
というところから、「切り離し不可能な対象における確率概念」を深く考え出したというところです。
それは、ユング、パウリ、物理学的自由度、マックスウェルの悪魔etc.を含んだ、広大な領域を飲み込んでしまいうるほどの基本的なものの考え方と関連しているといわざるを得ない概念になろうかと思うわけです。

※08/08/07 03:50補足・追加
(ここに記述していましたが、新規記事として別投稿し直しました)
ネーターの定理。。。
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by kisugi_jinen | 2005-12-07 16:33 | 思考。。。 | Comments(0)
もう一つの、水は答えを知っている。。。
水は答えを知っている。。。
そのことに、答えを求めたいと思ってしまう人々。。。

水は答えを知っている。。。
トンデモ本であるからこそ、答えが隠されている。。。

水は答えを知っている。。。
著者が水に求めたがっているものと、
読者が水に求めたがっているものと、
なぜに同調しあうのか。。。

水は答えを知っている。。。
科学的には否定されうるもの。。。

水は答えを知っている。。。
切断された情が求め続けるもの。。。

水は答えを知っている。。。
そう思うあなたの心が水と一体化したときに。。。

水は答えを知っている。。。
著者が誤って記述しようとしていること。。。

水は答えを知っている。。。
科学的説明など一切必要が無いというのに。。。

水は答えを知っている。。。
求める心の本質を深く見つめ続けるべきなのに。。。


水は答えを知っている。。。
著者は真実を語るべきである。。。


水は答えを知っている。。。
そうすれば、知を越える情の真の意味が見えてくるだろうに。。。

水は答えを知っている。。。
ユングの共時性の世界なのに。。。

水は答えを知っている。。。
著者は、そこまで踏み込むべきなのに。。。

水は答えを知っている。。。
著者にとっての真実は。。。

水は答えを知っている。。。
読者にとっての真実にはならない。。。

水は答えを知っている。。。
著者が真偽を科学的説明に頼ろうとするのなら。。。

水は答えを知っている。。。
読者は二分され続けるであろう。。。

水は答えを知っている。。。
水は答えを知っている。。。
水は答えを知っている。。。

そう。。。
水は答えを知っている。。。

水は答えを知っている。。。
つながりあっていることの大切さを。。。

水は答えを知っている。。。
著者は実感しているはずだ。。。

水は答えを知っている。。。
そう見えることも、そう見えないことも。。。

水は答えを知っている。。。
人の心一つにかかっているということを。。。

水は答えを知っている。。。
科学的説明を一切省いて。。。

水は答えを知っている。。。
淡々と語り続けたほうが。。。

水は答えを知っている。。。
あまねく全ての人々に。。。

水は答えを知っている。。。
受け入れられるであろうに。。。

水は答えを知っている。。。
恐れることは何にも無い。。。

水は答えを知っている。。。
そう思い続けることの大切さを。。。

水は答えを知っている。。。
書き続けることしかない。。。

水は答えを知っている。。。
ユングの共時性。。。

水は答えを知っている。。。
その奥深くに横たわっている。。。

水は答えを知っている。。。
真の意味での2重性を。。。


水は答えを知っている。。。
認識と存在の2重性を。。。

水は答えを知っている。。。
粒子性と波動性の2重性を。。。

水は答えを知っている。。。
複素関数の2乗の存在確率を。。。

水は答えを知っている。。。
その答えを水は知っている。。。

水は答えを知っている。。。
その科学的説明を。。。

水は答えを知っている。。。
人々が理解できなくても。。。

水は答えを知っている。。。
繋がり合っていると言うことの大切さを。。。

水は答えを知っている。。。
語り続けて行くこと。。。

水は答えを知っている。。。
永遠に。。。

水は答えを知っている。。。
水は答えを知っている。。。
水は答えを知っている。。。

そう。。。
水は答えを知っている。。。
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by kisugi_jinen | 2005-12-07 15:50 | つれづれ。。。 | Comments(0)
アダルト系のトラバを発生させないための提言。。。livedoor様へ。。。
前回、ライブドア担当者様が適切に対処してくださったようですが、問題の根底は残ったままであることを書きました。

アダルト系のブログを公認しているのであれば、URLを一段階深くし、たとえば
http://blog.livedoor.jp/
からの直ではなく
http://blog.livedoor.jp/adult/
以下に囲い込むようにすれば良いのではないでしょうか?
そうすれば、拒否URLとしての設定が簡単であり、規定を守らない悪質なブログは即効排除するという方針を打ち立てさえすれば、livedoorからの悪質トラバは激減すると思います。
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by kisugi_jinen | 2005-12-07 03:17 | つれづれ。。。 | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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