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自己責任と参拝と。。。2。。。
前回、思いつくまま書き連ねてしまったので、論旨が散逸してしまった。
あと、いったん投稿した文章は、些細な修正以外は、そのまま追加・訂正文を書き足す方針なので、くどい文章になってしまった。

私の意見としてまとめると、

1.私的参拝であるのなら、「神・霊」のみがその事実を知ればいいはずであり、関係者・部外者(マスコミなど)が知る必要は全くない。
2.特に、国際関係などとの関係で、公的資金など、国の財産(国民を含む)に対する多大な影響が考慮されるならば、かつ、個人的な信条として参拝したいのならば、上記、私的参拝をするべきである。
3.もし、マスコミによって嗅ぎつけられる危険性があるのなら、「私的参拝をするかもしれないし、しないかもしれない。しかしながら、国際情勢上、私が私的参拝をしたことが明らかになると、国益の損失を招くかもしれない。そう言った危険性があるので、もし、参拝するとすれば、誰にも分からないようにするでしょう。で、もし、マスコミがその事実を突き止めて暴露したとし、もし、その事実発覚によって国益の損失ないし、交渉に関わる費用が発生したならば、暴露したマスコミに、自己責任を取っていただきます」
とでも、発言しておけば済むことだと思う。
ただし、上記公表は、身の危険性は伴うわけであり、別段言わなくても、自己責任を追求することは、可能かもしれない。
しかしながら、そのようなことをしなかったわけであり、あくまで「私的参拝」とするならば、もし、それによって国益の損失が発生する事態が生じたならば、自己責任は首相の双肩にのみ、かかってくるのではないだろうか?

という、論旨でした。

ただし、「自己責任」という用法自体に問題があると思っています。
本来、自己責任とは、自己が自己に対して用いる言葉であり、他人に対して用いる言葉ではない。あまりにも、おこがましすぎると思うわけです。
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by kisugi_jinen | 2005-11-30 08:47 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
大量移民の可能性と切断された情。。。フランスとの対比。。。
もし仮に、現時点で日本がアメリカ並みの移民容認国に移行するならば、知的分断によって傷口の癒えない日本人の情的側面の繋がり合いが、強大な知的結合を誘導するかもしれない。

それは、以前に投稿した「ナンシーの原著が手元にないので。。。」における、否定神学的な共同体の形成以前の、知すら越えていない情の暴走に相当しうる。

猟奇的という言葉すら陳腐になりつつあるような「人間性」の根源にまで食い込む犯罪の多くが、「情」から切断されて「状報」として大量に放出されている。このような状況が日常化すればするほど、「情」を機軸にした社会性は失われ、「知」を基軸にした社会性が主体となり、そこへ大量の移民が入り込んだならば、本来「知的境界」のあるべきところでの「知的境界」が消失することになり、フランスでの暴動よりも更に深刻な問題を抱え込む可能性を危惧する。
ズタズタに切断されつくした「情」は一気に接続し合い、ナチスをも超えるファシズムへと暴走する危険性を孕んでいる。(不安定な情を結びつける、知の絶対優位性

世に倦む日日にて、「日本とは何か - エスニシティの均質主義と経済パフォーマンス」という投稿があったが、単純に「ヘテロ・ホモ」といった分断ができない状況にまで、(情的側面では)日本人内部が分断されていることの影響を加味すれば、更におぞましい状況に陥るかもしれないと思うのは、私だけだろうか?

===以下、05/11/27 05:20 追加
フランスでは、国土の広さが幸い(?)して、移民の多くが特定地域に住む状況になっていたようである。
情的な境界ができていたにもかかわらず、知は境界を取っ払ってしまっていた。
今回のフランス暴動の原因は「情の境界の存在」なのか「(建前としての)知の境界の不在」(政治的・経済的な境界の無さ)なのか。。。
おそらく、両方でしょう。。。
で、事態を収拾化させる運動は「情の境界の撤廃」という方向であった。一時的な効果は見込まれると思われるが、再燃の危険性があり、くすぶり続けると思われる。

===以下、05/11/27 07:00 追加 05/11/27 08:08 修正
韓国では、クローン問題に関連する「知的切断面」としての「倫理概念」に関連して、切断された「情」の歪んだ結合が行なわれている。。。
韓国は、分断されるべきではないところでの「民族の知的分断」を経験しているだけに、切断された「情」は、あらゆる知的結合をまさぐり続ける情態に陥っているのかもしれない。。。

===05/11/28 05:55 追加。。。
大量移民の(私が不安に思っている)負の側面を強調し過ぎましたが、そういった出来事によって影響を受ける人々の心にどういった変化が起きうるのか?については、想像を遥かに超えることでしょう。。。

ただし、悲惨だと思われる状況に陥らない人々がいたとすれば、情の知による切断を許さないだけの強い思いを抱き続ける人々でしょう。。。

人が 人であるということの 根源を見据え続けることができる人。。。
そういう人に 私はなりたい。。。

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by kisugi_jinen | 2005-11-27 04:30 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(1)
広島の箱。。。
封筒。。。いや、箱物の投稿をしていたら、広島でとんでもない事件が起こったものだ。。。

犯人は、対象となった被害者との切断面を構築しようとしているように思えてならない。

知的切断面。。。

被害者との関係を断ち切るような箱。。。

シュレーディンガーの猫をすら、想像させる行動。。。

自分の目の前から対象物が見えなくなることで、安心できるとでも思ったのだろうか?

知の情に対する絶対優位性が為せる業。。。

認識論的唯脳論における、「隠す」という行動様式に垣間見られる「知」の優位性。。。

そんなことをして逃れようとしても、被害者の思いは、犯人の心から切り離されることは決して無いであろうに。。。
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by kisugi_jinen | 2005-11-25 04:44 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
封筒のパラドックス。。。3。。。
前回示した、2経路からの期待値計算ですが、「はじめに総額ありき」の経路が妥当であることは、以下の無限への発散問題を考えれば明らかでしょう。

総額を3Sとする。

Sと2Sの入った箱の片方を開けたときの金額がAとしたとき、反対側の箱の期待値は、「もう片方の箱の期待値」からの経路で直接計算をすると、
(そうして、p=q=1/2という確率を箱を選択する確率かのごとくにごまかしてしまうことで)
A x 1/2 x 1/2 + A x 2 x 1/2 = 1.25 x A
となり、必ず1.25倍になる。

すなわち、片方の箱を選択した途端に、他方の箱の期待値が1.25倍になってしまうわけである。
そのため、「他方の箱がいい」と選択を変えた途端、もともと選択していた箱の期待値が更に1.25倍になるため、「もし、箱を開けない場合には、交換の回数を無制限とする」とし、選択の回数をn回とすれば、
期待値は、1.25のn乗→∞(無限大)へと発散してしまうことになる。
このことは、総額の期待値を∞へと発散させることと等価になる。
※05.11.25 04:12追加
総額が無限大との関連性に関する記述は、ネット上に散在している。「封筒 パラドックス」などで、検索可能。
また、そういった発散を避けるために、総額の頭打ち、ないし、総額の範囲について言及している記述も見受けられます。


逆に、総額の期待値から計算することにすれば、上記発散は決して起こらないだろう。
また、総額が決定されてから後の実施で、かつ、箱を開けるのは1回限りであること、さらに、一つの箱を開ける前には「どちらの箱を選んでも等価」という前提条件があることからも、総額の期待値を先に決定する経路を選択した場合に現物の値と推測の値とが等価になる(ように設定した)ので、理想的な期待値であると思われる。また、一回限りの試行での話しなので、現実的にも、「開けた箱の中身」のみで、pとqとを推測可能な範囲におさめるしか手立ては無いだろう。

さて、この手のパラドックスにおいて、「p,qおよび総額が不明だ」などという理由から、計算可能な項目のみを全て用いて予測できるかのごとく扱うとき、ゼノンのパラドックスと同じことに陥っている様に思われる。

ゼノンのパラドックスは時空間の無限分割を対象としているが、結局のところ、知の絶対優位性に立脚すれば、時空間は無限分割可能だと思われるという概念(知的切断面)に陥るところにゼノンのパラドックスの本質があるとした
今回の問題では、一回のみの試行にも関わらず、明示されていない総額は無尽蔵にあるという概念(知的切断面)に陥るのと同等の概念にてp=qという想定が可能なわけであり、一回のみの試行では気づき難い所に、ゼノンのパラドックス同様、知の絶対優位性への問題点が隠されているように思われる。

さらに、今回のような問題におけるパラドキシカルな状況への落ち込み傾向は、ボトムアップ的に既知の状況から全体を推測する方向にて、無限大への発散(資金は無尽蔵)という方向へ向かうわけで、なんだか経済界での投資関連(特に、株の売買など、架空の取引)に似た状況を思わざるを得ない。

個と全体とを結びつけるとき、無限大・無限小への発散・収束という概念に陥る危険性が常に付きまとっている。抽象概念を扱う数学と異なり、物理学の世界では、こういった無限という概念を慎重に避ける傾向があるように思われる。「何故なのか?」といったとき、無限大に対しては「総体が既に決まっている」という概念が境界を形成し、無限小に対しては「プランク定数」という概念が境界を形成する。
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by kisugi_jinen | 2005-11-25 00:51 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
封筒のパラドックス。。。2。。。
さて、前回、2種類の期待値が出てくる話をした。

一方は「残りの箱の期待値」が125万円で、「総額の期待値」が225万円 --- (a)
もう一方は「総額の期待値」が200万円で、「残りの箱の期待値」が100万円 --- (b)

残りの箱の期待値から計算し始めるとき、残りの箱を選択する確率を1/2とし、その確率のみを利用した。 --- (a')
総額の期待値を計算し始めるとき、一つ目の箱を選択する確率を1/2とし、その確率のみを利用した。 --- (b')

このパラドックスの根本はここにあると思う。

(a),(a')の場合、
なぜに、
100万円の半分の50万円が箱に入っている確率(p)と、
100万円の倍の200万円が箱に入っている確率(q)とを「同じ」と見做すのか?

すなわち、(a),(a')の場合、最初の箱を開けた時点で総額を決定するのと同じ操作を暗黙裡に加えてしまっている。言い換えると、二つの箱が用意される前に総額が決まっているのに、100万円の箱を開けたときに、p=qという条件が当たり前という誤った認識に陥りやすくなっている。

(b),(b')の場合、100万円が出た時点で、「その100万円が出る確率」=「箱を選択する確率」とし、そこからのみ総額の期待値を設定することにすれば、p=qという誤った(というより、決定不可能な)確率を使うことなく処理できる。

(b),(b')の場合、総額の期待値からpとqの値を推測するという手順に入ることになる。

。。。続きは、また今度。。。息子が起きてきたので。。。笑。。。

=== 05/11/24 08:58 追加

50万円が箱に入っている確率をp
200万円が箱に入っている確率をq
とする。
(b),(b')(a),(a')の場合、このp,qを「箱を選択する確率」と同等と扱い、それぞれ1/2と仮定してしまっていた。
では、(a),(a')(b),(b')の場合には、どうなるのだろうか?
簡単な連立一次方程式になる。
p + q = 1 --- (1)
50万 x p + 200万 x q = 100万 --- (2)
(2)は、
p + 4 x q = 2
(1)を代入して
1 - q + 4 x q = 2
3 x q = 1
q = 1/3
p = 2/3
したがって、
50万が入っている確率は、 2/3 ≒ 66.7%
200万が入っている確率は、1/3 ≒ 33.3%


ところで、(a),(a')(b),(b')の場合、ほんとうに総額の期待値が200万円になると考えていいのだろうか?

私の取った方法に基づくならば、もし、最初に200万円がでてきたら、総額の期待値は400万円になるだろうし、50万円が出てきたら、総額の期待値は100万円になるだろう。

このことについては、(b),(b')(a),(a')の手法を取った時に陥る「総額が無限」との関連と、ゼノンのパラドックス等と織り交ぜて、次回、投稿する予定である。

※08/10/29 21:20
投稿文が途中でとぎれて、再会したとき
(a),(a')と(b),(b')とが入れ替わっていたようでしたので、取消線を使って、修正しました。

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by kisugi_jinen | 2005-11-23 07:23 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(2)
封筒のパラドックス。。。
mixiで見かけたパラドックスですが、結構有名なパラドックスらしく、google検索すると2chでも何度か話題になったようだし、何種類かの本にも記載されているそうだ。オリジナルが不明なので、問題文は複数サイトでの記述を参考にしてあります。

「封筒が二つあって、自分が選んだ封筒の中に入っているお金がもらえるというゲームをする。どちらか一方にはもう一方の封筒の2倍のお金が入っている。
さて、片方の封筒を選んでそれを開けると100円が入っていた。そこで、ひいた封筒をもとに戻して、もう一度封筒を引きなおしてもいいですよ、と言われたとき、もう一度封筒を引きなおすべきだろうか?」

。。。

ということで、考えてみた。。。以下、封筒を箱に変え、金額も変えてある。

ギャンブラーのボスが用意している総額を3Sとする。

片方の箱にSが入れられており、もう片方の箱に2Sが入れられている。
総額、2Sの値、およびSの値は知らされていない。

片方の箱のみ、受け取ることができるという。

ただし、片方を開けてからは、1回のみ、交換可能だという。
二つの箱のどちらかを選択する確率は暗黙の了解として1/2とする。

さて、箱の片方を選んで開けてみると100万円が入っていた。

このまま100万円を受けとるか、再チャレンジして200万円を狙うか、あるいは50万円になってしまうかというとき、どうする?


単純計算すると、「残りの箱の期待値」(1)
200x1/2 + 50x1/2 = 125万円
ということは、交換したほうが得なような気がする。。。

だが、待てよ?
本当に、そうなのだろうか?
。。。

開けた箱の100万円が
Sの場合、残りの箱には2S即ち200万円が入っていることになる。
で、総計は300万円
2Sの場合、残りの箱にはS即ち50万円が入っていることになる。
で、総計は150万円
「総計の期待値」(2)は300/2+150/2=150+75=225万円
ということで、正しいのだろうか?
現物の100万円を差っ引いて125万。。。
何が何でも、交換すべきなのか?

さて、現物の100万円だけに着目すると、これがSなのか2Sなのか不明だけれども、「総計の期待値」(3)は計算できる。
(S+2S)/2=1.5S が 100万円
すなわち
「総計の期待値」(3)は、3S=200万円
ということは、「残りの箱の期待値」(4)は100万円になってしまう。。。

あれ?

どうして(2)と(3)が異なり、(1)と(4)が異なるのだろう。。。

直感的には、最初に箱を選ぶのと、一つ開けてから交換するのと、変わらないはず。。。

ということは、(3)(4)が正しいということになるんではないだろうか?

両者の違いをまとめると、
計算手順を
(a)開けた箱の額→残りの箱の額の期待値(→総額の期待値)
(b)開けた箱の額→総額の期待値→残りの箱の額の期待値
のどちらを選択するか?
の違いである。
即ち、「総額は既に決定されている。」という前提条件を重要視するかどうか?です。

これは、「片方の2倍」でなくても「片方の10倍」でも成り立ちます。

総額を不明のまま、箱を開けないで無限交換して行く場合などを数学的に追い求める人たち(即ち、総額は無限に発散する)もいるようですけれど、直感的には(b)の手順で考えたほうが、個人的には、至極納得できるといったところです。。。
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by kisugi_jinen | 2005-11-22 07:14 | つれづれ。。。 | Trackback(2) | Comments(0)
ナンシーの原著が手元にないので。。。
★補足にあるように再投稿です。。。

いつものごとく、浅田氏のアーカイブを覗きに行く。。。以下、引用部分(段落下げているところ)は、浅田氏のアーカイブからのコピー部分です。
ナンシーの共同体論の鍵となるのは、『声の分有』(原著1982年刊:邦題は『声の分割』[以文社])で最初に提起され、『無為の共同体』で一般化された、「分有(分割=共有)」 partage という言葉である。人間はばらばらに分割されているが、まさしくそのように分割されているということを共有する、というわけだ。これはいわば不在の共同体/共同体の不在をもって実質的な共同体に代える、共同体の否定神学とでも言うべきものではないか。

この文には、前提条件が必要である。
それは、「人間はばらばらに分割されているが」に対する部分である。
明らかに「知の絶対優位性」を前提条件としている。
なぜ、そうならざるを得ないのか?
共同体に対して、否定神学的な論考を加えなければならない根本的なところが、そこに隠されているように思われる。
ラカンの理論が強い否定神学的な色彩を帯びていることはつとに指摘されるとおりであり、「性関係は存在しない」というあまりにも有名なテーゼはその典型だろう。ナンシーは、このラカンのテーゼを真っ向から否定することなく、いわばからめ手を使って、実質的に「性関係は存在する」と言うに等しいところまで行こうとするのである。

共同体の、情による結びつきを、知的に解明し、分断し、あからさまにし尽くすこと自体が、「性関係は存在しない」という否定神学的なラカンのテーゼを産み落とさせるのではないのだろうか?
そういった方向性は、ゼノンのパラドックスを数学的な側面から証明することにて解決したかのごとく錯覚に陥る様に結びつくものを感じる。

原本を手に入れて読みたいところなのだが、「在庫無し」では、手の出しようも無い。。。

おそらく、ナンシーの道筋は、「情」を「知」によって炙り出す如きの手法であるような気がしてならない。。。そこには「情」という亀を「知」というアキレスが追い越そうとして追い越せない姿が重ねあわされるような気がする。。。

いや、すでに追い越しているにもかかわらず、追い越した途端に、後ろ向きに走っていることに気づかず、亀から遠ざかってしまうゆえに、ますます亀に向かって必死に走ろうとするアキレス(否定神学)からの脱却への方向性が語られているのかもしれない。。。(あたかも、ミヒャエルエンデの「モモ」にでてくる「さかさま小路」のごとく。。。)
「分有」の論理をややもすると否定神学的な色彩を帯びた抽象論から解き放とうとしている点において。「性関係の<有り>」と題されたこの小さな書物は、次に展開すべきものとして「性的なものは関係の<有り>である」というテーゼを提示して締めくくられる。

この部分は、まさに、主体から関係性への視点の移動を物語っているように思われる。。。

おそらく、そういった方向性へと「知的側面」を向かわせしめる元になるのが、
実のところ、ナンシーは、1991年、湾岸戦争の始まった頃に、心臓移植手術を受けたのだった。そして、湾岸戦争が終わる前に、「戦争、法、主権――テクネー」*[5] という重要な論文を書いている。だが、それ以降の体験を綴った『侵入者』(原著2000年刊:邦訳以文社)においてストイックで簡潔な筆致をもって書かれているとおり、ナンシーの一瞬一瞬の生は、外から移植された死んだ他者の心臓という「侵入者」によって維持されているのであり、それは耐えざる緊張と苦痛の連続なのである。

といった事柄になるのであろう。。。

注:浅田氏のアーカイブは古い(2001年)ので、ナンシーの「無為の共同体」※1

は在庫切れになっており、物ぐさな私は、手に入らないものとあきらめていた。
けれど、値段が跳ね上って別に出版されていた。※2
う~~~んんん。。。
趣味の本としては、高すぎる。。。

と。。。

そうそう。。。

最近の「世に倦む日日」は、上記共同体に対する考え方に関連するような記述が多いです。

日本語だけで完結できる先進国日本 - 『翻訳と日本の近代』から
『拒否できない日本』をめぐる雑感 - 89年から99年の頃の日米
阿修羅像と奈良の心

★05.11.22 02:20 補足
05.11.21 03:05に投稿したのだが、
【投稿記事 非公開処理のお知らせ】
こんにちは。エキサイトブログ管理者です。
エキサイトブログでは、ライフログ機能で提供しているもの以外の
アフィリエイトプログラムが含まれたリンクの貼りつけを
ご遠慮いただいております。
恐れ入りますが、該当記事を削除いただくか、
または内容を修正のうえ新規の記事にて再度ご投稿
いただけますようお願いいたします。
との指摘を受けたので、どの部分だろ?
と、考えたところ、オンライン販売の本へのリンク埋め込みが相当するのだろうと思い、リンクを外し、再投稿することとした。

※1
無為の共同体―バタイユの恍惚から ポストモダン叢書 (7) ジャン=リュック・ナンシー (著), 西谷 修)
※2
無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考
ジャン=リュック ナンシー (著), Jean‐Luc Nancy (原著), 西谷 修 (翻訳), 安原 伸一朗 (翻訳)

===05/12/06 03:25追加
上記本をライフログに追加した。おそらく、ライフログ経由での購入による手数料が、エキサイトの収入になっているのだろう。。。知らなかった(というより、当たり前か)
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by kisugi_jinen | 2005-11-22 02:23 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(1)
糊を使わないで作るメビウス(メービウス)の輪。。。
いや、すごいのを見てしまった。。。
四つ編みメービウスの輪。。。
一枚の紙を編みこむことで、糊を使うことなく作り上げることが出来るという。。。

。。。

。。。

。。。

。。。

。。。面白い。。。

なるほど。。。偶数回の回転で元に戻るという性質を利用するということか。。。
でも、どーやって作るんだろ?

そうそう。。。偶数回の回転で元に戻るってことは、スピンに似ている。。。
※注
偶数回の回転といいながら、メビウスの輪は180度回転を2回、即ち、360度なので、半回転を2回である。スピンは360度を2回、即ち、720度回転なので、実のところは、異なっています。


過去、「わたし」という存在について、知的切断面のズレに相当する部分を無理やり繋ぎ合わせたところという意味で、「メビウスの輪的な存在」だと書いた。

「無理やり繋ぎ合わせる」という方策を採らなくても、編みこむという手法でメビウスの輪を作ることが出来るということは、「わたし」という存在を考える上で、(私自身にとって)とてつもなく素敵な発見である。(でも、どーやって作るんだろー)

一見、矛盾した存在(繋ぎ合わせなければならないような特異点)であって、調和すらしている存在(全体の部分である故に欠落することが不可能であり、それゆえ全体と区別が出来ない)であることと、「なんとなく相同」であるところが、実に興味深い。。。

※注
「わたし」という概念に絡みつくズレは、メビウスの輪というよりも、どちらかといえばスピンの回転に相当する感覚があります。360度回転で反転し、更に360度回転で戻る故に、360度の回転だけで重ね合わせが可能なように思われる知的錯覚・知的切断面の世界。。。
メビウスの輪は、空間におけるスピンの不思議さを、身近な紙にて表現しているように思われます。


※05.11.19 06:23追加
全体と個との切断面のズレが意識されるということは、自己の疎外感にも繋がりますが、そうやって、疎外感が発生するということからも、「わたし」という存在そのものが、逆説的に全体の部分として切り離し不可能であることを物語っています。

科学的客観性という概念を推し進めること自体が、交換可能性を除外した領域に「わたし」を置くという概念(すなわち交換不可能な「わたし」を、仮想点(無に等しい)という限界への知的切断面の縮小過程そのもの)であり、特異点的な「自己」という概念を生み出しえます。

「私」と「境界」と「宗教」について。。。
および
「私」と「境界」と「宗教」について。。。(補遺)。。。
での記述は、上記概念にて説明しなおすと以下のようになります。

1.キリスト教に代表される一神教が一神教足りうるのは、この特異点的な「自己」を含む全体がひとつであって切り離せないという概念に他ならないからでしょう。

2.多神教が多神教足りうるのは、この特異点的な「自己」が複数あって、それぞれに中心を持つという概念に他ならないでしょう。

3.仏教が仏教足りうるのは、この特異点的な「自己」と「他」との境界を「無」とする「と、同時に有」とする「と、同時に、そのどちらでもない」とする概念に他ならないでしょう。

科学的客観性ではなく、主観的な立場から記述しなおすと、「わたし」という特異点が特異点ではなく、時空内に広がっているという概念が、ごく一般的な感覚になるでしょうし、「わたし」≠「あなた」という(交換不可能だという)概念は、非常に一般的な概念になります。
この方向性を極限にまで広げた概念が「独我論」になろうかと思います。

これら種々の概念の何れかが正しくて他が誤っているという宗教的・政治的な一択問題へと誘導するもの、それこそが「全体」、「わたし」という概念を含んでいる「全体」なわけです。

すなわち、たとえば上述する概念の「一つを信じるわたし」が存在したとすれば、「他の一つを信じるあなた」が存在するわけです。
両者は重ね合わせることが出来ない(交換不可能)ということです。

宗教的・政治的な圧力が、そういった対立概念を成立させうるにも関わらず、一方で「世界は一つ・全ては繋がりあっている」という概念(科学的には「大統一理論」であり、宗教的・政治的には「私と貴方は交換可能」という概念)も共有されえます。

全体と個との切断面のズレは、こういった交換可能性と交換不可能性、客観と主観という概念形成にまで関連しています。

で、スピン360度的な回転(メビウスの輪の1回転)は、「わたし」≠「あなた」という交換不可能な重ね合わせとして捉えられ、スピン720度的な回転(メビウスの輪の2回転)は、「わたしを含む全体」=「あなたを含む全体」という交換可能な重ね合わせとして捉えられることと、「なんとなく相同」だということです。

そうして、この「個と全体」の間のズレ(知的切断面)を越えることのできうるものこそが、「知が絶対優位だと認識したがること」をも熟慮した上での「情」になろうかと思うわけです。

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by kisugi_jinen | 2005-11-19 04:29 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
切断面のズレ。。。
世に倦む日日のファシズム関連での引用(佐藤優)は、私が以前記述した「トップダウンとボトムアップ」での切断面のズレに相当するように思われる。。。
元来、政治がトップダウン志向であるならば、それは、「全体」主義的にならざるを得ないはずである。
「全体と個」の問題は、政治的な側面だけではなく、このブログで触れてきたように、物理学における観測者問題哲学的な認識と存在の問題宗教における神・魂の扱いの問題などとも、密接に関係している。

なぜに、個と全体との知的切断面がずれるのか。。。

政治的な論考は、原因を明らかにし、それを排除しようとする方向性に動かざるを得ないだろう。
しかしながら、そういった方向性もまた、トップダウン的な知的切断面のズレを生み出しうる。。。

と、そんなことばかり考えていて、なあんにもしなかったら、「下手な考え休むに似たり」ということになってしまいかねない。。。

ということで、仮眠に入ります。。。

※05.11.18 04:50追加
政治的には、トップダウン・ボトムアップを切断するところに「わたしの境界」が存在する。
(狭義の)科学的・物理学的には、観測対象に影響を与えないような状態、すなわち「交換可能性(=客観性)」の高いほうへの極限状態を想定した場合に、無限極小点(仮想点)にまで退縮しうるところに「私の境界」が存在する。
宗教的・哲学的には、その「知的思考」に依存して、境界設定は様々に行われる。

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by kisugi_jinen | 2005-11-15 05:30 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
フランスの暴動。。。そして日本。。。
首相の靖国参拝問題。。。
母親への毒盛り事件。。。
麻原彰晃の「自己」の境界問題。。。

これらには共通点がある。

それは、今、フランス国内を揺るがしている問題にも繋がっている。。。

それは、「自己」の境界問題。。。

以前、「自由と平等」についての投稿を行なった。
自由と平等といえば、博愛を加えることで、フランス国旗を表している。
政治的指導者達は、トップダウン思考とグローバル化という流れから、自由と平等とを知的に切断することによって、博愛の精神を失ってしまったのかもしれない。

現フランス政権は、移民と従来の国民との境界を廃止することで、更なる境界を作り出してしまった。まさに、「グローバル化という境界削除による境界発生」そのものである。

知的に境界を越えるという暴挙が、情的な切断を生み出し、それが知的な切断を生み出す。。。

境界がなぜ発生するのかという根本に対する思考が不十分だといわざるを得ない。

それは、外見上の区別・差別といった概念以前の問題である。

それは、自己が自己を自己として認識するということに繋がる問題であり、「自己の存在」という概念に繋がる問題であり、「生・死」の境界に繋がる問題である。

自己が自己を自己として認識した途端、麻原と松本との境界は消え去るかもしれない。

「自己の存在」という概念(知的切断面)を深く考察すれば、移民と従来の国民との知的・幻想的境界が形成され、かつ、境界を越える情が形成されるかもしれない。

「生・死」の境界という概念(知的切断面)を「自己の存在」という概念と合わせて深く考えるならば、母親に毒を盛るということが、自身に毒を盛るということに繋がることが分かるかもしれない。

日本。。。

情の切断が究極にまで進むこの国では、フランスでの暴動すら、異国のお祭り騒ぎにしか思えないだけの不気味さが渦巻いているような気がする。。。

※05.11.12 08:15 一部追加
※05.11.14 03:40 一部追加
※06.11.11 10:00 補足・資料
JIIA(日本国際問題研究所)
http://www.jiia.or.jp/column/200511/09-shoukubosensou.html
クロール(googleなどでのキャッシュ)でしか見ることができないが
asahi.comでの記事
「フランス暴動、「再発火」寸前、2006年10月28日17時10分
のように、未だ、くすぶり続けているとのこと。。。

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by kisugi_jinen | 2005-11-12 05:37 | 思考。。。 | Trackback(2) | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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