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情の2方向。。。共有可能性・交換可能性・共感可能性の高さ。。。
古の過去から、ロボット系の映画全般において取り上げられている「知」と「情」との葛藤。。。

人間性と機械性との区別は、空想の領域においても「情」の有無にて為されている。。。

かのマトリックスにおいても、ターミネーターにおいてもである。。。

脳構造からの解析では、情は原始的なレベル、即ち他の動物と共通のレベルに存在すると言われている。しかしながら、他の動物と比べて発達しているといわれている大脳皮質部においても、情動をつかさどる領域があるといわれている。

これは、何を意味しうるのか?

ポストモダンが「知」から「情」へと視点を動かしたとき、彼らは「動物的」という用語を使用することを選択した。※
※注:07/06/23 06:30補足・注釈
「彼ら」とは、東 浩紀氏に代表される人々である。
動物化するポストモダン
即ち、「知」が「人間的」であるとすれば、一般的な概念区分で言えば「動物的」とは「劣るもの」という「知的切断面」(幻想的に共有可能な概念)として捉えうるものである。そうして、上記脳構造との対比においては、人間にて発達している大脳皮質と比較し、明らかに動物でも持ちうる辺縁系の脳機能に匹敵するような認識であるかのごとくに思われる。

無論、「動物的」という概念を「人間的」と同等のレベルにて取り扱うことも可能であろう。いや、まさに、人間的とは動物的な要素を排除しては語れないという概念・知的切断面としての捉え方であろう。しかしながら、一旦、「動物的」という用語で知的に切断した途端、その切り口は、本来、発信者側が有している総体としての「情」とは異なった接続口を求めてくることになりうる。

たとえば、ネット上での情の扱いの変遷である。従来、ネット上での言葉のやり取りでは、情的要素の交換が困難(不可能)であるがため、ネチケット(ネット上でのエチケット)なる概念にて、情的表現を抑圧してきた。そうして、実質掲示板の管理者がそういった要素の排除に当たっていたのが、ブログへの移行に伴い、そういった管理が困難な状況、ないし、そういった情的発露が許され、求められる状況になってきており、情的な発言が知的な発言をしばしば凌駕する傾向を有し始めているといえる。

すなわち、ネット上の討論自体が、知的に優位であろうはずのものが、情的に優位であるものの支配を受ける場合が出てきているし、実社会でも、情が知を凌駕すると思われるような出来事が増えてきているように思われる。

この場合、注意すべきは、共感可能性の高い情によって、本来的な「知」が軽んじられる傾向にすらあるということである。

情によって、知的切断を受けた状態で、共有可能性(共感可能性)の程度が異なる。
即ち、感情移入しやすさがある。
通常、ネット上でも皆が同調しやすい情は、共感可能性の高い情になるであろう。

で、共感可能性の低い情もある。それは「動物的」な情としては捉えきれない情であり、知と同等、ないし、知を越える情という概念になる。

そういった「情」は、知的切断においても揶揄されることなく、知からは尊敬のまなざしを向けられうる「情」であろう。。。

そういった類の「情」の知的切断面は、過去から「アガペー」とか「博愛」とかいった概念にて受け継がれてきたように思われる。

すなわち、そういった「情」は、少なくとも知的切断されただけでは完全には捕らえ切れないため、ネット上での表現(言語ゲームを含む)にては、表現しつくせないものであろう。。。それゆえ、そういった「情」を孕む概念全般は、「語りえぬもの」という言葉で捉えられているといえる。

物質的な側面から、逆説的に見るならば、脳機能・脳構造のレベルですら、知と情とが切り離せないということである。したがって、それらを切断した状態(たとえば「動物的」とかいった概念)で捉えようとすること事態自体に、問題が発生する下地があると思う。

注:
05.10.28 03:30 誤字訂正
05.10.28 03:30
知的切断面で共有可能性が高いと思われがちな概念(用語)にて捉えられる情ほど、その実質は共感不可能かつ交換不可能な概念になっているように思える。

たとえば、「動物的」と思われている「喜怒哀楽」の情は、知的切断面で共有可能性が低いように思われるにもかかわらず、共感可能性が高いものが多いように思える。「もらい泣き」なんて表現があるぐらいだ。

で、「神・善・美」といった「知」を凌駕するかのごとく思われるような「情」は、知的切断面で共有可能性が高いように思われるにもかかわらず、共感可能性が低いものが多いように思われる。
これは、「知」の関与を排除できないがゆえ、二者択一への揺らぎ(静的な概念形成、すなわち多義図形の形成)をもたらしてしまうからだと思われる。

唯一絶対神を奉ずる国々が何故に争ってしまうのか?ということの根本的な原因がこのあたりに隠されているように思われる。

要するに「知恵の実」を食べてしまったが故に、「失楽園」を経験している状況に等しい。

05.10.28 04:12

更に付け加えるならば、靖国問題が、「英霊」という言葉で表される知的切断面において共有可能性が高いように思われる(いや、現に、共有可能だとして複数の集団が形成されている現実を見ればいい)にもかかわらず、知的切断面を貫く方向性の違いから、互いに共感不可能な事態を招いている。
「物言わぬ英霊たち」を挟んで、雄弁に語り合うが故に対立してしまう人々。。。
何が対立をもたらすのか?
静かに考えるべきであろう。。。

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)

05.10.28 04:40 一部追加変更

※07/06/23補足説明
上記文では、東氏の「動物的」を、正に一般的感覚としての「動物的」として捉えた場合の記述です。東氏の「動物的」は構造(垂直的・水平的)を有していて、若干複雑です。
ただし、
近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通して満たすことができた。言い換えれば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に結ぶことができた。しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。現代思想風の用語を使って表現すれば、これが、本章の第二の問い、「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人間性はどうなってしまうのか」という疑問に対する、現時点での筆者の答えである。
--- 「著書紹介:動物化するポストモダン」、東 浩紀、hirokiazuma.com profilesより引用

にても明らかなように、「人間性」に対応する概念としての「動物性」を意識(概念化・知的切断)して記述されています。

更に言えば、「人間性の欠如」(人間性が「ない」)=「動物性」といった否定神学的な概念形成にて「動物的」を炙り出しているともいえます。
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by kisugi_jinen | 2005-10-27 19:13 | 思考。。。 | Comments(3)
情。。。ポストモダン。。。動物的。。。
来生自然のホームページ。。。
旧URL:http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/
新URL:http://www.geocities.jp/kisugijinen/

まもなく、立ち上げてから4年になる。。。

思春期、思考の大きな変化は5年ぐらいの単位で訪れてくるという経験をした。。。
その後、「にこごり」のごとく固まっていたが、ここ数年間で融けて、また「にこごり」を形作ってきている。。。

その思考は、思春期へと回帰し、素通りし、交錯し、そうして別の切断面を私に提示した。(注4)

知的切断に対する情への思考・志向である。

情。。。ポストモダンの言うところの「動物的」というのが当てはまるのかもしれないが、「○○的」と言った途端に「知的切断面化」してしまう困難性を有している「情」。。。

それは、「知」によって捉えてしまおうとすると「○○的」という陳腐な表現に成り下がってしまうくらいとらえどころのないものであるにもかかわらず、あるときは「知」を越えるもの。。。

いや、それがあるからこそ、「語りえぬもの」という「存在」が「存在」足りうるもの。。。※

そういう「にこごり」に陥っている。。。

※「語りえぬもの」という「存在」が「存在」足りうるもの

たとえば、「りんご」というものを目の前にして、「りんご」についていくらでも語ることができる(複数の知的切断面の生成)。しかし、そうやって語ったものを寄せ集めて「目の前のりんご」と全く同一のものを作り出せるか?という問題を考えるとき、同一の分子構造まで再現したとしても、「パウリの排他律」が、「待った!」をかけてくる。
しかし、そこまで行かなくても、「大好きな、○○さんに貰ったりんご」とかであれば、「かけがえのないりんご」という制約が付いて来る。
このことは、「目の前のりんご」が全体と切り離し不可能という状態を意味している。

同じことは、神のような超越的ないし超越論的存在が、なぜに存在足りえるのか?という問題にも認められる。すなわち、「語りえぬもの」という「存在」が「存在」足りうるものであるとは、それを「認識する自己」との関係と切り離すことができないということと相同(1)であり、かつ、「語りえぬもの」、「超越的・超越論的」存在が、全体と切り離すことができないということと相同(2)である。
(1)(2)を見ていただくと分かるが、さらに、「自己」と全体とを切り離すことができないということと相同なのである。

すなわち、これら「切り離し不可能」という事態は、主として情的なもの(「情的」と言った途端に知的切断されるけれども)で結び付けられており、知的切断を越えているということになる。
知的切断を越えるといっても、知と情が直交するところに切断面が立ち現れるわけであり、どちらが主でも従でもなく、優れているとか劣っているとかいう議論すら無意味なのである

それゆえ、ポストモダンの言うところの「動物的」という表現は、誤解を招きうると思う。


注1

通常、「語りえぬもの」とは、知的切断面内部にて否定神学的な論争にも引き合いに出されるが、そういった「知」的な捉え方を越える別の側面が含まれていることに注意を払う必要があると思う。

注2

ここの文章は、「神の存在」を肯定しているものではない。
え?、だって、「神の存在は全体と切り離せない」と明言しているじゃあないか!
と、反論されるかもしれないが、この文章全体で使っている「存在」は、「物質的存在(形而下学的存在)」と「認識論的存在(形而上学的存在)」をあわせた「存在」である。
早い話、「夢・幻」で捉えたものもすべて「存在」といっているわけである。

注3

本来、「動物的」という表現は「唯脳論的」という表現と対を成していると考える。

注4 05.10.28 04:25
岩崎宏美。。。「思秋期」。。。
  ひ と り で 紅茶 飲みながら
  絵葉書なんか 書いている
  お元気ですか 皆さん
  いつか あいましょう
  無邪気な 春の語らいや
  華やぐ夏の いたずらや
  笑い転げた あれこれ
  思う。。。秋の。。。日。。。
思春期に、繰り返し、繰り返し聞いた曲。。。

  思い出は 夕焼け色に 浮かび来て
  朝焼け色に 沈み行く
同じく、思春期に作った歌。。。

思春期を貫く問題は、個人的感傷を越えて、思秋期の歌のごとくに、私の生活・思想全体へと一体化したともいえる。。。
そうして、それは、人生における夢のようなものなのかもしれない。。。

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by kisugi_jinen | 2005-10-22 07:17 | 思考。。。 | Comments(0)
怒られるから。。。
息子が、人からもらったおもちゃを粗末に扱ったことをとがめたら、
「○○おじさん、怒る?」
と、聞いてきた。
どうやら、「○○さんが、怒るから、□□したらダメ!」
と、認識しているようだ。
すかさず、
「貰ったオモチャでしょ」
「○○おじさんから△△君が貰ったから、△△君のものだよ。」
「○○おじさんから貰ったオモチャが壊れたら、△△君、悲しくない?」
すると、息子は
「うん、悲しい」
と、答えるので、
「じゃあ、大切にしようね」
と、言ってやります。

本当なら、
「○○おじさんが壊れたことを知ったら、悲しむだろうな」
と、付け加えるべきなのでしょうが、自身の心に向き合うことが、最初にあるべきだと思っています。

「『怒られるから』、という理由付けで叱るのはだめだ」というようなことは、一般の本にも書かれていますが、「なぜ、相手が怒ると感じるのか」の根本的なところを見つめてほしいと思っています。

1.「相手が怒るから」(推測、即ち、知的切断)

2.「相手が悲しむから」(推測、即ち、知的切断)

3.「自分が悲しいから」(根本的な感情)

で、もし、上記、見つめなおしができたなら、

「○○おじさんが壊れたことを知ったら、悲しむかも知れないね」
と、話を持って行くことができると思います。

ただし、3の段階で、「自分は悲しくない」という感情があるのなら、2と3との間で「情の知的切断」が生じているのだろうと思われます。

3の段階での「本当の感情」を見つめなおしてこそ、歪みのない相手への「情」の接続ができると思います。

もし、3で「悲しくない」という状況になっているのであれば、2との間のギャップをどうするかということを、じっくり話し合うべき時なのだろうと思います。

おそらく、大きくなるに連れて、「自分が悲しいから、○○しない」ということにならずに、「自分が悲しくても、○○する」ということが生まれてくる。
そういうことに向き合っていけるのが、種々の問題からの回避を避ける一つの方法になろうかと思っています。
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by kisugi_jinen | 2005-10-22 04:20 | つれづれ。。。 | Comments(0)
自己責任と参拝と。。。
最終更新:05.11.20 06:45

自己責任。。。

首相が「私的だ」として参拝した。
中国が「日中関係は悪化するだろうし、首相は歴史的責任を負う」といった。

なぜだろう。。。

どこかで聞いたような状況。。。

そう。。。

「危ない」と、言われていたにもかかわらず、国境を越えていった人々。。。
事前に警告が発せられたにもかかわらず
自ら境界を越えたとき
「自己責任」という言葉が囁かれるように思われる。。。

マスコミを賑わす「自己責任」という言葉の裏側には、
「公的なお金はつぎ込めない」ということが背後にあるように思われる。。。

首相が「私的参拝」を「自己責任」にて行なったのであれば
公的なお金をつぎ込むようなことだけはしないで欲しいものである。

SPを連れて参拝しなかったであろうか?
「内閣総理大臣」という肩書きを書かずに「一般市民」という肩書きを書いたであろうか?

関係悪化が生じたなら、改善するに必要な公的資金。。。

「小さな政府」を目指して「郵政民営化」を推進するのであれば、
外交においても「無駄な公的資金」をカットしてほしいものである。

で、
何が無駄で、何が無駄でないのか。。。

多義図形のだまし絵のごとくに、立ちはだかってくる。。。

注:05.10.22 04:10
この文章は、「私的参拝」の是非を論ずるものではない。①なぜ、「私的参拝をせざるを得ないのか?」という根本的なところを考えるべきだというものである。そうして、②現行の「私的参拝」が、ほんとうに「私的参拝」なのか?というところにも、問題点があるということを主張するものである。
これは、「李下にて冠を正さず」の諺にも通じるものがあるだろう。
即ち、そこが「李下」なのかどうかという問題と、「他者の目」を気にするかどうかという問題の2重性である。


私の文章の論点・視点の立脚点は、憲法違反かどうかではなく、交換不可能な二者を、あえて交換可能な二者として重ね合わせたときに感じられる矛盾です。そのときに発生する、交換可能性の適応可能性、交換可能生と不可能性の境界、および越境の可能性とでも言えるものです。
すなわち、「首相」と「いわゆる3バカ」、「国際政治問題における自己主張」と「紛争地帯における信条の貫き」といった、交換不可能な二者の交換可能性との境界問題というわけです。

両者が交換不可能だということは、このブログの主旨から当然のスタートポイントです。
で、概念形成という過程においては、交換可能性が非常に重要なファクターを占めているはずです。すなわち、似たもの同士を繋ぎ合わせ、知的・仮想的に交換可能として扱うことで、概念が出来上がると思います。

概念形成のそういった仮定の下で、わたしは「私的」という交換可能な用語から「自己責任」という概念形成の可能性を見出したわけです。で、両者を実質的に交換不可能にしているものは何なのだろうか?という、交換不可能性との境界問題を見据えたとき、どういった問題が浮上してくるのか?ということと、両者を越えるものは、情なのか?というところです。

ぶっちゃけ、似たもの同士を発見したのだけれども、何故世間での扱いが違うんだろうという疑問そのものです。

追加:05.10.23 03:15
で、両者の差異は、「私的・公的」という境界設定問題と、「国内の靖国神社・国外の紛争地帯」という境界の差異、および「問題が発生した場合の対応」の差異、さらには、「複雑に重なり合う複数の共同体」の対応の差異になろうかと思います。

追加:05.10.23 07:00
両者を分かつ背景には、最も根本的なところで、「霊」に対する「個人」の感情と「集団」の感情の差異がある。
NPO関連で紛争地帯に赴く人々は、そもそも境界に対する認識を持たない、ないし希薄だと思う。本当なら本人たちに直接聞きたいのであるが、「こころ・たましい」といったものに対する思い入れの広さと、「生・死」の境界に対する超越性の度合いが、「知的切断」よりも強くなければ、あのような行動はできないのではないだろうか?
すなわち、「霊」という概念に対する「個人」的な思い入れが強いのであろう。それゆえ「霊」という概念を「集団」として保っている領域へも、何のためらいもなく入って行くことができるのだと思う。
一方、小泉首相をはじめ、靖国神社への参拝を、非公式にでも行なおうとする人々の場合、境界に対する認識の強さを感じる。「こころ・たましい」といったものに対する思い入れの深さと、一方で「生・死」の境界に対する明確な知的切断を感じる。境界の明確さを求める姿勢は、答弁に対する逃げの態度とは無関係である。逆説的に言えば、自己内部に形成された境界に対する攻めは、その境界が確固たるものであればあるほど、如何にしてでも、かわさざるを得ないはずである。そのような強い境界を感じる。
その強さはどこから来るのか?
おそらく、「霊」にたいする「集団」としての感情が働いているものと思われる。
「集団」が形成されうるということは、(知的・幻想的に)交換可能な概念形成が必要となる。そうして、その交換可能性の焦点になっているのが「靖国神社」になるであろう。。。
しかしながら、「靖国神社」という一つのモニュメント(知的切断面)に対する人々の情(思い入れ)の差異こそを大切にすべきであろう。

追加:05.10.23 07:15
さて、これら両者を分かつ深層部分についての分析を踏まえた上で、なぜに世間の対応が異なるのだろうか?ということを考えてみた。
現在、日本は、「余裕の無さ」という点で、世間一般的な認識(概念・知的切断面)が一致しているように思われる。
余裕の無さは、思想の多様化を排除する方向性を有し、集団化をもたらす方向性を有する。
すなわち、このような状況下では、わがままは許されない方向に向かいうる。余裕が無いのである。知的・幻想的に共有可能なものが残される方向性を有し、共有不可能なものは、切断されて行く方向性を有している。
そうして、余裕の無さは、余裕のないもの同士が「余裕の無さ」という知的切断面を(知的・幻想的に)共有可能であるために、「余裕のある」領域とは境界を明確にしていく方向性を有しているように思われる。
現状の日本という国は、まさに「余裕の無さ」という宗教にはまり込んでいるように思われる。

追加:05.10.23 07:36
当初に書いた「そこが李下なのか?他者の目を気にするのかどうか?」については、「霊に対する集団」としての感情が小泉首相にある限り、集団内部においては「そこは李下ではない」ということを意味するはずである。その点については、公的・私的の区別は不必要になるであろう。さらに、「霊に対する集団」としての意識・情が強ければ強いほど、「私的」にでも参拝せざるを得ないことになる。そうして、「私的」にならざるを得ない原因を形成する要因は、「霊に対する集団外部」という認識・概念を作り出し、両者の境界は更に強くなっていく。

追加:05.10.23 08:18

上記で「個人」と「集団」とを区別したが、「個人」も同一の「霊に対する知的切断」を共有可能である故に、知的切断的には一つの共同体を形成しうる。すなわち、否定神学的な共同体である。

。。。全ての個が全体から切り離されないというのに。。。

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)


追加:05.10.24 23:30

さて、上記では、やたらと難しい言い回しになってしまったので、まとめます。

小泉首相が、完全に「私的」という観点で、「勝手でしょ」的な行動を意図しているのであれば、大人気ない行為になるであろう。

「誰にも迷惑をかけてないんだから、自由ですよ」というノリそのものである。

あらゆる物事がつながりあっている。。。そのことからは、決して逃れることができない。

もし、「私的」というのであれば、その行動によって影響を受けうるあらゆる物事に対する「自己責任」を認識しなければならないはずです。

それゆえ、本当の意味での「私的」であれば、変装するなりしてでも、誰にも知られないように行動すべきでしょう。

そういう意味から、あの手の「私的参拝」は、はっきりいって「公的参拝」に相当しうる。

政治家である以上、そういった含みを十分承知した上で行動しているはずなので、政治的意図が全然無いと発言できないはずである。したがって、あくまで「私的」という影には、公言できない「公的」の含みが隠されている。

もし、そういった「政治的意図は無い」などという発言をしたならば、「政治家ではない」か、政治家の中でも古狸(尊敬の念をこめた呼称です)の部類に属するであろう。

したがって、完全に「私的」であるのなら、それによって引き起こされる国益の損失に対して、自腹を切って清算すべきである。

でなくて、国費を使って尻拭いをしているのであれば、すでにそれは「公的参拝」以外の何ものでもないといえるであろう。

こんな幼稚な推論は、おそらく、既に、どこぞのBlogでやりつくされていることであろうから、今更ながらなんだろうけれど、要するに、「私的である」といって、堂々とマスコミに写るような行動を取るということは、どこぞの国に公的に喧嘩を吹っかけているのと同等だという認識は当然持ち合わせているはず。

でなければ、彼は「政治家」ではなく、「大人になりきっていない子供」ということになる。逆に、私的と公的の境界線設定の難しさを十分に認識していて、なおかつ、あくまで「私的」だと行動しているのであれば、明確な境界を意識しているであろうし、真に大物政治家である。そうして、真に好戦的であるといえるのではないか?ということです。

追加:05.10.25 08:59
「私的・公的」という区分は、当事者の気持ちだけで決定されるものではないと思う。しかしながら、受け手だけの気持ちのみでも決定されうるものではないであろう。
「全体」としてみた場合にどうか?ということが問題になると思う。
目的論的に「私的である」としたばあいでも、結果論的に「公的」要素が強い(莫大な公金をつぎ込まねばならない)のであれば、それは「公的」に匹敵するのではないだろうか?

そういう視点があったからこそ、「自己責任」という言葉が横行したのではないだろうか?
逆説的にいえば、「自己責任」という言葉が、自己の行動のみに限局するような、本来的な使用方法を皆がするのであれば(できるのであれば)、何回かに分けて長々と書いた今回の投稿は、すべて不必要なものになりうる。

追加:05.10.25 19:20

すなわち、自己の行った行動に伴う予測可能な出来事、予測不可能な出来事のすべてを、「自己」が進んで「責任感を持って」対処しようとする姿勢を、皆が持ち得たならば、「他者」から、いわれのない突っ込みなく、自身から進んで対応しようとするならば、それこそが、本来の「自己責任」というものではないだろうか?

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)

この歌に秘められた、天皇・光厳院の思い。。。

それこそが、自責の念としての自己責任そのものを含み、情としてしか越え得ぬ思いそのものだったのでしょう。。。



光厳院の灯火の歌6首

つる薔薇4号、光厳天皇のこと  …………… 山本大二郎 ………………… 43


来生自然のホームページ・過去ログ(今は亡き、ロヨラさんとの対話)

注:05.10.23 02:35
高裁の決定での違憲判決と、その後の展開については、世に倦む日日が鋭く切り込んでおられますので、そちらを参考にしてください。

注:05.10.24 23:15
法律関係での解釈や、国会答弁を巡る意見については、トラックバックを参考にしてください。
特に、szknさんの日記から続く3ページは、参考になります。

注:05.10.26 02:30
弁護士の立場からの高裁判決に対する見解がありました。


注:05.11.12 02:21
gori氏の記事でも、「わざとやっているのか!」コメントあり。当たり前でしょう。。。

注:05.11.20 06:45
szknさんの日記で国会答弁関連がまとまっていました。
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by kisugi_jinen | 2005-10-19 22:59 | 思考。。。 | Comments(0)
過去の記録。。。2。。。理想化。。。
思春期の甘酸っぱい恋心。。。

それは。。。実現不可能であればあるほど

知的切断面にて見事なまでに結晶化していく。。。

思春期とは。。。

 「情を知にて切断すること。。。」

。。。その行為の過程、そのものだったのかもしれない。。。

※諧調の関係で、特定条件での表示のみに対応していたようでしたので、補正したものを再度アップロードしなおします(05.10.10 20:30)

※以下、05.10.10 21:43追加

情の知による分断(最も顕著なものは二者択一)は、第二反抗期≒思春期の入り口でもあるだろう。。。そうして、そのときに「形を成そうとするもの」は、「水は答えを知っている」にて取り上げられている「結晶の美しさ」と同等のものである。
その折にも記述したが、「結晶の美しさに求めるもの」の、本質を見極める必要がある。

私の思春期を経て形作られた結晶たちを見る「私以外の」人々とは、これらの「美しさ」の本質は共有不可能なのである。
そこには、厳然たる境界が立ちはだかっている。
しかしながら、そうして作られた知的切断面には、安易に「共感」という結びつきが生まれうるのも確かであろうし、厳然たる境界を保ちつつ、さらに越えうる「情」が存在するのも、また確かなものなのだろうと思っている。。。


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by kisugi_jinen | 2005-10-08 08:38 | 思い出。。。 | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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