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思い出にならない思い出。。。
何かを書きたいのだけれど。。。
心の奥底から、
何かが沸き起ころうとしているのだけれど。。。
それを、
言葉や概念で捉えることができないでいる状態。。。

まさに、思春期の真っ只中で、
湧き上がる思いを表現する術を探すことのもどかしさのような、
そんな焦りのみを、
すっかり消し去ってしまったかのような、

それでいて、
わきあがる思いを表現する術が見つからないというような、
戸惑いの中を、
心地よい痺れのような感覚で彷徨いたいような、

椅子の上で正座して、
ノートパソコンを抱えて、物憂げに、
うつらうつらしながら、眠りに入る直前のような、
そんな状態。。。

そう。。。
何かを書き連ねたかったはずなんだが。。。

やはり思い出せない。。。

そんなことを、何十年繰り返してきたのだろう。。。

まぁ、いい。。。

明日になれば、思い出すかもしれないし。。。
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by kisugi_jinen | 2005-02-24 23:03 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
エンデの「モモ」。。。
寝太郎さんところで、エンデものが並んでいる。
「モモ」と「はてしない物語」は、(たとえ日本語であっても、)「映画」よりも「本」に限る。

さて、寝太郎さんの時間の使い方が、あまりにも、私の時間の使い方にそっくりだったので、そのあたりを考えてみようかと思う。。。

疑問1:ベッポが時間泥棒に時間を奪われるとはどういう状態なのだろうか?

疑問2:時間泥棒に時間を奪われるのと、ファンタジーの世界に入って時間が無くなるのと、おんなじなんだろうか?


人間は皆「死」という概念を共有している。
でも、「それが、いつ訪れるのか」誰も知らない。。。

しかし、一旦、「死」という概念を「締め切り」という概念(いつまでにどこまでを)に結びつけたとたん、そこから時間泥棒の計算が始まる。。。
計画的に物事を進めなければ「自由な時間・余暇」は生まれないという予測。。。それは「締め切り」という概念から生まれる。。。

ベッポの世界観は、「地に足をつけた」といっていいような世界観、そうして彼には、一つ一つの仕事には締め切りが無いように思える。制約があったとしても、おそらく、「仕事をする時間」だけで、「いつまでにどこまでを」という制約は無いのだろう。

彼が「死」という概念をどのように捉えているのかは、残念ながら書かれていないのだけれど、彼の「道を掃く」という行為は、彼の人生そのものをあらわしているのだろうと思える。。。

おそらく「時間泥棒」は、彼に「死というものが締め切りである」という概念を与えたに違いない。

それまでの彼にとって、「ファンタジー」の世界に入ることには、何の制約も無かった。
しかし、「死」=「締め切り」という概念を与えられた以上、「ファンタジー」の世界に入ることすら、躊躇されざるを得なくなる。

締め切りという概念で捉えられる仕事をするとき、対象となる仕事の量が確実に決まっているのならば、先にやってしまって、後から遊ぼうと、先に遊んで、後からやろうと、どちらでもいい。

でも、考える深さや、やり方に応じて仕事の量が増減するのならば、それが後々の自身のためになるのであるなら、目いっぱい仕事に時間を割くだろう。。。そういった仕事とは、ベッポの道を掃くという行為に近いような気がする。
でなければ、やっつけ仕事にしてしまって、締め切り間際に片付けようとするだろう。。。でなければ、「モモ」を読む時間が亡くなってしまう!!。。。

。。。と、やっつけ仕事が残っていた。。。

===以下、2005.02.24 22:14 追加
「目いっぱい仕事に時間を割く」についての補足。。。

「締め切り」という概念に対して、締め切りまでに「割り当てられた仕事の時間」の全てを「仕事に費やす」ということ。余暇の時間をつくろうなどと思わないということ。そういう概念の元では、中身が濃ければ濃いほど、「いい仕事」という自己評価になるであろう。
すなわち、「締め切り=死」という概念の元では、そういった仕事をする人は「余暇すらない仕事人間」という概念に相当しうる。。。

しかしながら、、「死」≠「締め切り」という概念の元では、中身の濃さよりも、持続性が求められる。すなわち、「ライフワーク」といって差し支えないような概念になるであろう。。。
おそらく、ベッポの掃除という仕事の概念も「ライフワーク」に近いものなのだろう。。。
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by kisugi_jinen | 2005-02-24 04:54 | 思考。。。 | Trackback | Comments(3)
境界。。。二つの方向性への移動と「だまし絵」。。。
知的・幻想的な交換可能性。。。
それは「概念の均質さ」と等価であろう。。。

境界が「わたし」を含んで外部の世界を突っ切って遠くまで行くように感じるとき、そこには知的・幻想的に共有可能な切断面としての「概念」が、限りなく広くいきわたっているように感じるであろう。。。それは、時として、「情の知的・幻想的切断面」が共有可能である(すなわち共感可能である)ゆえに「情」そのものを共有可能であるかのごとく錯覚することから発生しうる。

そうして、その方向性への全面的・絶対的な「概念」の押し広げは、「全体主義という概念」(知的切断面)に投影されうるであろう。。。

境界が「わたし」の内側へ潜り込む方向へ移動するとき、「わたし」と「それ以外」は、脳内での(すなわち、バーチャルでの)切り分けのごとくに感じ取られるであろう。。。

バーチャルの世界(認識の世界)での切り分け。。。「わたし」の内部に潜り込んだ境界によって切り分けられた「それ以外」は、思考上「わたし」の内部であるがゆえに、「わたし」からすれば「下位の存在」にしかなりえない。これは「自己の自己に対する絶対優位性」が生まれうることからの、自然な流れになるであろう。。。

「自己の自己に対する絶対優位性」。。。すなわち、「わたし」という存在は「唯一無二」「唯一絶対」ゆえ、並列性・交換可能性は拒絶される。だからこそ「わたし」なのである。そうして、時間軸に対する交換「不」可能性がもたらす、「過去のわたし」に対する「現在のわたし」の絶対優位性、「現在のわたし」に対する「未来のわたし」の絶対優位性。。。

そうして、その方向への思考は、徹底的な「個人主義という概念」(知的切断面)に投影されうるであろう。。。

で、もし、「認識内部にあるわたしとそれ以外の境界」をそのまま、「認識外部」に投影する(すなわち錯覚する)とき、「バーチャルの世界での切り分け」を「バーチャル・リアルの切り分け」と混同することになるかもしれない。。。
そこにおいて、現代社会で繰り返し発生する凶悪犯罪の根が繋がっているのかもしれない。。。

「全体・総体」が一つであるのなら、全体主義的な方向性を有する概念も、個人主義的な方向性を有する概念も、両方共に「多義図形としてのだまし絵」すなわち「婦人と老婆」の関係に過ぎないのではないだろうか?

境界。。。

過去、「来生自然のホームページ」では、、客観的・主観的な側面という二方向からの「わたし」への突き詰めが、「素通り」という奇怪な現象として捉えられることを述べてきた。
すなわち、科学的な攻めは、「わたし」を「わたし」として規定せしめているものをDNA「のみ」といった物質、ないし記号に求めるとき、(情報ではない)「状報」の均質性(交換可能性、並列可能性)ゆえに、「わたし」を囲む境界は、面積を持たない仮想的な点を囲む境界に等しく感じてしまいうる。。。
すなわち「無」である。。。
しばしば、この「無」(虚無)は、仏教的な「空」と誤認されうる。。。

交換「不」可能なものを、徹底的に追い詰めようとしたときに素通りしてしまう全てのもの。。。実は、その素通りしてきた全てのものに「わたし」の本質がある。。。
総体としての「絵」ではなく、老婆を見ようとした「わたし」と、婦人を見ようとした「わたし」。。。そうして、「絵」ではなく、「絵」を構成するキャンバスや絵の具の種類、ないし、デジタル表示された個々の点を見ようとした「わたし」。。。

「わたし」と「絵」と「関係」との全て(総体・全体)が織り成す世界。。。

どれがかけても成立し得ない。。。
「わたし」と「婦人」と「関係」と「総体」。。。

「わたし」と「老婆」と「関係」と「総体」。。。

「わたし」と「絵」と「関係」と「総体」。。。

「わたし」と「あなた」と「関係」と「総体」。。。

「わたし」と「全体主義」と「関係」と「総体」。。。

「わたし」と「個人主義」と「関係」と「総体」。。。

水滴が作る、水面上の波紋。。。

ともし火が作る、揺れ動く影。。。

複数の水滴が、波紋を形作るとき、波紋の境界は境界を保ちつつ、境界は境界を超える。。。

複数のともし火が、揺れ動く影を作るとき、影の境界は境界を保ちつつ、境界は境界を超える。。。

どの波紋も、どの影も、「総体・全体」の一部であり、そうして「絶対的な個」の一側面である。。。

。。。「ともし火に 我もむかはず 燈(ともしび)も われにむかはず 己がまにまに」(光厳院)

水滴の 波紋に重なる 水滴の 波紋は知らず 越えて静まる。。。(じねん)

幸福を求めるために不幸を排除することこそが、不幸の始まりであるということなのかもしれない。。。

。。。

いや、やっぱり、明るくなんてかけそうにない。。。
と。。。次回は子供の話題にすべきかな?。。。
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by kisugi_jinen | 2005-02-20 00:14 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
境界線の移動。。。
境界線の移動。。。

世の中、急速に「状報化社会(情報化社会ではない)」へと変容してきたために、その歪が境界線の移動という形で、影響を及ぼしているように思われる。

国家や宗教や民族や家族といった「共同体という概念」を、「ある一定の概念を共有できる集団」として(知的切断面的に)定義してみる。
「共有可能な」ある一定の概念とは、すなわち「共有可能な」状報(情報ではない)に相当する。
「ある対象」に対する「共有可能な」均質な状報を共有している状態とは、だまし絵における「多義図形」の一側面のみの見解に固執していることに相当する。


均質性とそれ以外(共有不可能な世界)との境界が、共同体の境界を形成しているのだろう。。。

で、「状報化社会」と化した現在、いままで「均質」として扱ってきたことが、事細かな「差異」として認識されるようになってきた。
「差異」を主体とするならば、それは、個人主義への流れであり、そういう意味からは、共同体の分割に相当する。
すなわち、「均質さ」を基準とした境界が、どんどん「わたし」という方向へ向かって移動してきているのではないだろうか?
そうして、「わたし」という方向性に移動してきた「境界」は、「わたし」の内部に入り込む。

たとえば、多義図形だまし絵を「絵」としてみるとき、「絵」と「それ以外」という境界が想定されたとして、その境界を「絵」の内部に移動していくとき、「多義図形」のそれぞれの形ごとに「境界」が分割していくような状態に相当するであろう。

すなわち、「多義図形としてのだまし絵」を「わたし」に見立てれば、「他者」との関係にて生み出される「多義図形」の個々の「概念」は、複数のわたしへの分割(多重人格的分割)に相当するであろう。

これは、中間管理職がよく陥るジレンマにも似ているだろうし、組織の末端(現場)でのジレンマにも似るであろう。

すなわち、2方向以上の「状報」が交錯するところ、そこに「境界」が発生し、問題が発生しやすくなる。


。。。なんだか、今日のは、暗い話しだねぇ。。。
え、いつものこと?
よし!
今度は、明るい話題にしよっと!
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by kisugi_jinen | 2005-02-18 02:38 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
情と知(概念)との編みこみの並列。。。
情。。。
それがある故に、知的共有可能な(交換可能な)概念が生み出されうる。。。
そうして、そういった概念を共有できると、さらに個々の情が深まっていく。。。
親子の情とは、そうやって編みこまれていくのだろう。。。
そうして、そうやって編みこまれた情・知(概念)は、さらに周囲の人々の情・知(概念)と共に、編みこまれていく。。。

ただ、そうやって生み出された多数の概念は、ややもすれば並列しうるであろう。。。
そういった並列は、それに関連する情の深さが深いほど、互いに争いをもたらす可能性が高い。。。

しかしながら、概念が多義図形的なだまし絵の一側面であるという認識(概念)が可能であれば、すなわち、個々の概念が異なるのは、全体の切断面としての概念が異なるからだという認識(概念)が可能であれば、概念やそれに関連する情に対して一定の距離を置きつつ、それらに対してさらに情にて繋がるという概念が生み出されるような気がする。

編みこまれた情・知(概念)は、一つのともし火を形作りうる。。。

そういう概念こそが、
「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)
に、なるのかもしれない。。。
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by kisugi_jinen | 2005-02-10 03:07 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
節分。。。その後。。。サンタさんとの関係。。。
昨晩も、理路整然と言い含めて注意しても聞かなかったことがあったので、「鬼が来るよ」というと、すんなりと言うことを聞いてくれた。

これを、逆に行うことは、あまりしたくない。
逆に行うということは
「鬼が来るから、○○しよう」
そのままだから。。。
いや、結果的には同じなんだろうけれど、何が違うのだろうか。。。

○○しなさい --- 目標の提示
理路整然と説明して行為を促す --- 目標に対する理由(知的切断面)の提示
しなければ鬼が来るよと、おどかす --- 知的切断面に対して負の方向性を提示
すれば鬼は行っちゃうよと、誘う --- 知的切断面に対して正の方向性を提示

この図式は、

○○しなさい --- 目標の提示
理路整然と説明して行為を促す --- 目標に対する理由(知的切断面)の提示
すればサンタさんがプレゼントをくれるよと、誘う --- 知的切断面に対して正の方向性を提示
しなければプレゼントはもらえないよと、おどかす --- 知的切断面に対して負の方向性を提示

と同じである。

すなわち、
目標(対象)の提示
越えるべき境界(概念、論理的説明)を、あらかじめ認識させる。--- 知的認識
次に、その境界(概念)のもつ2面性(2方向性)を気づかせる。--- 情の知的認識
行為を選択させる。
その方向性にあった「面」を被ったかのごとく、遊んでやる。
という、手順を踏んでいる。。。

これを逆(知→情 を 情→知)にすると
○○しなさい、
でないと
鬼が来るぞ、プレゼントもらえないぞ
で、終わってしまう。。。
本来、考えて行動するという「知」の部分に到達できない。
いきなり、二者択一を突きつけられて「情」のみで判断するという行為を促してしまう。。。

無論、
○○しなさい --- 目標の提示
理路整然と説明して行為を促す --- 目標に対する理由(知的切断面)の提示
という「説明づけ」の裏には、親の情が根底にある。

すなわち、親の側からは
情(して欲しい)
知(なぜなら)
情(すれば、でなければ)
という3段階があり
行動しようとする子の側からは
情(すれば、でなければ)
知(なぜなら)
情(しよう)
という逆方向の3段階になるであろう。

結果的に逆方向なのだが、しかしながら、
親の側からの
知(なぜなら)

情(すれば、でなければ)
をひっくり返そうとすると、
情(して欲しい)
情(すれば、でなければ)
--- ここで終わってる。。。
知(なぜなら)
--- ここに到達不可能

知的説明は対応する情に対しての理由付け(切断面・概念としての認識)になる。。。
理由なき情(基準なき方向性)が提示されたとき、子供の中では、その方向性に対して、勝手な基準(理由)が形成されるであろう。。。

ある日突然、勝手な基準(知的切断面)は、鬼(あるいは神)となって、子供の心を飛び出すかもしれない。。。たとえば、神戸連続殺傷事件のごとく。。。

(2005.02.05 06:15一部改変)
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by kisugi_jinen | 2005-02-05 04:03 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
節分。。。
昨夜は、まめまき。。。

鬼は。。。外。。。
福は。。。内。。。

最近、我が子も、ずいぶんといろんなことが出来るようになってきた。。。

ボタンの止め外し
トイレでウンチ
文字としてでなく、つながりを持った単語(もどき)として読む

なかでも興味深い行動は、「こわいもの」を演じると、
本人が「中に入りたがる」ということ。。。

数ヶ月前から、布団をかぶって「おばけだぞぉ」とか
指を角に見立てて「おにだぞぉ」とか
面白おかしくやってやる

「こわい、こわい」と。。。時々泣いたりもするけれど、
きゃっきゃっいいながら逃げることもある。
「ピシュー」とかいって、ウルトラマン攻撃を仕掛けてきたり、
「バン、バン!」とかいって、指でっぽうで応戦したりすることもある。

中でも多いのは、怖いものの「なか」に入ろうとすること。。。
「おばけ」の布団の中に入ってきたり
自分も「おにだぞぉ」とまねをする。

怖いものの「外」にいるよりも「中」にいるほうが
怖くないのは当たり前である。
逆に、演じることの楽しさを味わっているようだ。。。

そうそう。。。

風呂から上がって服を着ずに走り回っていたり、
指しゃぶりをしていたり、
そういうときに、「○○してると、□○△だからダメだよ」と注意しても
「ヤダ!ヤダ!ヤダ!ヤダ!ヤダ!ヤダ!」と叫んで逃げ回る。。。

そんな時、
「おにさんがくるよ」
と、言えば、「はい」といって、やめてしまうことがある。

で、そのあと、上を向いて
「。。。おにさん。。。バイバイ!」
「おにさん、いっちゃったよ!」
と、叫んでいる。

「鬼という概念」が、親子の間で共有される瞬間である。

感情的な「怖さ」という方向性。。。

怖いという方向性にもいろいろあるけれど、
そういった「情」の方向性が貫く「概念」の一つに「鬼」がある。

「鬼」が「存在する・存在しない」ということと関係せずに、
「鬼という概念」を共有することが出来る。

そういった概念を共有しようとすると、遊びを通して、その中に入ったり、
追いかけられたり、
やっつけたり、
やっつけられたり。。。

多面的に接することで、「知的・幻想的」に鬼という概念を共有することが出来る。。。

きのうから、
「おにだぞぉ」と、指を角に見立てて、襲い掛かると、
逃げることも、泣くことも、鬼のまねをすることもなく、
「おにはそとぉ!、ふくはうちぃ!」と、叫んでくるようになった。

。。。そうそう、その内「サンタさん」という概念も、うまく共有できるだろう。。。

(2005.02.04 04:25 変更、下線部追加、主語はあえて略しています。)
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by kisugi_jinen | 2005-02-04 02:59 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(7)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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