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思いとしての二元論と交換可能性としての二元論。。。
通常、二元論として取り上げられる対象は、「物質的」と「霊的」ないし「身体的」と「精神的」といった二面である。

しかしながら、「霊的」とか「精神的」とかで語られる領域は、「総体・全体」からは切り離し不可能である。
逆に、それらを語ろうとするときに生み出される言語、書物、絵画、音楽、コンピュータ上に表現可能な状報(情報ではない)など、主体から切り離し可能であって、他者と交換可能・共有可能な「知的切断面・概念・理解可能な対象」は、そういう意味で「総体・全体」からの切り離しが可能である。

すなわち、「交換可能性」の極にあたる「知的切断面」であるからこそ、総体から切り離されうる存在となりうる。

心や脳が、もし、遺伝や全体や身体などから解き放たれたいと望んでいるのなら、知的切断面の中に逃げ込むしか手段はない。

それこそ、状報処理機械であるところのコンピュータ内に構成されたバーチャルリアリティーは、格好の逃げ場所であり、そういった環境へ逃避しようとすることこそ、全体から切り離されるという方向を選択しようとしていることに他ならない。

すなわち、知らず知らずの内に人間は、「心身二元論」から「知情二元論」へと、その切断面を移してきてしまったのだろう。。。

もしかしたら「心身という多義図形」であったものには「知情という多義図形」が隠されていたのかもしれない。。。
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by kisugi_jinen | 2005-01-31 05:35 | 思考。。。 | Comments(3)
にこごり。。。2。。。
(05/01/28, 04:05 リンク埋め込みました)
全てが全体から派生した。
ということと。。。
概念・知的切断面でのみ認識可能であり(幻想的に)共有可能ということと。。。
個から全体への方向性は、情的な方向性と同等の方向性をもつ
ということと。。。
情的な方向性は概念・知的切断面と直交する
ということと。。。
全体(の一部)を投影している概念・知的切断面は、主体が見る(情的)方向性によって異なった意味を持ちうる。
すなわち
(幻想的に)共有可能な概念・知的切断面内部に立ち表れてくる静的概念は、だまし絵の「多義図形」に相当する。
ということと。。。

これらのことから、一体何がいえるのであろうか?

少なくとも、主体が複数であっても全体は一つしかないということ。
(このことは、多世界解釈とは矛盾しない、というか、エヴァレットの多世界解釈そのもの)※1
その全体と主体を結ぶ様々な情的方向性に対する様々な知的切断面・概念があり、その内のいくつかは、他者と幻想的・多義図形的に共有可能である。

全体は一つしかないのに、解釈(概念・知的切断面の見え方)が異なる(差異が生じる)。そして、それらは相矛盾・相対立するように見えて、多義図形としての画角(概念)の中の相反する静的概念(多義図形を構成する図形の一つ一つ)に相当する。

すなわち、「死後の世界が存在する・存在しない」とか「神が存在する・存在しない」とか、「信じる・信じない」という二者択一を求めてくる項目に対して言及できるのであれば、全体の中に両方が含まれているということになる。

それに対して「争い」を継続するということは、だまし絵・多義図形に描かれたのが「老婆」なのか「婦人」なのかについて争うようなものだと思われる。

更に言えば、そういった知的切断面を含む全体に「神」を見ようとするのか、見ようとしないのかということもいえそうであるが、そういった言葉に換言したとたん、そういった概念が既に知的切断面に変化してしまっている成り下がっている(※2)ということになるであろう。。。


07.02.09 03:53 訂正・補足説明
※1
多世界解釈およびエヴェレットとは、本質的に無関係であるので、削除しました。
記述時に、並列的に、相同の構造(「全体」に対する、エヴェレットの多世界解釈での「わたし」概念=個の重ね合わせ)とが妙に強く意識されていたため、記述してしまったのだと思います。

※2
「成り下がっている」
概念的に「全体」に対して、その部分である「知的切断面」(概念)であるため、思わず「成り下がっている」という言葉を用いてしまったが、その「部分」を通してでも、「全体」を俯瞰しようとすることが(知的・幻想的にでも)可能であるので、強いて言えば、上下関係にはない。したがって、「成り下がっている」はおかしいので、訂正しました。

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by kisugi_jinen | 2005-01-27 01:42 | 思考。。。 | Comments(3)
共有可能性と不可能性。。。
おそらく、壊れたレコードのように、繰り返しています。。。

「総体としての情」(主体・関係・対象)は、共感可能だといわれた瞬間に、知的切断面の「情」へと収束してしまう

知的切断面に相当するものは、感覚器官と脳になるであろう。そして、そこにおける(信号・状態)変化になるであろう。で、そういった変化の局在性・法則性を(科学的に)いくら明らかにしたとしても、総体における情(ないし情的なもの)というものには決してたどり着かないと考える。なぜならば、それは「知的切断面」に他ならないからである。
可能なことは、そうやって切り出された「知的・幻想的に共有可能な」切断面を、他者の目から覗き込むことである。
覗き込んだ途端に、主体・関係・対象という総体が形成されることになり、「別の」情(ないし情的なもの)が生まれる。

すなわち、情(ないし情的なもの)を、共有可能な言語(ないし言語的なもの)で捉えようとすることは、知的限界としてのゼノンのパラドクスに陥ることを意味し、語りえぬものを語ろうとすることを意味する。

しかしながら、そういう論理で「不可能性」のみを強調したとしても、その前提条件として、少なくとも「知的・幻想的に共有可能」な切断面(概念)は(トートロジーになってますが)「共有可能」であるということになろうかと思う。

でなければ、「ゼノンのパラドクス」や「語りえぬもの」という認識すら共有できなくなるからである。

知的側面と情的側面は、まさに共有可能性・不可能性という2方向を有し、一つの絵画の上で、多義図形としてのだまし絵を構成しうる。
このだまし絵の上では、一神教的と多神教的という概念も重なり合うであろうし、超越的存在の有無も重なり合うであろう。

そうして、それらを決定しうるのは、対象の有無ではなく、「概念」(知的切断面)の共有可能性に他ならないと考える。
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by kisugi_jinen | 2005-01-24 05:52 | 思考。。。 | Comments(0)
知的切断面と情と。。。
注:過去の投稿をベースにしてるので、「概念、知的切断面、状報」などに関して、リンクを埋め込みました。2005/01/23

概念という知的切断面への収束は、一方向のみであれば、単なるレッテル貼りと変わらない。
別の概念という知的切断面への収束が、相矛盾する状態を作り出すのならば、そうして、それらが、切り離し不可能な関係で結び付けられているのならば、概念同士によって「多義図形・だまし絵」が構成されていくであろう。

端的な例としては、前回示した、神・霊的存在などに対する宗教概念であろう。

注意して欲しいのは、前回までに何度も記述している「狭義の」という言葉である。
これは、知的切断面への収束度の違いによる。収束度が高いほど、情報から状報へと変化し、共有不可能性から共有可能性へと変化するという概念。収束度が高いほど狭義になるといえる。
即ち、概念として認識可能な範疇で、知的切断面への収束度が低い状態が「広義の」ということになる。
ただし、その場合、多くの人々の間では異なった考え(知的切断面)を引き起こすであろう。


さて、これら知的切断面に対する情(ないし情的方向性)は、主体からこれら知的切断面を貫く方向性にある。
逆に言えば、知的切断面の向こう側が「無」であっても、「無」を含む「総体」というものに対して、主体が情的方向性を持ちうるのであれば、そこに「知的切断面」(概念)が形作られるといっていいであろう。まさに、「紙に書いた文字をどのように感じ取るか」ということである。
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知的・幻想的に概念が共有可能であるということは、主体の位置(認識の違い・同一人物でも別の人物でもいい)に依存して知的切断面を貫く方向性が微妙にずれうる。このズレが複数の焦点に収束しうるとき、いわゆる狭義の「多義図形・だまし絵」という概念になるのだと思う。
b0032038_6475139.jpg

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by kisugi_jinen | 2005-01-22 06:48 | 思考。。。 | Comments(0)
一神教的・科学的・客観的。。。多神教的・哲学的・主観的。。。仏教的。。。
前回、説明に長時間を有するごとく書いたが、下記説明で事足りるかもしれないと思い、とりあえず書いてみた。(自分用のメモみたいなものです。これも知的切断面になる)

以下、○○的という場合、「狭義の」が付くが、全て省略する。

一神教的・科学的・客観的という方向性。。。
これらに共通する概念(方向性)は、「全てにとって共通の」という概念(方向性)であり「(独立した個々の)わたし」を無限小化する方向性である。

多神教的・哲学的・主観的という方向性。。。
これらに共通する概念(方向性)は、「(個々の)わたし」が独立し、異なっているという概念(方向性)であり、「差異」が強調される方向性である。

仏教的という方向性。。。
時間という概念に限定すれば、仏教的な概念は時間軸を無視(超越)するという方向性を有している。
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by kisugi_jinen | 2005-01-21 18:11 | 思考。。。 | Comments(0)
多義図形・だまし絵と自己参照との関係。。。
とりあえず、よく寝た。。。と、
さて、前回記述した
概念・知的断面の時空的方向性という概念・知的断面と、
「私」と「境界」と「宗教」について。。。
は、見比べていただけると分かると思うが、まさに、焼き直しである。
トートロジーといっていい。
これは、それら対象を考えている「わたし」が同一であるが故に、スタート地点を変えても、知的切断面とその解釈が類似になろうとするが故に生じることに過ぎないということなのかもしれない。

で、何を言おうとしているかといえば、もし、「わたし」の主張する概念が「知的・幻想的」にでも共有可能であるならば、(狭義の)一神教的概念と(狭義の)多神教的概念は直交する概念(すなわち、方向性が異なるゆえ、包含関係にすらなりえない概念)であり、さらに(狭義の)仏教的概念もこれら両者と直交する概念ゆえ、包含関係にはなり得ない。
これは、「知的切断面としての概念」が、全体の部分にしかなりえないであるがゆえに「包含関係」にはならないともいえるが、方向生という概念上、直交する概念であるのならば、それぞれが相補的であり、いずれも正しいといえるし、どれがかけても、概念上欠落が生まれうると考える。

(以下、○○的にはすべて「狭義の」が括弧つきで入るが、略しています)

ちなみに、「一神教的」と「科学的」と「客観的」とが、どうして同じ扱い(方向性)なのか、「多神教的」と「哲学的」と「主観的」が、どうして同じ方向性なのかは、歴史的な背景も関わってくるし、それだけで今までの投稿量の半分近くを使う可能性があるので、別の機会に書くかもしれない。。。
ややこしければ、それぞれを分けて、「一神教的と多神教的」、「科学的と哲学的」、「客観的と主観的」という方向性を別々に考えても、何ら問題はないです。

で、「情」は、さらにこれら「概念」と直交する。。。
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by kisugi_jinen | 2005-01-20 02:18 | 思考。。。 | Comments(0)
多義図形の方向性。。。
様々な知的切断面という概念に相当する多義図形のおのおのの静的概念。。。

それら(知的・幻想的に)比較可能な知的切断面(静的概念)を並べるとき、方向性という概念が(知的・幻想的に)共有される場合がありうると思う。

垂直的方向という概念:猫に小判で述べたように、異なる主体(異なる認識レベル)という上下方向(粒度・大きさ、といってもいい)として比較可能な知的切断面の集合。

水平的方向という概念:多義図形そのものに認められるような同一主体が設定しうる知的切断面の位置に依存する知的切断面の集合。

時間軸方向という概念:時間軸を超越した状態で切り取られた知的切断面、ないし時間軸を意識して切り取られた知的切断面の集合。

これら集合体がもつ方向性という概念が共有可能であるならば、知的切断面の方向性という概念(知の比較という概念)は、3つの方向性という静的概念が重ねあわされた多義図形に相当するであろう。

で、垂直的方向性という概念が顕著に現れるのが、(狭義の)科学的・客観的・一神教的な概念に相当するのではと思う。
また、水平的方向性という概念が顕著に現れるのが、(狭義の)哲学的・主観的・多神教的な概念に相当するのではと思う。
時間軸方向という概念が顕著に現れるのが、(狭義の)仏教的・虚無的な概念に相当するのではと思う。

すなわち、本来ならば同一の「全体」の内部にいるにもかかわらず、ある特定の方向性という概念(知的切断面)上にて切り取られる画角(知的切断面)とそこに見出される多義図形の一つ(静的概念という知的切断面)が意識されるとき、その画角内部で、「それ以外」が強調されて見えてくる。「それ」と「それ以外」は、知的切断面という境界内部で決して分離されることなく、重なり合って一つの知的切断面を構成する。
それはたとえば「生と死」という概念になろうか。。。

いや、やっぱり考えすぎかもしれない。。。
分類しようとした途端にその方向性の概念が認識され、方向性という概念の多義図形に吸収されていくのかもしれない。。。いや。。。そうではなく、知的切断面は何らかの多義図形に吸収されうるがゆえに、(そうやって溜め込んだ知的切断面を比較することで)方向性の概念が形成されるのかもしれない。。。

どっちにしても。。。
。。。眠たいことには変わりがない。。。

(すみません。。。最後の、「いや、やっぱり考えすぎかもしれない。。。」以降の記述時、半分寝てましたので、寝言みたいなものです。。。05/01/21,02:36)
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by kisugi_jinen | 2005-01-19 22:10 | 思考。。。 | Comments(0)
ありがとう。。。
最近、少しアクセスが増えました。
ありがたいことです。。。
2ヶ月ぐらい前に、エキサイト側の問題でカウント数に異常が発生(アクセス数が一日に200件)というのがありましたが、その後、そのようなことはなさそうです。
気にしないようにしているつもりですが、やはり気になるものですね。。。
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by kisugi_jinen | 2005-01-19 03:56 | つれづれ。。。 | Comments(1)
個にして全、全にして個。。。
前回
あえて因果関係を求めるならば、「全体」ではなく「全体の変化」(という全体の一部)が「わたし」を生じせしめているということになろうかと思う。
ですが、
「生じせしめている」
というより
「そのもの」か。。。
すなわち
「全体の変化」=「わたし」
ということになろうかと思う。

量子力学を普遍的に適応しようとすることと同値であるところの「存在・認識」の重ね合わせ、ないし「物質・意識」の重ね合わせ。。。
すべてが一元論的に語りえるとした途端に、「わたし」が境界を持つという観念的(知的切断面的)認識が意味を持たなくなり、「わたし」は「全体の変化という全体の一部」であり、「全体」に含まれる。。。
「わたしの境界」の認識は、「わたしの知的切断面」に依存する。
それは、あたかも「多義図形・だまし絵」における「静的概念の認識」に似る。。。


そうして、そういった一元論的認識もまた、「わたしの知的切断面」であるがゆえ、「わたしの境界」として「多義図形・だまし絵」に立ち表れる一つの静的概念に相当するに過ぎない。。。

「全体の変化」=「わたし」
としたとき
「全体の変化」=「あなた」
となる。
変化の内容は決して同一にはなりえない。
それゆえ「わたし」≠「あなた」である。
にもかかわらず、「あらゆるものは全体から派生する」という静的な概念を、知的幻想的に共有可能だとするならば、「全体の変化」=「個」という概念も、知的幻想的に共有可能になる。

「全体の変化」が、「局所の変化」として認識されたとしても、「全体」とは一つのつながりを持っていて切り離し不可能ということ(これは定義でもある)から、「個」は時間軸を無視したときに「全体」と区別がつかなくなる。
すなわち、「わたし」と「あなた」との境界は時間軸を無視したときに消滅し「わたし」=「全体」=「あなた」という概念にまで拡張される。。。

これは、すなわち、水面に落ちるそれぞれの雨粒の波紋が、ある時刻という切断面では境界を持つにもかかわらず、互いに包含し合い、全体にまで広がっていく様に似る。。。

全体から派生したものは全体へと帰っていく。。。
---
同時に、
派生した個は、個として全体に対峙している。。。
あたかも、風の谷のナウシカ、全7巻が提示したごとくに。。。

知的幻想的に時の流れを越えたとしても、
それは、ゼノンのパラドックスという境界に落ち込んでいくようなもの。。。

厳然とした境界は常に立ち現れる。。。
こえるもの。。。それは
「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)

であり、そこに流れる思いに、思いを馳せることであろう。。。
---(2005/01/18, 06:10追加、06:20訂正)

そうして、この概念(個と全体に関する概念)は、まさに、「私」と「境界」と「宗教」について。。。
を形作る。。。
(以下、05/01/19, 02:15追加)
上記、『「私」と「境界」と「宗教」について。。。』以降、しばらくは、「知的切断面」という概念にたどり着く前の思考ゆえ、そういった表現を使ってはいませんので、ご注意願います。
逆に言えば、「知的切断面」という静的概念が、「多義図形的」に組み込まれている可能性もあります。私自身、そういった目で読み返していません。もし、そうであるならば、「知的切断面」という概念を「陽」にした記述に書き換えて、新たに投稿してみようかと思います。

===2011/08/06 04:20追記===
「個にして全、全にして個」の出典について
ナウシカを読んだときに「どこかで聞いた(読んだ)言葉だな」程度しか認識がなかったが、仏教用語に「梵我一如」という言葉もあり、宮崎氏の造語なのか出典があるのか、それほど気にはしていなかった。ネット検索しても、ナウシカ出版の1991年以前については、関連しうるものとしては、仏教系かウィルバーのトランスパーソナル系、スーフィー系のピール・ヴィラヤト・イナーヤト・ハーンの言葉ぐらいしか引っかかって来ない。
英語では"One in all, All in one"になるようだ。
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,913659-1,00.html
http://wpedia.goo.ne.jp/enwiki/Pir_Vilayat_Inayat_Khan

いずれにしても、ナウシカの深層には、仏教を含めた東洋系の思想が流れているのには、間違いはない。

「風の谷のナウシカ」ででてくるのは、第1巻(ANIMAGE COMICSワイド版、宮崎 駿、1991年発刊)のp.127に、オーム(王蟲)の言葉
ワガ一族は
個ニシテ全
全ニシテ個
時空ヲ越エテ
心ヲ伝エ
ユクノダカラ ・・・

また、同第7巻のp.132に上述の回顧としてのナウシカの言葉
個にして全
全にして個・・・・・・
ある偉大な
王蟲が教えて
くれました

である。このことは、物語全体に輻湊していることでもあるが、最終章にて、王蟲の青い血でない、別の(というより「本質的には同一の」というべきか)、そうして更に濃い青い血にて染められた服をまとうナウシカの姿にこそ象徴されているともいえる。
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by kisugi_jinen | 2005-01-18 04:20 | 思考。。。 | Comments(0)
因果関係と包含関係と。。。
前回、コメントで次回予告みたいのを書きましたが、その前に。。。

以下、前回投稿の繰り返しみたいなものです。。。

「全体から個が派生するという概念」をあげるまえに、
「個と全体が並列するという概念」をまずあげるべきだったかもしれません。
いや、
「個と個が並列するという概念」の方が先だったかもしれない。。。

「卵が先か鶏が先か」
。。。
どの概念の話を先にするか?ということではないです。
この「たとえ話」は、関連する2項の内、どちらが原因で、どちらが結果か分からない状態を意味します。複雑な因子によって構成される疾患などで、よく話題にされるものでもあります。

で、この「たとえ話」で取り扱いうるのは、「個対個」です。
けっして「全対個」にはならない。

「そんなことはない、全体があるが故に、個が存在するんだ」
とか
「いや、個があるが故に、全体が存在するんだ」
とか、
いえるようにも思えます。

個と全体の話をするうえで、切っても切れないものがあります。
それは「そう考える私(個)」です。
私が全体から切り離し可能だという仮定のもとでは、上記論争は意味を持ちます。
そのときには、
「私を除く全体があるが故に、私が存在するんだ」
「私があるが故に、私を除く全体が存在するんだ」
ともいえますし、もう一歩引いて
「(これを考えている私を除く)全体が存在するが故に、個が存在するんだ」
「個があるが故に、(これを考えている私を除く)全体が存在するんだ」
ともいえます。
で、奇妙なことに、「そう考える私」を切り離そうとすると、「全体」が「部分」にしかならなくなる。
すなわち「因果関係」として記述可能なのは、「切り離し可能(性の非常に高い)事象)」同士に限られるわけです。
で、どうしても「全体」を相手にしたければ、「わたし」を含めた「全体」でなければならないため、もはやそこには「因果関係」というより「包含関係」しか存在し得ない。(このことは、二元論を主張し続けようとすると、量子の存在としての粒子性と存在としての波動性の説明において矛盾が生じるということにも相当します)

「全体」という概念を上記のように認識すると、全体が変化することで、包含されている「わたし」が生まれるという概念が、自然と生まれてくる。
あえて因果関係を求めるならば、「全体」ではなく「全体の変化」(という全体の一部)が「わたし」を生じせしめているということになろうかと思う。

ようするに「卵が先か鶏が先か」は不明でも「卵も鶏も全体から生じた」ということは言えるわけです。

したがって「個は全体から派生する」という概念が生まれてくるわけです。
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by kisugi_jinen | 2005-01-15 01:41 | 思考。。。 | Comments(1)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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