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<   2004年 12月 ( 19 )   > この月の画像一覧
。。。
個と全体。。。
どちらがなくても、
どちらも存在しえないというのに。。。

知と情。。。
どちらがなくても、
どちらも存在しえないというのに。。。

記号、遺伝子が、
それらを育む全体から切り離されえないのは何故だろうか?

人類を特徴付けている「知」が、
それらを育む全体から切り離されえないのは何故だろうか?

様々なレベルにおいて生じるとされている創発。。。
それらを育む全体から切り離されえないのは何故だろうか?

そこに隠されているものたちを深く覗き込むとき、
。。。ふと、垣間見えるもの

それは

大地を越え
大海を越え
宇宙を越え
。。。
善・悪を越え
価値観を越え
生・死を越え
。。。
知・情を越え
個・全を越え
神を越え
悪魔を越え
味方を越え
敵を越え
思いを越え
存在・認識を越え
。。。
それは、意思をも越えている

知的切断によって語られるとき
それは、様々な姿として捉えられる。。。

大地であり
大海であり
宇宙であり
。。。
善・悪であり
価値観であり
生・死であり
。。。
知・情であり
個・全であり
神であり
悪魔であり
味方であり
敵であり
思いであり
存在・認識であり
。。。
それは、意思でもある

「共感する」ということで
つながりあうことはたやすい。。。

「共感し得ない」にもかかわらず
つながりあおうとすることの方が。。。

いや、「決してつながりあうことはできない!」
ということを知りつつ。。。
それでもなお、越えていこうとする。。。

そういったことが共有できるのであるのなら。。。


それは
願いであるのか
絶望であるのか
。。。
いや、
そういったことすら超越しているようなもの。。。

知的切断面では、「無為の共同体」(ジャン=リュック・ナンシー)などが相当するかもしれない。。。
まさに、そういった観点に対応する、知的切断前の「総体」、いや方向性そのもの。。。なのかもしれない。。。
(下線部は2005.01.01 00:15追加)

。。。私は、それを当初「情の方向性」という一言で表してしまったことを、
今、非常に後悔している。。。


-----2005.1.1 00:10追加。。。
共同体についてのサイト
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/omth2/biblio/democrat.htm
http://www.nakayama.org/polylogos/books/nancy10.html
http://www.h6.dion.ne.jp/~kazu-t/Lamitie/vol1/07/nishiyama.vol1.no3.htm
http://www.yomiuri.co.jp/bookstand/syohyou/20011001ii03.htm
http://d.hatena.ne.jp/asin/4480083510
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by kisugi_jinen | 2004-12-31 23:32 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
魚の争い。。。津波を越えた思い。。。そうして魚たちへ。。。
川の流れの淀み。。。
多数の淀みに魚たちが棲み分けるという。。。

たとえば右脳と左脳のように右という方向性が情優位であり、左という方向性が知優位であるとすれば

魚たちは右往左往すれども、ただまっしぐらに死をも含めた生を貫き通そうとする。。。

そういった「生きる・死ぬ」ということを共有するがために、

巣をつくり、
群れ、
争い、
朽ち果てて、
海に流れ行くごとく見える。。。

海が凪ぐとき
朽ち果てたものたちは、静かに眠るのであろうか。。。
海が騒ぐとき
朽ち果てたものたちの魂の叫びが木霊(こだま)するのであろうか。。。

津波。。。

その海水の巨大な塊をも貫き通さんとする肉親たちの情と思い。。。
日本の川の一つの淀みに住まう一匹の小魚のごとき「この私」。。。

もはや、救われることのない命の数々は、
無数の海の波の揺らぎとして。。。
淀みの中の稚魚たちをも  揺らす

大きくなって
淀みを出て川を下り、
大海に住まわんとするとき、
その大海の中にて群れ・集うのだろうか。。。

共感を生むと同時に対立を生む情。。。

世界という海を泳ぎ回る稚魚たちが、
情という津波に押し流されることなく、
情の本質を共有できる日々が来るのであろうか。。。


細波
うねり
津波
。。。

情を切り捨てたものたちが、
情に気付く時には
すでに津波の中なのかもしれない。。。

。。。と。。。荘子の「魚の楽しみ」から抜け出していないかもしれない。。。
荘子抄
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by kisugi_jinen | 2004-12-30 10:07 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(1)
天動説と地動説と相対性と。。。
その昔、グルグルと一カ所を中心に回るのが楽しいときがあった。しばらく一定速度で回り続けていると、自分が止まっていて、地球が足下を軸としてグルグル回転してるような錯覚に陥るのである。そのとき、足は地球を蹴って強く押し回しているかのごとく思えてしまう。。。

科学的な説明可能性に求められるものの一つとして、如何に簡便に物事を記述するかという点がある。
まるで、ニューラルネットワークでのボルツマンマシンの極小値を探っているかのようである。
---------
注:要するに、エネルギー準位の最も低いところに落ち着こうとするかのごとく、「表現の簡便さ」を求める方向性を有していると言うこと。「極小値」であって、「最小値」ではない点に注意。要するに、「説明可能性系」という「系」全体、すなわち「科学・論理言語世界全体」において、現行使用されている思想近傍での「極小値」に陥るということであり、それをもって「最小値」とはなしえないということである。ちなみに「同一の系」内であれば、論理的・無矛盾な説明可能性のみが問題になるのであって、真に正しいとか真に間違っているとかの議論は前提問題にすらならない。非論理的だとか矛盾を含むといった問題のみ扱いうる。2004.12.29 09:35追加)
----------

さて、地動説が正しいといわれ続けて久しいけれど、ほんとうだろうか?
そこには、「説明するのに統一的に扱えてやりやすい」という、便宜以上のものがあるのだろうか?

そもそも、太陽と地球、地球と月、どちらがどちらを中心に回っているのだろうか?

で、連星という質量がほとんど同じ星がある場合、両方が回りあっているという記述が為される。即ち、簡便な記述にしても、質量比が問題になるのであって、簡便な地動説にしても、厳密には太陽の中心を中心として回っているのではない。
双方の中心を中心として回っているというのが、科学的簡便な記述(説明可能性としての一つの解)として、採択されているということに過ぎない。

----------
付け加えるならば、人間の脳構造・脳機能が、そういった「科学的簡便な説明」を理解しやすいということを意味しているに過ぎない。もし、別の脳構造・脳機能を有する生命体がいた場合、別の説明系を採択しているかも知れない。
注意して欲しいのは、総体としての世界を「理解する」とき、「脳」を含む「わたし」(もしくは含まれる「わたし」)が、「総体としての世界」を知的に切断したところのみを「認識している」ということである。その面のみを理解しようとして説明可能性を模索するわけである。したがって、「人間」の物質的・組織的・生態的・生物的・思考的・意識的・環境的etcの要因(すなわち「すべて」)が、そういった知的切断面の決定に関与しているはずである。
(2004.12.29 09:50追加)
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はっきりいえば、「わたし」中心の「地動説&天動説」でも、何ら問題はない。
現に、「認識主体」は「わたし」な訳であるから。。。
ただし、座標変換に関連する、様々なレベルの「複雑さ」を「わたし」が自ら処理可能だということが、前提条件になる。

※070424, 01:50
具体的な変換について触れておられるところを知りました。よろしければ参照してください。
戸田孝の私設琵琶湖博物館
天動説的描像下の力学
 
(以下修正しました)
===修正後(2004.12.28 06:30)===
たとえば、車を運転する場合でも、自分がとまっていて、とまっている電柱が動いているという主張もありなわけである。ただし、ぶつかりそうになってブレーキをかけたときに、私と車が止まっていて、電柱が動いて突っこんでくるという記述になる。もし、そこで事故が発生したとする。そのとき、「突っこんできたのは電柱なのだから」と言う理屈で、「動いていない私と車は悪くない」。と言う理屈は通らない。
「私と車のブレーキ」が、「突っこんでくる電柱を止めうる唯一の力」であるゆえに、過失は「私」から切り離されることは決してないからである。
また、「私中心ではない・常識的な感覚を持っている」という場合でも、車に乗っている内部で感じる速度感と、外部から見る速度感とはずいぶん違う。この感覚の差異は、「わたし」という主観的な側面が関与するものの「交換可能性」に歪を与えうるだろう。。。

===修正前
車を運転するにも、加速後、ブレーキをかけたときに、私と車が止まっていて、他の物体が動いて突っこんでくるという記述になる。もし、そこで事故が発生したとする。そのとき、「突っこんできたのは相手なのだから」と言う理屈で、「動いていない私と車は悪くない」。と言う理屈は通らない。
「私と車のブレーキ」が、「突っこんでくる対象物を止めうる唯一の力」であるゆえに、過失は「私」から切り離されることは決してない。

※08/06/24 02:40追加
ルーマン系の記述を中心とするブログ(ポスト・ヒューマンの魔術師・「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。)からのトラックバックがあり、こちらからも過去の記事から何件かにトラックバックを埋め込んでいたら、いつのまにか「関連ブログ」欄に載っていた。
http://amr-i-t.com/intro/spell02.html

。。。で、関連するような記述を探していたら、引っかかるところがあったので、関連するであろう本記事からトラックバックをし、関連するであろう事柄について記述。。。

===

(徹底的に構成主義的な差異理論だという)ルーマンのシステム理論での「理論展開」の基本であるところの「実行可能性」という言葉は、まるで、科学的理論展開における「交換可能性」そのものに思われる。
本ブログでは、「交換可能性の高さ」=「客観性の高さ」としているが、まさに、ルーマンの言うところの「実行可能性」という単語をそのまま当てはめると、
「実行可能性の高さ」=「客観性の高さ」となり、何ら違和感がないのですが。。。ちがうのかな?。。。
このあたりの感覚の差異は、社会学玄論でのmerca氏とのやり取り時に感じた差異に相当するような気がします。

主観・客観と交換可能性。。。
↑上記の元原稿に相当↓
主観と客観と交換可能性。。。
。。。今見返すと、タイトルが一字違い(笑)。。。
その他、関連記事
メタについて。。。構造構成主義に関する私見。。。1。。。
糊を使わないで作るメビウス(メービウス)の輪。。。

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by kisugi_jinen | 2004-12-27 19:38 | 思考。。。 | Trackback | Comments(2)
否定神学と交換可能性との関係。。。
否定神学は「ない」ということを「共有可能」というときに成り立つ。
すなわち、主体(自他)の「交換可能性」が前提条件になっている。
これは、たとえば、「平和・唯一絶対神」を求め合う民族同士が、「平和・唯一絶対神」を求めるがゆえに争うという場合にも当てはまる。
また、サンタさんが「いない」ということを「共有可能」である場合に、「いない」を超越するサンタさんが「いる」ということを「共有可能」であるという場合にも当てはまる。
前者は、「中心」がずれており、「交換可能性」が成り立てば、「仮想中心」として重ね合わせたとき、同一方向を向くということで「共有可能」だということ等価である。
後者は、「仮想中心」を立てなくても、「中心」が同一であるとみなしうる共同体(「ない」という側)であり、その外部に「仮想の対極」(「ある」という側)を見立てることで、常に「交換可能性」を維持しようとすることと等価である。

===以下、04/12/27 15:44:00追加===
(走り書きゆえ、訂正の可能性があります。あるいは、別投稿にするかもしれません。)

価値観という概念があるとする。

価値観とは「○○にとっての」価値観であり、「相対的であり、絶対的な価値観はない」ということになる。

しかしながら、「価値観という概念」は、歴然として共有される。
これは、「神という概念」や「霊という概念」、さらに「平和という概念」や、「愛という概念」に似ている。

全く同様に扱いうる対象として「情という概念」がある。

これらに共通なのは、主体(自他)の「交換可能性」を仮定したときに表れるであろう「仮想中心」を共有可能(すなわち、知的側面にて幻想的に共有可能)であるときに、「(たとえ反対方向でも)方向性が同一」ということと等価である。
即ち、「知的側面にて幻想的に共有可能」ということを「共有可能」ということと、「概念」を「共有可能」であることは、(まさにトートロジー的ゆえ)同値である。

逆に言えば(二段階目の「共有可能」を外して倒置すれば)、「概念」とは「知的側面にて幻想的に共有可能」なものであるということになる。(←包含関係でなく、同値ゆえに交換可能)。
まさに、「概念」とは、そういった定義が可能だということを意味している。

「否定神学」での「否定」による「肯定」という過程は、概念が共有可能であるという前提条件が必要になる。
即ち、(ひどく当たり前であるが)「当該概念がなければ成立し得ない」ということであり、すでに土俵の上に立つことが可能であるといった段階で、「当該概念」を有しており、共有することが可能であることを表明していることに他ならない。

既に「知的切断」を行う場合の「情」にて述べたことが、すべて「概念」に当てはまりうる。すなわち、「主体」と「(知的に切断された)概念」と「それらの関係」は、切り離せないもの(総体)であり、そうであるが故に、哲学的な対象となりうるのであり、「知的に切断された概念」は、それを「思考する」主体のもつ知的境界面上に立ち表れるものとなりうる。

現行の脳科学は、「知的境界面」が如何なるものかを探る研究といって過言ではない。
ただし、それは「主体」と「概念」から切り離された「知的境界面」であり、そこに投影される「像」と、投影を受ける「スクリーン」(どこに、どのような形で投影されるか)との関係を調べているともいえる。

さて、横道にそれたが、「概念」ということを共有できるということが、広く人種を超えて可能であるということは、驚くべきことでもある。

「超越的な存在」をそこに見出そうとすることの正当性すら、そこに立脚しうる。すなわち、そういったことを可能たらしめているのが、まさに「超越的な存在」だと。。。
ただし、ひとたび「超越的な存在」を仮定してしまうと、「概念」に知的境界(切断面)を発生させることになり、「超越的な存在」は「非超越的な存在」に成り下がってしまう。

したがって「概念」は「知的側面にて幻想的に共有可能であり、総体として共有不可能なもの」ということを超える事はできないということを強く認識する必要性がある。でなければ、「超越的な存在」という知的切断が、「超越的な存在」を否定してしまうからである。ここにおいて、「否定神学的」に共有可能以外の「知的側面にて幻想的に共有可能な超越的な存在」はありえないということを、再認識すべきである。

と、長々書いたが、こういったことは、まさに「語りえぬもの」という一言のもとに表しうるものであるけれども、その一言の深さは、それを考える人々の思いの深さに依存するのだろうと思う。

08/04/04 04:50 補足
※超越的---「超越論的」とは異なる。
○○的と○○論的との差異に注意
たとえば、「存在的---存在論的」については、
マルティン・ハイデガー『存在と時間』(全3冊) ---  松岡正剛の千夜千冊
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0916.html
などを参照してください。
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by kisugi_jinen | 2004-12-27 08:53 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(2)
京都。。。
大阪に住んでいた頃。。。
京都は近くて遠いところであった。。。
なぜだか、文化的な敷居の差を感じた。。。
どちらが高いとか、低いとかいうわけでもなく。。。
関西と関東との違いではなく、別の差異。。。
新潟の地に住まうようになって、写真を眺めていると、
b0032038_1133931.jpg
写真の隅々にまで、大阪と京都の違いが歴然としている様に思えてきた。。。
なぜなんだろう。。。
なになんだろう。。。
そう。。。
b0032038_114415.jpg
大阪の風景は、あらゆるものの境界が、ぼんやりとぼやけていた。。。
京都の風景は、例えぼやけていても、なぜだかきりっとした境界の、
張りつめた様が写っている様な気がする。。。
単に、空気の汚れ方が違うだけなんだろうか。。。
それとも、人々の気持ちの違いが反映されているんだろうか。。。
あるいは、歴史・文化の違いが反映されているんだろうか。。。
いや、たんなる思い過ごしなのかも知れない。。。
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by kisugi_jinen | 2004-12-27 00:39 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(2)
子供たちの夢や希望を奪っているもの。。。
息子がサンタさんという概念を、どう捉えるか?ということも問題だが、なぜ、サンタさんという概念が、今まで、ずーっと存在し続けているのかということも問題である。

誤解を受けるといけないので断っておくが、ここで言うところのサンタさんは、「子供たちにプレゼントを配る」という側面でのサンタさんである。
無論、その成り立ちやサンタ論争(映画にもなっている)、また出版されている子供の質問に答えるための名文句にも、その解答はあるかもしれない。

でも、(特に日本において)宗教を越えて、これほどまでに受け入れられ、(相手が子供たちだからこそ)純真に信じられている存在はいないだろうし、なぜ?という疑問が湧いてくる。
あ、そうそう、ちなみに「サンタさん」を信じている人が、もし、このブログを読んでる場合、「サンタさん」を信じていないオジサンが、勝手な妄想の元に書いてると思って間違いないですので、十分にご注意ください。もし、「信じたいのに変なブログを読んじゃった。どうすれば信じられますか?」という場合、否定神学を勉強してください。

で、そもそも、子供たちにとっても、親たちにとっても、おもちゃ屋さんにとっても、だぁれも損をするどころか、益することばかりだから、廃れないともいえる。(他にあるかもしれないけれど、私にとって一番分かりやすい)

そういった意味で、「サンタさん」という概念は、「共有可能だと幻想されうる(本当は相対的なのだが)絶対的(と幻想されうる)価値観」の対象の一つになっていると考える。

さて、で、本当に「不利益」を被る人たちはいないのだろうか?

いや、いる。。。表向きと背後と、2面に。。。
表向き:子供に「信じさせたくない」という人々にとって、周囲の環境が「信じる」という状況では、しぶしぶ「信じたふり」をせざるを得ないか、でなければ、子供に寂しい思いをさせなければならない。
背後:こちらの方が、重要かな?。。。
「信じる・信じない」という選択基準が、「もの」や「形」の有無にすり替わっている。
それゆえ、「もの」や「形」が無くなる(あるいは、子供が思っていたものと異なる。心が通じない)と、一瞬にして「信じる・信じない」の境界を越えるという結論に移行しやすいのではないだろうか。
そこにおいて、「共有可能だと幻想されうる(本当は相対的なのだが)絶対的(と幻想されうる)価値観」は、一瞬にして逆方向を向く。。。

本来、夢や希望というものは「信じる・信じない」の狭間にこそ、あるのではないだろうか?
知的に境界を保ちつつ、情によって越えようとする。そうして、その狭間を揺れ動きながら生きていく。一人の人間の心の中で、夢や希望が廃れずに続いていくということは、そういった状況にこそ、生まれるのではないのだろうか?

子供たちの夢や希望を奪っているのは、他ならぬサンタさんかもしれない。。。
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by kisugi_jinen | 2004-12-24 05:08 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
共有可能だと幻想される絶対的価値観。。。
moriさんのところにコメントしたものをベースに書き直しています。

以下、「もし、絶対的価値観があったなら」という想定からスタートした思考です。

1.知的世界に、共有可能だと幻想される絶対的価値観が出現する。
2.「私」と「あなた」とが「交換可能」だというとき、すなわち、あらゆる人間・生命体の中心を「重ね合わせ」ることができると知的世界にて想像するとき、仮想中心からの平均的ないし最大公約数的方向性の一つに「生きようとすること」がある。
3.すなわち、「生きようとすること」の方向性は、「共有可能だと幻想される絶対的価値観」の一つになる。
4.また、「生きようとすること」と同様の抽出方法で、「共有可能だと幻想されうる絶対的価値観」の一つとして「快」や「美」も、抽出されうる。
5.同様の論法で、すなわち「生きようとすること」を「死のうとすること」に、「快・美」を「不快・醜」に置き換えることで、それぞれの反対方向への「共有可能だと幻想される絶対的価値観」にも言及可能。
6.しかし、そう考える「わたし」や「あなた」の考え方にも依存する。今から「死のうとする」人にとっては、「死のうとすること」と「快・美」との方向性が同じになることがある。

さて、こういった像は、「全体・総体」を「知的」な視点(重ねあわせ可能な仮想中心)から見たときに現れる。

でも、現実には、個々の中心は重ね合わさることがない。「価値観は相対的」というのは、まさに、「中心を重ね合わせることが不可能」(=「わたし」と「あなた」は「交換不可能」)ということでしかない。すなわち、「相対的」である。しかし、この「相対的」ということだけで、=「共有可能だと幻想されうる絶対的なものはない」とはならない。
(下線部分追加:041224, 06:25)

しかしながら、もし「差異」のみが強調されるときは、「交換可能」な価値観(最大公約数的な価値観)を既に消し去っている。すなわち、「共有可能だと幻想されうる絶対的価値観」の方向を問わないという立場に立っていることになる。

「最大公約数」がゼロなのかプラスなのかマイナスなのか、その判断を誰がするのか?

ゼロだといったとき、「相対的価値観」は「価値観の差異」そのものと一致し、「判断の中心」に「虚無」を想定していることになる。逆に言えば、ゼロになるように価値観の判断中心を動かしつづけていることにも相当する。これは知的操作のなせる業であり、まさに共有し得ないことを共有するという「否定神学的な共同体」と一致するところがあるように思える。

プラスないしマイナスだといったとき、「相対的価値観」は(プラスないしマイナスの)「共有可能だと幻想されうる絶対的価値観」に「価値観の差異」を加算したものとなる。
この場合、「判断の中心」には、何らかの具体的(ないし抽象的)な存在に立脚しなければならない。
「生」に立脚するのか、「死」に立脚するのか、「遺伝子」に立脚するのか、「知」に立脚するのか、「神」に立脚するのか、「情」に立脚するのか。。。

moriさんは、その立脚点に「審美眼・審美心」を置いた。

しかしながら、どこに立脚点を置こうとも、「知的世界」の内部で扱われることには違いがないし、「審美眼・審美心」共に、すでに「価値観」と表裏一体のものである。

で、そもそも「価値観」は、なぜ生じるのであろうか?
また、「共有可能だと幻想される絶対的価値観」は「ある」のだろうか、「ない」(すなわち「虚無」である)のだろうか?

まず、後者の疑問から。。。
人が争い、いがみ合い、戦争をし、殺しあう。
人が仲良くし、助け合い、平和を求め、共生しあう。
そういったことが、現に行われているということは、
「共有可能だと幻想される絶対的価値観」が「ある」ということを示している。
即ち、
「共有可能だと幻想される絶対的価値観」が「ない」(この場合、「ない」ということも共有されないという点で「絶対的に虚無」である)のなら、共有そのものが絶対に不可能ということで、人と人(ないし物)との関係は生じ得ない。

立脚点が様々にあるゆえ、「共有可能だと幻想される絶対的価値観」はプラス、マイナス、ゼロを揺らいでいる様に思われる。まさに「共有可能だと幻想される」様、そのものである。

逆説的かもしれないが、「共有可能だと幻想される絶対的価値観」は、幻想可能ゆえに「ある」といえるのだと思う。

で、その「幻想」は、どうして生じるのであろうか?
すなわち、そもそも「価値観」は、なぜ生じるのであろうか?

「脳構造」と「脳機能」、「脳」と「身体」にその起源を求めることは可能である。まさに「唯脳論」そのものになろうかと思う。「情」「知・情」の構造は、(知的には)「大脳辺縁系」と「皮質」との関係そのものといえる。そういった観点からの説明もおそらく可能である。しかし、「脳」との対応があるからということは、何ら解答になってはいない。少なくとも「情」は、「脳・身体」を越えて「他」との「関係」を含めた「総体」にある。

結論から言えば、「知」と「情」との関係が「ある」以上、そこにこそ「価値観」の根源があると思う。「共有可能だと幻想される絶対的価値観」は、「知」が「総体としての情」を記述(記号化)しようとするときに「知」の限界である「境界面」に映し出される「総体としての情」の影にしか過ぎない。たかが「影」であるが、それを持ってしか「共有可能」とはならない故に、その本質を見ようとするのであり、逆に本質を見ようとする姿勢こそが「幻想」を生み出す力となっていると考える。
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by kisugi_jinen | 2004-12-23 07:29 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
クリスマス。。。再々。。。
結局。。。

うちのカミさんの圧倒的な力もあって、「サンタさんからのプレゼント」という設定が、既に息子の中に確立された後でもあり、混乱させるのもどーかということもあり、「情」をあつかいながら「知的」に切って捨てようとしているのは私のほうかもしれないし。。。と、言い訳(感情に対する知的な理由付け)をつらつらかきつらねつつ、受け入れてしまわざるを得ない今日この頃。。。

でも、プレゼントたるもの、本来的には何らかの「思い」がこもったものであるべきはず。。。なのに。。。

(良くないと知りつつ、)
「そんなことをしてると、サンタさんからプレゼントがもらえないよ」
とか、
「良い子にしていれば、サンタさんからご褒美がもらえるよ」
とか、
そういった「取り引き材料」に使われてしまいがちなのも、事実。。。

うがった見方をすれば、不自然にそういったことを避けるのではなく、「どうして親ってそんなにバカなんだ」ということで十分かもしれない。。。

要するに、本人が経験し得ないことには、そういったこと、さらには「いる・いない、ある・ない」を越える力すらもてないのではないだろうか。。。

○○が得られるから□□をする
という受動的な経験があってこそ、
○○が得られようと、得られまいとにかかわらず、□□をする。
□□をするということそのものに、意味を見出す。
という能動的なものへの転換が深い意味を持つのかもしれない。。。
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by kisugi_jinen | 2004-12-21 02:06 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
あくび。。。
あくびは何故うつるか。。。
今日、といっても、昨日夜になるが、200X特命リサーチで、「親切な人ほど、共感しやすく、うつり易い」という報告であった。
3~4歳の園児にはあくびをしている状態のビデオを3分間流しても誰もあくびをしなかったのに、小学生高学年以上の年齢層や、チンパンジーでは、見事にあくびを引き起こしたという。
あくびのうつり易さと共感しやすさが関係しているとは、驚きであった。
で、元ねた関連が転がってるであろうとネットで調べてみた。。。

あった、あった。。。
http://plaza.rakuten.co.jp/aftermidnight/diary/200407290000/
http://amor1029.exblog.jp/530553/
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/pub/img/asahi20041106.html
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/pub/hope2004-4j.html
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/pub/img/yomiuri20040724.html
他、同日の他新聞画像複数

う~~~んんん。。。見落としていた。。。

ただ、「共感しやすさ」を「知性の発達」としているのには「?」である。「情の発達」とすべきだろうと思うのは、私ぐらいか。。。?
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by kisugi_jinen | 2004-12-20 03:48 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
親の情の一つの表れ。。。
この間、ちょっと、興味深い光景に出くわした。。。
私も、少しばかり関与しているのだが、そのことは後回しにして。。。

休日、私の仕事は、息子をショッピングセンターの子供の遊び場に連れて行くこと。
おとなしい我が子は、おもちゃで遊ぶか、友達をつくっては「ごっこ遊び」をしている。
遊び場で、3人の子供たちが走り回っていた。我が子も、あそこまでハチャメチャに暴れまわる日が来るのだろうと思って、ほほえましく見ていた。
で、3人の内の一人が、見覚えのあるのに気付いた。母親も一緒に来ていたのだが、その母親にも見覚えがある。
そう。。。あれは数ヶ月前。。。
その男の子は、やっためたらに○○マンや○○レンジャーなどの正義の味方もの系のノリで、「とぉー」とか「とりゃぁー」とか「ぷしゅー」とか叫びながら、パンチ・キックを繰り出して一人遊びをしていた。そうして時々、母親にも相手をして欲しいのか技を繰り出していた。母親の方は、適当にあしらっているという感じで、きつく蹴られたりした時に「痛い」と顔をしかめる程度で、やられっぱなしだった。
その男の子が、兄弟と思しき二人と遊んでいる。以後、男の子をA君、兄弟の兄をB1君、弟をB2君とする。
B1君は、あきらかにA君よりも年上である。3人が遊んでいるのを途中から見ているので、それ以前の状態がどうであったのかは、不明であるけれど、私が見始めたときは、仲良くふざけあいながら一緒に走り回っている状態であった。
そのうち、A君が一方的にやっつけられ始めた。B1君がA君の技をくりだす手をつかんで、いとも簡単にひねり転がす。転んだところにけりを入れまくる。固めのスポンジのブロックを投げてぶつける。子供のことなので、とんでもない怪我をするほどではないにしても、2対1であることには変わりがない。A君よりも確実に弱そうなB2君も、悪魔的なへらへら笑いをしながらやっつけにかかっている。
時々、A君は母親のところに行って「痛いよ~」といったり、少しばかり涙をながすこともしばしば。。。母親は、「痛いの?、そう。。。」といって、悲しそうな顔をしてさすってやる程度で、どれだけやられていても、A君が母親の元に駆け込まない限り、割ってはいるなんてことは決してしない。。。
そのうち、また3人が仲良くいっしょに遊び始めた。
A君が帰る少し前、また、A君が一方的にやっつけられ始めた。固めのスポンジのブロックが顔面を直撃する。A君はほっぺたをさすりながら、今にも泣き出しそうにして、母親の元に駆け込む。繰り返し「痛いよぉ~」というA君に、母親は、「痛いからやめてって、言っておいで」と、A君に伝えた。A君は、走っていって、「痛いからやめて!」、「痛いからやめて!」。。。「痛いからやめて!」と、3回繰り返した。
母親の元に返ってきたA君は「痛いからやめてって、言ってきた」と報告したあと、母親に連れられて帰っていった。
「痛いからやめて!」と言われ続けていたB1君は、ブロックを抱えながら、柱にもたれかかり、少しばかりの笑みが、多少こわばりを保つ程度に戸惑っていた。
A君が帰った後、B1君は私の横においてあったジャンパーを引っ掛けながら、既に立ち去ってしまった遊び相手の方角に、さびしげな目を向けていた。私は悲しげな視線を送るだけで、言葉をかけることができなかった。

私は考え込んでいた。。。
もし、私がくだんの母親だったら、どうしただろうか。。。
「痛いからやめてって、言っておいで」と言えたであろうか。。。

B1君とB2君の母親が迎えにきた。
どうやら、買い物が終わったようだ。
二人の顔からは、A君と遊びまわっていた時の楽しげな表情は消えていた。
こんど、3人に合うとき、どんな関係を見せてくれるのだろう。。。

。。。そうそう。。。私が関与したこと。。。
「何もしないで見ていた」というレベルで関与していた。。。
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by kisugi_jinen | 2004-12-19 03:19 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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