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カテゴリ:つれづれ。。。( 244 )
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その20。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その19。。。

わたしを離さないで
Julia Shortreedさんの歌う挿入歌。。。
"Never let me go"

TBSで公開されている
http://www.tbs.co.jp/never-let-me-go/special/

昨夜、眠い目をこすりつつ、メロディーに合う長さになるよう訳してみたのでファンメッセージに投稿してみたのだが、恥ずかしながら明らかに誤訳してたので、修正版をこちらにあげておく。
まだまだ稚拙な訳だとは思うものの、歌詞の意味するところが伝わって来る。
ドラマのストーリーを的確に踏襲しているようだし、それでいて、この手の歌に多重に重ねられる一般性も維持しているようだ。
実に味わい深い。。。

今夜は眠りたくない
愛が夢のように生まれたあの日へ
再生してくれた、懐かしの甘いメロディー
心を満たし、全てを明るく変えてくの
貴方が初めて心を満たしてくれたの
ああ、このまま。。。
ベイビー、ベイビー、離さないで、わたしを離さないで
手を握るだけで感じる温もり
そうベイビー、離さないで、わたしを離さないで
最後までずっと
短い夜が明け、日が昇る
時が来れば、去っていく貴方
愛を失って生きてはいけない
だから強く抱きしめて、何も言わずに
この瞬間、全てを棄てる。永遠(とわ)より価値があるから
ベイビー、ベイビー、離さないで、わたしを離さないで
もう一度名前を呼んで
そうベイビー、離さないで、わたしを離さないで
最後までずっと
寄せては 返す 波に 削られて
永遠に続く青い海へ帰る
私の人生に 貴方がいた事が、信じられない
世界のどこにも 変わらずに居られる人はいない
離さないで、決して離さないで
両手で強く抱きしめて
そしたら言う。離さないで、離さないわ
最後までずっと、ずっと
。。。
深い眠りについて。。。私の愛しい人。。。

2016.03.16 23:16 一部修正
2016.03.21 16:25 一部修正

=== 2016.04.24 02:28 修正版(赤の部分を中心に)
play a song
を「音楽をかける」にするか「音楽を流す」かに変更した方が、原意に近いので変更
語尾の、複数の「の」を削除
曲調にて字余り的に入れ込んだ「わたしを」の部分はバックコーラス的に入るという意味で[]で括った。
相応して、never let you go の部分には、[あなたを]を挿入した。
その他、接続詞の多少の変更をした。

今夜は眠りたくない
愛が夢のように生まれたあの日へ

流してくれた、懐かしの甘いメロディー
心を満たし、全てを明るく変えてくの
貴方が初めて心を満たしてくれた
ああ、このまま。。。

ベイビー、ベイビー、離さないで、[わたしを]離さないで
手を握るだけで感じる温もり
そうベイビー、離さないで、[わたしを]離さないで
最後までずっと

短い夜は明け、日が昇る
時が来れば、去っていく貴方

愛を失って生きてはいけない
だから強く抱きしめて、何も言わずに
この瞬間、全てを棄てる。永遠(とわ)より価値があるから

ベイビー、ベイビー、離さないで、[わたしを]離さないで
もう一度名前を呼んで
そうベイビー、離さないで、[わたしを]離さないで
最後までずっと

寄せては 返す 波に 削られ
永遠(とわ)に続く青い海へ帰る
私の人生に 貴方がいた事が、信じられない
世界のどこにも 変わらずに居られる人はいない

離さないで、[決して]離さないで
両手で強く抱きしめて
そしたら言う。離さないで、[あなたを]離さないわ
最後までずっと、ずっと
。。。

深い眠りについて。。。私の愛しい人。。。

===
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by kisugi_jinen | 2016-03-16 12:18 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その19。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その18。。。

違和感。。。と不安感。。。

私が感じ取っているのは、そういった類のもの。。。

多くのレベルで、積み上げられた大小不同の歪(いびつ)なブロックが危なげに揺らいでいる。そういった違和感。。。

それでも、全体を繋ぎ止めているのは、ドラマとして成立させようという一途な思いと、基底を流れている、人類共有の不安感なのではないだろうか?

複数回の投稿途中から、一神教的な背景・思索の方向性について多くを書いたが、実の所、視点をどこに持ちたがるのかにて、思索の方向性が決められてしまう。一神教的な視点・方向性は、内から外に向かう視点であり、多神教的な視点・方向性は、外から内に向かう視点である。
規範・基準をどこに置きたがるか? といった概念と言い換えてもいい。

したがって、国とか民族とか宗教とかいった区分に基づくというより、個人的レベルでの差異に基づいている。
しかしながら、この差異は、西洋系と東洋系の基本的な思索の差異でもあり、巷の教養系クイズ番組でも取り上げられたことがあるので、ご存知の方も多いかもしれない。

内から外に向かう視点を重視する向きは、自己を規定している境界線について、さほど頓着しない。いや、境界線が見えにくい位置に視点がある。認識し得る範囲のやや外側に境界線があるからである。プラス思考の観点からは、主体性があり、リーダーシップがあるといわれ、マイナス思考の観点からは、独善的で、ワンマンだといわれる。

外から内に向かう視点を重視する向きは、自己を規定している境界線について、極めて敏感である。他人の視線にて、自己を評価しようとアンテナを張り巡らせているからである。

安物の両極端な性格分析だと思われるかもしれないが、両方の方向性を有していたとしても、両方を常にバランスよく保つことは極めて困難であろう。

この揺らぎ、バランス状態は、中立的な思索を行っていると思っている人ほど、他人に影響されやすいともいえる。流言飛語、Twitter、Lineこれらの「噂話」や「伝聞情報」に影響を受けるとともに、自らが主体的に外部に再発信しようとしたがるのは、両方の心理状態の揺らぎが周囲の動きと同調したからに他ならないのではないだろうか?

今回の原作ないしドラマは、まさに内から外に向かう成長過程とともに、伝聞情報の根源へと突き進み、自ら積極的に動いていく若者たちの物語という側面

と同時に

外から内に向かう規定(外側の人間にとっては、内から外への方向)にて死・魂という人間の根底に関する概念について縛り付けられてしまったクローンの苦悩を描いている。

多少の矛盾にあえて触れることなく、境界を挟んだ方向性の揺らぎのなさ、固定性こそが、日本人の視点から見れば、強引で不安定に見え、違和感を醸し出している元凶だろう。

それでもなおかつ、一抹の不安感をもたらしているのは、日本という民族内部にて混在しつつも噴出している、他人を顧みることのない身勝手な行動を起こす人々が増えているからかもしれない。。。

何時の時代にも、どのような体制にあっても、認識の多様性と同時に多階層性・多レベル性は混在している。にもかかわらず、ある一定の方向性に整えられかねないという不安感が背景になければ、日本で受け入れられる物語とは、ならないのではないのだろうか?

2013.03.14 20:00 一部修正
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by kisugi_jinen | 2016-03-13 13:19 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その18。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その17。。。

原作、イギリスでは森。。。
ドラマ、日本では海。。。

生命の源として、キリスト教系では「生命の樹」を想定するらしい。日本では「母なる海」だろう。

イシグロ氏の原作では「魂が無い」として墓すら存在しない亡くなった同胞・クローンを身近に感じる場として、最後の場面近くで、森が描かれ、通り過ぎつつ吹き溜まる風が描かれている。

ドラマ最終話では、予告編を見る限りにおいて、川の流れと、そこから繋がる海が想定される。
そうして、そこは、両者ともに、あらゆる紛失物(見方によってはゴミ)が届く場所でもある。

母なる海。。。 細胞が細胞膜という境界を介して分離する元となった所。。。

「外部の人間」は、クローンの臓器を利用しなければ生きていけない生命体として描かれている。ドラマの冒頭にて語られた、塀の向こうの森に棲まう、皮だけ残して食べてしまう「化け物」でもある。いや、まさに人狼や吸血鬼を髣髴とさせる。。。

「クローンに魂がない」と言い張ることで強固な境界線を引こうとする「外部の人間」は、真の意味で「魂を悪魔に売りとばした生命体」そのものである。
境界(教会)の内部と外部。。。「魂が有る・無い」は、その境界にて反転しうる。。。

悪魔に魂を売ったという自覚のない人類は、もはや生命の源、すなわち海にすら帰り着くことができずに、クローンの血肉を漁る。。。

それこそ、母なる海からも見放された人類を描いた物語ではないのだろうか。。。

。。。

そう、もう一つの「母なる海からも見放された人類を描いた物語」を知っている。

風の谷のナウシカ。。。

西洋的思想と東洋的思想を癒合させているゆえか、森を腐海と表現しつつ、強酸の海には生命の痕跡すら描かれていない。。。

イデオロギーが中心となった冷戦時代を意識して描かれたナウシカは設定された境界を壊す方向性に生きていた。

科学・ITが急速に境界を壊したために壁は壊され、グローバル化への方向へと舵を切らざるを得なかった現代、逆説的に世界規模で目に見えない境界が乱立されている。ひとたび境界が発生すると、その境界を挟んで人々は戦いの準備に明け暮れ始める。。。

無人偵察機、ロボット、スターウォーズで大量投入されたクローン兵士の幻影すら、見え隠れする。
映画「アバター」では、象徴的に「生命の樹」が描かれ、科学・技術によって倒されてしまう。

人類は、生命の樹を、母なる海を、忘れてはならない。。。

どのように生まれ、どのように育とうとも、生命として生きている限り、宗教という境界も、人種という境界も、民族という境界も、国境という境界も、全てを越えて繋がりあっているということを、忘れてはならない。感じ取らねばならない。。。まずは「情」が先にあるということ。。。

書かれたこと、聞いたこと、見知ったこと、教えられたこと。。。

それら「知的なもの」は、自らの目で、自らの体で経験しない限り、全て「伝聞情報」であることを前提としなければならない。

情が先にあり、知が後付的に理由づけする。
クローンという技術を生み出した近代科学もまた、まさにそこから始まっている。

イシグロ氏は、無垢なる少年少女の成長という過程を描くことで、その序文への入口を描いたともいえる。


「生命の樹」に関する参考資料
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/840
タイトル: D.H.ロレンスと樹木崇拝 : 「生命の樹」をもとめて
その他のタイトル: . H. Lawrence and Tree Worship : Toward "the tree of life"
著者: 中田, 智子 Nakada, Tomoko
発行日: 2005年3月31日
出版者: 京都女子大学URI: http://hdl.handle.net/11173/840
出現コレクション:第04号(2005-03-31)
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by kisugi_jinen | 2016-03-13 00:07 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その17。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その16。。。

わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その14。。。

恵美子先生がクローンだったという予測は当たっていた。。。3,000歳ではなかったが。。。
無論、恵美子先生自身の脳を含む全てが、恵美子先生の母に移植され、若返って生きているという話もあり得るのだが、たとえ脳が移植されても、本質的な意味でアイデンティティまでは移植不可能である。
不老不死。。。ショート・ショート。。。アバター編。。。
http://jinen.exblog.jp/18835499/
出会い。。。3。。。心と魂と。。。2。。。
http://jinen.exblog.jp/5390443/

原作では、余りに救いが無さすぎたのだが、ドラマでは、微かな希望の光がある。。。
恵美子先生が第1号だったとしても、生命を全うしうる存在であり、「例外」を認めているのだから。

人が人を出自によって区別・差別するということ。
アイデンティティを持つが故に、我を手放せないという矛盾。。。

いや、そういったものを十分に「知った」上で、情の繋がりの大切さを十分に「知った」上で、なおかつ、人類は戦ってきた。

その昔、西洋によって食い物にされていた東洋としては、ある意味、禁句的な物語。

そういった深い意味からも、現代の日本において、あえて、取り上げられた理由もあることだろう。
ドラマの最終話で、陽光のロングスパンの戦いは、途切れさせるべきものではないということは、既に織り込み済みだろうと思う。

私の予測が、良い方に外れてくれればいいのだが。。。
しかしながら、最終話1回のみでは、完全な救いの段階までは記述不可能であろう。
「希望を託す」
まさに、そういった意味でしか、物語を終えることができないのだろう。。。残念なことに。。。

しかしながら「声をあげても仕方ない」という言葉は、最終話ではクローンであった恵美子先生が自ら否定しなければならない。現代の日本のドラマだからこその禁句である。
でなければ、広島で自殺された中学生が浮かばれない。。。


恵美子先生の話から確実になったこと。それは、物語の中でクローンは、やはり海そのものであったということ。
彼らの体の一部が、他者の中で生き続ける。
ドラマの設定では、もはや、クローンの体無しでは、人類は生き延びることができない体になっている。
そのつもりが無かったとしても、依存症であることには違いない。
クローンが差別されるのであれば、逆に利用できる。
それだけの強さを持つ存在になっているということ。
強固な境界が設定されたなら、どちらかが強大な力を持ったとき、他方は服従せざるを得ない。
ある日、突然にその関係は逆転しうる。
なぜなら、クローンは短期間に無限に増える力を有しているから。
介護人を務めることができ、原作やドラマで許容されている自由度がある限り、一部の医療スタッフを取り込みさえすれば、簡単に実現できてしまう設定になっている。
原作も、ドラマも決してそこまでは踏み込まない。踏み込めないのだろう。
物語・ドラマの都合上、人為的に設定された「境界」だから。

さて、最終話については、想像の域を出ないのだが、免疫応答という概念から言えば、クローンの組織が最も適合するのは、細胞提供者そのものである。

恭子の提供者=クローンの親は、恭子と同い年かもしれない。提供を受けて生きのびる時、恭子からのメッセージを受け取るかもしれない。形ある手紙かもしれないし、何がしかの伝言かも知れない。
時を前後して、友彦の一部が提供された先も、友彦と同い年の、智彦のクローンの親かもしれない。
そうして、それぞれが偶然に結びつく。それぞれのクローンから授かった命の燈火を、新たな生命の誕生へと繋ぐことによって、クローンとその親とが一体となって、クローンと外部との区別の無くなる新たな世代へと繋げていく。。。

可能な限りのギリギリのストーリー展開を想像するに、ここまでだろうか?

2016.03.12 06:50 一部修正・追記

2016.03.12 06:55 下記追加
不老不死。。。ショート・ショート。。。アバター編。。。
の後半にてリストアップした、稚拙ブログ内での「魂・心」の本質について考える折に、参考になる記事リスト。
===

教えて!「唯物主義に生きがいはありますか?」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6177884.html?best_flg=true
※受動意識仮説を信じて自殺まで考えた方からの質問に対する私の回答です

私が機械に置き換わるとき。。。
http://jinen.exblog.jp/6357229

人工知能が「知能」である限り、「こころ」は生まれ得ないかも。。。
http://jinen.exblog.jp/1011324/

「こころ」の能動性・内発性・主体性。。。そして閉鎖系と開放系。。。二元論と一元論。。。
http://jinen.exblog.jp/5577118

脳を知りたいという欲望と不老不死の欲望と。。。
http://jinen.exblog.jp/6226762

「本当の私」という知的切断面。。。
http://jinen.exblog.jp/3446167/

境界をなくした男。。。なのか。。。麻原彰晃。。。
http://jinen.exblog.jp/3736782

出会い。。。3。。。心と魂と。。。2。。。
http://jinen.exblog.jp/5390443/

脳内チップの先に思うこと。。。
http://jinen.exblog.jp/3287424/

こころ。。。関連性の束縛を越えて。。。1。。。
http://jinen.exblog.jp/4113042/

二元論と一元論と。。。知的切断面と総体と。。。
http://jinen.exblog.jp/4044620

こころの定義と物理学的相互作用と。。。
http://jinen.exblog.jp/4007740/

存在の相対性。。。脳とこころと。。。4。。。
http://jinen.exblog.jp/3516712/

「唯物論・付随論」における「こころ」の定義の影響。。。
http://jinen.exblog.jp/3909831/

「いじめ」と「知的切断」と。。。知の優位性とその背景。。。
http://jinen.exblog.jp/8425528/

因果的・非因果的。。。能動的・受動的。。。意識と情と。。。
http://jinen.exblog.jp/7512021 

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by kisugi_jinen | 2016-03-11 23:44 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その16。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その15。。。

日本のドラマで取り入れられた「天使」という言葉。。。
明らかに西洋的な一神教概念が見え隠れしている。
日本人的な無宗教という隠れ蓑に隠されて、見え隠れする「許し」の言葉。。。

よく似た言葉の使い方を思い出した。
文月メイの「ママ」である。
当方のブログでも下記にて取り上げているのだが、「天使」という概念は、日本人にとって、非常に都合のよい概念なのかもしれない。。。

死の境界の向こう側。。。文月メイ、「ママ」。。。
http://jinen.exblog.jp/21223476/

もう一点、非常に気になる事実がある。物語の中の事実なので、作者の意図以外の何ものでもないのだが、書き手が如何に操作しようとしても、操作しきれなかった事柄になるのだろう。
それは、「定められた目的の為に生きることよりも、もっと大切なことがある」ということに気づくということ。

人は何のために生きているのか。。。風の谷のナウシカ・考。。。
http://jinen.exblog.jp/16878881/

実のところ、イシグロ氏が物語の中心としておられる所とも重なるのだが、定められた目的は「臓器提供」であるものの、誰もそのために生きようとはしていない。また、日本のドラマでは「天使になる」も付随した目的と捉えられるが、誰もそのために生きようとはしていない。

「目的のある生態系・・・
その存在そのものが 生命の本来に そぐいません
 私達の生命は 風や音のようなもの・・・
生まれ
 ひびきあい
  消えていく」
(「風の谷のナウシカ」第7巻、ANIMAGE COMICS ワイド版、宮崎 駿、徳間書店、p.132)
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by kisugi_jinen | 2016-03-11 02:26 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その15。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その14。。。

原作に忠実なままストーリー展開された場合、「おぞましさ」という感性のみで出口が塞がれてしまう。
クローンが受け入れられるためには、魂・こころの存在を自ら明かさねばならないというのであれば、中世の魔女狩りでの神明裁判そのものである。
いや、他人ならばなおさら証明不可能である。

ドラマでの恵美子先生の言葉。。。
「あなた方は、天使なのです。」
心安らかに臓器提供を受け入れれば、神に認められると言わんばかりの誘惑。。。

確かに、死が確定し、どうしても逃れる術の無きクローンに、魂の通い合ったもののみが声がけしうる言葉としては、最善かもしれないが万能な言葉ではない。

その意味するところを考えるなら、「単に物質・クローンとして解体処理されるのでは無く、天使・クローンとして神に認められる」という捉え方が、しっくりくることだろう。。。
生から死の、正にその瞬間、神によって魂・こころを認められると言う幻想。。。

正に生きている時の「こころ・魂」は、他人によって認められるものでも、神によって認められるものでもない。

物語の最初から、主人公であるクローンに感情移入してきた読者や視聴者は、すでに分かっている。
彼らのこころ・魂の本質を。。。
相互に繋がり合うことの重要性を。。。

原書のラストは、イギリスという西欧にて受け入れられる物語でしかない。「聖書に書いてあるから」というレベルと同じである。

広島の中学生が、誤った記述に基づいた判断にて出口が塞がれて自殺した。

イシグロ氏のストーリー展開を凌駕する結末へと導かない限り、中学生の自殺問題と同じ過ちを、積極的にドラマ自ら肯定することになるだろう。

クローン、中学生に「誤った認識がなされたとしても、その中で、精いっぱい生きなさい」と、本気で言う立場を擁護するのだろうか?

「原書に書いてあったから」と。。。
。。。

2016.03.09 01:10 追記
個人的な見解にしかすぎないかもしれないが、当たらずとも遠からずと思っている。
原本にしても、イシグロ氏が意図した読み方では、読み解かれなかった。
だからこそ、イギリスにおいて高い評価を得たのでは無いのだろうか?
得体のしれないクローン人間が、ごく普通の少年少女として描かれ、成長し、悩み、友人との交流を深めていく。
そうして、ラストに、「得体のしれない」の根拠として無意識のうちにイギリス人の根底に刻み込まれている部分が暴露される。

西洋一神教系における、「魂」という知的概念。。。
その昔、魔女を魔女と認定する際に用いられた神明裁判という知的戦略。。。

ストーリー展開の如才なさに、知らず知らずのうちに情的に感情移入させられ、最後の最後に、知的なカウンターパンチを自らの脳天に打ち下ろさざるを得なかったというのが、真相なのではないのだろうか?

ストーリー内部では、少年少女が大人になる過程で、伝聞情報の誤解について、魂の通じ合った者同士が真相へとたどり着く過程が織り込まれている。
このことは、まさに伏線となって読者の魂の琴線に響いたことだろう。
クローン・臓器移植といった知的レベルでの認識以上に、相互的な交流が主体となる心情的な側面の深く・広大な問題について。。。

物語をそのままそっくり、日本に持ち込むことは不可能である。

日本のドラマが「真実(まなみ)」という人物を投入し、クローン人間の自殺という究極の境界ギリギリの選択を行わせた以上、カウンターパンチは国境を越えて、「自殺を禁じる一神教圏」への喉元へ食い込んだことだろう。
そうして、さらに、日本文化における自殺の背景と、物語原本での「生きる」という積極性とのギャップが、クローンの成長と魂の成熟過程に絡み込む。。。
全てを抱え込んだ状態で、ラストの2話の展開が原本通りであったなら、カウンターパンチはドラマの制作もとに落とされるかもしれない。。。いや、このような文書を書いているこのブログに落ちるかもしれない。。。くわばらくわばら。。。


2016.03.09 01:51 追記
「魂・こころ」の存在証明が不可能な理由。。。その2。。。
本ブログの随所に書き込まれているはずであるが、ここに明記しておく。

「魂・こころ」は、相互に影響しあう者同士のはざまに立ち現れる。いや、相互の心の鏡に投影されるというべきか。。。
たとえ、相手が「物」であってもである。
したがって、「クローンに魂などあるはずがない」と思い込んでいる人々がいたとすれば、そのようにしか映し出されない。
一神教が排他的であればあるほど、この問題の根底部分は、解決せずに、残り続けることだろう。。。


2016.3.13 04:40 追記
ネット検索していると下記のURLが引っかかってくる

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/think/thk029.html
佐倉哲エッセイ集 思索ページに関する来訪者の声
Junさんより 2000年12月22日 クローンとキリスト教倫理

非常に参考になる。
もし人クローンがでてきたとしても、キリスト教圏では法的整備が為され難くなる危険性が極めて高いといえるのだろう。。。

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by kisugi_jinen | 2016-03-08 23:13 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その14。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その13。。。

日本人の多くは、優れた感情移入の能力を持っていると思う。しかしながら、イギリス人に、そういった能力がない訳でもないだろう。
そもそも、生殖能力を人為的に排除するといった、物語固有のバックグラウンドでもない限り、生まれ育った人間とクローンとを区別することが本質的に不可能であるにも関わらず、物語を成立せしめるために、両者の交換不可能性を確立せしめる強固な境界線を布石した作者。
車を運転することも自由にでき、高度な知識と情を必要とする介護もこなす。原作では、輪廻転生の話まで自由になされている。
法的な縛りもない。
ただクローンだということだけで、「蜘蛛を見るようにおぞましい」と、誰もが共通に感じることのみで区分される存在。
日本的な感性からは、決して理解不可能な設定条件。
強力な宗教的な背景こそが、両者の交換不可能性を成立せしめる。そこに置いては、仏教も輪廻転生もヒッピーも同じ穴のムジナレベルとしか見られない。
次回、恵美子先生が彼らに何を話そうとも、舞台設定を覆すような話には決してならないだろう。
どうせなら、「イシグロ氏によって、いや、(一神教の)神によって設定された条件を、覆すことはできないのです」とドラマの中で威厳を持って言い切って頂く方が良いのかもしれない。。。

ファンメッセージにても、ドラマの設定上のどうしようもない事務員、医者、医療スタッフに冷たい視線が投げかけられる。彼らも被害者である。最後の場面にて、被害者の全員が一丸となって、制度廃止の支援者として、立ち上がるストーリーにすべきだろう。

たとえ無理だとしても、少なくとも憲法や法律をも凌駕しうる力レベルでの説明が必要だろう。
何人たりとも分かつことの出来ない魂と魂の結びつきを「クローンには魂が無いと言われている。」とか言った伝聞情報のみで、簡単に断ち切れるのだろうか?

何度か記述してきたが、知的・論理的レベルに頼る「【こころ】や、【魂】の存在証明」は不可能なのである。

西洋では、魔女では無いことの証明のために、確実に死ぬことをあえてさせると言ったことが、当然のように行われていた時代があったという。

そういったレベルでのみ、クローンの、いや、人間の魂の有りようを評価しうると、本気で思うような人間に、日本人もなりつつあるのだろうか?

交換不可能な崇高なアイデンティティを有する級友を、自殺に誘い込む、交換可能な「精神的クローン」達。
「自殺などできないくせに、出来たら認めてやる」と言った状況を作り出している現代社会は、中世の暗黒時代に似通ってはいないだろうか?

彼らが反抗しようと、与えられた生を限界まで行きようと、物語の設定条件はびくともしない。
イシグロ氏は、運命として、そういった設定内をいかに生きるのかに、主題を置いている。
彼らが行うべきは、魂の有無とか、心の有無とかを証明することではない。

残りの二話。。。

どの様に進行するにしても、終了後、個々の視聴者の「こころ・魂の問題」として、引き継がれ無ければならない事だけは確実だと思っている。
。。。
いや、人類にある種の疾患が蔓延し、全人類の生殖能力が失われ、クローン技術とデザイナーベイビーに頼らざるを得ない状況を想定すれば、良いのかもしれない。
恵美子先生などは3,000年生き続けてきたとか。。。
優秀な医療スタッフはエリートの遺伝子を用い、提供者には、貧しい人々が切り売りしている細胞を用いていると。。。
全員が数種類のクローンであれば、血液型や免疫適応なども気にすること無く、相互の臓器移植は簡単になるだろう。
でも、そうなれば、似た顔だらけで気持ち悪いだろうな。。。
。。。
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by kisugi_jinen | 2016-03-07 23:55 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その13。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その12。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その6。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。ドラマ。。。

このドラマにて子役である鈴木梨央が第8話で再登場する場面があるが、恭子がいくら問うても答えを得られなかった「名前」。
実のところ、名づけの重要性こそが、「アイデンティティ・交換不可能性」の最初の一番重要なポイントであろう。

第6話での真実(まなみ)の最後の言葉、要約すると「提供のためだけに、家畜同様に作られたのなら、いっそのこと、考えない様に作って欲しかった」は、皮肉にも、会話・言葉を発することの(ほとんど?)無い=コミュニケーション能力を欠如させた施設を、より多く増やすことに繫がっているといって過言ではない。
そこにおいては、クローンはよりクローンらしく、名づけ無く・アイデンティティ無く、交換可能性のより高い状態が維持されようとしている。

ドラマ化にあたり、考え抜かれて挿入された真実(まなみ)のシーンであろうが、皮肉にも、原作での内部矛盾を露呈させる方向性を有している。

原作においてもそうなのだが、そもそも、介護人という制度自体が猶予に該当している。原作でも「より良い介護人だからといって、提供までの期間が長いということは、決してない」とされているのだが、クローン外部の人間界を設定しているのなら、制度を維持するうえで「よりよい介護人は、より長く介護人として勤めさせる」ことが非常に重要であることは、明らかである。

そもそも、よりよい介護人になるには、コミュニケーション能力に優れ、いたわりと友愛を有していなければならない。
このことはすなわち、「より人間的でなければ務まらない」=「アイデンティティ・魂を有する」と同等である。
イシグロ氏が「介護」ということを軽んじていたとは決して思ってはいないのだが、物語全般を下支えする制度として捉えるなら、たとえ介護対象が「魂を持たない」クローンという設定であったとしても、「介護」の重要性の根底には、「愛情・人間性・魂と魂の繋がり」といった根源がある。

そういったところが維持されえなくなったとき、老人ホームでの転落死事件が発生してしまう。

クローンがクローンを介護することを(自らの意志で)放棄するまでもなく、家畜同然のレベルで育てられたなら、クローンはクローンを介護などできなくなるということである。

原作にしても、ドラマにしても、設定上、最終的には介護人という制度をおろそかに扱うことへと向かっていることは明らかであり、より、良質な臓器を得ることのできなくなった人間界は、滅びの道を進むことになるのだろう。。。
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by kisugi_jinen | 2016-03-07 03:45 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その12。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その11。。。

以下、ファンメッセージに「パンドラの箱。。。」として昨晩投稿したものに該当する。

イシグロ氏の原著では、ヒューマニズムの成長と根底を炙り出すためだけに、生殖機能を奪われたクローンが自らの臓器を提供しつつ解体され、提供開始前のクローンにて介護されるという設定がなされたが、成長する子供たちに合わせ、読者の視線に対し注意深く、頃合いを見計らいながら、適度に明かされる仕組みとしていた。
しかしながら、テレビドラマは、途中から受動的に見てしまうことも多い。
そう、パンドラの箱が開けられる瞬間である。
時折、ネットで目にする「おぞましいものを見てしまった」系の拒絶反応は、まさに、イシグロ氏が伝えたかった「大切な過程」を完全にすっ飛ばし、「恐怖」というパックリと開いた赤い口に引きずり込まれてしまうからだろう。
パンドラの箱に最後に残る「希望」を見つけ出すには、あらゆる禍を、箱から叩きださねばならないのだろうが、このドラマを見て、臓器移植やクローンや医療や警備の本質を見誤って恐怖する人は確実に増えるだろう。
少なくとも、自分たちの知らない部分に恐怖する人々が正しく深く考えることのできるよう、ホームページから正しい情報へのリンクを張り巡らせるべきだろう。


今回のようなドラマ固有の問題は、「明日、ママがいない」等のドラマにおいても見受けられる問題ともいえる。
境界概念。。。幅の変動。。。その1.。。。

「パンドラの箱」を中途半端に開けたら、「希望」すら見出すことができない。
東日本大震災での被曝問題もそうである。

臓器移植やクローンの問題については、正しい知識を持つべきだろう。そういった知識や問題意識なしには、見るべきドラマではないのかもしれない。

大阪大学文学研究科/文化形態論専攻/臨床哲学および文学部/倫理学
浜渦辰二(はまうず・しんじ)氏のサイト内リンク集は、広く深く、よくまとまっている。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/hamauzu.html

「クローン人間」リンク集
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/link/clone-links.htm
「脳死・臓器移植」リンク集
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/link/noshi.htm

2016.03.06 09:10 追記
上記のリンク集は少し古いため、リンク切れも散見される。随時、追加予定。
あと、関連する書籍リスト

中島みち 「尊厳死」に尊厳はあるか
岩波新書、2007.9.20

いのちの選択
岩波ブックレット No.782、2010.5.7

福岡伸一 生物と無生物のあいだ
講談社現代新書、2007.5.20


2016.03.13 04:00 追記
夢の再生医療を実現する iPS細胞・第2版
別冊Newton. 2012.10.15

クローン・臓器移植に関する情報は、現代社会のネット上にて比較的良質なものを入手しやすくなっている。
イシグロ氏が当初、原書を記述した時点から比べると、法整備も進んできている。

ただし、「人クローンを作らない」という制約レベルである。制約を守らない組織にて生み出されてしまった場合に対処しうる法律は、現状ない。

しかしながら、受精卵ないし胚レベルでの操作の後、子宮にて育てなければ、生まれてくることはない。
操作の段階以降は、母体との間で相互に育まれ・出産という自然な現象を経て生命体として生まれてくる。

元になる細胞や核、遺伝子をどこから取ってくるのかによって、様々な制約が課せられる。
ESなのかiPSなのか。。。受精卵なのか体細胞なのか。。。
体細胞ヒトクローン胚までは成功している(2001.11.24、シベリ博士ら)が、肺の分裂は6細胞までで止まってしまったとある。体細胞ヒトクローン胚ES細胞を作成したという報告はないとのこと。
また、細胞内の遺伝子レベルでの若返りがなければ、体細胞からであれば、テロメアによって寿命が短くなっている可能性がある。


2016.03.29 02:30 途中文が途切れていたところがあり、ここに移動し追記しました。
キリスト教を含め、一神教圏では、過去からの人種差別の根源に、(神を)信じている自ら達が、理解不可能な人種や民族や生命体を、(自ら達が)信じている神が認めない限り(あるいは聖典に記述されていない限り)認めないという風潮があった、いや、あるようだ。それゆえ、自然な有性生殖に基づかない、無性生殖そのものであるクローンにて生まれて(産まれて)くる生命体には(神に認められた)魂が入っているかどうかという判断を先送りし続けざるを得ない。イシグロ氏が原作で描いたラストは、まさに問題の根底を「先送り」しつつ、生きていかざるを得ない、境界(教会)外部の生命体の宿命を如実に物語っている。

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by kisugi_jinen | 2016-03-06 07:09 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その11。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その10。。。

交換可能性と不可能性。。。

美和は人とクローンの間を生きたといえる。

美和は美和であり、恭子は恭子である。

「恭子になりたかった」という言葉の裏には、
「(魂の認められないクローンではなく、)人になりたかった」という切実な言葉が隠されていると同時に
「美和というアイデンティティの本質を見失う寸前だった」ところを、自らの言葉で回復することを意味している。

アイデンティティという交換不可能な魂の根源を失うとき、人はまさに(人の)クローンと化する。
「入れ替わっても同じ」という交換可能性。。。

思い出の品、宝箱は、個人の記憶が消えても残り続ける、交換不可能なものであると同時に、関連のない他者からすれば、ゴミそのもの。

何がアイデンティティを成立せしめるのか?
思い出?
記憶?
いや、他者を含め、全体との関連性の中にこそ、アイデンティティが存在する。
そうして、関連性が一方的なものではなく、双方向的であってこそ、真のアイデンティティ・魂の根源が存在しうる。

「私を離さないで!!」

そう叫ぶ声に、わだかまりの全てを捨て去って寄り添う者を、何人たりとも排除することはできない。

それこそが、魂と魂の繋がり

他者によって決して証明されえない自らの、そうして、相互の心が相互に証明しあう「人間」としての尊厳。。。


2016.03.06 06:45 追記。。。
上記、ドラマ後半での、原作では婉曲的に表現せざるを得なかった部分に対し、おもわず記述したのだが、本ブログでのこのシリーズ2回目に記載した文章の後半に、密接に関連しているので、そのまま、再度記述しておく。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その2。。。

ここから ===>>>
このドラマに深く感情移入してしまう人や、逆に嫌悪感を抱く人、あるいは大したドラマではないと思ってしまう人がいたとしたら、そういった二面性を常に意識しながら、このドラマを最初から見直してみるべきだろう。

老人介護現場での老人と介護士との関係で生じうる諸問題、ヘイトスピーチ問題、民族的な意識の強さに基づいた相手国・国民への誹謗中傷行為、テロを正当化する宗教概念と空爆を養護する思想背景、あらゆる問題の核心が、この物語の背景には隠されているように思えてならない。

全員が排除しようとする時、たった一人でも受け入れようとする人がいる限り、その「寄り添いたい」という心情を踏みにじることは許されるのであろうか?

全員から排除されようとしている時、誰かに助けを求めようとする心情を踏みにじることが許されるのであろうか?

「わたしを離さないで」
そこに、心情的・知的・策略的・謀略的な意図が見え隠れしたとしても、気が付かないふりをして、そっと寄り添ってあげることができるのであろうか?

Never Let Me Go!
Could you stay in a calm frame of mind with the person who might not be so innocent but sometimes malicious ?

クローンを交換可能な物質と見ることが前提のありえない世界を想定した、ありえない物語と考えることなく、
また、クローン、いや人間ですら、交換可能な物質でしかないと見做したがるが故に、大した物語ではないと思うこともなく、二面性を担保しつつ、考え続けるべきなのだろう。

また、そう考え続けようとすることで、どちらかに偏りかけたときにも、自身の思いに寄り添い続けることができるのではないのだろうか?

Can you keep thinking within double standards without leaving yourself ?
<<<=== ここまで

今回の場面に対し、「おぞましい」と見る向きがあったようだ。

当然である。

吐き気を催すほどにおぞましいと思うのであれば、どうしてそう思ってしまうのか?の根底に立ち、現在の日本、いや、世界で繰り広げられている、吐き気を催すほどにおぞましい出来事の数々から目を背けることなく、考え続けるべきなのかもしれない。。。


2016.03.06 10:12 追記
別立てにすべきか迷ったが、ここが一番しっくりくると思い、追記しておく。
スターウォーズは、ほぼ万人に受ける映画であるが、ストーリー展開の途中から、クローンという概念が導入されている。
今や誰もが知っているとおり、敵の兵士の多く(トルーパー)はクローンである。
まさに、戦闘のために作られ、殺戮し、殺戮される。
そこにおぞましさを感じるか、感じないのか。

実は、この「おぞましさ」という感覚、イシグロ氏が原作での主題として「段階的に学習すべきこと」とも密接に関連している。
日本においては、「平成ガメラシリーズ」に該当する。
あるいは、正義と悪との境界概念が崩れ去った「仮面ライダー」シリーズや、「ウルトラマン」シリーズも該当するだろうか?
読み手、視聴者の視点と年齢層、成長という概念を十分に組み入れたメディアというものは、もはや望むべきものではないのかもしれない。。。

イシグロ氏がドラマ化に賛成したからには、ラストの2回に上述に関連する事項をぶち込んで欲しいものである。

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by kisugi_jinen | 2016-03-05 01:36 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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