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カテゴリ:つれづれ。。。( 244 )
ネット環境。。。プログラミング環境。。。思い。。。
以前にも書いたが、ネット環境、いや、状報空間(間違っても情報空間ではない)を取り巻く環境での境界の無さは半端ない。

水平的な方向では、SNSにて自主的に「仲間内」という制限を課すことが可能な位である。
垂直的な方向では、年齢制限といった制約は、個人レベルでアカウントを取得するまでの間と、ごく限られている。

状報の露出に制約が課せられない状況は、アイデンティティを保とうとする生存本能に依拠した「自己優位性」の担保と相まって、イースター島民の絶滅理論へと結びつきかねない。
「他者よりも優れたものを誇示しようとする」性癖は、雌の気を引く雄が優雅だという生物界の方向性にも見受けられるように、エスカレートしていけば、人類滅亡への序章になり得る。

昨今、気になるところは、製品を購入するか利用して欲しい側が、出来るだけ個人情報を吸い上げ、法に抵触しない範囲でビッグデータ等にて料理しようとする。それら状報(情報ではない)は、売り手・買い手の市場内で広がっていくであろうこと。
Windows10にアップグレードした時に、チェックを外したくなる多くの項目は、まさにそういった項目だろう。

以上を踏まえて、できれば下記の3項目は、同時に成立して欲しいものである。
#1.何ものにも気兼ねすることなく、何ものにも影響されることなく、自身の思いを吐露しうる環境を維持し続けることができること。
#2.なおかつ、そういった発信に対し、受信する側が、受信したくないような、過度な露出について、フィルターをかけることができること。
#3.さらに、一定の年齢層までは、閉じた状報空間内で、サブセット、ないしフルセットの環境にて、危険な行為を避ける練習をしながら、入っていくことができること。

#2と#3は、部分的に行われているが、不十分であることは上述した。

#1については、昨今ビッグデータの利用云々といった方向性にあり、難しい環境になっていると言わざるを得ない。うまく機能して、過度な露出(いや、見栄っ張りな露出)を避けさせる方向に働いてくれればいいだろうが、そういった方向性には働かず、(左右といった)偏った方向性へ、揺り動かすだけだろう。

これからそういった社会に入る人々は、是非ともネットや状報機器(情報機器ではない)を動かしているプログラムの「本質」を理解すべきだろう。
といっても、「全員、プログラマーになれ」というわけではない。

その「本質」を捉える必要があるということ。
少なくとも、「人工知能で万能」といった誤解を、ゲーデルの不完全性定理と共に理解しつつ、理解すべきだろう。
そうして、個人情報を保護しうる環境の脆さをも、体得すべきだろう。

社会の流れが破滅へと向かうとしても、あがなうだけの努力を地道に続けて欲しいものである。
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by kisugi_jinen | 2016-05-09 04:44 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
トランプ=大物政治家=大法螺吹き
実に見事な等号成立を見た。

反対勢力に「嘘つきテッド(lying’ Ted)」と言っておきながら、情勢が変化すると「タフで賢い男(a smart tough guy)」と手のひらを返している。にもかかわらず、当人は「嘘つき」とは呼ばれない。やはり「大法螺吹き=大物政治家」なのである。

いや、単に計算高いだけかもしれない。損得判断のみで動き、動かす。
過去の条約など反故にしてでも、自国の利益・国益を担保しようとする。

私のように政治に疎いもののところでも、政治臭さが漏れ出して来る程の大物である。
小物ばかりが食い合う日本の政治家で、太刀打ちできるものはいるのだろうか?

特定秘密保護法案 vs 特定秘密法螺法案。。。
汚染水問題という問題。。。
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by kisugi_jinen | 2016-05-08 03:24 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
ジブリの大博覧会。。。ナウシカの映画のポスターにマニ族僧正。。。
子供を連れてジブリの大博覧会に行って来た。
数年に一度、この手のイベントが行われるので慣れているため、集合場所を決めて、ほとんど素通りする家族を尻目に、一人きりでゆっくりと観て回った。
年々作り込みに手が込んで来ていている。今年はマーニーの実物大セットや洋館模型への複数のLEDライトを使った日照の変化が秀逸で、多くの観客が楽しんでいた。

今回の投稿目的は、そういった内容ではないので割愛し、本題に入る。

イベントポスター兼入館チケットにもなっている、風の谷のナウシカの映画のポスターなのだが、マニ族僧正が描かれていた。
b0032038_10343329.jpg


既に古いトリビアの類かもしれないのだが、驚いた。

ちなみに、マニ族僧正は原作(コミック版)では登場するものの、映画版では大ババ様が代役的となっている。
映画ポスター制作段階ではストーリーの作り込みが十分には出来ていなかったのだろう。
マニ族僧正を出演させないことで、ナウシカの精神世界の側面を完全にカットでき、映画として一話完結的にまとめることが可能になったと思われる。内部での決定までの論争が目に浮かぶ様な気持ちになってしまう。

✳︎背景ポスターを今回の大博覧会用に作ったポスターだと勘違いしている様な「教えて」系の書き込みを見つけたが、ポスター背景の画像部分には映画版上映当時のポスターを使っていることは、間違いない。
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by kisugi_jinen | 2016-05-04 22:10 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
生きること。。。
生きること
それが、如何にも困難なことだと思われるときほどに
生きること

死後の有無に関わりなく
他者の言動に関わりなく
世間の動静に関わりなく
生きること

ただ、それだけなのに

どれほどまでに
生き抜くことが難しくなったといえども

生きること

草木も 鳥も
空も 水も 大地も

変わらずに 生き続けているというのに

何を争い
何を自慢し
何にこだわり
何を避けるのか

生きること

ただそれだけなのに。。。
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by kisugi_jinen | 2016-05-04 04:16 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
上橋菜穂子とカズオ・イシグロ。。。
仕事の関係上、ドラマを見る機会も少なく、小説系の読書量も圧倒的に少ないため、世間で騒がれている有名どころの作品や、有名どころの著者に対する認識が、5年・10年単位でずれている。

そういったことも背景にあるのかもしれないが、偶然に、いや、おそらくは社会的な流れの中での必然として、(少なくとも私にってはそう見える)類似の作品群に出会うことがある。
どちらが先とか、どちらが後とかいったことではなく、重要なのは、そういった作品群が、私のようなもののレベルにまで、届いてくるということである。

テレビでの前宣伝に影響されやすいということもあって、クローン・臓器移植といった、個人的に興味深い題材を扱ったカズオ・イシグロ氏の「わたしを離さないで」(Never Let Me Go)のドラマについては、このブログ始まって以来の、ほぼリアルタイムでの連投をしてしまったのだが、間髪を入れずにスタートしたNHKドラマの「精霊の守り人」も、録画してみることになってしまった。

偶然(?)にも、両方とも綾瀬はるか主演という繋がりもあるが、個人的には、両方とも「初めて見る」作品群で、それぞれの局がたいそうな力の入れようだったので、興味深かったというのが真相である。
また、「精霊の守り人」について、ネット検索したら、「わたしを離さないで」同様、出版以外に別メディア(ラジオドラマ、およびアニメ)での露出がすでになされていたという、いつもながらの遅れという共通点も同じである。

無論、「わたしを離さないで」と「精霊の守り人」は、まったく異なるジャンルの物語なのだが、「精霊の守り人」から作者の「上橋菜穂子」を初めて知り、その繋がりで、「獣の奏者」を「再発見」したのである。

「再発見」というのは、二つの理由がある。一つには、自宅の書棚に、私の所有ではない状態で、数年前から「獣の奏者」の単行本・全4巻が並んでいたにもかかわらず、この連休に突入するまで開くことすらなかったということ。今回の一連の流れから、その背表紙に「上橋菜穂子」の名前を見つけたときには、少しばかり驚いてしまった。

実を言えば、「獣の奏者」は、今回のことが無ければ、おそらく5年、10年という歳月の後に「初めて見た」かもしれない程のものだった。確か、NHKのアニメでチラ見したことがあったのだが、架空の獣を扱う少女という設定だけで、いわゆるドラゴン物系の物語の焼き直し程度だと勝手に思い込んでいた(誤認していた)。この点において、二つ目の「再発見」である。

架空の生物が出てくる物語の多くは、背景設定上、空想の領域が広く、地に足がついていない世界の物語となっていて、そういった世界観に浸るまでの(時間的・心理的)抵抗が強すぎるという難点がある。
そういった理由から、ハリーポッターや指輪物語などの有名どころの冒険ファンタジーは、映画という短時間の縛りであるなら見ることはあるものの、多数の巻が整然と並ぶ壮大なスケールに圧倒され、読書してまで見たいとは、あまり思わないジャンルである。一冊程度になっているような、ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」なら、「読んでみようか」と思う程度のものであった。

にもかかわらず、連休の前半に、一気に全4巻を読み切ってしまった。

「獣の奏者」の前半2巻は、架空の獣が出てくるにもかかわらず、その部分だけをそぎ落としたなら、ファンタジー性がほとんど消失する程度に、現実的な描写が多いのである。後から追加されたという後半2巻は、残念ながら後付的な実情からか、いくつかの箇所で無理な描写を感じてしまうのだが、それでも、完全にぶっ飛んだファンタジー系とは異なっていて、なるべく生命という実体に迫ろうという作者の思いが伝わってくる。

「獣の奏者」にて非常に残念なのは、4巻のクライマックスにおける設定である。

読み進めていくにつれ、私が想像していたのは、人間を含めた生命間で引き込み合う感情の伝播による破壊であったのだが違った。そういったレベルでの人間との関係がラスト直前まで伏線として少しばかり記述されていたのだが、そのレベルでは人間は排除されていると言わざるを得ないし、(ほぼ)物理的に無理な設定のため、残念感が強い。「○○○○サンボ」のトラを彷彿とさせる設定だと思うのは、私だけだろうか?

書籍の著者紹介や、上橋氏に関するネット上の記事からも分かることなのだが、文化人類学という視点か、主たる基盤となって記述されていることが分かる。それゆえ、後半2巻を追加する段階で、読者の想像に任せていたクライマックスのシーンを産み落とすに非情な苦労をされたであろうことは、想像するに難くない。
細かな点では、「恐水病(症)」と「破傷風」を異なる疾患として記述してしまっているところが残念である。

さて、全2巻までの時点で言えば、カズオ・イシグロ氏の「わたしを離さないで」との共通点であるが、物語の一番大きな問題点(それがなかったら、始まらない)という根本的なところについて、触れない(明らかにしない)設定が似ている。設定について説明・解説を加えようと無理をすると、突っ込みどころが露呈してしまう危うさが似ている。上橋氏の場合、アニメ化時に突っ込まれたことで後半2巻を記述されたようなのだが、謎解きに繫がるクライマックスシーンでは、上述の通りである。

しかしながら、そういった根源的な部分を除いて、子供時代からの主人公の成長に併せて、自然と広がっていく世界観と、それゆえに編み込まれた、一つの事実に対し複数の視点・観点・考え方が交錯するという記述の多さに、共通する部分を感じるし、それらの個々の出来事を、非常に細やかに描写している点が似ている。
そうして、生命の本質に迫ろうとしたところが似ている。
片や、幼少期にイギリスへの移住という経験、片や、文化人類学という経験、複数の文化からの複数の観点・視点・思考方法の多様性を内在しているからこその記述なのだろう。

そういった意味で、同一の作品群として、私の中では整理されてしまった。
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by kisugi_jinen | 2016-05-02 03:19 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
浅ましさ。。。虚しさ。。。残された願い。。。
安全性は評価され難く、未来日にやって来るためか、昨今のグローバル化・規制緩和に後押しされて、様々な弊害、災害がもたらしつつ。。。いや、既にもたらされている。
コストダウン、入札。。。
下請け、孫請け。。。
ビルの基礎工事の安全性
航空会社をはじめとした運輸関連の安全性
日本の基盤産業の海外資本による買収
電力供給系の安全性
粗悪な工事によるソーラーパネル乱立による水害の危険性
切りがない。。。

安全神話の根底には、相互に心と心が通い合う日本人同士という神話が隠されていた。。。
子供達が夕方近くまで外で遊びまくる光景も消え、位置情報通知機能付の携帯を持参し塾通いとコンビニ以外、日常の街中では見かけることも少なくなって久しい。。。

政治のせいにし
官僚のせいにし
教育・教員のせいにし
親のせいにし
子供のせいにし
いじめっ子のせいにし
。。。
保身の技術は、皆が世間の目を気にし、ネットでの晒しを恐れることで、飛躍的に向上したのだろう。。。

保身のことを考える前に、考えずに済む様な社会へと変わっていくべきではないのだろうか?

2016.4.3 19:10 追記
人類は、長い歴史をかけて「未来を予測する」ことの重要性を認識し、その為に知恵を使うことを身につけて来た。。。
にもかかわらず、安全性が崩壊しつつある。
目先の利便性に気を取られ、将来への連綿とした繋がりを保証しうる「安全性」が奪われるならば、人類が自滅への道を歩み始めたといって、過言ではないだろう。。。

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by kisugi_jinen | 2016-04-02 15:41 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
閉じた人工知能。。。開かれた心。。。
Microsoftの人工知能・チャットボット「Tay」の暴言ニュース。。。
言葉という記号のみに知的基準を置く限り、この手の人工知能に未来はない。
人間が暴言を吐くことを躊躇するのは、言葉だけに依拠していない。

人間として
産まれ
親や兄弟、近所の悪ガキ、友人、学校の仲間。。。
ありとあらゆる繋がり合いの中から
心と心の共鳴を感じ取る。。。
魂同士の触れ合い。。。

どんなにひどい言葉であっても、どんなに素晴らしい言葉であっても。。。

繋がりあっている人々の
その心の思いが
その温もりが。。。

開かれた心だからこそ。。。

所詮、閉じた世界に埋め込まれている人工知能如きには、バックグラウンドの数値やアルゴリズムを越える術が無い。。。
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by kisugi_jinen | 2016-04-01 23:29 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その23。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その22。。。

実のところ、原作においても非常に重大な問題を孕んでいたのだが、ドラマ最終話で明らかになった転機がある。実は、第9話にてすでに伏線が敷かれていた。

恵美子先生が病院にて、主治医と思える医者から、「提供を希望されますか?」と聞かれるシーンがある。最初、恵美子先生がクローンとしての提供者として、「任意性に基づき、提供をされますか?」と聞かれたのか?と、思ったのだが、そうではない事に直後に気づいた。恵美子先生の拒否は「クローンからの自身への提供の拒否」であった。

クローンを擁護する立場にいるべきクローンだからこそ、当然の拒否であるべきなのだが、歳を取ってこれ以上長生きしても仕方がないと拒否する人々が増えているとのことが、最終話でなされる事への伏線でもあった。

この為か、結局、恭子の元には、赤紙が来なかった。

最終話の直前(と言っても19:12)にファンメッセージに書き込んだ内容を、こちらにも転記しておく。

あれだけ大量の(いや、大人数の)クローンが、日常的に必要な理由は、恐らく明かされないのではないのだろうか?
クローンですら、手術の傷が痛々しく残る程度の医療技術。。。

もしかしたら、移植されるはずの臓器の大部分が適応不可となって、大量に処分されているのではないだろうか?
処分先は考えたくも無い。。。

恭子(原作・キャシー)の視点からの物語の限界。。。
物語を真に成立せしめるだけの条件を推察しようとする視聴者心理に、どれだけ応えられるのだろうか?

まだ、荒唐無稽なドラマだったら良かったかもしれない。。。
リアルに日本の近未来的な情景へと落とし込もうとした事が、最終的にどのように評価されるのだろうか?

少なくとも、普段、ドラマを真剣に見ようとしない私を、これだけ引きずり込んだ事実は否定のしようがないのだが。。。


日本でドラマにする事を決定した段階で、余剰クローンという事は、織り込み済みだったのかもしれない。

提供開始の通知が「赤紙」にて重ね合わされていた様に、「終戦」に該当する事態を重ね合わそうと策が練られた可能性が強い。
戦争が、多くの伝聞情報にて混乱する事とも重ね合わされる。

始める事より、終わらせる事の難しさ。。。
ある物語を思い出す「真夏のオリオン」である。

今回のドラマは、最終話にて、イシグロ氏の抱えていた問題の核心を、日本の土壌にて、しっかりと受け止め、小さいながらも希望の花を咲かせたのかもしれない。

2016.03.21 09:20追記

真夏のオリオンについては、本ブログにて以前取り上げている。
「事後からの視点」だからこそのストーリー展開。。。

真夏のオリオン・風の谷のナウシカ・終戦のローレライ。。。
http://jinen.exblog.jp/13418874/


2013.03.23 00:48 追記
この物語に、重ね合わされるべき、重要な真実と物語を挙げておくのを迂闊にも忘れるところであった。決して忘れるべきではない真実と物語。。。
ハンセン病に関する真実と様々な物語である。

「わたしを離さないで」原作では非常に注意深く、キャシー(ドラマでは恭子)の視点から「決して離れる事なく」伝聞情報の脆さと、伝聞情報の中で、精一杯生きようとする事の日常的な難しさが淡々と書き綴られているのだが、特に原因や治療法が解明した後のハンセン病の問題の大部分は、まさに伝聞情報の問題そのものの悲劇でもある。

ドラマでは、完全には、恭子の視点のみからの記述が困難だったためか、物語内部の矛盾を伝聞情報に起因するものとして処理し切れていないように思える。というより、真実(まなみ)のサイドストーリーの場面ですら、恭子の伝聞情報に基づく脳内イメージ(半ば想像)であるとすれば、ドラマとしての物語の内部矛盾のほとんど大部分が消え去ると言って過言ではない。

*ハンセン病に関して言えば、新約聖書に軸足を持つキリスト教の一部に救済しようとする教団も存在したようだ。

2013.04.01 04:35 追記
*3/30 23:07にファンメッセージへ投稿したものを一部修正して、こちらへも記しておきます。
先日解決した中学生の誘拐事件は、ハンセン病と並んで、この物語の本質を理解するのに重要な視点を与えてくれることでしょう。。。

絶望と希望の狭間。。。
原作でのキャシー(恭子)という1人のクローンの伝聞情報に基づく視点に絞り込むことが困難なドラマという特性にも関わらず、飛翔し過ぎずに終えることで、ある程度の問題を回避できた様に思える。
しかしながら、クローンと「外部」との境界を緩める方向性は、逆説的に物語の設定条件・背景の異様さを認識させる方向へと誘導することとなってしまった。

先日、2年ぶりに誘拐犯の元から逃げ出した少女。

彼女が逃げ出そうと思った理由の一つに、犯人にて遮蔽されて「外部」となってしまっていた父親の、助けたいという思いが伝わったことにあると言う。
「外部」から見放されたという犯人からの伝聞情報のみに基づいていたなら、一生そのままだったかも知れない。

余剰クローンが提供することもできず、働くこともできない状況で物語を終える。。。
提供と介護以外の職を奪われている物語での設定条件。。。
病院での贅沢な個室、質素だが確保されている衣食住。これらが、音を立てて崩れて行きかねないことも、現実として受け止めなければならない。ドラマの構成では、何らかの立法の保護を受けていたという状況も否定できないのだが、もし、そうであったならば、公務員に対する昨今の世間の対応から類推するだけでも、ドラマの中での余剰クローンの今後は、とんでもなく悲惨であろうことは、想像に難くない。しかも、生殖能を生れながら(代理の子宮から産まれながら)奪われているのと同様に、抵抗性もかなりの確率で奪われている様であるから。。。
飼い慣らされたカナリア。。。物語の中のクローン。。。その共通点が見え隠れする。。。

破滅的・絶望的な未来が予測できるにも関わらず、視聴者に希望の光を感じさせるのは、(視聴者を含めた)「外部」との間に、魂同士の繋がり合いを感じさせるラストだったからなのかもしれない。。。

2014.04.01 05:50 追記
上記事項を書いた以上、もう一点、書いておかねばならない。開けられてしまったパンドラの箱は、希望以外の、あらゆる災いを出し切る必要性がある。。。
と、その前に。。。真実(まなみ)の事件で、明らかになった様に、警察や司法が制度を維持する立場にある以上、何らかの法的整備がなされて公金が注ぎ込まれていることは確実だろう(が、これも類推の域を出ない)。このことは、一連の投稿中に記載しているのでこれ以上は触れない。
余剰クローンの介護以外での職業が許可されたとき「失われた世代(lost generation)」以上の問題を生み出しかねない。急激な境界の撤廃は、別の意味で自然発生的に境界を生み出しかねない。
ドラマが開けたパンドラの箱に希望の光を見いだすには、とてつもない災いの種を掻き分けなければならない。にもかかわらず、希望の光を感じさせる、感じざるを得ない状況が、今の日本だということの方に、驚くべきなのかもしれない。

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by kisugi_jinen | 2016-03-20 08:45 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その22。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その21。。。

最終話。。。
まずは期待を良い方向に裏切った内容に感謝。。。

イシグロ氏の原作から逸脱しないようにしつつ、ギリギリの攻防・葛藤の結果が結実したと言える。
しかしながら、懸念される多くの余波は、物語の構成限界故に、「外部へ」と向けられる。

クローンと外部という強引な二分法は、踏み込んだ内容を描こうとすればする程、境界線上の人々を二分する方向に向かう。

原作では病院や医療スタッフに関しては踏み込んだ記述は皆無だが、ドラマでは頻繁に行われ、視聴者側が外部であるにもかかわらず、あたかも二分法の諸悪の根源のように、視聴者側から、あからさまに責任をなすりつけられざるを得ない立場として描出される。
物語を効果的に構成するためにクローンの介護人という立場の恭子に辛く当たれば当たる程である。

原作では、クローンは外部から「蜘蛛を見るようにおぞましい」と感じられ、外部である校長とマダムからも強力な排除感覚が告げられる。原作の世界では外部の共通認識として強力な境界線を構成している。それ故に、境界を排除しようとする試みは、外部民衆の心理から消極的になり忘れられようとせざるを得無くなる。

一方、日本での今回のドラマでは、原作同様、法的拘束力には全く触れてないのだが、システム的に医療スタッフと事務員を統制し得る「何か」強い外部からの圧力を想定せざるを得無い状況に仕立て上げられている。また、提供を受ける側も、強制的な提供者としてのクローンの存在を知らない人が多くいるという設定に変えられている。校長の恵美子先生をクローン側へと移動させた事もあり、原作での「感覚」のみによる二分法の基盤そのものが、背後に押しやられ、消されようとしている。

結果残るのは、矢面に立たされてしまう医療スタッフと事務員である。背後にある強制的な「何か」は結局明らかにされないが、ヒントは「信実(まなみ)」のサイドストーリーに隠されていると考えるべきだろう。憲法はそのままでも、警官や刑事、機動隊という司法も動き得る「何か」だからである。

原作では宗教的な魂の概念を想定すれば理解可能だったのだが、現代に近い日本という設定でのドラマの版では、「何か」は法的拘束力以外、考えられない。「金銭」「権力」単独も候補に上がるが、あれだけのシステムを、全国レベルにて構成するには限度がある。

で、そんな法律を、憲法や基本的人権に逆らってまで成立せしめるだけの条件・状況。
でもクローンという概念や存在を知らない間に、無知と誤解と偏見が民衆を支配している間に、「金銭」「権力」を駆使し、病院経営者と政治家が結託すれば、何とか成立せしめることができる様にも思えてくる。

「やはりそこか!」となるのだが、これって何かに似てる。そう、思い出した。。。
「お主も悪よのう。。。」

時代劇の勧善懲悪という二分法の世界観そのもの。。。
時を超えて、近未来的に生まれ変わった時代劇そのもの。。。
遠山の金さんはいないけれど、力を無くした御隠居、校長と、助さん、格さんとしての、元教員達。
信実に気づき始めた大衆代表の被提供者達。
日本の心情に落とし込むためには、そこしか無かったのかもしれない。。。
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by kisugi_jinen | 2016-03-19 04:44 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その21。。。
わたしを離さないで。。。Never Let Me Go。。。その20。。。

原作があり、映画にもなって、ストーリーの大半と結末のおおよそが分かっているにもかかわらず、これ程までに最終話を見たくなるドラマもない。

物語を成立せしめている分断が、純粋に感覚に基づき、かつ、決して証明され得ない「魂・心」の存在の有無に基づいている事も大きい。

「そんなの、常識でしょ」

そういって早々にあしらいたくなる分断基準。

常識:「境界の無さ」=「魂・心がクローンにもあって当然」という事なのだが、恵美子先生をも、クローン側に仕立て、「魂はないことにされている」と言わしめた為、成長した主人公達と共に「常識だろ」と詰め寄る先を見失ってしまう。あとは人間だとされるマダムや他の先生方に、詰め寄らざるを得ない。
子供達にとって、同胞の教員に裏切られ、出口を塞がれるのは、余りに救いが無いとも言える。
原作の方が逆説的に救いがあった。責める先が目の前にいた。が、「なぜ?」と何度も責め切れない。。。
ドラマではマダムがいたが責め切れない。。。
それこそが、相手の心を慮る(おもんばかる)という、最高の魂・心の状態だと、どうして恵美子先生は、教えてあげれないのか?
最終話の構成如何によっては、本当に救われない物語になってしまいかねない。。。

。。。。。。

「いや、私も実はクローン」、「え!俺も実はクローン」と、雪崩を来すように「クローン宣言」が次々続くと面白いかもしれない。しかも同一のオリジナルからの単一のクローンで、性別・容姿のみ無数に変える事のできる薬を、生殖能力を奪う際に子宮提供者の中にいる間に投与されているとか。

そうすれば、拒絶反応を意識せずに済む。

本来の人類は、生殖能力を欠いたクローンの大量発生にて、ほとんど絶滅したのだが、一人だけ生き残っていて、人類存続の為、クローン自らが、希少種保護の為に、自らの臓器を何千年と無く提供し続けているとか。。。

クローンにも「魂・心」のある事は常識なのだが、クローンにも格差社会が構成され、弱者のクローンからの複製については、「魂・心」は無いものとして扱うことに、皆が納得したとか。。。
。。。。。。

この物語の最大の欠点、いや、最大の功績は、生殖能力を欠いた臓器提供者を構成するだけで成立するバックグラウンドに、不用意に、いや巧みにクローンを織り込んでしまった事にある。

本来問題とされるべき、「境界の無いところに境界を発生させる」事を、あたかもクローンだからと言う隠れ蓑にて「差別は常識だろ」と、一瞬でも思い込ませつつ、「あれ?それって問題じゃあ無い?」と逆説的に考え込ませる手法が用いられていると言って、過言ではない。

しかも、主人公達の視点から逸脱することなく、決して俯瞰的な構図を取る事もなく、視聴者・読者は、主人公達と同一の地平から共に考えざるを得ない構成。。。

物語の全体が伝聞情報で構成され、ドラマでは真実を握る鍵を恵美子先生からも奪っている為、最終話まで引っ張り続けている。

そういった罠にはまり込んでしまった人が見るべきドラマなのだろう。
ドラマでは、そういった人々を救う出口を構成して欲しい。。。
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by kisugi_jinen | 2016-03-17 02:40 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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