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カテゴリ:つれづれ。。。( 244 )
クリスマス。。。再々。。。
結局。。。

うちのカミさんの圧倒的な力もあって、「サンタさんからのプレゼント」という設定が、既に息子の中に確立された後でもあり、混乱させるのもどーかということもあり、「情」をあつかいながら「知的」に切って捨てようとしているのは私のほうかもしれないし。。。と、言い訳(感情に対する知的な理由付け)をつらつらかきつらねつつ、受け入れてしまわざるを得ない今日この頃。。。

でも、プレゼントたるもの、本来的には何らかの「思い」がこもったものであるべきはず。。。なのに。。。

(良くないと知りつつ、)
「そんなことをしてると、サンタさんからプレゼントがもらえないよ」
とか、
「良い子にしていれば、サンタさんからご褒美がもらえるよ」
とか、
そういった「取り引き材料」に使われてしまいがちなのも、事実。。。

うがった見方をすれば、不自然にそういったことを避けるのではなく、「どうして親ってそんなにバカなんだ」ということで十分かもしれない。。。

要するに、本人が経験し得ないことには、そういったこと、さらには「いる・いない、ある・ない」を越える力すらもてないのではないだろうか。。。

○○が得られるから□□をする
という受動的な経験があってこそ、
○○が得られようと、得られまいとにかかわらず、□□をする。
□□をするということそのものに、意味を見出す。
という能動的なものへの転換が深い意味を持つのかもしれない。。。
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by kisugi_jinen | 2004-12-21 02:06 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
あくび。。。
あくびは何故うつるか。。。
今日、といっても、昨日夜になるが、200X特命リサーチで、「親切な人ほど、共感しやすく、うつり易い」という報告であった。
3~4歳の園児にはあくびをしている状態のビデオを3分間流しても誰もあくびをしなかったのに、小学生高学年以上の年齢層や、チンパンジーでは、見事にあくびを引き起こしたという。
あくびのうつり易さと共感しやすさが関係しているとは、驚きであった。
で、元ねた関連が転がってるであろうとネットで調べてみた。。。

あった、あった。。。
http://plaza.rakuten.co.jp/aftermidnight/diary/200407290000/
http://amor1029.exblog.jp/530553/
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/pub/img/asahi20041106.html
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/pub/hope2004-4j.html
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/pub/img/yomiuri20040724.html
他、同日の他新聞画像複数

う~~~んんん。。。見落としていた。。。

ただ、「共感しやすさ」を「知性の発達」としているのには「?」である。「情の発達」とすべきだろうと思うのは、私ぐらいか。。。?
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by kisugi_jinen | 2004-12-20 03:48 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
親の情の一つの表れ。。。
この間、ちょっと、興味深い光景に出くわした。。。
私も、少しばかり関与しているのだが、そのことは後回しにして。。。

休日、私の仕事は、息子をショッピングセンターの子供の遊び場に連れて行くこと。
おとなしい我が子は、おもちゃで遊ぶか、友達をつくっては「ごっこ遊び」をしている。
遊び場で、3人の子供たちが走り回っていた。我が子も、あそこまでハチャメチャに暴れまわる日が来るのだろうと思って、ほほえましく見ていた。
で、3人の内の一人が、見覚えのあるのに気付いた。母親も一緒に来ていたのだが、その母親にも見覚えがある。
そう。。。あれは数ヶ月前。。。
その男の子は、やっためたらに○○マンや○○レンジャーなどの正義の味方もの系のノリで、「とぉー」とか「とりゃぁー」とか「ぷしゅー」とか叫びながら、パンチ・キックを繰り出して一人遊びをしていた。そうして時々、母親にも相手をして欲しいのか技を繰り出していた。母親の方は、適当にあしらっているという感じで、きつく蹴られたりした時に「痛い」と顔をしかめる程度で、やられっぱなしだった。
その男の子が、兄弟と思しき二人と遊んでいる。以後、男の子をA君、兄弟の兄をB1君、弟をB2君とする。
B1君は、あきらかにA君よりも年上である。3人が遊んでいるのを途中から見ているので、それ以前の状態がどうであったのかは、不明であるけれど、私が見始めたときは、仲良くふざけあいながら一緒に走り回っている状態であった。
そのうち、A君が一方的にやっつけられ始めた。B1君がA君の技をくりだす手をつかんで、いとも簡単にひねり転がす。転んだところにけりを入れまくる。固めのスポンジのブロックを投げてぶつける。子供のことなので、とんでもない怪我をするほどではないにしても、2対1であることには変わりがない。A君よりも確実に弱そうなB2君も、悪魔的なへらへら笑いをしながらやっつけにかかっている。
時々、A君は母親のところに行って「痛いよ~」といったり、少しばかり涙をながすこともしばしば。。。母親は、「痛いの?、そう。。。」といって、悲しそうな顔をしてさすってやる程度で、どれだけやられていても、A君が母親の元に駆け込まない限り、割ってはいるなんてことは決してしない。。。
そのうち、また3人が仲良くいっしょに遊び始めた。
A君が帰る少し前、また、A君が一方的にやっつけられ始めた。固めのスポンジのブロックが顔面を直撃する。A君はほっぺたをさすりながら、今にも泣き出しそうにして、母親の元に駆け込む。繰り返し「痛いよぉ~」というA君に、母親は、「痛いからやめてって、言っておいで」と、A君に伝えた。A君は、走っていって、「痛いからやめて!」、「痛いからやめて!」。。。「痛いからやめて!」と、3回繰り返した。
母親の元に返ってきたA君は「痛いからやめてって、言ってきた」と報告したあと、母親に連れられて帰っていった。
「痛いからやめて!」と言われ続けていたB1君は、ブロックを抱えながら、柱にもたれかかり、少しばかりの笑みが、多少こわばりを保つ程度に戸惑っていた。
A君が帰った後、B1君は私の横においてあったジャンパーを引っ掛けながら、既に立ち去ってしまった遊び相手の方角に、さびしげな目を向けていた。私は悲しげな視線を送るだけで、言葉をかけることができなかった。

私は考え込んでいた。。。
もし、私がくだんの母親だったら、どうしただろうか。。。
「痛いからやめてって、言っておいで」と言えたであろうか。。。

B1君とB2君の母親が迎えにきた。
どうやら、買い物が終わったようだ。
二人の顔からは、A君と遊びまわっていた時の楽しげな表情は消えていた。
こんど、3人に合うとき、どんな関係を見せてくれるのだろう。。。

。。。そうそう。。。私が関与したこと。。。
「何もしないで見ていた」というレベルで関与していた。。。
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by kisugi_jinen | 2004-12-19 03:19 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
クリスマス。。。再び。。。
前回、クリスマス。。。
で、我が子に対する「クリスマス」の扱いを考えあぐねていた情況を書いた。。。

最初に断っておくが、私はクリスチャンではない。

で、キリスト教の信者であろうとなかろうと、3歳の子供に、親が買ったものを「サンタさんがプレゼント」といって、「嘘」をつくことが許されるであろうか?

そういえば、先輩は、「お父さんがサンタさんだよ」と、堂々といってのけたということである。

で、考えた。。。

「サンタさんは一晩の内に世界中の子供たちにプレゼントを配らなければならないんだけれど、たった一人では大変なんだ。だから、世の中の大人たちに手伝ってくれるようにお願いすることもあるんだよ。お父さんがサンタさんにお願いしてあげるから、欲しいものを言ってごらん。サンタさんが持ってきてくれるかもしれないけれど、もしかしたら、お父さんがサンタさんの代わりにプレゼントを運ばなければならなくなるかもしれないんだよ」

というのはどうだろうか?
うーーんんんん。。。3歳の子供に理解させるのは困難か?

それと昨今、クリスマスの飾り付けや、クリスマスパーティの類や、プレゼントの受け渡しや、サンタさんが町中に溢れ返っている。。。

やっぱり、「お父さん(お母さん)がサンタさんだよ」は、つぼを押さえている。嘘ではないし、本来的な気がする。。。
「純真な心」で物事を捉える時期に「嘘」はつけない。
それに、「父・母親像」を通して、その方向性の先に「サンタさん像」を見ようとすることの方が、よっぽど重要なのではないだろうか?


世の中の親御さん方は、どうしておられるのやら。。。
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by kisugi_jinen | 2004-12-14 06:05 | つれづれ。。。 | Trackback(2) | Comments(0)
クリスマス。。。
最近、サンタさんのことを、みんなはどんな風に我が子に教えているんだろうか?

親が
「いるんだよ」
というとき
直接的に自身にポジティブになる
目に見えないものを
具体的な存在を通して
存在として信じるという
最初の過程であるような気がする。。。

でも、まてよ。。。
そう
「直接的に」
ではなく
「間接的に」
というのがある。「テレビ」。。。
○○レンジャーとか、○○マンとか、○○ライダーとか。。。

さらに、
「自身にポジティブ」
ではなく
「自身にネガティブ」
というのがある。。。
「お化け」、「鬼」。。。

いったい、いつから、そして、なにから「信じ」はじめ「疑い」はじめるのだろう。。。

本人にとって、ネガティブかポジティブか
というところでもって、おそらく、本人の中ではバランスを取ろうとするのだろうけれど。。。

間接的か直接的か
親にとっては、ここのところが最も問題になる。。。

って、そんな心構えができてないときに、女房が
「サンタさんに貰おうね」
って、3歳の子供と勝手に約束なんかしていたりする。。。

(物質的・精神的という)2重の意味で、どう責任を取るつもりなんだ!

と、ぼやいてみても、ちゃっかり私に全責任を押し付けてきている。。。
。。。やられた。。。
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by kisugi_jinen | 2004-12-07 02:07 | つれづれ。。。 | Trackback(2) | Comments(0)
情と犯罪と。。。そしてヨン様。。。
なんだか、最近、情に絡んだ犯罪が、やたら多いような気がする。

と、言ったところで、「情」そのものが犯行動機ではなく、「情」と「状」の誤認を利用した犯罪ということ、すなわち、「情」に絡んだ「だまし」。。。

「おれおれ詐欺」など、「偽情報(=状報)」を「情報」と誤認させる手口を使うし、児童の誘拐にも、自ら車に乗り込ませるために、おそらく「偽情報(=状報)」を使ったであろう。。。

状を情としてだます人々は、すでに「人」ではなく「コンピュータ化」してしまっているといっていいだろう。。。それは「知的側面」だけが発達し、「情」を自ら切断してしまった「半死」の状態だといっても過言ではないような気がする。。。

「総体」から「情」が切り離され「状」のみ語られるとき、すなわち「境界」があるのに「ない」と錯覚するとき・させられるとき、人は「ニセの共感」を抱くのであろう。

さらに、「情報」を「客観的に」扱おうとすればするほど、「情報」から「情」が抜け落ちていき「状報」に変化してしまうであろうゆえ、メディアを介して得られた「状報」は、「情報」として認識してはならない、すなわち、原則的に「共感してはならない」ということになってしまう。

ただし、方向性が重要である。

一方的で受動的な「状報」から生まれる「共感」は、ほとんどの場合ニセであろう。が、能動的に、双方向的に「状報」に接しようとするとき、いや、「境界」の存在を知りつつ「状報」を越えようとするとき、「共感」が生まれるかもしれない。

それゆえ現代社会においては、常に「知的に疑いながら情で越える」という姿勢が要求されつづけている。

そういったことに疲弊した人々が、「ヨン様」ブームを引っ張っているのかもしれない。

最も身近で頻繁に「境界」と「共感」を求め続けられているのは、夫婦であろうから。。。
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by kisugi_jinen | 2004-11-22 02:48 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(1)
乳幼児注ないし禁の宮崎映画。。。
宮崎 駿の映画は好きだ(※)。。。だが。。。

もともと、大人向けの映画なのだが、一見子供向けに作られたように大人が錯覚しやすいのも事実。。。

あらかさまに「乳幼児注意ないし禁」とは書いていないものの、そういった映画も最近多い。。。

昨日テレビ放映された「もののけ姫」もそうだが、極めつけは「千と千尋の神隠し」。。。
「となりのトトロ」は、お化けというより動物っぽい要素が強く、「恐怖心」には結びつかないので今回は対象外。

宮崎氏は、日本人に伝わるであろうはずの精神世界を映像化しようと試みているのかもしれないけれど、

それは、子供たちにとっては「お化けのお話」

なわけで、それによって伝統的な日本人の精神世界を大人が懐古しようとするとき、

乳幼児は、いきなり「大人」によって「お化け」の世界に連れ込まれるわけである。

大人の方が「のめり込んで」見ていると、乳幼児は、いきなり泣き出すしか手が無い。。。

「千と千尋の神隠し」を映画館に見に行ったとき(、たしか、わが子はまだ生まれていなかった)、スタートしてまもなく、最初のお化けが徘徊する場面で、多くの子供たちが「こわいよー」といって泣き叫んだ。仕方なく連れ出す親が多かったことを思い出す。

元来、というか、日本の伝統文化的には、(というか、世界的にもそうかもしれないのだが)「お化けの話」をするとき、親と子との「情」をしっかりと結びとめておかなければならないと思う。

泣き叫ぶときの対応、興味を抱いているだけのときの対応、微妙に怖がっているときの対応、逃げ出そうとするときの対応。。。
それぞれの状態に応じて話の筋を変えたり、お化けごっこで一緒に遊んだりする必要があるため、常に子供と向き合っている必要がある。というか、親がいつでも守ってやれる体制にいる必要がある。

「テレビ」や「ビデオ」や「映画」の世界では、ストーリーが一辺倒であり、親がのめりこんでると、途中で切るというのもできにくかったりする。

「恐怖心」というものに対して、親から放置された場合、子供たちの「情」は痛く傷つくであろう。
いったん「恐怖心」を抱いた子供たちに対して、「怖くない。怖くない。」なんて一方的な親の独り言のような呪文は、子供たちにとってはなんの効力も発揮し得ない。

突然沸き起こる「恐怖心」(情的側面)は、説明を「知的側面」に求めようとする。そこに何も無いとき、子供たちは「泣き叫ぶ」しか手が無い。

一度でも、お化けごっこ(親が布団をかぶって「お化けだぞー」とか、鬼の面をかぶって「鬼だぞー」とか、あるいはナマハゲとか)を経験していれば、子供たちは、「何らかの説明」を自身の内に組み立てることができる。(恐怖心の程度に応じた、その子なりの解釈)

「霊的存在」を信じる、とか、信じない、とか言っている以前に、すくなくとも子供たちに見せる「お化け」ストーリーは、「親」「大人」の「知」というフィルターを介して「描写」されていることを、子供たちに見せるときに、常に考えていなければならない。

昔、子ども会か何かの合宿で、お化け関連の物語を、広い講堂みたいなところで聞かされたことがある。(たしか、小学校中学年程度のころ)多くの人間がいたにもかかわらず、非常な恐怖心が巣くったためか、その夜は怖くて寝付けなかったのを覚えている。
周囲に人が大勢いるかどうかではなく、「情」を通じ合える人がいるかどうかが、問題になるのだろうと思う。。。

。。。そうそう、「否定神学的な子供向け善悪」ってのも、意識する必要があるかもしれない。。。
次回は、それについて書いてみよう。。。

※特に「風の谷のナウシカ」の原作(アニメージュ版)は、中学生指定図書にしても良いくらいだと思っている。(06/12/22 07:15)
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by kisugi_jinen | 2004-11-20 03:33 | つれづれ。。。 | Trackback(2) | Comments(0)
反抗期から安定期へ。。。
最近、我が子の言葉数(独り言)が、むやみやたらと多くなってきた。

よく聞いていると、無意味なように聞こえるけれど、文章・物語風を呈した「お話」であり、内部から沸きあがってくる「情」に対応するがごとく、「自分自身への言い聞かせ」のようでもある。

そういった「お話」に、関わろうとすると、
「いや!」「あっちいって!」といって、撥ね付けてくる時と、受け入れてくれる時とが混在している。

勝手な想像が許されるのなら、反抗期においては、「こころ」の情が劇的に形成されて、その表現方法を「知的側面に」まさぐり、その後の爆発的な語りの増大は、「知的側面の劇的な形成」を物語っているのかもしれない。

「情」から「知」へという流れ。。。それは、能動的な心を持つ人間として当たり前の流れなのであろう。。。

人工知能から人工生命への流れ。。。それは、受動的な心を持つ機械をイメージさせる(※)。
やはり、もし、その流れの中で「真に能動的な心」が生まれるのなら、「反抗期」(暴走に似た情態)を経なければならないであろう。。。

で、そういう観点から見ると、「反抗期」のない子供たちは、「人工知能・機械」に限りなく近いのかもしれない。。。

※06.09.22 08:50補足説明
「人工」という言葉は、「人間の知が支配している」というニュアンスが非常に強い。もし、仮に、「人工生命体(ロボット、アンドロイドなど)」が「意思」を持ち始めたならば、「人間の支配が及ばない、気味の悪い」といった表現がなされるであろう。「アトム」や「2001年宇宙の旅」をはじめとする「人工○○」の反乱は、そういった「気持ちの悪さ」=唯悩論でいうところの悩化から切り離されようとする「いわゆる自然現象」(私のいうところの、知的切断面に直交するところの「情」を含んだ「総体」、ないし「じねん」)といったことがらが、背景に潜んでいる。
「人工」の名を冠している限り、「受動的」からは脱却できないし、もし、脱却したならば、それは「反逆」に繋がるわけである。

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by kisugi_jinen | 2004-11-09 06:30 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
子供の成長を感じるとき。。。
子の成長というものには、目を見張るものがある。
つい、この間までできなかった事ができるようになっている。

危険を伴わない限り、「できないだろう」という先入観を捨て去って、
じっと見ているか、「やってみる?」と、誘い水を投げかけるようにしている。

できそうにないことに対して、一度だけでさじを投げることもある、
そういう時は、
「もっかい、もっかい(も一回、も一回)、ゆっくり、ゆっくり」と、
トライさせ、どうしてもだめなとき、
「じゃあ、いっしょにやろうか」と、いって手伝っている。

最近、一人遊びをすることが多くなってきているが、
人形(ウサギ、ネコetc)を使うとき、私がいれば、必ず私を引っ張っていく、
そうして、人形の操作をせがむ。

で、よくよく考えたら、
本人はもっぱら「電車」や「車」といった「無機物」の操作にいそしんでおり、
それらとは違う対象としての「うさぎ」「ねこ」のようである。

おそらく、親が考えるほどには区別をしておらず、単に「自分が動かすことで面白いおもちゃ」と「他人が動かしてくれることで面白いおもちゃ」といった区別しかしていないのだろうけれど、一見すると、「生命体」と「非生命体」とを区別しているようにも見える。

そうそう。。。
「命を大切に」
「一寸の虫にも五分の魂」
というのがある。

で、公園で遊んでるときに、蟻に石をぶつけたりすることが多いので、
「蟻さん、いててでしょ!」
と、言っていたのだが、正直いって、「親の矛盾」を露呈する事件が勃発した。。。

この間、羽蟻(シロアリではなく、黒蟻)が季節柄、大量発生したためか、数匹家の中に入り込んでくることがあった。
子供は「虫さん」といって、つまんで持ってきてくれていたので、(すでに潰されて死んでいるのだが)教育上「虫さん、ばいばい」といって、外に放り出していた。

ところが、数日して、窓の隙間から数十匹が入り込んだため、そうも言っていられなくなり、殺虫剤&大量殺戮&掃除機吸引という強硬手段に出た。(ちなみに掃除機が最も効果的です
子供もけなげに手伝ってくれた。

と、いうことで、やっぱり子供の成長には目を見張るものがある。。。
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by kisugi_jinen | 2004-10-26 03:06 | つれづれ。。。 | Trackback(3) | Comments(0)
泣き叫びの変遷。。。
わが子も3歳を過ぎ、泣き叫びに加えて、いつの間にか、地団駄を踏み鳴らすようになっていた。
まえからそうだったのかもしれないけれど。。。いや、たしかに、いつからか、そうするようになっていたようだ。
泣くという動作に「叫び」、「わめき」、「怒り」、「主張」などなどが混ざり、さまざまな感情が織り交ぜられている。。。
理路整然と説き伏せようとしてもだめ、「だめなものはだめなの!」と頑として撥ね付けてもだめ、「抱っこしてほしいよぉ~~」と、泣き叫びの中に、抱擁を求めてきたときには、抱いてやる。。。甘えを自覚している割合が増えてきつつあるのだろう。。。

兄弟姉妹がいれば、それなりにたくましく育っていくのだろうが、いまだ一人っ子なので、そこいらあたりが難しい。

けれど、そうやって抱いてやってから、「○○したらだめでしょ?」とか「△△しないとだめでしょ?」と、耳元でやさしくささやいてやっても、頑なに首を横に振り続けて、再び泣き叫ぶことが多くなっている。

つい、数ヶ月前までは、「うん」とか「はい」とか、素直に聞いていてくれていたのに、最後の最後まで抵抗してくる。

近所迷惑だから泣かさない、という方針は取りたくないので、力いっぱい泣いている。
おそらく、近隣の方々は、子供を痛めつけているのではないだろうか?と訝るであろうが、親の方が鳴き声にて痛めつけられているようなものだ。

わが子は夜の9時30ごろが就寝で、朝6時30くらいに起きてくる。
私は、子供と一緒に寝て、夜中1時過ぎに起き出し、メールのチェックやら、職場に戻って仕事を片付けたりやらを終えた後、帰宅し、朝食を共にする。したがって、夕食と朝食はなるべく共にするようにしている。そのわずかな時間を一緒に遊びたいのだろうゆえに、いろんなところで葛藤・反発の嵐が吹き荒れるようだ。ノートパソコンを開いているようなものなら、「コンピュータ、ばいばい」といって、バタンとふたを閉めにくる。

母親とは、割と長く一緒にいるためか、そういった折り合いはうまくいっているようで、うらやましい限りである。
私も、土曜日は一日、子と一緒に過ごす事になっているが、1日と5日とでは、随分な差なんだろう。。。(残りの1日は、保育園)

こういった生活リズムも、子の成長とともに変えていかねばならないのだろうが、そろそろ潮時かもしれない。。。というのは、ここ数日、就寝時間が10時以降にずれ込んできているからだ。

今日は、台風が来る前に仕事を仕上げねばならないことを口実に、子供が寝る前に家を抜け出し、一仕事終えたところである。
あと、二つ三つ仕事が残っているが、寝静まった我が家にこっそりと持ち帰って、子供の寝顔でも眺めながら、仕上げることにしよう。。。
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by kisugi_jinen | 2004-10-20 23:18 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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