信じるということ。。。再び。。。
このブログを立ち上げた当初、「知的側面」のみで、「「私に対する私の交換可能性」から「自己に対する自己の絶対優位性」への展開」をし、それをベースに「信じる」ということの意味を見てきた。。。
さて、「こころ」の情的側面が、言葉という知的側面にては、完全に捉えきれないのならば、上記考察は、もろくも崩れ去るのであろうか? そうではないと考える。 情そのものでの思考が困難。知的フィルタを通して思考することで、表在的ではあるかもしれないが、少なくともその範疇で、無矛盾かつ共有可能な側面が認識される。 「知」が「こころ」の一側面である以上、このことは必要条件になりうる。 すなわち、「知的側面」で矛盾を露呈するようならば、それは「情」を含めた総体としての「こころ」にては、受け入れることができないであろうから。。。 ただし、「知的側面」と「情的側面」、ないし「情的側面」同士との間での矛盾・葛藤については、生じるであろうし、生じうるべきものであろうと思う。
by kisugi_jinen
| 2004-11-15 02:12
| 思考。。。
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from 来生自然の。。。
at 2004-11-27 00:12
タイトル : 信じるということ。。。再々考。。。
信じるということ。。。再び。。。 および、そのコメントで、「知」的領域と「情」的領域との関係から、曖昧な記述を行っていたが。。。 よくよく考えてみると、知的・情的という分離そのものが不可能(というより、それらは側面同士・紙の裏表のような関係なわけであり、 情的なもの=「対象と主体と方向性を有するもの」は、知的に捉えようとしたとき、「そのもの」ではなく、「方向性のみ」を記号化しているという定義であった。 知的領域では、「交換不可能な自己の自己参照系」から派生する「自己の自己に対する絶...... more
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by
kisugi_jinen at 2004-11-22 04:28
いや。。。やっぱり。。。
「信じる」と「自己の自己に対する絶対優位性」は、「知的側面」にのみ限定されるかもしれない。。。 ただ、「思考する」とき、「知的側面」でしか「情」を捉えることができないのは事実だから、そういう方向性では「知」が「情」よりも優位に立つがゆえ、「自己の自己に対する絶対優位性」があるかのごとく、思えるのだろう。。。 ここで、「思考」とは、「感じる」という情態を思惟可能な行為であると念頭においている。したがって、語義からの当然の帰結になってしまうのだが。。。
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