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宮崎アニメに重ね見る、極刑を越える情。。。
昨今、悲惨な事件が多い。。。
被害者の家族は「胸が張り裂けんばかり」の思いをされておられると聞き及ぶ。。。

加害者は、「思い・情」を「知的に切断」することで、冷酷かつ無常に(彼らの想定する価値観に基づいて)被害者をあたかも「動物」、いや「モノ」のごときに扱うのであろう。。。

加害者は、ばれなければ、事件そのものが(知的に)外部と完全に切り離されうると「信じ込んでいる」かもしれないが、あらゆるものは繋がりあっていて、決して完全には切断することが不可能であることを、観ずるべきであろう。。。

加害者が、幻想的な知に翻弄され、外部との切断を信じるからといって、同じように、外部(裁くもの)が加害者を切断し、たとえば片っ端から極刑を行っていったとしても、何の問題解決にもならない。

なぜなら、発生母地としての「加害者をして、知的切断のみに真理を求めようとする情況」が、変わらない限り、第二、第三の犯罪者を生み出し続けるからである。

どうすれば、そういった情況が改善されうるのか?

知的な切断に、知的な切断をもってしても、何の解決にもならない。
例えるならば、西洋の映画にて叩き潰しても、消滅させてもよみがえってくる魔物のごとくである。

風の谷のナウシカ(コミック版、全7巻)を読まれた方は、ご存知だろうが、(知的に)臣民を苦しめる神聖皇弟・ミラルパの魂ですらナウシカは救ってしまう。また、(神聖皇弟・ミラルパによって人工的に)切り離されて彷徨い、攻撃性を得て暴走する巨大な「粘菌」をも救ってしまうのであるが、神聖皇弟・ミラルパも、そうして「粘菌」も、帰り着くところは、結局のところ「全体」の一部(内部)である。

これは、ナウシカの「もと来た所へ返す」という言葉にて表現されるところである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/風の谷のナウシカ

端的に言えば、人工的・知的に「外部」と切り離されたものを、「全体」で包み込むところに「ナウシカの真理」がある。この「ナウシカの真理」は、「千と千尋の神隠し」での、「カオナシ」を救うストーリにも片鱗が埋め込まれている。

ありとあらゆる「もの」(外見上の「まね」)を取り込み、泥でコピーを作り出して肥大化していく「カオナシ」は、自身のアイデンティティが見いだせずに、「知的欲望」に依存し、他者のコピーを取り込むことによってのみ、自身のアイデンティティが表現されうると思いこんでいるかのごとくである。
あらゆるものを吐き出した「カオナシ」は、自身のアイデンティティの拠り所が、「もの」ではなく、外部(全体)との「つながり」の内部にあることを見出す。ゼニーバ(銭婆婆)との共同作業の中に「カオナシ」は自身の居場所を自ずから知る(というより感じ取る)のである。。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/千と千尋の神隠し

さて、もし「裁くもの」が、極刑という行為にて犯罪者を完全に切り離すことができると信じ込んでいるならば、彼らもまた、加害者同様に「知」の奴隷に過ぎないのではないだろうか?

極刑という切断面で切り離しても、加害者の体・こころは、結局のところ(加害者や裁くものが、そうとは知らなくても、ないし、感じ取れなくても)「全体」に帰り行くのである。決して「消滅」するわけではない。もし、「裁くもの」が、そのことを深く知りつつ、なおかつ、切り離さざるを得ないとき、「裁くもの」の心には、涙があふれかえるることだろう。。。

もし、加害者が、「極刑にて切り離されざるを得ない」ことを知った上で、なおかつ「裁くもの」の心の涙の深さを感じ、自身の心に涙があふれかえるのならば、彼は「もと来た所」へと帰る可能性を「知り・感じとる」ことができるのかもしれない。。。

いずれにしても、「極刑」によってのみ加害者を救い得ないという情況が共有されうるのであれば、「極刑」という知的切断を越える「情」の架橋が求められ続けるだろう。。。

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)
--- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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by kisugi_jinen | 2008-05-09 22:15 | つれづれ。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
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Tracked from 来生自然の。。。 at 2008-05-23 03:44
タイトル : 思春期というモニュメント。。。思春期人と大人と。。。
思春期。。。 大人たちにとって、回顧されうるもの。。。 大人たちにとって 思春期とは 記号化され、モニュメント化されうるもの。。。 そのモニュメントを通してのみ 情を注ぎ込めるもの。。。 共有可能であり、共感可能なもの。。。 過ぎ行きし思い出として 語りうるもの。。。 思春期人たちにとって、困惑されうるもの。。。 思春期人にとって 思春期とは 方向すら定まらず、共有不可能で、共感不可能なもの。。。 その「不可能性」をもってのみ かろうじて情を繋ぎ得るもの 思い出...... more
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