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巷で流行る硫化水素自殺に思うこと。。。
硫化水素自殺が流行っている。。。
巻き添えになる人がいることを「知った上で」。。。

そのレベルでは、自爆テロや、無差別殺人と同じ。。。

玄関先に「有毒ガス発生中」と張り紙(知的切断)をしておけば、階下でスヤスヤ寝ている赤子がいたとしても、良心の呵責がないかのごとく。。。

自殺を選択した人々は、「死」は「生」よりも価値があると判断している。
たとえ、死後の世界が「ある」にしても、「ない」にしても。。。

たとえ、「生」の価値や「死」の価値を全否定したとしても、
生きている状態で自己否定」した以上、「死」は「生」よりも価値があると判断したのと同等
である。
「生きている限り死者の立場で考えることはできない」というバカの壁を知らないだけなのだろう。。。

いや、もっと積極的に、巻き添えを連れて逝きたいのかもしれない。。。
寂しいのだろう。。。


「情的つながり」の知による切断。。。

自身の判断能力と、知が情に対して優位であるという幻想的・知的・唯脳論的認識。。。

参照
交換可能性と切断面(境界)の移動。。。
自殺に関して、あるいは「死ぬ意思」と「生きる意志」について。。。


※補足・追加
自身の願望が満たされるなら、目張り・(厄除けの)張り紙さえしていれば、他人に迷惑をかけない「つもり」でいたとしても。。。
そのレベル(自殺をすること)では、鬼畜以下である。
何も「鬼畜」を下げずんでいるわけではない。
ありとあらゆるものを同一レベルにて見ていたとしても、それら同一レベルのもの「以下」であるということ。。。
「人間以下」であり、東氏のいうところの「動物以下」であるということ。。。
(以上、08/04/26 07:35追加)
もう少し、判りやすく言うならば、
「死ぬべき」と判断されて死を選択する(命令に従った)ということは、「そう判断した自分」に絶対服従したということ、すなわち「自分以下」である。
また、周囲との繋がり(情)を知的に切断して死を選択したというのなら、それは、ポストモダンでいうところの「動物化」すら排除して、知的な死のみを選択するということ。すなわち「動物以下」。
「いや、逆だ! 崇高な知能を有しているからこそ、自殺を選択可能なのだ!」と、嘯いてみたところで、所詮「知」の内部での戯言でしかない。知情意の一部分が「知ることのできない」全体(総体、「かたりえぬもの」)を否定している。。。

※注:今回、自殺全般に関して一般論的に記述しているように見えますが、私の思いは、タイトルにあるように、ある特定の自殺志望者に向いております。
(以上、08/04/26 09:35追加)

自殺を試みようとする人々の多くが近視眼的になり、論理的思考すらできないという指摘があるかもしれません。しかしながら、「思いつめている」という情況は、すなわち、「そう思っている・思い込んでいる」一部の「自分」でしかないでしょうし、そこに至る過程(一般的に皆が納得しうる理由)がある限り、「知」の関与の全くない情的・発作的な行為というものは、あり得ないでしょう。
同時に、さまざまな「知・情・意」の関与が、そういった行為へと当人を導いた情況であればこそ、なおさら、最後の決断に踏み切るために、用意周到に(すなわち「知的に」)準備する段階で、すでに「情」を切断しているといっていいでしょう。。。
(以上、08/04/27 07:20追加・補足)


情がずたずたに引き裂かれ、繋がろうとする先がない。。。
あたかも、宮崎アニメで出てくる「タタリ神」(もののけ姫)のごとく、生きている内に、情がさまよい歩く。。。

タタリ神が、人の自然に対する知的切断(人智による切り開き)という概念にて生まれるというストーリーは、当に、(巻き添えがあろうと、なかろうとに関わらず)自殺が、人の人に対する知的切断(知の情に対する優位性)という概念にて生み出されるというストーリーと、重ね合わせて考えるべきなのではないだろうか?

繋がりあおうとする情の先。。。そこにおいて「全否定」され、「全否定」しなければならなかったとき、人は、タタリ神のごとく、うごめく情を鎮めんがため、自らの命を絶とうとするのかもしれない。。。

しかしながら、自身の「知」によって生み出された「うごめく情」は、自身の「知的判断」による「自殺」では、決して鎮める事はできない。。。

そのことを、もっと深く観ずるべきである。。。


以下、「生と死」を含む若かりし頃の日記を改変した投稿からの転記。。。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/nayami_main.html#sub5
===
5.生と死 --- 「時代の申し子の嘆き」(1995.12.16の思考より)

適応するか適応させるか、
両者のせめぎ合いの中にのみ
生は存在する。
適応もせず、適応させることもできなければ
自ら死を招くことになる。
時空内で生き抜ける所へ行かねば
破滅するか破壊するかを
選択しなければならない。
共存と民族紛争と
服従と支配と
中傷、名誉、あざけり、うらやみ、妬み、愛、欲望、快楽、不安
いったい何を望んで
生きて行くというのだろう。
越えて行くべきものが
生死であるならば、
生きている内の快楽なぞ望んではならない。
死後の世界なぞ望んではならない。
何かの為に生きようなどと思ってはならない。
「此の世をも、彼の世をも望まない」(スッタニパータ:中村 元 訳,岩波文庫)
死ぬよりも苦しく、難しく、辛く、悲しく、絶望的なゆえ、
それゆえに人は生きていけるのかもしれない。


9.観念的な「生」と「死」との狭間。(思考33歳より、1995.9.2)

ニーチェ、ユング、ゲーデル、ナウシカを越えて.....
(新興宗教は言うまでもなく)
私は、
愛することも、
愛されることも、
拒み続けて生きてゆく。
「私が求めるものは、
過去に消え去り、
もはや未来には存在しない。」
そう思いながらも.....。
私は自らの「思考・思い」に死を宣告しないし、
他人によっても死を宣告されない。
この時空の流れの中にあって、
浅はかな人智を、
拒むことも受け入れることもしない。
それでも、私は
未来に、
何かを求め続けて生きていく。
何かを.....。
人は、
同じ大地に根を生やした大木の幹から派生した、
個々の枝の、
さらにその先の梢の、
さらにその先の葉の、
一枚一枚に似ている。
時空の流れが、地面から上空に移動する平面のごとくある時、
その断面に存在する幹、枝、梢の切り口が、
個々の民族、
個々の家庭をしめし、
その断面に現れた葉のほんの1枚が、
この私を表す。
木々は、
季節に応じて、
その姿を、
ユングの「共時性」などという言葉すら知らないのに、
一斉に、変化させる。
あたかも、
同時代の人々が、
同様の考えを、
同時期に思い描くかのごとく、
また、同様の感受性を同時代に有するがごとくに。
同じ大地から発生したにもかかわらず、
単に、時空の一断面だけを見ているが故に、
また、ほんの少し、紅葉する時期がずれ、
花を咲かせる時期がずれ、
日に当たる時間がずれた故に、
個々に散らばる枝の断面あるいは個々の木々どうしは、
それぞれが異なる民族だと思っている。
同じ大地に根を持つものなのに.....。
戦争をしようと思えば、
相手もまた戦争をしようと思うだろうし、
奪おうと思えば、
相手もまた奪おうと思うだろう。
同じ大地から生じたということを知らずに。
私が神という存在に心を傾けるとき、
相手もまた神という存在に心を傾けるだろう。
神が我らを救い賜うと思うとき、
彼らもまた同じことを思うだろう。
実に争いの治まるところを知らない。
人は、神を信じるなら、
その神についてもっと深く考えるべきである。
たとえ、否定することになろうとも。
神について深く考えずに信仰するものは、
神に対してこれ以上ない冒涜を犯すものである。
神が人智を越えて存在するならば、
神に対して深く考えれば考えるほど、
その神はさらに奥深い存在となることは、
自明のことである。
人に考える能力を与えながら、
人の考える能力の中に自らを埋没させるなど、
神が存在し、
人智を越えて存在するならば、
決してあり得ないはずであろう。
人は、「ヨブへの答え」を、
いや、「神の御言葉」と言われるあらゆる書物を、
また、「ブッダの言葉」と言われるあらゆる書物を、
もっと深く読み解くべきである。
それら全ては、
人の思考を越えて書かれたものなどないことを、
もっと深く読み解くべきである。
書き手の思考を越えて書かれることなど、
決してないことを知るべきである。
たとえ、自動筆記が為されたとしても、
その文章が、人の理解できる文章ならば、
それは、人の思考を介して書かれた文章であることを、
知るべきである。
神が人の思考を越えているのならば.....。
人は家族なしでは生きてはいけない。
民族なしでは生きてはいけない。
極限状態では、何らかの助けと、
身の安全を確保しなければならない。
たとえ、他人、他民族を犠牲にしてでも。
あらゆる生命は、
過去からの無数の犠牲の上に存在し、
これからも生きていく。
人は、刹那的な利益を求めるよりも、
さらに奥深い読みをすることで、
爆発的な繁栄をすることができた。
しかし、
感情が沈静化し、
理性が感情に勝利したと思えたとき、
愛は理性の中に埋没し、
理性の壁に押し込められ続けていた
感情の密かな反乱が生じる。
愛は理性の中にはなく、感情の中にこそある。
新皮質と旧皮質を合わせ持ち、
生まれ来たりて死に行くものの定め.....。
知恵が、自然のバランスを越えるとき、
人自らにも刃を突きつける両刃の剣と知りながら、
「人工物」が「自然」の一部であることを認識することすらできない人々の間に存在しても,
それでもなお、生き続けなければならない。
何かを求めて.....。
私は、
愛することも、
愛されることも、
拒み続けて生きてゆく。
それゆえに、
愛することも、
愛されることをも、
求め続けて生きてゆける。


10.生きる(1996.2.25)

私は,未来に生きるもののために生きる。
たとえ,彼らが「滅亡」であろうとも,「希望」であろうとも。
私が,「最良である」とか「こうあるべきだ」とか,
「私」が判断した基準に基づいて生き抜く。
何かを求めて,事を為さない。
「この世をも,かの世をも望まない」
神も,仏も,悪魔も,天国も,地獄も,輪廻転生も,望まない。
時が逆行しない限り,未来のために生きる。

===

いかなる苦しみから逃れようとも
我が人生からは逃れ得ず
死も,そして存在するのなら死後も,人生の一部である。

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by kisugi_jinen | 2008-04-26 04:51 | つれづれ。。。 | Trackback(3) | Comments(3)
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Tracked from 来生自然の。。。 at 2008-05-02 04:52
タイトル : 花の切断。。。モニュメントの二重の知的切断と情と。。。
花を切断する事件が続発している。。。 Excite エキサイト : 社会ニュース 実の所、報道されていないが、近隣でも目にする。 そこには、「知的境界の消失」が見え隠れする。 「知的に形成された境界を情で越えようとする」 のではなく、あからさまに 「知で楽々越えて」 しまっているかのごとく錯覚しているようだ。 「花」といっても、雑草を刈り取ったり、踏んづけたりしても、ニュースにすらならないのに、 「育てている花」だったらニュースになるということが、犯罪を助長しているのかも...... more
Tracked from 来生自然の。。。 at 2008-05-25 09:41
タイトル : 医療。。。その本質における生死の方向性。。。
近年、自殺報道が目に付く。。。 巷で流行る硫化水素自殺に思うこと。。。 その中でも救急救命センターに運び込まれてからの、医療人を巻き込んでの被害もニュースになっている。 自殺男性が農薬嘔吐、ガス発生 熊本で54人治療、1人は重症 [ 05月22日 11時16分 ] 共同通信 http://www.excite.co.jp/News/society/20080522111634/Kyodo_OT_CO2008052201000198.html 人の思いの移ろいゆえに、死への意...... more
Tracked from ポスト・ヒューマンの魔術師 at 2008-06-20 15:03
タイトル : 未だに「自称人間」を辞退する勇気が無い者は、「宗教の機能..
知的なブログ論壇の皆さんも、宗教に言及しておいた方がいい。... more
Commented by tnk at 2008-04-27 08:32 x
サリン事件を思い出します

Commented by kisugi_jinen at 2008-04-27 16:41
tnk様
そうですよね。
彼らもまた、情を排除し、知的に判断することで肉親との断絶を生み、外部との断裂を生んだといえるでしょうね。。。
Commented by kisugi_jinen at 2008-04-29 06:24
すこし誤解を生むかもしれないと思われるので、書き足しておきます。
彼らに「情がない」といっているわけではありません。
「何が真理か?」を「知的」に判断(、すなわち「あれか・これか」の選択を)しようとするならば、避けて通れない断絶・断裂(境界形成)です。
そういう意味で、基本的には「真理」を追求しようとする、ありとあらゆる宗教や知的態度に共通するでしょう。。。
そうして、そういった「断裂・断絶」は、内部からだけではなく、外部、とりわけ密接な関連を有する人々(両親・家族・地域)との関係性から生み出されることでしょう。。。
←宗教関連については、たとえばwikipediaでの「カルト・セクト」内の記述(フランスでのセクト対策関連)が参考になろうかと思われます。
知的な断裂(境界形成)のみで、情では繋がり合おうとしているなら、解決の糸口はあるともいえるでしょうが、情的にも断裂(境界形成)しようとしているならば、それこそが、個人の(集団の)自殺(「生きるべきか・死ぬべきか」の選択)ないし「外部への攻撃・巻き添え」(生・死の選択)へと繋がっていくのだろうと思っています。
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「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
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