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因果的・非因果的。。。能動的・受動的。。。意識と情と。。。
このブログの中では、多くの事象について、仏教的観点から触れたものが多くある。

で、「一般的に」仏教的観点(視座)について、多くの人々が「因果論」を想定している(※1

(しかしながら、私自身は、非因果的・因果的の両方を含めているので、そういった意味からは、「一般的な」仏教的観点からはずれているだろう)

因果関係といった考え方は、科学的方法論からいえば、強固な論理・理論体系に結びつき、かつ、普遍的な(客観性の高い、交換可能性の高い、共通了解度の高い)思考となる。

また、理論の応用といった分野(科学技術)では、予見性・予測可能性の高さに直結しており、やはり普遍的な(客観性の高い、交換可能性の高い、共通了解度の高い)予測であるため、様々な行動への規範・抑制へとつながっている。

しかしながら、非因果的な関係について、科学は明らかにしてしまった。
EPR相関とか量子エンタングルメントとかいった概念である。

これらは、位置や距離、時間といった概念を越えて「相関関係」を持っており、「因果関係」は持っていない(※2)。

「非因果的」といったとき、3つのレベルでの概念が想定されうる。
1.上記、量子力学レベルでの相関関係
2.複雑系の科学にて指摘されうる、決定不可能性の高い事象(確率的に因果関係が薄まっている状態)
3.主観・客観といった概念レベルでの差異と両者の相互関係に基づく概念(ユングの共時性・シンクロニシティ相当であり、人間科学および哲学的な考察のレベルでは、竹田現象学や構造構成主義等)

で、これらがそれぞれ、別物と考えることもできるが、ミクロ系・基本レベル(極小レベル)での因果関係が「消失しない」限り、基本構成から成立しているマクロ系も、ミクロの因果関係を無視し得ない(影響を受けている)とせざるを得ないことは、当然のことであろう。
複雑な構成の場合、ミクロレベルの因果関係は統計学的に相殺され、「ない」かのごとくに見える場合があるだろう。
このような「統計学的相殺」は、科学的には熱力学的なレベルの話として扱われうる。

では、マクロレベルにて非因果的だと認識されうる事象は、ミクロレベルの「統計学的相殺」のみにて完全に説明可能か?といえば、そうではないだろう。ミクロレベルにて「非因果的・相関関係」が認められている限り、「統計学的相殺」があったとしても、「ミクロレベルの影響がない」とはいえないわけである。(ただし、2重盲検などの物理学的・科学的実験系では決して明らかにされうるものではない。「水は答えを知っている・水伝系」にてこのレベルの話をする人は、熱力学的影響を越えて影響を及ぼしうると信じておられるようであるが・・・)

さて、意識・情において、因果・非因果の観点からみてみる。

たとえば、前野氏の受動意識仮説(正確には、ベンジャミン・リベットの「マインドタイム」
は、「外部から内部への方向性」によって、因果的に「意識」を規定できるというものである。
通常は、逆方向を想定しておられる方が多いであろう。すなわち、「私の意識(内部)から外部の方向性」にて、因果的に「意識」が能動的に働いている。と。。。
しかしながら、これら両者の意見は、両方とも正しく、両方とも間違っているのかもしれない。

すなわち、「非因果的・相関的」な「意識」という概念を想定可能であるならば、両方とも正しいといわざるを得ない。このことは、量子力学における、離れた2粒子の量子エンタングルメント(量子もつれ)での状態決定における、因果関係の決定と相同の関係を有しているように思えるからである。
EPR相関とBellの不等式と。。。

※1
07/10/01 01:11 補足説明
「一般的に」: 因果論は非常に論理的でわかりやすい考え方である故、一般受けしやすい。
参照:
wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/因果
http://ja.wikipedia.org/wiki/因縁
http://ja.wikipedia.org/wiki/縁起
http://ja.wikipedia.org/wiki/無我
http://ja.wikipedia.org/wiki/諸法無我
http://ja.wikipedia.org/wiki/我執
http://ja.wikipedia.org/wiki/空
上記は仏教的考え方(原始仏教、切一切有部、大乗仏教などの諸説)

http://ja.wikipedia.org/wiki/因果律
http://ja.wikipedia.org/wiki/因果的閉鎖性
http://ja.wikipedia.org/wiki/随伴現象説
http://ja.wikipedia.org/wiki/付随性
http://ja.wikipedia.org/wiki/決定論
http://ja.wikipedia.org/wiki/自由意志
※07/10/26 06:40補足
「一般的に」仏教では --- 原始仏教ないしブッダ自身は、「一般的に」ではなかったようである。すなわち、原始仏教レベルでは、仏教以前からあった輪廻転生(生死を越えた因果関係)の「有無」 については、形而上学的問題(哲学的問題)とし、そういった問題に囚われることから(柄谷氏の言葉を借りるならば「あるのでもなく、ないのでもない」と)回避したからである。
「ブッダのことば」(岩波文庫、中村 元)の
「洞窟に関する八つの詩句」
779 思いを熟知して、流れを渡れ。聖者は所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。
「並ぶ応答-小編」
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

には、まさにそういった思いが込められていると考える。
ブッダのことば―スッタニパータ
/ 岩波書店
スコア選択: ★★★★★

原始仏教の現存する最古の伝承であり、中村氏の翻訳・解説によるもの。


※2
07/10/01 01:22 補足説明
「これらは、位置や距離、時間といった概念を越えて「相関関係」を持っており、「因果関係」は持っていない」
--- 厳密には、「量子力学的な確率関係を有しており、非決定論的である」であり、「量子力学的な確率関係がある」→「量子エンタングルメントがある」といった方向性での因果関係はあるといえる。
なお、「因果」といったとき、時間的前後関係を伴う事象という前提条件が暗黙裏にある。ここでいうところの「非因果的・相関的」という用法は、「時間的に同時生起的」という概念である。
概念的には、ユングの共時性・シンクロニシティに近いと考えている。というより、おそらく、ユングが本来、主張したかった概念そのものだろうと憶測している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/共時性

by kisugi_jinen | 2007-09-30 07:24 | 思考。。。 | Trackback(3) | Comments(0)
Tracked from 来生自然の。。。 at 2008-04-20 07:18
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Tracked from 来生自然の。。。 at 2008-08-07 03:43
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Tracked from 来生自然の。。。 at 2008-08-08 03:36
タイトル : ネーターの定理。。。
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「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。

by kisugi_jinen
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