狭義の情、広義の情、知的切断面、境界について。。。
本ブログ内にて、私的に使用している用語を、少しばかり整理しておきます。
(既に、ブログ内にて記述していることを、まとめたものです) 1.狭義の情的。。。 知的にしか「概念」を取り扱えないとしたとき、情的なものは、知的概念を貫いていく方向性をもつものになるであろう。2.広義の情的。。。 そのような「狭義の情的」に対して「広義の情的」なるものは、「知覚されえないもの、感じられえないもの」をも含んでいる。すなわち、知覚・感覚といった認識以前の「すべて」を含んでおり、切り離しえない「このわたし」と「そのあなた・そこにあるもの」と「その関係」といった繋がりを含んだ「総体」に相当しうる。 3.境界。。。 「広義の情」は、言い換えれば、素のままの「わたし」(他との境界設定すら困難な「わたし」)と、その設定困難な「境界」を貫いて、設定困難な「境界」の外側のものへと繋がる「もの」である。 4.知的切断面。。。 このように、知覚・感覚によって認識される(知的概念化される)ときに確立されうる「境界概念」を、私は私の造語としての「知的切断面」として表現することにしている。 ※07/08/07 04:20補足説明 たとえば、「わたし」、「私と家族」、「私と職場」、「家族と近隣」、「家族と親戚」、「地域と県」、「県と国」、「国と国」、「地球と宇宙」といったように、「わたし」を中心とした境界は様々に設定しうるし、その想定された境界を越える繋がり(物理的なやり取り:状報交換ではなく、情的なやり取り:情報交換)があるからこそ、境界(知的切断面)の移動が可能になっているといえる。
by kisugi_jinen
| 2007-08-06 06:41
| 用語・概念。。。
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Comments(4)
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from 来生自然の。。。
at 2008-03-26 05:32
タイトル : 人の命の(知的)切断。。。国家による大量殺戮と個人による..
その昔、 「な ぜ 人 を 殺 し て は い け な い の で す か ?」 と、「知的」に問う人がいた。。。そうして「知的」に答えようとする人々がいた。。。 国家という単位では、今も昔も、イデオロギー(○○主義)の「知的」優位性が情を切り裂き、多くの人々の命を切断していく。。。 そうして、今も昔も、刃物をもって人の命を切断していく人。。。 土浦での無差別殺人。。。 幼き頃、殺人鬼というものは、知的なタガが外れて、衝動的(欲情的)に人を殺してしまうのだと思ってい...... more
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from 来生自然の。。。
at 2014-05-30 03:57
タイトル : 知的切断。。。思春期人(ししゅんきびと)を越ええなかった..
AKB握手会での殺傷事件を知ったとき、二つのことが脳裏をよぎった。。。 「犯人は、自己を外部から切断したがっているのでは?」 と 「AKBを含む人と人との繋がり方そのものの崩壊の危険性」 の2点である。。。 思春期人(ししゅんきびと)の知的切断。。。 以前、白鳥の事件について記述したことがあるが、対象は象徴性の高いもので、完全性を備えていると思われるものを狙う傾向があるのかもしれない。 ハクチョウ撲殺。。。「ゲーム感覚」と「楽しいから」の背景。。。 http://jinen.e...... more
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kisugi_jinen at 2012-11-05 00:55
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moto_koukousei ここでも、>「「広義の情的」なるものは、「知覚されえないもの、感じられえないもの」をも含んでいる。すなわち、知覚・感覚といった認識以前の「すべて」を含んでおり、切り離しえない「このわたし」と「そのあなた・そこにあるもの」と「その関係」といった繋がりを含んだ「総体」に相当しうる」と総体や広義の情的なるものについて述べています。広義の情的なるものと狭義の情的なるところの境が不明確あるいは多義的に認識されるとしても、広義の情的なるものに関しても、狭義の情的なるものに関しても述べて意見を交換することは可能です。もちろん、境を明確にしないと混乱を来す場合は多いです。広義/狭義の境、あるいは当面A氏が論じている境が明確でないと、共通認識が出来ないとは限りません。円の性質を論じるのに、円のサイズや円の内部の状況は不問でも問題ないのです。
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kisugi_jinen at 2012-11-05 00:56
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moto_koukousei > 「わたし」「私と家族」「私と職場」「家族と近隣」「家族と親戚」「地域と県」「県と国」「国と国」「地球と宇宙」といったように、「わたし」を中心とした境界は様々に設定しうるし、その想定された境界を越える繋がり(物理的なやり取り:状報交換ではなく、情的なやり取り:情報交換)があるからこそ、境界(知的切断面)の移動が可能になっているといえる。このことは、物理的なやり取りが全く想定不可能な世界の間、すなわち、たとえば「この世とあの世」といった仮想的な世界観に設定されうる境界(知的切断面)を越えて、「情」的なもの(思い)があるといった情態にも適応可能である。たとえそれが「情報交換不可能な一方的な思い」であったとしても、である。 ※ その通りです。そして境界が不明確のママであっても、討議や認識を共通にすることも可能です。たまには異なった認識のまま合意したと思い、認識が同じだと誤解することもあります。境界が同じでも、留意の重要優先度や問題意識が異なれば、討議や認識は一致することがないことも多いです。
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kisugi_jinen at 2012-11-05 00:58
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moto_koukousei > 「狭義の情的」なものの代表としては、(中略)すなわち、この段階にて、「情的なもの」は、「狭義の情的」として捕らえうるわけである。 ※ 何を述べているのかがわかりません。「喜・怒・哀・楽・不安・期待」の言葉や文芸絵画音楽映画演劇などの作品でも、その個々の内容が何であるのかは十人が百通り、千通りの理解をします。共通理解、感情の共有が出来たと思っても事実は異なることが多いです。実態として不安と期待がない交ぜの状態はあります。喜びと悲しみが同時に起きていることも多いです。人為的作品にすれば一意に記号化出来るというものではないです。自然の猛威といわれる過激なシーンに直面した場合(人為的に記号化してなくとも)、その場の多数のものが共通の感情を懐いたという共通認識をすることは多いです。(実際は一つの共通感情ではないので、共通認識したと思うのも間違いです。対象が記号でも、自然現象でも、社会現象でも、同じです) 記号化されたために狭義の情的なものになったのではなく、同じ場面にいたので同じ狭義の感情を懐いたはずだと思うのでしょう。
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kisugi_jinen at 2012-11-05 01:17
上記コメントは
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7779631.html の回答番号6-8 http://jinen.exblog.jp/6119786/ を斜めに読み飛ばした感想の(1/3)ー(3/3) にてmoto_koukousei氏によって記述されたもの。
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