AX
サンタさん。。。共同体概念。。。スピノザの神。。。
すでにクリスマスの季節を過ぎてしまいましたが、この時期になると決まって「サンタ論争」がどこからともなく勃発します。

ひょんなことから、mixi内部の、とあるトピにて扱われていたので、現時点での私の考えを書き込みました。以下、一部(mixi内部での引用)を変更したものです。

===
「サンタさんからプレゼント」というメッセージを子供たちに投げかける大人がいる限り、「サンタさん」という概念は決して消え去りはしないでしょう。その「概念」が共有可能である限り、「サンタさん」は「神」のごとく否定神学的に存在し続けることになるでしょう。

否定神学と交換可能性との関係。。。
ナンシーの原著が手元にないので。。。

で、べつに「サンタさん」でなくても良かったはずだと思います。

親が子にご褒美をあげたいとき、特に、家族という<共同体>にて共有される仮想的・幻想的な<中心>という概念を経由してプレゼントをしたくなるときがあるかもしれない。
<誰から>?といったとき、<家族>からのプレゼントになるでしょう。

<キリスト教>を信仰している<共同体>であれば、自然とその<中心>である<神>からになるでしょう。

たとえ、親が購入し、子供に与えるとしても、そのプレゼントは<サンタ・クロース>からのプレゼントだといい続けられるわけです。既存の概念としての<サンタ・クロース>が否定されたとしても、別の物語が<サンタ・クロース>を復活させうることになるということです。

たとえば、<共同体>がオリンピックという概念の時には金メダルの授与式に相当するような行為をしたいときに相当する。いったい<誰が>その金メダルを与えたのか?
授与式での代表者が与えたのか?
点数を出した人が与えたのか?

おそらく共通認識されるところとすれば<共同体>であるオリンピックが与えたということになる。法人・県・国に相当するでしょう。<共同体>が何がしかの行為を行ったとき、代表者がその中心概念を経由して行為しているかのごとく扱われます。これらは明示的な「存在」としていいでしょう。そのような「存在」を否定してしまえば、「誰から?」が不在になってしまう。

そういった<共同体><中心>概念を皆が共有できるということと、サンタさん概念を共有できるということとは不可分でしょうし、<共同体>があるかぎり、その<中心>的な概念は「存在する」わけです。明示的な場合、法人格みたいなものでしょうし、暗示的な場合、「神」や「サンタさん」になるでしょう。
===
<共同体>として何らかの行為が行われるとき、その行為を発動する基準が、<共同体>内部でも、外部でも通用するように設定されているならば、問題は発生しないでしょう。たとえば、オリンピックの金メダルの様な点数制度。しかし、審判の判断基準で揉めることがありますが。。。

<共同体>内部でしか通用しない基準の場合、その行為が外部にまで影響を及ぼし、かつ、危害をおよぼすならば、外部からは攻撃されうるでしょう。(オーム真理教関連事件など)

<共同体>内部でしか通用しない基準であり、かつ、外部に影響を及ぼす基準であったとしても、何の問題もないかの如く、外部側が受け入れてしまうことがあるでしょう。

「サンタさん」の日本における連綿とした受け入れは、まさにこのような事例に相当すると思われます。

<共同体>内部に属する懐疑論者であれば、規則・戒律・教義等を変革する運動を起こすでしょう。現にそうやって分裂していく宗教も多々あるわけです。

<共同体>「外部」に属する懐疑論者であれば、該当する行為自体の概念が「外部」では成り立たないことのみを検証しさえすれば、通常は事足りるでしょう。被害が拡大するということが懸念されるときを除いて、通常<共同体>「内部」でも成り立たないことを検証する必要性はないはずです。なぜなら、「外部」と「内部」とで、共通する・交換可能な法則を前提として懐疑しているわけですから。

しかしながら、ひとたび「内部」に対して検証を行おうとすると、往々にして「共通しない・交換不可能な」法則が「内部」から提示されることがあります。

そういった場合、その「内部」から提示された法則が、「外部」の法則の上位に位置する(すなわち、彼らにとって、「外部」は「内部」の内部にある)かの如く、認識がなされていることが往々にしてあるように思われます。

こうなると、「外部」の懐疑論者は色めき立ちます。「今が叩きどころだ!」と。

で、「サンタさん」という概念に立ち返るとき、時間経過(子どもの成長発育)に伴って<共同体>の内部・外部という概念が変化していくことになるでしょう。上記<共同体>の内部・内部区分が時間軸を無視した水平的なものであるならば、「サンタさん」は垂直的な境界も有しています。

親が外部にあって、子どもが内部にある。そうして、自身の経験と懐疑主義の一端もそこに繋がっている。そうなると、純粋に「外部」の懐疑論者とは言えない分けです。

すなわち、日本における「サンタさん」論争は、ほとんどが一見外部同士の対話であって、世間話の領域を越えないにもかかわらず、「内部」にいる「子どもたち」(自分自身の過去も含めて)を巻き込むわけです。

もし概念としての「サンタさん」の存在を否定しようとするならば、世界中で一斉に「これは、家族からのプレゼントだよ」と言い始めればいいでしょう。

そうすれば、「サンタさん」という概念は消え失せてしまい、<サンタさん共同体>は消え去るでしょう。

はっきりいって、それだけのことですが、でも、それが困難であることは親、特に近所付き合いを大切にするであろう(そういう意味での<共同体>内部にいる)母親がよく知っています。実際に子どもたちが仲良く遊んでいるところにサンタ論争を持ち込むことは憚られるからです。そうして、時間と共に(成長と共に)「自身にとっての最初の懐疑論」として記憶に残るかもしれません。

もし「サンタさん」概念が消滅したとしても、いつか・どこかで・だれかが「タンサ・スロークさんからのプレゼントだよ」と言い始めた途端、タンサ・スロークさんとして「サンタさん」概念が復活するわけです。

子どもには真実を教えるべきだという観点から、一部の人々がサンタさんを否定して子育てしたとしても、「サンタさん」という概念は連綿と受け継がれていくわけです。

ちなみに、我が家での変遷。。。

クリスマス。。。
クリスマス。。。再び。。。
クリスマス。。。再々。。。
子供たちの夢や希望を奪っているもの。。。

===
「存在するか?」と問うとき、少なくとも「2種類」の存在を考える必要があると思います。(少なくともといったのは、哲学的視点にたてば、さらに複雑に分かれるからです)

自然科学的に存在するのか?
概念的に存在するのか?

概念的な存在は架空の存在として、何ら行為は為しえないと思われがちですが、必ずしもそうではないことは、上記に例示しました。端的に言えば、宗教団体の「その内部において」は、信仰対象の「神」は人格相当として存在する分けです。

で、宗教関連での「存在」が懐疑論の対象として扱われるとき、
「神」や「悪魔」が、概念的にのみ存在するなら分かるが、自然科学的に存在するというなら論破してやる!
といった傾向が(懐疑論の一部には)あるように思われます。

しかし、自然科学的に存在するとみなしうる「神」概念もあります。

アインシュタインが信じているといった「神」は、自然科学的に「も」存在するとみなしえます。その神はスピノザの神であり、「物理学的法則」を含みます。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1730729
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6

サンタさんをスピノザの神概念に投影することは困難かも知れませんが、たとえば「親がサンタさんの代理人」という概念であれば、スピノザの神概念に重ね合わせることは可能かもしれません。

たとえば、スピノザの神概念レベルでのサンタさんを思い描きながらプレゼントを渡すとき、あたかも、自然の恵みが自然からプレゼントされるかのごとくにイメージし、それにふさわしいようなプレゼントを用意するならば、そうして、子供たちに、懐疑主義ないし自然や神という概念(たとえば神即自然など)を教える最初の躓きないしステップとするならば、非常に有効に活用できるかもしれません。

いずれにしても、子供たちに「サンタさんからのプレゼント」という言葉を発するとき、親として子供に自身の宗教概念を提示できるだけの覚悟と準備が必要なことには変わりないでしょう。(懐疑主義であっても無神論者であっても汎神論者であってもです)
===
[PR]
by kisugi_jinen | 2006-12-27 04:52 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://jinen.exblog.jp/tb/6250308
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 構造構成主義と竹田現象学と私の... 愛国心・教育の方向性としてのす... >>



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索
カテゴリ
最新の記事
お知らせとリンク。。。
お知らせ
●コメントスパム対策のため、承認制に変更しました(2010.09.29)
●トラックバックのリンクチェック機能を追加しました。excite以外からのトラックバックをされる場合、当該記事へのリンクを埋め込んでください。
リンク
ゲストブック
---全体的なコメント等は、こちらへどうぞ。。。
来生自然のホームページ
---私の知の思想史。。。
鉄鼠
---「考える」ということに向き合う。。。
Genxx.blog
移転後http://blog.genxx.com/
---「情」を含めて専門的な立場から「こころ」を模索し続けるGenさんのブログ。。。
研幾堂
---山下裕嗣氏による哲学のサイト。以前、形而上学についてやりとりさせていただいた。
記事ランキング
最新のコメント
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 01:29
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 03:51
kisugi_jinen..
by Kandomonmasa at 14:28
> SumioBabaさ..
by kisugi_jinen at 10:41
「神」を完全に解明しまし..
by SumioBaba at 05:06
最新のトラックバック
究極の人工知能。。。ショ..
from 来生自然の。。。
所詮ゲーム、背景を勘ぐる..
from 来生自然の。。。
シン・ゴジラと所信表明演..
from 来生自然の。。。
ポケモンGOのお台場騒動..
from 来生自然の。。。
シン・ゴジラ。。。
from 来生自然の。。。
以前の記事
フォロー中のブログ
外部リンク
ブログパーツ
ライフログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧