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知情意。。。多重知能。。。
「知情意」にて検索をかけていたら、(ガードナーの)多重知能(MI:Multiple Intelligences)や情動的知能(EI:Emotional Intelligence)という言葉が見つかった。さらにMixiでのやりとりにて、前頭前知能指数(PQ:Prefrontal quotient)なるものの存在を知り、「私の感覚で」、知情意との関係、さらには、これまでのこのブログでの知的切断面、情の扱いを含めて図にまとめてみた。
なお、EQやPQのQはquotientなので、評価可能な指数を意味するため、評価対象側としてのEI(Emotional Intelligence)など、Iを使うこととした。

知情意。。。多重知能。。。_b0032038_55833.jpg


※07/08/04 07:11補足
この図にて、実質的に「脳」は、「(脳)科学的に扱いうる切断面」そのものである。
「意識」だと認識されたり、「情」だと認識されうるものは、「脳」にて「知覚されるもの」であり、本来の「意識」や、本来の「情」ではない。(※1)
しかしながら、このことをもってして、「脳」や「実体」と離れた「意識」や「情」を想定しているわけではない。「意」や「情」だと認識されるものがあるということは、「知」だと認識されるものがあるのと同等に「ある」ということ以上のことは言っていない。(※2)
たとえば、認識される「情」というものが、家族に対する愛情であったり、恋人に対する愛情であったり、故人に対する情念であったりするわけである。それら「認識された情」が、「脳内にて知覚されるもの」そのものだといわれたら、皆憤慨するであろう。かといって、脳機能が失われた場合などに、そのような情を抱くことができなくなったのなら、「脳内にて知覚されるものである」として、納得するであろうか?
「情」や「意」というものは、脳機能と密接に関連しているからこそ、脳機能と離れることができないにもかかわらず、脳機能内部にとどまらないというならば、いったいどのようなものをさすのであろうか?
「意」にしても「情」にしても、脳機能の一部機能である「知、特に、意思の疎通としての言語機能」を介在することで、共通の概念・構造として認識しうるわけである。

多重「知能」という概念のすばらしいところは、そういった対象を「科学的に」処理可能なものとして「知能」というレイヤーを想定し(いや、限定し)ていることに尽きると思っている。

上記図は、そういった意味での概念図である。

07/09/19 01:40 補足・追加
※1:このあたりは、狭義の情、広義の情、知的切断面、境界について。。。を参照してください。
※2:構造構成主義的表現をとるならば、「知情意の概念(構造)は、そういった概念(構造)を考える「わたし」(自己認識する主体)に対して、関心相関的にたち現れる」となるでしょうし、私的表現をとるならば、「知情意の概念(知的切断面)は、そういった概念(知的切断面)を含む多義図形的概念の、まさにその概念を「わたし」(自己認識する主体)が選択していること・認識していることになる」です。


参考サイト
http://www.emotionaleducation.net/special/01.html
「教育におけるEQの可能性を探る」
http://www.jil.go.jp/column/bn/colum017.html
独立行政法人 労働政策研究・研修機構/コラム
情動的知能と職業

http://www.school.hyogo-u.ac.jp/element/study/human.html
兵庫教育大学附属小学校

http://karin30.flib.fukui-u.ac.jp/kiyo/2004/onogi.pdf
情動知能指数(EQS)と自我態度スケール(EAS)および
短縮版ネオ人格目録改訂版(NEO-FFI)間の相関的関連性
大野木裕明

http://www.flib.fukui-u.ac.jp/kiyo/2005/kiyo-4.files/oonoki.pdf
EQS(情動知能指数)とFFPQ(5因子性格検査)間の相関的研究
大野木裕明

http://elekitel.jp/elekitel/sci_talk/cont99/ai/ai01.htm
情動システムと人工知能の心
無意識の世界が感情をつくる Chap.1
http://elekitel.jp/elekitel/sci_talk/cont99/ai/ai02.htm
情動システムと人工知能の心
無意識の世界が感情をつくる Chap.2
Presented by 『ゑれきてる 1999 第75号』

PQ Prefrontal Quotientについて
http://www.sony-ef.or.jp/preschool/jissen/2003/moiwa_koen.html
ソニー幼児教育支援プログラム「科学する心を育てる」
もいわ幼稚園実践交流会開催レポート
記念講演
「子どもの脳をいかに育むか」
北海道大学大学院医学研究科脳科学専攻
神経機能学講座 高次脳機能学分野教授
澤口 俊之氏

=====
06/11/30 19:16 追加
06/12/02 08:30 More形式から通常形式に変更

前回上述の「私の考え」は、一つの概念であり、知的切断面・だまし絵的な像になる。
はっきり言ってしまえば、知的切断面・概念としての上記図は、見る人によって下記の如く複数の静的概念(多義図形の各々)になるであろう。
「わたしのこころ」とは、まさに、「個々の心」であるがゆえ、共有不可能であり、境界が「無数にある」ことになり、同一の人であっても時間経過によって「動く」ものなのである。

知情意。。。多重知能。。。_b0032038_19155927.jpg


最も広い領域を「わたしのこころ」として捉えると言うことは、
1.交換可能であるという場合、科学的な客観性にて全て記述可能という概念になる。
2.交換不可能という場合、哲学的な狭義の独我論の概念に相当するであろう。

(狭義の)「情」(関連性)を含む・含まないという境界の揺れは、現代社会における、情報・状報の使い分けがなされないままの状態・情態に相当するであろう。

もっとも狭い範囲としての「意」の領域を選択した場合には、科学的客観性に対して「自由意思」を死守したいという思いがあるかもしれない。

どれが正しくて、どれが誤っているのだろうか?

無論、「私が提示した概念図」そのものが誤っている可能性もある。
しかしながら、「何らかの概念図」がある(もしくは、「ない」)ことを、知的・幻想的に共有することが可能であるならば、その「概念図」に対して、上記のように「多義図形」としての重ね合わせを考えざるを得ないわけである。
なぜならば、それぞれの人が、それぞれの思いで、自身の心を「わたしのこころ」として、認識しているわけであるから。。。

※06/12/02 09:25
「こころ」を脳の機能として捉えたとき、すなわち、上述の図全体が脳内での思考から離れることができない(すなわち概念=知的切断の限界な)わけですが、逆説的に言えば、そうであるからこそ、認識論的唯脳論はありえても。。。存在論的はありえない。。。にて記述したように、「存在の全体性」が立ち現れてくると思います。
ただし、だからといって、「独我論」単独に陥るわけでもないのです。そういったことについては、下記を参照してください。

「わたしのこころ」については、「わたし」という存在について。。。を参照してください。
「わたしのこころと境界」については、主観と客観と交換可能性。。。交換可能性と切断面(境界)の移動。。。を参照してください。
また、私の考えるところの「こころ・たましい」の概念の変遷については、出会い。。。3。。。心と魂と。。。1。。。を参照してください。
「わたしのこころ」の極小方向への思考については、主観と客観と交換可能性。。。を参照してください。
「わたしのこころ」の極大方向への思考については、こころ。。。関連性の束縛を越えて。。。1。。。を参照してください。
「こころの定義」についての考察については、こころの定義と物理学的相互作用と。。。を参照してください。

by kisugi_jinen | 2006-11-30 04:54 | 思考。。。 | Trackback | Comments(8)
Commented by kisugi_jinen at 2012-11-05 01:00
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moto_koukousei
> 「意識」だと認識されたり、「情」だと認識されうるものは、「脳」にて「知覚されるもの」であり、本来の「意識」や、本来の「情」ではない。

※ 何を言っているのかがわかりません。この図に描かれている他者や社会、他者に対する情、自身に対する情、この描いた図を思い至ったものでさえも、脳で知覚したから描けたのでしょう。この図には描けなかった本来の情があるのでしょうか。狭義の情でも、広義の情でも、広義狭義不分明の情でも、それは、この図の中では本来の情ではないということでしょうか。図には描けない、脳に知覚されない本来の情があるのでしょうか。
Commented by kisugi_jinen at 2012-11-05 01:01
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moto_koukousei
> 多重「知能」という概念のすばらしいところは、そういった対象を「科学的に」処理可能なものとして「知能」というレイヤーを想定し(いや、限定し)ていることに尽きると思っている。
 
※ Theory Multiple Intelligenceは、科学的に処理可能な概念を用意するのではなくて、子供を育てるときにスペクトラムアプローチをすることを提案したのではないでしょうか。それと、ガードナーは「知能」を問題にしているのではなくて、その人が所属することになるコミュニティや文化で高く評価される解決・達成能力です。英語のintelligenceをガードナーは自分流に定義して使っています。 
下記のPDF(Theory Multiple Intelligence)のP7の中段にあります。
http://www.chaight.com/Wk%2011%20Gardner%20-%20Multiple%20Intelligences.pdf
Commented by kisugi_jinen at 2012-11-05 01:02
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moto_koukousei
MIでガードナーが定義するintelligenceを、日本語で知性とか知能と訳すのは誤解の元だと思います。論文の中でもintelligenceはそれぞれの分野でのabilityと説明されています。MIの理論では、社会で高く評価される能力とかスキルと理解する方が妥当だと思います。日本語で知能といえば、論理的に考える、計画を立てる、問題解決する、抽象的に考える、考えを把握する、言語機能、学習機能などさまざまな知的活動のことで、これを適当に意味拡張しては共通理解が困難になります。
Commented by kisugi_jinen at 2012-11-05 01:05
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moto_koukousei
ガードナーはintelligenceの内容や分野を限定せず、社会やコミュニティで高く評価される可能性のあるものであれば、その有用な機能を次々と認めるようです。子供が自分の特徴を活かし、自己の存在意義を高くし、生き生き活躍できるようにするという視点では大事なことと思います。
http://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/affiliate/misawa/download/MISAWA_study1.pdf
このMIは、元来は社会で高く評価されるために向上させた方が得な能力、高いと都合の良い能力やスキルという意味です。ある社会集団や文化で高い評価を得るために注目する視点です。個人の脳の内部の機能把握のツールでも、知情意に関する知的切断面でも、脳の中にあるいくつかのレイヤーを指しているのでもないと思います。
Commented by kisugi_jinen at 2012-11-05 01:08
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moto_koukousei
前頭前知能(The Intelligence prefrontal)の具体的な内容が、ここでは不明です。少なくとも、図のベン図?に、対人的知能と離れた位置で前頭前知能と描いたのでは一般の理解が得られないです。内省的知能と一部重なり大部分が別に存在するように前頭前知能を描くのも同様に一般の理解が得られないです。
Commented by kisugi_jinen at 2012-11-05 01:09
(上記からの続き)
[意:知:情]と分け、intelligence(知)を意と情の境に置いて切断面とこの図で表現したのでしょう。
> この図にて、実質的に[脳]は、[(脳)科学的に扱いうる切断面]そのものである。
> 「意」にしても「情」にしても、脳機能の一部機能である「知、特に、意思の疎通としての言語機能」を介在することで、共通の概念・構造として認識しうるわけである。
 
※ 文意がわかりません。この図で切断面が脳ならば、意や情は脳の外にあり、脳が境になって意や情があるということを示すのでしょうか。
言語機能が介在しないと意や情は認識出来ないのであれば、動物か威嚇したり、甘えたり、服従・降参の意を示す、縄張りをマークする、恐怖の感情が群に広がる、集団で狩りをするなどの行為はどう理解するのでしょうか。
感情の大きさや種類を脳の外部から測定しようとする研究は、MIの知能や切断面を無視しているから不可能であるとお考えですか。
Commented by kisugi_jinen at 2012-11-05 01:10
(上記からの続き)
また、意や自我は社会や文化から直接的に影響されることがこの図ではわかりません。
自己の身体状況や運動、言動が情意に影響することもこの図ではわかりません。
必ずしもMIを経由して影響するとは言えません。知情意は脳機能の結果であるとし、その内部の関係は不問にしたとして、薬剤やホルモンバランスの影響なども大きいのです。また脳細胞に関わる構造的遺伝的電気化学的問題も大きいのです。
認知のスタイルが情や意に強く影響するということも、MIを知的切断面として説明するとわからなくなってしまいます。
 
知情意と知的切断面、情の扱いを含めて図にまとめたとのことですが、知情意の説明や理解の役に立たせるには妥当性の低いものに、私には思えます。

Commented by kisugi_jinen at 2012-11-05 01:14
上記コメントは
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7779631.html
の回答番号6-8
http://jinen.exblog.jp/6119786/ を斜めに読み飛ばした感想の(1/3)ー(3/3)
にてmoto_koukousei氏によって記述されたもの。
<< 水平的(リゾーム的)であること... 目次:情。。。思考編。。。 >>



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。

by kisugi_jinen
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