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出会い。。。3。。。心と魂と。。。2。。。
Philotopia28の「知の森」で気づいたこと。。。
それは、このブログのメインテーマとなった。

すなわち、「情」と「境界」と「心」である。

結論から言えば、「出会い。。。3。。。心と魂と。。。1。。。」冒頭にまとめているようになる。

「心」は「(存在の)全体性」そのものから切り離すことが不可能であるにも関わらず、知的に捉えられる(切断する、概念形成される)段階で(すなわち認識される段階で)、すでに「境界」を有しているかのごとくになってしまう。

ここで、永年の問題であった「(生死を超えた)魂の同一性」という問いかけに自身で答えを出してみることとする。

「生死を超えない魂の同一性」については、「心」と同義に扱いうる。

この段階で、既に、脳という共通項はあるものの、共通項について論じだすと、各人各様の「心」の概念が全体から切り取られて(知的に切断されて)、各人にとっての「心・魂」を同一の論点から論じることすらできなくなる。
←言い換えるなら、共通項に収まりきらない部分に個々のアイデンティティがあるように、各人各様の「心」もまた共通項という観点(同一の論連)から論じようとすると、霧散してしまって捉えることができなくなるということ。(2015.07.17 02:18追記)



「生死を超えた魂の同一性」については、その前段階の「心」概念(知的切断面)が揺らぎうるために、さらに揺らぎうることは明らかである。

物質のみからの思考に限って言えば、生体を構成する物質は死後分解され、滅することなく形を変えて別の生体を構成する原料になったりする。
このような「万物は流転する」といった概念は、「交換可能な共通認識可能な概念(知的切断面の一つ)」であり、(上位にしろ、高位にしろ、創発にしろ)物質とは異なるレベルに「心・魂」を思い描くならば、交換可能な「心・情」には、このような概念(万物は流転する)はそのまま適応することはできない。(09/01/24 読みにくかったので、この段落一部修正、15/07/17 交換不可能の「不」を赤にて強調。)

にもかかわらず、一元論・二元論を超えた全体性から、「同一ではない」にしても、全体(総体)から生死を超えない個々の魂は派生してきているわけであり、それらが時間の経過と共にダイナミックに変動している「全体(総体)」によって、分裂しては吸収されるかのごとくに変化する様は想像するに難くない。

何のことはない、「私に対する私の交換可能性と絶対優位性」からスタートし、個体(わたし)としての「心・情」について考えていたことは、すなわち、「生死を超えない魂の同一性・非同一性」について、考えていたと言うことと同じことを意味している。

「わたしの心・魂」という概念は、「個」として「全体」から派生し、「わたし」として認識する主体そのものであるがゆえ、母体としての「全体(総体)」内部では、「生死を超えた、同一・非同一の【魂】の変遷」という概念に結びつくことになる。(ここから、生死を超えた【魂】は、生死を超えない「魂」と区別するために括弧を変える)

なぜならば、一過性にそういった事象が生まれる訳ではなく、ほぼ永続だと思われる期間に渡ってそのような「生死を超えた、非同一の『生死を超えない魂』の変遷」過程が繰り返されるからである。
言い換えるなら、生死を超えて変遷する【心・魂】という概念(知的切断面)を考えるならば、生死を超えた【心・魂】間にて一方的に(人によっては双方向的に)ではあるが影響を及ぼしているということである。たとえば、故人の生き様やその足跡は、現在生きている人々の心に影響を及ぼすだろうし、そういった過程を経て、次世代へ影響を及ぼそうと考え、行動する人々がいるであろう。そういったことの連綿とした受け継ぎ自身が、生死を超えて変遷する【心・魂】という概念に繋がる。

繰り返しになるが、「生死を超えた『生死を超えない魂』の同一性」がないとしても、生死を超えた【魂】の(相互ないし一方向への)連綿たる影響はあるわけである。

さらに言えば、境界の設定如何によっては生死を超えない「心(魂)という概念(知的切断面)」すら、全体(総体)と同一概念にまで拡張されうるため、その視点に立てば、(変化し、分派しながらも)「生死を超えた魂の同一・非同一性」という概念すら成立可能になってくる。ただし、この場合、時間概念は超越され、共通項としての抽象概念が主体になってしまう。いわば、超越的ではなく超越論的な概念になるわけである。この方向性は、「私」と「境界」と「宗教」について。。。で述べた一神教的世界観に繋がる。

そうして、この「生死を超えない魂の同一・非同一性」(個)と「生死を超えた【魂】の同一・非同一性」(全体・総体)における、「魂」と【魂】という概念は、「多義図形としてのだまし絵」の一形態ないしメビウスの輪であることに気づく。

なぜならば、それらは表裏一体であり、分派・吸収という過程にて連続して変化する概念の母体(イデア的存在)と派生する(様々に異なる)個体という関係になっているからである。具体的には、生者ないし個を主体に見る側から見れば「生死を超えない魂の同一・非同一性」が見え、死者ないし全体・総体(というより時間を超越した概念)から見れば「生死を超えた【魂】の同一・非同一性」が姿を現すという図式である。
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by kisugi_jinen | 2006-08-01 04:46 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
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