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私の考えの「にこごり」。。。
科学というものは、「認識主体」と「それ以外」を「分離可能」、すなわち「認識主体」を「他者(他の認識主体)」と「交換可能」という前提条件を設定することで、目覚しい進歩を遂げました。

すなわち、「認識」と「存在」を分離可能という二元論から出発しています。---(A)

しかしながら、量子力学の世界にはまり込んだとたん、「古典的な考え」では、どうしようもない事態が待ち構えていました。
「認識主体」を切り離して考えていたにもかかわらず、当の「認識主体」を切り離すことが出来ないということが「証明」されてしまった。

ただし、「認識主体」の「認識能力」の有無にかかわらず、です。
たとえ、私が「量子力学」を知らなくても、知っていても、です。

そういうことが証明されてしまった。

すなわち、
『それぞれの「観測者」とその観測者を含む全体が「宇宙の姿」を作っている』
『「観測者」を抜きにした、「宇宙の真の姿」というものは、ない。』
という証明がなされたわけです。

認識と存在を、存在側のシュレーディンガーの方程式のみで扱う一元論でなければ、矛盾するということです。---(B)

で、こういう見解にとことん異議を唱えようとする科学者は、
「この私」が「全体」とは、別に存在する。と、いわざるを得ない立場に立たざるをえない。
すなわち、(認識と存在は別のレベルであるという物質・精神)二元論をとらざるを得ない。
矛盾するのを覚悟でそう唱えざるを得ない理由は後述します。

私は、上記、科学の歴史が「交換可能性」から出発しているので、「交換不可能性」から出発すればどうなるかを、このブログの過去の記事にて考察してきました。

さて、一方で、認識と存在を、認識側の「わたし」のみで扱う一元論、すなわち(狭義の独我論がある。---(C)

なぜに、このような相対するような2方向+1方向の考え方が生じうるのか?

上記さまざまな見解を包含関係の視点から記述しなおすと、

存在と認識は独立しているのか、---(A)
認識が存在に含まれるのか、---(B)
存在が認識に含まれるのか、---(C)

という関係と同等になります。

ここで注意すべきは、(A)からスタートした「論理・理論的思考」は、(B)に向かわざるを得なかった。ということです。でないと、内部矛盾を引き起こすということです。

で、問題なのは、(B)や(C)からスタートした場合、矛盾はないのか?ということです。

私は(A)→(B)の流れを汲み、(B)にて「この私」をベースに思考を進めていますが、(B)も(C)も、「含まれる」の範囲が「全体」であったなら、同一の考えに至るということに気付きました。

すなわち、
「認識が存在に含まれ、かつ、存在が認識に含まれる」ことに矛盾が生じない条件が唯一つのみありうると、気付いたのです。

それは、
「この私」が「全体」と切り離せずに「境界」が存在しない状態。
だということです。

で、両者が無矛盾となる上記状態から出発して、「この私」と「境界」ということを中心に考えはじめました。

なぜ、全てが無矛盾となる、【「この私」が「全体」と切り離せずに「境界」が存在しない状態。】のままで思考を停止しなかったのかというと、両極端である(B)も(C)も「この私」を通り過ぎていると感じざるを得なかったからです。
すなわち、「この私」を中心にして「認識」と「存在」が交錯し、あたかも、メビウスの輪のごとくに「存在」と「認識」の側面がいつのまにか入れ替わるような感覚にあるからです。

また、一方で「わたし」と「あなた」との間の目に見えない「境界」も存在する。その「境界」は、何によって形作られているのだろうか?と、考えるからです。
旧来から、相互不可侵の境界は「タブー」という言葉で語られてきました。現在、それら境界は、いとも簡単に侵犯されており、おそらく、現在の諸問題の多くは、そういった「本来タブーであった境界をやすやすと越えてしまいうる」というところにあると感じているのも一つの要因です。
では、本来、「この私のこの」境界とはどのように形作られるのか?
そう考えたとき、「そう考えるわたし」と、「そう考えるような状態にある全体」との相互関係が、自然と境界を形作るようにあるのだろうと思いました。

したがって、存在・認識の両側面を無矛盾に捉えようとする方向から入った場合、「この私のこの」心は、(認識が存在に含まれる場合の一方の極値)無限小の仮想的な点から、(存在が認識に含まれる場合の一方の極値)無限大の「全体」に至るまで「自由に」変化しうるという考えに至りました。

で、そのような「この私のこの」心とは、「存在・認識」の二元論に舞い戻っていることに気付くわけです。

すなわち、
二元論から出発した科学は一元論に戻り、両極端の一元論は「この私」の本質を「水の中の水のごとく」両方向から素通りする。そしてやはり二元論へと向かう。

さて、「この私」を突き詰めようとすると、二元論→一元論→二元論と循環してしまう。
あたかも、メビウスの輪の両面(二元論)の(本来無いはずの)その交点に、とらえどころの無い私がいるかのごとくです。

さて、無限循環に陥ってしまうのは、私の考え方がまずかったせいなのでしょうか?
あるいは、そうかもしれません。

ただ、どうしようもないことは、そういった考えが「この私」の考えとして頑として存在するということです。

ただし、このような考え方は、すなわち、「境界がある」のでも「ない」のでもないという考え方にならざるをえないですが、それは即ち仏教的思想に近いものがあると思っています。

タイトルの「にこごり」は、固まってしまったけれど、温めなおすと、また、溶け出すであろうということからつけています。。。

注1:下線は、投稿後、2004/10/10 01:42に変更した箇所をあらわす。
by kisugi_jinen | 2004-10-09 17:18 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(0)
Tracked from 来生自然の。。。 at 2004-10-14 03:21
タイトル : 認識が存在を包含するとした場合の補足。。。
私の考えの「にこごり」。。。にて示した 存在と認識は独立しているのか、---(A) 認識が存在に含まれるのか、---(B) 存在が認識に含まれるのか、---(C) ですが、 実は、(C)において、重要な事項を書くのを忘れてました。。。 まぁ、極論の中の極論になるんで、枝葉かもしれませんが。。。 すなわち、 「私の認識」と「あなたの認識」は、同一ではない ということです。 この制約の元で(C)を考えるとどうなるのか。。。 (C-1)認識主体ごとに存在が別々にある (C-2)存在は一つで認識主体が複数あると、なります。 で、(C-1)では、各人の...... more
<< 「にこごり」の続き。。。 知と情。。。そして意。。。 >>



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。

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