知・法の境界と心・情の境界と。。。
「独仏の歴史教科書。。。」へのコメントにしようとしましたが、独立した投稿にしておきます。
当初、心・情から発生しはじめた境界が、知的・法的な境界へと一度変換されてしまうと、変更したり取り壊したりするのに、多大な労力・情・時間が必要になることでしょう。 心・情の境界と知・法の境界のずれが繰り返し境界の破壊的な変動を生み出すという事実は、ヨーロッパの歴史が雄弁に物語っているように思われます。 心・情にて生み出される境界は、本来(ボトムアップ的・動的)に作り出されます。 あたかも炎によって映し出される影の如く揺れ動き、相互の関係によって離れたり、重なり合ったりします。 しかし知的・法的に記号・概念として固定化された途端、境界はトップダウン的・静的に作用し始めます。 だからといって、(知的切断面としての)知的・法的な境界を作らないように抑制し続けることがいいかといえば、そういうわけでもない。 そういった抑圧は、心・情の求めようとするところを、短絡的に別のものに結びつけてしまう危険性が潜んでいる。昨年11月に話題になったフランスでの暴動騒ぎは、まさにそういった事態に相当するでしょう。 ユダヤの民が何故に知的・法的な境界を求め続けるのか? そういった事とも、関連しているように思われます。 境界を知・法によって固定化せざるを得ないのであれば、心・情による境界の変動幅をあらかじめ予測して、固定化される境界に付随的に(知的に)明記することで、相互の心・情が境界を越えて繋がり会うことが可能な状態に保ち続けようとすることが、本来的なのではないでしょうか? === 06/05/18 04:15追加 同様のことは、「水は答えを知っている」のような事例においても適応可能だろう。。。 物理学会での見解を中心(境界)に据えて、様々な意見(見解)を提示しておく。 あえて直接的な相互批判は載せない。 「考えさせる」のである。。。 そうやって考えた後でこそ、繋がり会うべき情が繋がり会うかもしれない。。。 ※注 06/05/19 05:50 もし、上記手法を取るとした場合、歴史的見解の相違と、政治的見解の相違と、似非科学的見解の相違など、同一土俵で扱えるわけではなく、それぞれの対応方法を編み出さねばならないだろう。。。 特に、無批判に受けとってしまう年齢層への提示を行なうときには、十分な配慮が必要だろう。。。 そういった意味で、似非科学の場合には、歴史的見解・政治的見解とはことなる別冊子のような形態で、時間軸方向にずらして(すなわち、十分な批判能力がついた段階で)、提示するのがいいかもしれない。
by kisugi_jinen
| 2006-05-18 03:52
| つれづれ。。。
|
Trackback
|
Comments(0)
|
検索
カテゴリ
最新の記事
お知らせとリンク。。。
お知らせ
●コメントスパム対策のため、承認制に変更しました(2010.09.29) ●トラックバックのリンクチェック機能を追加しました。excite以外からのトラックバックをされる場合、当該記事へのリンクを埋め込んでください。 リンク ゲストブック ---Yahooジオシティーズ終了に伴い、利用できなくなっています。 来生自然のホームページ ---Yahooジオシティーズ終了に伴い、利用できなくなっています。 鉄鼠 ---「考える」ということに向き合う。。。 Genxx.blog 移転後http://blog.genxx.com/ ---「情」を含めて専門的な立場から「こころ」を模索し続けるGenさんのブログ。。。 研幾堂 ---山下裕嗣氏による哲学のサイト。以前、形而上学についてやりとりさせていただいた。 記事ランキング
最新のコメント
最新のトラックバック
以前の記事
フォロー中のブログ
外部リンク
ブログパーツ
ライフログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||