ナンシーの原著が手元にないので。。。
★補足にあるように再投稿です。。。
いつものごとく、浅田氏のアーカイブを覗きに行く。。。以下、引用部分(段落下げているところ)は、浅田氏のアーカイブからのコピー部分です。 ナンシーの共同体論の鍵となるのは、『声の分有』(原著1982年刊:邦題は『声の分割』[以文社])で最初に提起され、『無為の共同体』で一般化された、「分有(分割=共有)」 partage という言葉である。人間はばらばらに分割されているが、まさしくそのように分割されているということを共有する、というわけだ。これはいわば不在の共同体/共同体の不在をもって実質的な共同体に代える、共同体の否定神学とでも言うべきものではないか。 この文には、前提条件が必要である。 それは、「人間はばらばらに分割されているが」に対する部分である。 明らかに「知の絶対優位性」を前提条件としている。 なぜ、そうならざるを得ないのか? 共同体に対して、否定神学的な論考を加えなければならない根本的なところが、そこに隠されているように思われる。 ラカンの理論が強い否定神学的な色彩を帯びていることはつとに指摘されるとおりであり、「性関係は存在しない」というあまりにも有名なテーゼはその典型だろう。ナンシーは、このラカンのテーゼを真っ向から否定することなく、いわばからめ手を使って、実質的に「性関係は存在する」と言うに等しいところまで行こうとするのである。 共同体の、情による結びつきを、知的に解明し、分断し、あからさまにし尽くすこと自体が、「性関係は存在しない」という否定神学的なラカンのテーゼを産み落とさせるのではないのだろうか? そういった方向性は、ゼノンのパラドックスを数学的な側面から証明することにて解決したかのごとく錯覚に陥る様に結びつくものを感じる。 原本を手に入れて読みたいところなのだが、「在庫無し」では、手の出しようも無い。。。 おそらく、ナンシーの道筋は、「情」を「知」によって炙り出す如きの手法であるような気がしてならない。。。そこには「情」という亀を「知」というアキレスが追い越そうとして追い越せない姿が重ねあわされるような気がする。。。 いや、すでに追い越しているにもかかわらず、追い越した途端に、後ろ向きに走っていることに気づかず、亀から遠ざかってしまうゆえに、ますます亀に向かって必死に走ろうとするアキレス(否定神学)からの脱却への方向性が語られているのかもしれない。。。(あたかも、ミヒャエルエンデの「モモ」にでてくる「さかさま小路」のごとく。。。) 「分有」の論理をややもすると否定神学的な色彩を帯びた抽象論から解き放とうとしている点において。「性関係の<有り>」と題されたこの小さな書物は、次に展開すべきものとして「性的なものは関係の<有り>である」というテーゼを提示して締めくくられる。 この部分は、まさに、主体から関係性への視点の移動を物語っているように思われる。。。 おそらく、そういった方向性へと「知的側面」を向かわせしめる元になるのが、 実のところ、ナンシーは、1991年、湾岸戦争の始まった頃に、心臓移植手術を受けたのだった。そして、湾岸戦争が終わる前に、「戦争、法、主権――テクネー」*[5] という重要な論文を書いている。だが、それ以降の体験を綴った『侵入者』(原著2000年刊:邦訳以文社)においてストイックで簡潔な筆致をもって書かれているとおり、ナンシーの一瞬一瞬の生は、外から移植された死んだ他者の心臓という「侵入者」によって維持されているのであり、それは耐えざる緊張と苦痛の連続なのである。 といった事柄になるのであろう。。。 注:浅田氏のアーカイブは古い(2001年)ので、ナンシーの「無為の共同体」※1 は在庫切れになっており、物ぐさな私は、手に入らないものとあきらめていた。 けれど、値段が跳ね上って別に出版されていた。※2 う~~~んんん。。。 趣味の本としては、高すぎる。。。 と。。。 そうそう。。。 最近の「世に倦む日日」は、上記共同体に対する考え方に関連するような記述が多いです。 日本語だけで完結できる先進国日本 - 『翻訳と日本の近代』から 『拒否できない日本』をめぐる雑感 - 89年から99年の頃の日米 阿修羅像と奈良の心 ★05.11.22 02:20 補足 05.11.21 03:05に投稿したのだが、 【投稿記事 非公開処理のお知らせ】との指摘を受けたので、どの部分だろ? と、考えたところ、オンライン販売の本へのリンク埋め込みが相当するのだろうと思い、リンクを外し、再投稿することとした。 ※1 無為の共同体―バタイユの恍惚から ポストモダン叢書 (7) ジャン=リュック・ナンシー (著), 西谷 修) ※2 無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考 ジャン=リュック ナンシー (著), Jean‐Luc Nancy (原著), 西谷 修 (翻訳), 安原 伸一朗 (翻訳) ===05/12/06 03:25追加 上記本をライフログに追加した。おそらく、ライフログ経由での購入による手数料が、エキサイトの収入になっているのだろう。。。知らなかった(というより、当たり前か)
by kisugi_jinen
| 2005-11-22 02:23
| 思考。。。
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from 来生自然の。。。
at 2007-12-07 04:32
タイトル : 夕焼けと海と。。。佐渡という境界。。。
「底の底がある」という認識と 「天の天がある」という認識と その何れもが正しく、「かつ」、誤っている おなじく 「底の底がない」という認識と 「天の天がない」という認識と その何れもが正しく、「かつ」、誤っている 「境界があって乗り越えられない」という認識と 「境界があって乗り越えられる」という認識と 「境界が無く乗り越えられない」という認識と 「境界が無く乗り越えられる」という認識と その何れもが正しく、「かつ」、誤っている ...... more
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kisugi_jinen at 2007-07-14 07:51
※2 無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考、ジャン=リュック ナンシー 著。。。
今年の4月になって、ようやく購入することができた。このところ忙しくてこの手の本を読む暇があまり無いのだが、つまみ読みしている。 西谷氏の翻訳に対するナンシーのコメントの翻訳も付いており、「共同体」という概念の捉え方の差異が伺えそうだ。 実をいうと、本を購入して非常に驚いてしまった。 ナンシーが、○×△※!?。。。絶句。。。 。。。その筋の人に聞いたところ、よくあることのようです。。。
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