AX
糊を使わないで作るメビウス(メービウス)の輪。。。
いや、すごいのを見てしまった。。。
四つ編みメービウスの輪。。。
一枚の紙を編みこむことで、糊を使うことなく作り上げることが出来るという。。。

。。。

。。。

。。。

。。。

。。。面白い。。。

なるほど。。。偶数回の回転で元に戻るという性質を利用するということか。。。
でも、どーやって作るんだろ?

そうそう。。。偶数回の回転で元に戻るってことは、スピンに似ている。。。
※注
偶数回の回転といいながら、メビウスの輪は180度回転を2回、即ち、360度なので、半回転を2回である。スピンは360度を2回、即ち、720度回転なので、実のところは、異なっています。


過去、「わたし」という存在について、知的切断面のズレに相当する部分を無理やり繋ぎ合わせたところという意味で、「メビウスの輪的な存在」だと書いた。

「無理やり繋ぎ合わせる」という方策を採らなくても、編みこむという手法でメビウスの輪を作ることが出来るということは、「わたし」という存在を考える上で、(私自身にとって)とてつもなく素敵な発見である。(でも、どーやって作るんだろー)

一見、矛盾した存在(繋ぎ合わせなければならないような特異点)であって、調和すらしている存在(全体の部分である故に欠落することが不可能であり、それゆえ全体と区別が出来ない)であることと、「なんとなく相同」であるところが、実に興味深い。。。

※注
「わたし」という概念に絡みつくズレは、メビウスの輪というよりも、どちらかといえばスピンの回転に相当する感覚があります。360度回転で反転し、更に360度回転で戻る故に、360度の回転だけで重ね合わせが可能なように思われる知的錯覚・知的切断面の世界。。。
メビウスの輪は、空間におけるスピンの不思議さを、身近な紙にて表現しているように思われます。


※05.11.19 06:23追加
全体と個との切断面のズレが意識されるということは、自己の疎外感にも繋がりますが、そうやって、疎外感が発生するということからも、「わたし」という存在そのものが、逆説的に全体の部分として切り離し不可能であることを物語っています。

科学的客観性という概念を推し進めること自体が、交換可能性を除外した領域に「わたし」を置くという概念(すなわち交換不可能な「わたし」を、仮想点(無に等しい)という限界への知的切断面の縮小過程そのもの)であり、特異点的な「自己」という概念を生み出しえます。

「私」と「境界」と「宗教」について。。。
および
「私」と「境界」と「宗教」について。。。(補遺)。。。
での記述は、上記概念にて説明しなおすと以下のようになります。

1.キリスト教に代表される一神教が一神教足りうるのは、この特異点的な「自己」を含む全体がひとつであって切り離せないという概念に他ならないからでしょう。

2.多神教が多神教足りうるのは、この特異点的な「自己」が複数あって、それぞれに中心を持つという概念に他ならないでしょう。

3.仏教が仏教足りうるのは、この特異点的な「自己」と「他」との境界を「無」とする「と、同時に有」とする「と、同時に、そのどちらでもない」とする概念に他ならないでしょう。

科学的客観性ではなく、主観的な立場から記述しなおすと、「わたし」という特異点が特異点ではなく、時空内に広がっているという概念が、ごく一般的な感覚になるでしょうし、「わたし」≠「あなた」という(交換不可能だという)概念は、非常に一般的な概念になります。
この方向性を極限にまで広げた概念が「独我論」になろうかと思います。

これら種々の概念の何れかが正しくて他が誤っているという宗教的・政治的な一択問題へと誘導するもの、それこそが「全体」、「わたし」という概念を含んでいる「全体」なわけです。

すなわち、たとえば上述する概念の「一つを信じるわたし」が存在したとすれば、「他の一つを信じるあなた」が存在するわけです。
両者は重ね合わせることが出来ない(交換不可能)ということです。

宗教的・政治的な圧力が、そういった対立概念を成立させうるにも関わらず、一方で「世界は一つ・全ては繋がりあっている」という概念(科学的には「大統一理論」であり、宗教的・政治的には「私と貴方は交換可能」という概念)も共有されえます。

全体と個との切断面のズレは、こういった交換可能性と交換不可能性、客観と主観という概念形成にまで関連しています。

で、スピン360度的な回転(メビウスの輪の1回転)は、「わたし」≠「あなた」という交換不可能な重ね合わせとして捉えられ、スピン720度的な回転(メビウスの輪の2回転)は、「わたしを含む全体」=「あなたを含む全体」という交換可能な重ね合わせとして捉えられることと、「なんとなく相同」だということです。

そうして、この「個と全体」の間のズレ(知的切断面)を越えることのできうるものこそが、「知が絶対優位だと認識したがること」をも熟慮した上での「情」になろうかと思うわけです。

[PR]
by kisugi_jinen | 2005-11-19 04:29 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://jinen.exblog.jp/tb/3792386
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< ナンシーの原著が手元にないので。。。 切断面のズレ。。。 >>



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索
カテゴリ
最新の記事
お知らせとリンク。。。
お知らせ
●コメントスパム対策のため、承認制に変更しました(2010.09.29)
●トラックバックのリンクチェック機能を追加しました。excite以外からのトラックバックをされる場合、当該記事へのリンクを埋め込んでください。
リンク
ゲストブック
---全体的なコメント等は、こちらへどうぞ。。。
来生自然のホームページ
---私の知の思想史。。。
鉄鼠
---「考える」ということに向き合う。。。
Genxx.blog
移転後http://blog.genxx.com/
---「情」を含めて専門的な立場から「こころ」を模索し続けるGenさんのブログ。。。
研幾堂
---山下裕嗣氏による哲学のサイト。以前、形而上学についてやりとりさせていただいた。
記事ランキング
最新のコメント
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 01:29
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 03:51
kisugi_jinen..
by Kandomonmasa at 14:28
> SumioBabaさ..
by kisugi_jinen at 10:41
「神」を完全に解明しまし..
by SumioBaba at 05:06
最新のトラックバック
究極の人工知能。。。ショ..
from 来生自然の。。。
所詮ゲーム、背景を勘ぐる..
from 来生自然の。。。
シン・ゴジラと所信表明演..
from 来生自然の。。。
ポケモンGOのお台場騒動..
from 来生自然の。。。
シン・ゴジラ。。。
from 来生自然の。。。
以前の記事
フォロー中のブログ
外部リンク
ブログパーツ
ライフログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧