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情。。。ポストモダン。。。動物的。。。
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まもなく、立ち上げてから4年になる。。。

思春期、思考の大きな変化は5年ぐらいの単位で訪れてくるという経験をした。。。
その後、「にこごり」のごとく固まっていたが、ここ数年間で融けて、また「にこごり」を形作ってきている。。。

その思考は、思春期へと回帰し、素通りし、交錯し、そうして別の切断面を私に提示した。(注4)

知的切断に対する情への思考・志向である。

情。。。ポストモダンの言うところの「動物的」というのが当てはまるのかもしれないが、「○○的」と言った途端に「知的切断面化」してしまう困難性を有している「情」。。。

それは、「知」によって捉えてしまおうとすると「○○的」という陳腐な表現に成り下がってしまうくらいとらえどころのないものであるにもかかわらず、あるときは「知」を越えるもの。。。

いや、それがあるからこそ、「語りえぬもの」という「存在」が「存在」足りうるもの。。。※

そういう「にこごり」に陥っている。。。

※「語りえぬもの」という「存在」が「存在」足りうるもの

たとえば、「りんご」というものを目の前にして、「りんご」についていくらでも語ることができる(複数の知的切断面の生成)。しかし、そうやって語ったものを寄せ集めて「目の前のりんご」と全く同一のものを作り出せるか?という問題を考えるとき、同一の分子構造まで再現したとしても、「パウリの排他律」が、「待った!」をかけてくる。
しかし、そこまで行かなくても、「大好きな、○○さんに貰ったりんご」とかであれば、「かけがえのないりんご」という制約が付いて来る。
このことは、「目の前のりんご」が全体と切り離し不可能という状態を意味している。

同じことは、神のような超越的ないし超越論的存在が、なぜに存在足りえるのか?という問題にも認められる。すなわち、「語りえぬもの」という「存在」が「存在」足りうるものであるとは、それを「認識する自己」との関係と切り離すことができないということと相同(1)であり、かつ、「語りえぬもの」、「超越的・超越論的」存在が、全体と切り離すことができないということと相同(2)である。
(1)(2)を見ていただくと分かるが、さらに、「自己」と全体とを切り離すことができないということと相同なのである。

すなわち、これら「切り離し不可能」という事態は、主として情的なもの(「情的」と言った途端に知的切断されるけれども)で結び付けられており、知的切断を越えているということになる。
知的切断を越えるといっても、知と情が直交するところに切断面が立ち現れるわけであり、どちらが主でも従でもなく、優れているとか劣っているとかいう議論すら無意味なのである

それゆえ、ポストモダンの言うところの「動物的」という表現は、誤解を招きうると思う。


注1

通常、「語りえぬもの」とは、知的切断面内部にて否定神学的な論争にも引き合いに出されるが、そういった「知」的な捉え方を越える別の側面が含まれていることに注意を払う必要があると思う。

注2

ここの文章は、「神の存在」を肯定しているものではない。
え?、だって、「神の存在は全体と切り離せない」と明言しているじゃあないか!
と、反論されるかもしれないが、この文章全体で使っている「存在」は、「物質的存在(形而下学的存在)」と「認識論的存在(形而上学的存在)」をあわせた「存在」である。
早い話、「夢・幻」で捉えたものもすべて「存在」といっているわけである。

注3

本来、「動物的」という表現は「唯脳論的」という表現と対を成していると考える。

注4 05.10.28 04:25
岩崎宏美。。。「思秋期」。。。
  ひ と り で 紅茶 飲みながら
  絵葉書なんか 書いている
  お元気ですか 皆さん
  いつか あいましょう
  無邪気な 春の語らいや
  華やぐ夏の いたずらや
  笑い転げた あれこれ
  思う。。。秋の。。。日。。。
思春期に、繰り返し、繰り返し聞いた曲。。。

  思い出は 夕焼け色に 浮かび来て
  朝焼け色に 沈み行く
同じく、思春期に作った歌。。。

思春期を貫く問題は、個人的感傷を越えて、思秋期の歌のごとくに、私の生活・思想全体へと一体化したともいえる。。。
そうして、それは、人生における夢のようなものなのかもしれない。。。

by kisugi_jinen | 2005-10-22 07:17 | 思考。。。 | Trackback | Comments(0)
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「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。

by kisugi_jinen
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