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信じるの解説偏。。。
。。。というより、コメントの制限字数があって、長文のコメントがかけない(涙)。。。

別に「目を開け続けているという夢を見ているだけ」であったとしても、「『その他』との関係がまったく無い状況」であれば、それは「目を開け続けている状況」との差異が「ない」といえる。

もし「差異がある」というのであれば、それは「私」を離れた「神の視点」から俯瞰している「とかに」なる。で、その「神」が、「お前は本当は水槽脳だよ」といったならば、その時点で「『その他』との関係が回復される」ことになり、「さらに目を見開いていく」方向に向かいうるので、「夢を見ている」に気付きうる。

でなければ、「みることも・きくことも」、「あいつかわいそうに。。。」という「情」ですら、伝わりようが無いほどに断絶しているのなら、それが「そのとき・そこにいる私」という存在の「境界」になるであろう。(というより、誰がそのことを指摘できるであろうか?)。もし、そうであるのなら、「信じる」は崩壊し得ない。
すなわち、「夢から一生覚め続けることが無い」のならば、水槽脳は水槽脳として「閉じた世界」に住まうこととなり、「信じる」は崩壊しようが無いし、崩壊するとすれば、逆に水槽脳の世界では、「それは夢を見てるんだ」ということになる。

問題は、「思い・情」が超えうる境界であるのならば、「あんた、それ、おかしぃんちゃうか?」って、いわれた(もしくはそう感じた)段階で、「ん?」と、考えることができるのではないかということである。その「ん?」の段階で、「考える」のか「考えない」のかで、「私の境界」を自ら設定してしまうと思う。

もし、「思い・情」が伝わるにもかかわらず、「何も言わない・何も伝えない・何も聞かない・何も受けとらない」という事態に陥っているのなら、「境界を境界と知った上で外部を排除する意思(方向性)」が存在することになり、「信じる」が崩壊しうるし、放置の期間が長ければ長いほど、「差異」は広がる可能性が高い。

境界と外部と私と信じるは同時に発生し同時に相互作用するものとして並列していると思う。

で、そう思っている「私」があるんじゃぁない?ってことになるでしょうが、

「総体」として動き行く「全宇宙」と「私」とを、切り離すことができないという観点に立つならば、「そう思っている「私」」が「実体」としてあるとすれば、それはすでに「総体」であり、「総体」を超えることが無い(それ以下になる)。ただ、そういう方向性のみが存在することになる。まさに「否定神学的」な方向に向かわざるを得ないし、「とことん信じる」のなら、そこまでいくべきだと思う。ただし、「外部を排除するような境界ができない」ことが前提条件になる。
って、オウムみたく、「排除すべき外部を破壊する」ということではないし、一軒一軒しらみつぶしに布教して歩くってことでもない。

それに、「境界」は複数存在し、それらが「ある」ということは、「私が生きている」ということと等価だと思う。少なくとも、肉体という一つの境界からは、逃れることができない。
「生まれる前」と「死んだ後」というのは、その境界が消えている(すなわち、「全体」にまで境界が広がっている状態)と思う。
by kisugi_jinen | 2004-09-27 00:23 | 思考。。。 | Trackback | Comments(54)
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-27 01:28
水槽脳の話の元ねたをリンクしようとして検索していたところ、私の説明よりも、もっと的確なのを見つけました。
http://www.eleutheria.com/philosophia/data/2050.html
鉄鼠さんのおっしゃる「内在主義」
http://tools.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/@geoboard/401.html
というのも理解できましたし、一石二鳥というところでしょうか。。。
って、「水槽脳」の説明してないし。。。
Commented by qsso at 2004-09-27 07:45
水槽の中かどうかは、ともかくとして、
やっぱ、結局、そういう(「境界と外部と私と信じる」)認識が
> で、そう思っている「私」があるんじゃぁない?
ってことになると思うんです。
f(x,y,z)
「境界がある」という言い方は
f(x,y,z)
の()内のハナシなんでしょうか?

さもなくば
ぼくに言わせると
「境界がある」
といった時点で、ホントは、
これはとんでもないスーパーな(外部の)次元に
飛んでいる(立っている)と思うんですが……
(掲示板にも書いてたように、ぼくの世界には境界はないんです(笑))


f(x,y,z)
の()内のハナシであれば、
これを回避するために、入不二さんみたいに
相対主義の形を採ると
………
a=f(x,y,z)
……f(……f(a)……(a)……a)………
これだと同時発生し、絶対的な外部ではない(未成立)外部
となります。
流れが作れるようですが……
これは
解決すべき方向ではない……というのが解決。
Commented by qsso at 2004-09-27 07:48
> オウムみたく、「排除すべき外部を破壊する」ということではないし
ぼくたちだって、その点は同じじゃないかなぁ
「そういった意味」での排除すべき外部は破壊しているんじゃないかなぁ?
しかし、こういったものは評価システムだからなぁ~
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-28 01:52
「境界がある」とか「境界が無い」というのは「他者・私の問題」を「私・他者」の立場で記述した形態になっています。
というか、「内部にいる本人」には、そもそも「境界」問題など成り立ちようが無い。すなわち、「すでに、本人の世界」という境界の内部であるわけです。「境界問題」が「本人」に意識されるのは、「他者」・「外部環境」との関わりで意識されます。
で、それらずべてが「私の内部」という認識(狭義の独我論)に立つ場合、「境界は無い」に等しくなり、やはり「並列する他者」がいるという認識(広義の独我論)に立つ場合、「境界がある」となる。
で、「境界」は「私」中心の場合に、「私」と「他者」を分けるものではない、水の上の波紋のように、多数の波紋が同時に発生した場合、重なり合って広がっていく。
まさに、そういった「図」を意識しています。
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-28 02:00
そうそう。。。
「「生まれる前」と「死んだ後」というのは、その境界が消えている(すなわち、「全体」にまで境界が広がっている状態)と思う。」
ですが、これは、「わたしという概念」の「生死」という意味です。肉体の生死とは異なります。
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-28 05:20
鉄鼠さんのいわれる
> オウムみたく、「排除すべき外部を破壊する」ということではないし
ぼくたちだって、その点は同じじゃないかなぁ
「そういった意味」での排除すべき外部は破壊しているんじゃないかなぁ?

は、「境界」を絶対的なものとして「他を排除」するごとく思ってしまうところに発生します。

で、そうではない。

「心の」境界は、個々の人々が、(意識しようとしないとにかかわらず)それぞれにおいて「自由に」動かしうるものであり、それを超える(というより「素通りする」)「情」もあり、また、上記コメントに書いたように、「重なり合う」あるいは「包含しあう」ことに何の制約も持たない「境界」です。

念のため、申し添えておきますが、「私・じねんの一連の投稿における「境界」は、主として「私の心」の「境界」を指しています。

良く考えたら、moriさんのブログ「不合理ゆえに我信ず」
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/
と、Philotopia28の知の森
http://bbs1.kze.ne.jp/forest
で「私の心」が主題であったため、省略している箇所があり、誤解を生みうるかもしれませんので、後日、訂正しておきます。
Commented by qsso at 2004-09-28 06:38
> 「考える」のか「考えない」のかで、「私の境界」を自ら設定して
> しまうと思う。
> 肉体という一つの境界からは、逃れることができない

これだと認識論的なものと存在論的なものをゴッチャにしてませんか?
認識論的な地平から行くと、「肉体という一つの境界から」超えてあることが
問題になるでしょう?

全体的に、きすぎさんの考えが分からない者からすると、
記述の仕方が、ところどころ
主観的なものなのか客観的なものなのか、
入り交じっているようで、ちょっとわかりにくいものに
なっていませんか?

> 「考える」のか「考えない」のかで、「私の境界」を自ら設定して
> しまうと思う。

とは考えないです。
分かってて考えないのは、単に考えないだけですし、
そのこと(考えないこと)として在るだけです。
単に考えていないのは、知りようがないから、境界であることも
分からない。

もし分かるとしたら、それを絶対的高みから見ている
自分がいると言うことになりますなぁ。
Commented by qsso at 2004-09-28 06:38
> やはり「並列する他者」がいるという認識(広義の独我論)

広義の独我論は狭義の独我論を普遍化した(隠している)に過ぎません。
(「自分は他人のことはわからないが、そのことはみんなおんなじだから良いんだ」)
狭義独我論→広義の独我論→認識論

だから、おんなじ質問をくり返すことになります。

> 「境界」は「私」中心の場合に、「私」と「他者」を分けるもので
> はない、水の上の波紋のように、多数の波紋が同時に発生した場合、
> 重なり合って広がっていく。まさに、そういった「図」を意識して
> います。

今後の思索を期待しています。
Commented by qsso at 2004-09-28 06:39
> 「重なり合う」あるいは「包含しあう」ことに
> 何の制約も持たない「境界」です。

そこまでいったら
境界という概念は要らないんじゃないかと思うんですが……(笑)

ただボクは
他者とか外部、オウム、境界とか言ってる
きすぎさんのポジションは、
やっぱり「高み」からの議論のように思えます。

そうじゃないと、
なぜ、そうだと分かるのか
やっぱり分からない。
Commented by qsso at 2004-09-28 07:03
> 「境界」を絶対的なものとして「他を排除」するごとく思ってしま
> うところに発生します。

えーそうですよ
だけど、そうは言っても
わたしたちの社会が不必要な人間(犯罪者とかオウム信者とか)を殺して排除していることも事実でしょう?
少なくともそういうことに目を背けたり、瞑ったりしてる。

ただ、ボクは、この件に関しては、境界という概念に使うにしても、
それは社会的なものに(評価システム)すぎないと思う。

> なぜ、オウム信者があれほど信じていたにもかかわらず、他者から
> みたときにあれほどこっけいに見えたのでしょうか?
> 彼らが「信じる境界」に固執していたためです

そういった意味の境界概念を用いると、
オウム信者を滑稽だと思う
きすぎさんもわれわれも
「信じる境界」に固執していないとは、やっぱいえないと思います。
Commented by qsso at 2004-09-28 18:55
繰り返しになると思うけど
もうひとつだけ、確認だけしておきたいのは、

> 「内部にいる本人」には、そもそも「境界」問題など成り立ちよう
> が無い。すなわち、「すでに、本人の世界」という境界の内部であ
> るわけです。「境界問題」が「本人」に意識されるのは、「他者」
> ・「外部環境」との関わりで意識されます。

だから、最初から言ってるように
f(x,y,z)
後出しのパー=私 f
まさに私 f という立場(が成立した)に立ったとき、他者や外部環境が意識される
でいいわけですか?

しかし、ボクは「内部にいる本人」にも
「他人」や「環境」の関わりぐらいは分かると思うんですが(現に分かってるし)……
べつだん、それが外部である必要は無いんじゃないでしょうか?
まったく理解不可能ではないということだし
まったく理解不可能だったら関わりも意識されないだろうし

そこで難しくする必要はないと思うんだけどなぁ~
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-29 01:37
しつここ、かつ分かりづらくなっているのは、狭義の独我論(「私」が最初にありきだから、「他」は全て幻想)と広義の独我論(「私」が最初にありきのみを重視)、および一元論的(というより唯物論先行、多世界解釈、「全体」が最初にありき)という認識および解釈を並列に扱ってしまおうとしているからです。
それゆえ、主観・客観がごちゃ混ぜになっているように見えるのだと思います。
(というか、「わたしのこころ」に対しては主観・客観という切り分けは不可能なんですが
「もう一つの方向性(主観と客観)からの視点」
http://bbs1.kze.ne.jp/forest/cgi/contents.cgi?fi=119&id=39
「。。。訂正」
http://bbs1.kze.ne.jp/forest/cgi/contents.cgi?fi=119&id=60
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-29 01:37
「認識する主体がいなければ全体は存在しない」(独我論)
から出発すれば、それはすなわち「私の心に境界がない」と同等になり
「全体が存在し、その中の相互作用の結果、その全体の一部を認識しうる主体が生まれた」(唯物論先行、一元論中心)
から出発すれば、全体に包含される関係の「わたし」の心ゆえに「境界がある」と同等になる。
一見矛盾する両者も、同じことを言っているとすれば、「境界がない」と「境界がある」の両方を取り扱う必要が出てくる。
その両方を矛盾なく説明可能な方法は無いか?
というところが出発点にあります。
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-29 02:13
。。。で、それを考えている「私」という観点に立てば、まさしく、
===
「だから、最初から言ってるように
f(x,y,z)
後出しのパー=私 f
まさに私 f という立場(が成立した)に立ったとき、他者や外部環境が意識される
でいいわけですか?」
===
で、いいわけです。
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-30 00:22
> > 「考える」のか「考えない」のかで、「私の境界」を自ら設定して
> > しまうと思う。
> > 肉体という一つの境界からは、逃れることができない
>
> これだと認識論的なものと存在論的なものをゴッチャにしてませんか?
> 認識論的な地平から行くと、「肉体という一つの境界から」超えてあることが
> 問題になるでしょう?

「この私のこの」心という「概念を考える」とき、物質的な境界として、「脳」・「肉体」・「家族」・「仲間」・「地域」。。。が、「存在」する。
認識論的な中心としての「この私のこの」心が、認識されうる対象としての全ての存在から、「完全に切り離されて存在する」というのであれば、「認識することすら不可能」になる。
すなわち、この点(この私のこの心)において、「認識論的な地平」と「存在論的な地平」は交錯する。量子力学の2重スリットの実験に代表される「存在としての」粒子性・「存在としての」波動性の無矛盾な説明を可能ならしめるエヴェレットの多世界解釈を採択するのならば、そうなる。
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-30 00:54
で、エヴェレットの多世界解釈を採択しないのであれば、コペンハーゲン派の解釈を採択するわけで、そうであれば、「この私のこの心」は、「肉体」→「脳」→。。。という方向に押し込められ、最終的に「物質としての」存在と「物質ではない」存在の境界にて、存在論的な地平と認識論的な地平の「間」の瑕(メルロ・ポンティの金剛石の瑕に相当)でしかなくなる。これは、(リング状の)ドーナッツとドーナッツの穴という対比として扱っても良く、「穴」がドーナッツに含まれるのか否か?ということと同じである。
ドーナッツをドーナッツとして認識するには「穴」は必要不可欠であり、「穴」を含めてドーナッツなのである。が、「穴」はドーナッツを食べていくと消えてなくなり、食べることはできない「存在」である。
コペンハーゲン派の解釈を採択するとしても、「この私のこの心」は、最終的に「物質」と「ある種の境界」を通じて「総体的・相対的に」存在することになるが、どちらかといえば、鉄鼠さんが繰り返しておっしゃる「高みからみている」存在に位置づけられてしまう。
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-30 01:03
。。。と、どちらの解釈を採択するにせよ、「この私のこの心」は、認識対象でもある「脳」「肉体」と切り離せない存在であり、相互干渉している以上、存在論的地平にある「肉体」も、また「杖の先」も(あるいは「義手」の先も)、「この私のこの心」の境界として存在しうると考えるわけです。
。。。と、やっぱり最終的に「私が考える」ということで、鉄鼠さんのおっしゃる「高み」からは逃れられない。。。
Commented by qsso at 2004-09-30 05:13
〔きすぎさん〕
> 肉体という一つの境界からは、逃れることができない
〔鉄鼠〕
> 認識論的なものと存在論的なものをゴッチャにしてませんか?

あのう~
ぼくは認識論的なものと存在論的なものを「ゴッチャにしてはいけない」
といってるんではありません。
そういうスタンスだと、困難をきたすのは、
この(認識論-懐疑論-独我論)問題の出発点で、
またまた出発点に舞い戻っては、議論が空転するだけだと思うんですネ…

(鉄鼠)
> 認識論的な地平から行くと、「肉体という一つの境界から」超えてあることが
> 問題になるでしょう?
ということは
(きすぎさん)
> 「完全に切り離されて存在する」という
ということでは、全然ありません。

むずかしくはありません。

世界を認識するということ自体が、「肉体という一つの境界」を超えている。
ということなんですが……
Commented by qsso at 2004-09-30 05:14
きすぎさんは
フッサールの自然的態度批判というのを、どう思われていますか?
Commented by kisugi_jinen at 2004-09-30 19:39
鉄鼠さんのおっしゃる「議論の空転」はそのまま「自然的態度批判」でのエポケー(判断中止)に絡んでますよね?

こと、「この私のこのこころ」という対象に関して言えば、私は、エポケーそのものが無意味だと思っています。

というより、エポケーをするとかしないとかの判断も最終的に「わたし」が担っている。
逆に言えば、そういうことができるとか、できないとかいうところに、「認識主体であるわたし」という存在があると思う。

エポケーは、「生きて・考える」わたし、を「考える」ために考えられた手段「切り口」であって、そういったものを持ち出した途端に、「わたし」が分断されるんでは?とか、思ったりします。

主観・客観とかいう切り口で「わたし」を扱えないのと同等に、「エポケー」では扱うことができないものだと思っています。

逆に言えば、そういった困難性があるから、「わたし」も「あなた」も含めて全てが存在しているともいえる。
。。。と思ってます。
Commented by qsso at 2004-10-01 07:42
> 鉄鼠さんのおっしゃる「議論の空転」はそのまま「自然的態度批
> 判」でのエポケー(判断中止)に絡んでますよね?

いえ。まったく。
エポケー??
そんなことひとことも書いてないでしょう?
前にも書いたように
f(a)
の懐疑(独我)論の初発が認識論と存在論の交叉するところにある。
(独我論は、基本的なやり方は、認識(知識)論を存在論的に再現して、その認識論を背後からなで切りにしてしまうもので……ほかに色々なやり方がある)
簡単に言ってしまうと、認識(知識)のレヴェルでは矛盾しないのに、存在論的レヴェルに直すと、
どうもおかしい(あるいはその逆)。
「培養器の中の脳」とかも、そういった一つのヴァージョンに過ぎません。

認識=「心」が肉体的存在レヴェルに備わっているにも関わらず、それを超え出ている。
それはなぜなのか?
というより、どういう風に超え出ているのか?
映画に感応してしまうのは、なぜなのか
遠くに見えるものが、遠くに見えるのはなぜなのか
………
こういった問題が、問題の原点だった筈なんです。
Commented by qsso at 2004-10-01 07:42
「認識論は世界観」といった、以前、きすぎさんの投稿を見かけましたが、
そういった言い方からすると認識論は、
いったい、どういった世界観なのか……あるいは、
どういった(ブレのない)観方(態度)を提示できるかに、
かかっているんです。
Commented by qsso at 2004-10-01 07:43
「自然的態度批判」
ですが、エポケーとか、なんにも言ってないんですが……
きすぎさんが、次のような引用をしていたので
つい、そう思ったのです。

> カントの先験的哲学が表現する「超越論的動機」に関して、”誰も
> メタレベルに立てないという原則の確認”といった解釈もあるが、
> 妥当とはいえない。それが意味するものは、当時の文脈に即してよ
> り正確に言い直せば、誰も「主観」の外に出て「客観」を直接確認
> できないという認識論的原理の確認であり、認識問題はこの前提の
> 上でのみ構想されねばならないという思考原則の提示である。「言
> 語的思考へ、脱構築と現象学」、竹田青嗣、径書房p.90-p.91


> 誰も「主観」の外に出て「客観」を直接確認できないという認識論
> 的原理の確認であり、認識問題はこの前提の上でのみ構想されねば
> ならないという思考原則の提示である。

これは「自然的態度批判」なんです。
「表象の外で確認できると思い込むような傾向」…態度(谷徹)
それが自然的態度です。
簡単にいうと、科学的態度への批判です。
Commented by qsso at 2004-10-01 07:45
きすぎさんが仰る
> 主観・客観とかいう切り口で「わたし」を扱えない
という主張と同じものです。

この現象学が、主観・客観の批判
いわば三項図式(外的対象-心的内容ー意識作用)(廣松)
というカメラモデルへの批判
であったことは(それが成功しているかどうかは別にして)
間違いないでしょう。

三項図式を批判して
直接経験(マッハモード)に戻るべきだと言ったのはフッサールでした。

これを谷さんに流にいうと
マッハの「経験こそが根源であり……」マッハの「経験は、「主観的」だが、単に主観的だというのではなく、まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである」47
Commented by qsso at 2004-10-01 07:48
で、
いままでのぼくが言ったことというのは

f(x,y,z)

a=f(x,y,z)

F(a)

a1:a2:a3:………

ff(a1:a2:a3:………)

α=ff(a1:a2:a3:………)
-----------無限
これも
三項図式なんですねぇ~
こういう態度を自然的態度として、
批判して、
現象学は登場したんですが……
そのあと、どうなったかは……廣松さん、加藤尚武さん、
あるいは現象学派のみなさんたちの本で
確認されて下さい。
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-01 22:20
そのあたりの議論、哲学の専門家で無いので、勉強になります。
ありがとうございます。

で、「主観と客観」ですが、科学の方面では、すでに「主観と客観は切り離し不可能」という認識が当然になっています。すなわち、「科学的態度」というものが、もはやすでに「客観的態度」ということでは、単純には片付けられなくなっているということです。とくに、量子理論の世界においては、です。
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-02 05:26
> 「表象の外で確認できると思い込むような傾向」…態度(谷徹)
> それが自然的態度です。
> 簡単にいうと、科学的態度への批判です。

ですが、

自然的態度で観察していた(客観的事象と思い込んでいた)事項(光の粒と2重スリットとの相互作用)と、主観側として「切り離し可能」だと思い込んでいた「この私」の認識主体そのものとが、「切り離し可能(二元論)」として捉えるわけには行かない(そうすると、さまざまな論理的矛盾が生じてくる)という自体に陥った(既に20世紀の話)。
で、主観と客観を一元論的に論じれば無矛盾になるという発想から、エヴェレットの多世界解釈が生まれた。
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-02 05:39
哲学的なものと科学的なものとの2項対立があるとすれば、哲学側からは狭義の独我論・認識論的一元論、科学側からは統一理論・量子理論的一元論という図式になろうかと思うわけです。
で、よくよくかんがえれば、両方とも真なわけです。
これら二つの方向性は同じ物事を二つの方向から見ようとしている態度そのものに他ならず、その同じ事物は「この私」そのものなわけです。で、両者の「境界」に「わたし」があるのではない。両者を含んで「わたし」がある。というより、学問的な領域(論理的・理論的に攻めうる領域)で扱うことのできる「言葉」や「物質」(に還元可能なもの、「知」「意味」「身体」)が磁石とすれば、「このわたしのこの」心(情・意思)とは磁場のような存在だと思うわけです。
すなわち、一見対立するような一元論的方向性は、「わたし」を素通りしてしまっている。というより、「わたし」が、一見対立するような一元論的方向性を素通りしてしまっている。
それでいて、「今・ここで・まさにそういうことを考えているわたし」がいる。
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-02 05:43
知に対する情や意は、「どちらかが上位の概念」ではなく、それこそジャンケンのグー・チョキー・パーです。
(狭義の)哲学や(狭義の)科学で扱いうるのは、「知」の領域です。
「知」の領域で、「情」や「意」を扱おうとするとき、必然的に「言葉」や「記号」や「物質」といったものに還元せざるを得ない。
それは、「このわたし」ではなく、「このわたし」の一側面でしかない。
そういうことを、言っているつもりです。
Commented by qsso at 2004-10-02 06:22
>……とくに、量子理論の世界においては、です。

ですねぇ
伝統的な近代科学でうまく行かなくなったからでしょうなぁ~
でも、科学的には、客観性が確保されない限りは、
やっぱり科学的な態度とは言えないでしょう?。

あーでも、そんなことまでハナシを広げていると
拡散してしまうなぁ。
ぼくはそんなことにはあんまり興味ないし。
科学を批判するつもりもないし。
「あーそう」ってな感じなんです。
もともと、そういうハナシではないし。

ちなみに科学者(物理学者)が哲学者を批判した「知の欺瞞」は読まれましたか?
Commented by qsso at 2004-10-02 06:22
「我々が通常やっている科学というのは、例えばある物質の濃度に
しても構造にしても、その状態を記号として指定するということを
やっているわけです。だからものを指定する方法というのが、その
人の見方とか観測となるわけです。そこで観測装置が沢山あって話
が通じないといった話になると、どうしても観測装置の客観性が問
題になってしまい、客観性を持ち出すと、すべての観測装置を指定
可能な観測装置の実在が前提となります。そうすると、ある観測者
が想像できる観測装置以外の任意の観測装置を指定できなければな
らなくなって、そこからたちどころに矛盾が出てくる。いまのとこ
ろ、こういった矛盾は考えないという形でもって、とりあえず、皆、
話が通じるという結果において、観測装置の客観性が保証されると
言明するわけです。まさしく、だからこそ科学というのは実在論と
関係ないわけですが、この点を明らかにすると、観測というのが実
はいわゆる実在論者がもっているイメージ、観測装置を媒介とした
ものではなく、行為にすぎないということが逆照射されます。…
…」
〔郡司ペギオー(58頁)『現代思想』vol.24-11〕
Commented by qsso at 2004-10-02 06:24
おおよそ複雑系(確率や観測問題)と言ったもので興味があるのは
(ほとんどのものは、おしなべて社会的なものにぐらついていく)
ぼくにとって、興味があるのは
実在論か、非実在論か
隠されているのか、隠されていないのか
単純なんです。
よかったら、これでも読んで下さい。
http://tesso.exblog.jp/821371
Commented by qsso at 2004-10-02 06:29
> 哲学側からは狭義の独我論・認識論的一元論、科学側からは統一理
> 論・量子理論的一元論という図式になろうかと思うわけです。で、
> よくよくかんがえれば、両方とも真なわけです。

ぼくは真とか正しいからとか言ってないですよ。
一つの態度を貫けば、自分の考えていることに
どこかにおかしいところが
出て来るんじゃないか思って探究してるだけです。

なんかボクの発言を主張みたいなもんと勘違いされているんでは……
Commented by qsso at 2004-10-02 07:29
> 「知」の領域で、「情」や「意」を扱おうとするとき、必然的に「言
> 葉」や「記号」や「物質」といったものに還元せざるを得ない。そ
> れは、「このわたし」ではなく、「このわたし」の一側面でしかな
> い。

誰も「情」や「意」がないとか
言ってるんじゃないでしょう?
(もしかして、そういうブンガク理論をしたいのなら
 そういって下さればよいのに……)

もともと水槽ネタで
認識論のハナシをしていたんだから
認識論というのは「どういう知識(方法)だったら正しい言えるのか」とか「……どのような方法を用いれば世界について知ることができるのか……」(戸田山)
とかいうハナシなんですから~

学問的領域は、そういった第二次性質みたいなものを
置き去りにしている……批判はもういいでしょう

http://tesso.exblog.jp/1104272
伊勢さんのも読んで下さい。
Commented by qsso at 2004-10-02 07:39
ところで
主客を廃棄された
きすぎさんは
> 「私の心」の境界を垣間見る
と仰られていますが、
いったい、どこで、どこに境界を見るんですか?

情や意ですか~?
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-02 08:06
「。。。そこからたちどころに矛盾が出てくる。いまのとこ
ろ、こういった矛盾は考えないという形でもって、とりあえず、皆、
話が通じるという結果において、観測装置の客観性が保証されると
言明するわけです。まさしく、だからこそ科学というのは実在論と
関係ないわけですが、この点を明らかにすると、観測というのが実
はいわゆる実在論者がもっているイメージ、観測装置を媒介とした
ものではなく、行為にすぎないということが逆照射されます。…
…」
〔郡司ペギオー(58頁)『現代思想』vol.24-11〕
ですが、「こういった矛盾は考えないという形」は、もはや「エヴェレットの多世界解釈」に対する、古典物理学的な認識「コペンハーゲン解釈」の観点でしか捉えていない記述です。「エヴェレットの多世界解釈」での「究極の一元論」は「そういった矛盾を統一してしまいうる」方向性をはらんでいます。
で、私ですが、「主観」も「客観」も破棄してはいません。「私の心」は、厳格に定義可能な「知」のみでできているのではない。ということです。

Commented by kisugi_jinen at 2004-10-02 08:25
===
。「エヴェレットの多世界解釈」での「究極の一元論」は「そういった矛盾を統一してしまいうる」方向性をはらんでいます。
===
と、書きましたが、「方向性をはらんでいます」というより「まさに、無矛盾に統一するための解釈」です。
ようするに「わたし」も「意識」も「情」も「魂」も、すべてを「物理学的・量子理論的・一元論的」に記述しなければ矛盾するし、記述すれば無矛盾になる。それゆえ、そういった記述をしようという解釈です。
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-02 08:37
で、「客観」→「主観」という方向での無矛盾な説明可能性を把握した私は、「哲学」の専門家でもないので、聞きかじり、読みかじりの中途半端な知識のまま、「主観」→「客観」という方向での無矛盾な説明可能性の方向を「哲学書」の中に見出そうと思いました。
両者の狭間に「私の本質」を見出せるかも、みたいな感じでしたが、数年前、私のサイトで、そういうことが無意味であることを知りました。両者が「わたし」を素通りするという感覚は、そのとき覚えました。
で、「知・情・意・身体・すべて」を含む総体としての「わたし」から、「知」を切り離せないことを自覚し、今の思考に入っています。
Commented by qsso at 2004-10-02 08:59
> 私ですが、「主観」も「客観」も破棄してはいません。
だったら、きすぎさんにとって、量子論(観測)の問題はなんだったのぉ~

知識を披露したまでなんですか?
はっきりいってシリメツです。
Commented by qsso at 2004-10-02 09:09
郡司の引用を持ち出したのは
コ解釈かエ解釈かはどうでもいいことでしょう?

> で、「主観と客観」ですが、科学の方面では、すでに「主観と客観
> は切り離し不可能」という認識が当然になっています。すなわち、
> 「科学的態度」というものが、もはやすでに「客観的態度」という
> ことでは、単純には片付けられなくなっているということです。と
> くに、量子理論の世界においては、です

に対するものです。

なんか関係のない方向に持っていってないですか?
Commented by qsso at 2004-10-02 09:16
科学的タームは科学の場で話すのが良かろうと思います。
どう考えても
この議論の上では、直接的な関係がないように思うんですが……
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-02 09:22
> > 私ですが、「主観」も「客観」も破棄してはいません。
> だったら、きすぎさんにとって、量子論(観測)の問題はなんだったのぉ~
>
> 知識を披露したまでなんですか?
>

いや、そういうことではありません。
私の考えのベースを示しただけです。
「主観」「客観」は、分離不可能な「方向性のみ」を持った概念だと思っています。
科学を外部から見た場合、あたかも「客観」と「主観」を分離しているかのごとく見えてしまいますが、実際に現場にかかわっている人たちは、そういった方向性は意識していますが、けっして「分離」したりはしていません。したがって、「科学的ターム」も「哲学的ターム」も「知」を離れてあるわけでないと思います。
Commented by qsso at 2004-10-02 09:25
> 「主観」→「客観」という方向での無矛盾な説明可能性の方向を
> 「哲学書」の中に見出そうと思いました

哲学者は、そんなことには興味がないと思います。たぶん。
問いを作るのが商売だから~
Commented by qsso at 2004-10-02 09:30
問題なのは、
きすぎさん
> 「私の心」の境界をどこに、どこで垣間見ているか?
だけです。
Commented by qsso at 2004-10-02 09:41
> 両者の狭間に「私の本質」を見出せるかも、みたいな感じでしたが、
> 数年前、私のサイトで、そういうことが無意味であることを知りま
> した。両者が「わたし」を素通りするという感覚は、そのとき覚え
> ました。

早い話が、科学も哲学も役には立たんということですなぁ

> 数年前、私のサイトで、そういうことが無意味であることを知りま
> した。両者が「わたし」を素通りするという感覚は、そのとき覚え
> ました。

無意味であることがわかったなんて、スゴイじゃないですか?

> で、「知・情・意・身体・すべて」を含む総体としての「わたし」
> から、「知」を切り離せないことを自覚し、今の思考に入っていま
> す。

「知」を切り離せないことを自覚しているんだったら
哲学は少しは役に立つんじゃないですか?

そこで、
「どういう知識(方法)だったら正しい知識と言えるのか」とか「……どのような方法を用いれば世界について知ることができるのか……」(戸田山)
というのが、この話の出発点だったと思うけど……
Commented by qsso at 2004-10-02 09:48
> 「科学的ターム」も「哲学的ターム」も「知」を離れてあるわけでないと
> 思います。

ぼくもそう思いますよ~

> あたかも「客観」と「主観」を分離しているかのごとく見えてしま
> いますが、実際に現場にかかわっている人たちは、そういった方向
> 性は意識していますが、けっして「分離」したりはしていません。

で、他のみんなとはちがって、きすぎさんは分離しているんですねぇ?
破棄してないから~
(また別の意味が付くのかなぁ~しりとりゲームみたいだなぁ)

けっきょく、量子論がベースになっている
というのはどういう意味?
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-02 10:12
> > あたかも「客観」と「主観」を分離しているかのごとく見えてしま
> > いますが、実際に現場にかかわっている人たちは、そういった方向
> > 性は意識していますが、けっして「分離」したりはしていません。
>
> で、他のみんなとはちがって、きすぎさんは分離しているんですねぇ?
> 破棄してないから~

いや、誤解があるようですねぇ~

ようするに、「主観的」とか「客観的」とかは、意識の持っていき方で、どちらに重点をおくかという程度の問題です。
他のみんなと違っているわけではないです。
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-02 10:17
そもそも、「客観的」というのは、「交換可能性」という感覚で用いています。
Commented by qsso at 2004-10-02 17:58
> 「主観的」とか「客観的」とかは、意識の持っていき方で、どちら
> に重点をおくかという程度の問題です。

その「意識の持っていき方で……「主観的」…「客観的」」といったときの、
その重点を配分している意識、絶対的主観性(私)というのが、やっぱり大事なところですよねぇ。
(そういう主観性って、量子論というよりも、フッサールの超越論的主観性とか志向性とかとの議論と噛みあうんじゃないかなぁ?とは思うんですが??)

そうなると、
きすぎさんの
境界は、どこにあるんですか?
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-02 21:12
> そういう主観性って、量子論というよりも、フッサールの超越論的主観性とか志向性とかとの議論と噛みあうんじゃないかなぁ?とは思うんですが??

そうなんですか。。。
逆にそういうことであれば、量子理論とフッサールの超越論的主観性とか志向性とかとの議論は、同一のことを言っているのかもしれませんね。。。

で、私の境界。。。
↑この一つ上。。。
「変わり行く面影。。。」にも書いていますが、私の「こころ」という側面では、ダイナミックにその境界は変化し、「情」の方向性において、そういった境界は素通りしてしまっている。「知」の側面では、論理的な無矛盾が要請されるため(また、理性的な側面が強調されるため)強固な壁が意識される。「身体」の側面では、時間軸を超越したところでは無限を意識する。

すなわち、境界があるようでない。
「この私のこの」を中心として、外へと広がっていく。
「他者」・「全体」との相互作用が複数のレベルで複数の「境界」を形作る。
そういったところでしょうか。。。
Commented by qsso at 2004-10-03 09:58
結局、
なにがどう量子論的なのか、なにがどう揺らいでいるのか、
言葉だけで
分かりませんでした。
Commented by qsso at 2004-10-03 10:00
> おそらくそれは、「この私」と「全体」との相互作用によるのだろうと思う。

と思うときの「私」を対象にしている筈なんですがネ。。
もういいや。
Commented by qsso at 2004-10-03 10:04
とにかく、きすぎさんのなかで
> 「主観的」とか「客観的」とかは、意識の持っていき方で、どちら
> に重点をおくか

そういう「重点」を配分している意識=絶対的主観性(私)みたいな
立場があるということはタシカなんでしょう~

しかも、きすぎさんが
「境界がある」と言ったときは、
さらにそのうえの他者も私も俯瞰できる(超越的主観性みたいな)立場にあって、
そうとう高み(独我論の独我論:独我論に屋上屋を架す)からの
議論になっているように、ボクには思えるんですが……

そのチョージン(タカピー)な立場から、エポケーして
> 「我に返る」瞬間、いままで意識しなかった「私の心」の境界を垣間見る。

というわけでしょうか?

でも、きすぎさんは
> 私は、エポケーそのものが無意味だと思っています。

と言ってたなぁ~
また、これは違うんでしょうなぁ~

まぁいまのボクには、
なんだかよく分からないハナシでした~以上。
Commented by kisugi_jinen at 2004-10-23 03:53
良く分からない状態にならざるを得ないのは無理もないと思います。。。
通常、矛盾しあう(「超え得ない」と、「超え得る」などの)2方向を同時に考えているのが、そういった感覚にさせてしまったのだろうと思います。
それもあって、私の考えをまとめなおし、さらに投稿しておきました。
一見対立する二項の、相互超越とも思える状態があるとき、
1.片方を排除する
2.(仏教的に)エポケーする
3.両方を受け入れる
といった選択肢があると思います。
私は、1,2の立場を取りたくない。3の立場で、考え続けて行きたい。
。。。そう思っている状態です。
<< 変わり行く面影。。。 信じる。。。 >>



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。

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