信じる。。。
「奇跡が起こったから、○○を信じる」
○○を信じる側から見ても、○○を信じない側から見ても、おかしな話です。 「奇跡」という外部の状態にあまりにも引きずられすぎている。 「私(あなた)自身、どう考えるのですか?」というところが、すっぽり抜け落ちている。 「奇跡が起こったから、○○を信じる」は、「奇跡」と認識するものに、すべての拠り所を求めようとするがため、本当の意味で「信じている」とはいえない。 また、 「△□が言ったから、○○を信じる」も、「信じる」の拠り所を△□に求めているので、本当の意味で「信じている」とはいえない。 で、どんな場合でも、最終的には、「この私が、こう認識し、こう考え、こう思うから、○○を信じる」となる。 すなわち、最後の拠り所は「信じている」自分である。 「奇跡が起ころうと起こらないとにかかわらず」信じるべきものは信じる。 ただし、都合の悪いものにふたをして信じるのではない。 さて、私は、「この私のこの」には中心があって、境界が無いとしました。境界は、自身が信じる範疇と、考えと、思いと、人間関係と、社会的状況と、ありとあらゆる物事との諸関係にて変化しうるものと考えています。 したがって、科学的・合理的・分析的な手法で突き詰めようとしても、それは中心に向かって逃げていくだけ(というより、そこの抜けたバケツを使って水の中で水を捕まえようとするがごとく素通りしてしまうだけ)で、捉えようが無い。 そういう意味で、他と切り離して考えることが不可能だと思っています。 もし、突き詰めようとすれば「否定神学」となります。 すなわち、全宇宙の全真理とやらがもしあったとして、それらを総動員しても「この私」には到達不可能になろうかと思います。 したがって、時代・民族を超えうる人と人との共感は、ミラーニューロンや脳波など「脳の働き」にその根本を求めることもできるでしょうが、そういった「脳の働き」を成り立たせているもの(環境を含めてありとあらゆるもの)全てが、いわゆる「共感」などの相互作用を生み出すことに関与していると思います。 そういう観点から見れば、人の心の相互関係が、非常に奥深いものであると感じ取れるように思います。 「信じる」ということが、「この私」を抜きにして成り立たないのと同じように、「この私」は、「他の全て」を抜きにしては、成り立たない。 そして、「他の全て」の一部にでも目をつぶれば、「信じる」は崩壊する。 非常に異なったことを言っているにもかかわらず、この三者は、密接に関連しあっているように思います。
by kisugi_jinen
| 2004-09-26 03:10
| 思考。。。
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Trackback(2)
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Comments(11)
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from 鉄鼠
at 2004-09-26 08:32
タイトル : きすぎじねんさん 祝ブログ開設!
信じる。。。 ヒユヒユ~ゥ ブログナカマが増えた~ オレにとっては、 楽天新規参入よりビッグニュースだなぁ~ 初tb~ 送っちゃおう(^_^)v これを見ている皆さんも… お知らせ下さい~... more
Tracked
from 来生自然の。。。
at 2004-09-27 00:23
タイトル : 信じるの解説偏。。。
。。。というより、コメントの制限字数があって、長文のコメントがかけない(涙)。。。 別に「目を開け続けているという夢を見ているだけ」であったとしても、「『その他』との関係がまったく無い状況」であれば、それは「目を開け続けている状況」との差異が「ない」といえる。 もし「差異がある」というのであれば、それは「私」を離れた「神の視点」から俯瞰している「とかに」なる。で、その「神」が、「お前は本当は水槽脳だよ」といったならば、その時点で「『その他』との関係が回復される」ことになり、「さらに目を見開いていく」方向に向かいうるので、「夢を見ている」に気付きうる。 でなければ、「みる...... more
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qsso at 2004-09-26 08:46
ども
きすぎさん 要するにきすぎさんのいいたいことは グチョキパーの後出しのパーにならないですか? 「他のすべて グー」「この私 チョキ」「信ずる パー」 これらが際限なく反転するパースペクティブ(三竦み)ということでしょう? ボクは、それを思惟し信じようとする「きすぎ」さんのほうに興味があるなぁ(笑)。 ボクは「いわゆる世界」がどうなっているかには興味はない。 それを思惟(祈念)する「私-世界(きすぎさん)」に興味があるんです。 私 f(「他のすべて グー」x,「この私 チョキ」y,「信ずる パー」z) 後出しのパー=私 f 信ずる。
0
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qsso at 2004-09-26 08:52
史上最低の人工無脳論者であるボクからすると
信ずることさえできれば、ミラーニューロンも、アクティブタッチも、プレートテクトニクスも、脳も、私も、他人も、国家も、社会も、人間も、「いわゆる世界」も……すべては要らないんじゃないですか? > 「他の全て」の一部にでも目をつぶれば、「信じる」は崩壊する そうなのかなぁ~ 信ずることは、なにかに「沈黙」することだから 文字通り、何かに目を瞑ることなんだと思う。 オウム信者なんかみんなそうだったんじゃないかなぁ~ ぼくに言わせると、信じることができれば、 他のすべてを抹殺できるかも? だからってワケじゃないけど、西の空のしたでは、信じる人たち同士の人工無脳的攻撃(デカダン)が起るわけでしょう? ボクはそれに目を背けたり、瞑ったり(笑) だから哲学は眼が充血しても、矢が飛んで来ようとも眼を開け続けよ! というわけでしょう? 醒め続ける夢=哲学 逆に言うと醒めることが禁じられた夢 もっとも、それは他人のためでも平和のためでもないが(笑)
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qsso at 2004-09-26 09:07
きすぎじねんさん、blog開設、おめでとうございます。
まだよくトラックバックの使い方が分かっていないmori夫です。 互いに独立記事としても読めるものを書いているのだが、テーマはつながっていて、対話にもなっている、というようなことが実現できるのかな? トラックバックをした側の記事から、被トラックバック記事を見ることはできるのでしょうか? きすぎじねんさんの提起している「信じる」は、難しいです。すごく。 「証拠はないし、証明もされていないけど、私は自分の直覚能力を信じるから、○○○を信じる」というのが、正しい「信じる」である。 ということをおっしゃっているのかな?
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kisugi_jinen at 2004-09-26 15:39
「信じる」の中心は「私自身」。
すなわち「私が私の存在を信じる」が核になる。 「それ以外」は、本来、「絶対に信じられない」。 で、「私自身」というとき、「私の境界」が問題になる。 「私自身」から始まって、どこまで信用できるか? それが「信じる」における「私」の境界になりうる。 独我論の根本も、結局のところ、そこになろうかと思うわけです。
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kisugi_jinen at 2004-09-26 15:44
さて、「私」とその「境界」ですが、「私」が「信じる」境界は、「私」が、勝手に決めた境界です。でも、その境界は、「他者」から見れば、無いに等しい境界になる。
なぜ、オウム信者があれほど信じていたにもかかわらず、他者からみたときにあれほどこっけいに見えたのでしょうか? それは、彼らが「信じる境界」に固執していたためです。外部を遮断してしまう境界は、「私以外のその他に目をつぶっている状態」です。 すなわち、「都合の悪い状態にふたをしている状態」です。 そういうことを言っているつもりでいます。。。
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kisugi_jinen at 2004-09-26 16:00
「信じる」が崩壊するとは、この世に「私一人のみが存在」であると認識し、「その他」が仮想現実なのであれば、「信じる」は崩壊しない(というよりしてはならない)。
また、「私」と「その他」が存在し、「その他」が仮想現実でなく、「私」と「その他」が、完全に切断されているのなら、「私」にとって「その他」は、「存在しない」と等価になり、おなじく「信じる」は崩壊しようが無い。 でも、「私」および「その他」はまさしく「存在する」というのであれば、そして「私の信じる」に「境界」が存在すれば、「私」と「他の全て」とが「切り離し不可能」なのであれば、「他の全て」の一部に対してでも目を閉じれば(無視すれば)「信じる」は崩壊しうる。 。。。ということです
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kisugi_jinen at 2004-09-26 18:06
moriさんへ、
ここのどの記事を使ってもいいから、トラックバックためしにやってみては? 繋ぎたい記事に書いてあるこちら側のトラックバックURLってのをmoriさんとこで記事投稿するときに設定すると、自動的にそちら側の記事と、こちら側の記事に相互リンクが付くようなものです。
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qsso at 2004-09-26 19:04
なるほど
きすぎさんの「信ずる」が崩壊するとは 境界という概念を使うんですか? 境界を設定すると「信ずる」が崩壊すると言うのですねぇ。 オウム信者は世界を全面的に信じていないんだと だから外部との境界を設けるのだと……そういいたいわけですねぇ すなわち、きすぎさんの 「信ずる」が崩壊するとは「信じない」とは違う意味。 逆の意味と言っても良いかもしれない。 たとえば、この文を読むと > 「信じる」が崩壊するとは、この世に「私一人のみが存在」である > と認識し、「その他」が仮想現実なのであれば、「信じる」は崩壊 > しない(というよりしてはならない)。 要するに >「信じる」が崩壊するとは……「信じる」は崩壊しない 境界を設定する=「信じる」は崩壊しない=「信ずるo」が成立 ということになりますよねぇ。 ぎゃくに、きすぎさんの「信ずる」とは 全面的に受け入れること=「信ずるk」が成立 まったくアベコベの評価するわけですねぇ~ いまの生をありのまま肯定し、全面的に受け入れて anything goes で行け!っていうことで良いですか? これって、やっぱ境界無いですよねぇ?
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qsso at 2004-09-26 19:07
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qsso at 2004-09-26 19:10
ちょっと引っかかったのは、
> 「私」とその「境界」ですが、「私」が「信じる」境界は ボクが言いたかったのは、ここの 「「私」が「信じる」境界は」と言ったときに 私 f(「他のすべて グー」x,「この私 チョキ」y,「信ずる パー」z) f(x,y,z) で考えれば そのときのこの私は y ではなく f じゃないんですか? ということなんです。 y f ( x z)
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