私の私に対する交換可能性と絶対優位性。。。
もしも、クレオパトラの鼻が低かったなら。。。
歴史上の事柄を語るときに、「もしも」という仮定を行なう場合がある。 ありとあらゆるものが等価であって交換可能であったなら、すなわち、差異が全く見いだせなかったならば、個々の人々の意識・思考はどのようになるであろうか? そこまで行かなくとも,「私に対する私」は,「完全に交換可能」なんだろうか? この「完全な交換可能性」に対する思考こそが、自己同一性を考察する上で必要不可欠な思考になりうると思われる。 また,クローン人間に対する倫理を語る上で、非常に重要な事柄となりうるであろう。 はたして「完全な交換可能性」は,ありうるのだろうか? 物理学的な立場で言えば、完全な交換可能性を有するものは存在し得ない。エネルギーレベルのみでの交換可能性とか、限定条件を課せば可能になりうる。 人間の場合、同じように、自動車の運転者の立場とか、範囲をおおざっぱに絞ることによってのみ、交換可能性が成り立ちうる。そういう限定を科したとしても、切り離せない(わずかな)条件の違いが「完全な」交換可能性を排除しうる。(運転レベルとか、反射神経とか) すなわち、遺伝学的に全く同一の生物が存在したとしても、ほんの数センチ離れていただけで条件が異なってくる。それ故、一卵性双生児の運命は、ごく僅かずつ異なっている。 以上、2003/03/23 23:10 に投稿した156 「交換可能性」 より さて。。。 過去の自己と現在の自己と未来の自己、これらの間における自己同一性を考える時、交換可能性の立場から考察するとどうなるだろうか? これはすなわち、同一性に対する差異を見つけだす作業にも似ているが、交換可能性という立場では、そのもの自身のみに目を向けただけでは語りえず、そのものに関連するありとあらゆる条件(環境)が関与してくる。 ざっと考えただけで,「自己の自己に対する交換可能性」は不可能のように思われる。一瞬前の自己と今現在の自己は,微妙に異なっていると思える。なぜなら、「私は変わっていない」と思っていたとしても、確実に周囲の環境(状況)は変化しているのだから。。。 以上、2003/03/23 23:13 に投稿した157 「自己の自己に対する交換可能性」より一部改変 この「自己の自己に対する完全な交換可能性が非成立」ということと,「自己の自己に対する絶対優位性が成り立つ」ということが,実のところ「表裏一体的」に等しい内容を表しあっていると考える。 これは,「自己言及」(私が考える私が考える。。。)という行為が,時間(変化)と密接に結びついているならば、「私」と「私が考える私」、「私が考える私を考えていた私」とは、もはや同一ではなく、「交換可能性が成り立たない」ということを意味するからである。すなわち、未来における選択肢を複数持ちうる私のほうが、選択肢が一つの過去に移行していく私に対して、どの選択肢を選ぶかを決定できるゆえに「自己に対して絶対優位になる。 しかし,「自己言及」という行為が,時間(変化)という概念から離れていれば、「私」と「私が考える私を考えていた私」とは、(時間概念を欠落させた言葉の論理性に基づけば)同一であるので、「交換可能性が成り立つ」ことと等価であり、私は選択して決定するはずの内容をずーっと保留し続けるという事態になる。(←こんなことは不可能なので、時間軸に沿った変化を無視するわけにはいかないと思うのだが、エントロピーとネゲントロピーと時間の進行方向と意識との複雑な問題として棚上げにすることも可能。。。いや、やっぱ、おかしいでしょ!) 以上、2003/03/23 23:17 に投稿した158 「自己の自己に対する絶対優位性と時間(変化)」より一部改変 で、「自己の自己に対する絶対優位性」とは、「自己に対してのみ」成り立ちうる「絶対優位性」で、時間軸と分離不可能な「自己認識・自己言及」にのみ基づいている。これは、自己に対する決定権が最終的には自己にあるということと等価である。 すなわち、自己に対する自己の交換可能性が成り立たないゆえに、自己に対する自己の絶対優位性が「自己言及」により担保される。 さらに、この思考が外側に向かっていくとき、「唯一絶対神」への信仰と、方向性が同一になりうる。 。。。この話の続きは、次回。。。 え? 読みたい人は、ここを参照。。。
by kisugi_jinen
| 2004-09-25 03:59
| 思考。。。
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from 来生自然の。。。
at 2005-01-07 04:38
タイトル : 主観と客観と交換可能性。。。
主観と客観との対置は、過去から良く行われている。言葉による対置から、両者は「切り分けられるのでは?」という誤認がなされることがある。しかしながら、両者は、方向性のみをあらわすものであり、「切り分けること」はできない。 「科学的・客観的に事物を見る。」といったとき、観測者である「この私」と「あなた」とが「交換可能」だという限定された条件を持ち込んでいる。ようするに、「この私」と「あなた」とが入れ替わることで変化する要因があったとして、対象に対する影響の割合のうち、そういったものの影響を「無視できる...... more
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