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認識論的唯脳論はありえても。。。存在論的はありえない。。。
養老氏の唯脳論は、「この私の」認識としての側面から脳を捉えたものにしか過ぎない。
過去、私のHPでは、認識論的唯脳論とわざわざ認識論という用語をくっつけさせていただいていたぐらいである

にもかかわらず、その知的切断面は鋭いものを感じざるを得ない。

であれば、「この私の」存在としての唯脳論は成り立つのであろうか?

この点に関しては、「カミとヒトの解剖学」内部でも間接的にではあるが触れられているように思われる。

すなわち、(逆説的に)「脳」のみでは「この私」が成立し得ないことが明らかであるということを示していると考える。(養老氏にしてみれば、当たり前のことなのかもしれない)

脳のみに「この私」の存在を託すこと自体、あまりにも惨めであり、あまりにも悲しすぎる。

※1
「この私」の「この存在」とは、知的源泉への収縮などでは決してありえない。それは、必要条件であって、十分条件ではありえない。
「この私」の「この存在」の十分条件とは、「この私」が総体(全体)から切り離されえない以上、総体(全体)そのものになる。

もし、「この私」と「それ以外」との間に何がしかの境界を設定するのであれば、


そこには、知的切断面による虚しい境界を感じざるを得ない。

知的切断面は、ありとあらゆる対立の間に入り込んで行く。。。

もっともらしいアトヅケ理由を求める情の対立。。。

知の対立に情的な対立が付随してくる場合もある。。。

何が民族を分断し、何が争いを引き起こすのだろうか。。。

何故に独裁者が現れ、何故に人々は流されるのか。。。

知と情の二重の境界線。。。

もはや越えることの許されない境界線を肉体的・知的に越えることは、死を意味しうる。。。

越えて行くことの出来るものは、情しかありえないのであろうか。。。

境界をもってして、二つの世界にスッパリと切り分けられると思っている人々は、ゼノンのパラドックスに落ち込んで行くことを感じ取ることが出来ないのであろうか。。。
二つにきれいにスッパリと切り分けるということは、総体を無限分割可能だということと等価であることは、誰が考えても明らかであろう。。。
総体とは時空を含んでいるので、空間の無限分割問題と時間の無限分割問題そのものである。
分割されないもの、「存在」。。。
それは、そういった分断をも既に一部として含んでしまっている総体そのものであろう。。。

ある人は、その存在を「神」と呼び、
ある人は、その存在を「自然」と呼び、
ある人は、その存在を「大宇宙」と呼び、
ある人は、その存在を「悪魔」と呼び、
ある人は、その存在を「同胞」と呼び、
ある人は、その存在を「敵」と呼ぶ。


※2
総体とは、個々を含む全体である。
本来ならば、決して切断されえない総体ではあるが、「個々によって認識される過程」において知的切断を受けうる。
個々にとって「認識論的唯脳論」的に知的切断された総体は、「総体」という記号でもってラベル付けされるがゆえ、「知的」に共有可能・交換可能(静的な総体)であるかのごとく錯覚してしまいうる。しかしながら、(認識以前の動的)総体は「かたりえぬもの」。。。


(動的な)総体を(静的な)総体として知的切断しなければ、人々には捉えることができない。
それゆえ、だまし絵としての多義図形(知的切断された静的総体)を共有しようとして「神」だ「悪魔」だと、双方向から言い争っている。。。
そうして、そういうことが人智を越えている「かたりえないもの」だとしたところで、知的には何ら解決は見出せないであろう。。。

。。。
2重に張り巡らされた境界を
個からあふれ出て越えて行くことの出来るものは
知によって切断され、分断にも加担している情ではなく、
何ものにも切断されえない
思いと
涙と
憂いと
希望とが
いっぱい詰まった「情」であろう。。。

。。。
「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)


※1、※2から始まる太字部分は、05.09.10 05:40に追加した部分です。
それに伴い、※2以降、一部改編しています。
by kisugi_jinen | 2005-09-10 00:51 | 思考。。。 | Trackback(1) | Comments(2)
Tracked from 来生自然の。。。 at 2008-03-26 05:32
タイトル : 人の命の(知的)切断。。。国家による大量殺戮と個人による..
その昔、 「な ぜ 人 を 殺 し て は い け な い の で す か ?」 と、「知的」に問う人がいた。。。そうして「知的」に答えようとする人々がいた。。。 国家という単位では、今も昔も、イデオロギー(○○主義)の「知的」優位性が情を切り裂き、多くの人々の命を切断していく。。。 そうして、今も昔も、刃物をもって人の命を切断していく人。。。 土浦での無差別殺人。。。 幼き頃、殺人鬼というものは、知的なタガが外れて、衝動的(欲情的)に人を殺してしまうのだと思ってい...... more
Commented by kisugi_jinen at 2012-11-05 00:53
OK_waveでの本投稿に対するコメントをこちらにコピー:
moto_koukousei
読んでも、何をどのように述べているのかがわかりません。概念としての総体、概念のとしての部分は、知的作業の結果で、どこが部分の境であるかは部分の概念の取り方で違うだけでしょう。何を総体としているのかは、内包(Intension)は共通でも、外延(Extension)が確定していないのだから明確にしようがないだけでしょう。http://jinen.exblog.jp/6119786/に >「その「概念図」に対して、上記のように「多義図形」としての重ね合わせを考えざるを得ないわけである。なぜならば、それぞれの人が、それぞれの思いで、自身の心を「わたしのこころ」として、認識しているわけであるから。。。」とありますが、思考者A、B、Cのそれぞれの思いが異なるだけでなく、一人の思考者に関しても、思考する案件毎あるいは場面毎に異なるイメージで境を作るから多義的でもあるのでしょう。総体・全体と述べる度に違う外延(Extension)を持ち込んでいるだけでしょう。外延(Extension)が不明確でも、総体や全体について語り且つ述べることが可能なのは、ご自身のなさっていることを振り返っても明らかでしょう。
Commented by kisugi_jinen at 2012-11-05 01:15
上記コメントは
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7779631.html
の回答番号6-8
http://jinen.exblog.jp/6119786/ を斜めに読み飛ばした感想の(1/3)ー(3/3)
にてmoto_koukousei氏によって記述されたもの。
<< 「本当の私」という知的切断面。。。 養老氏の唯脳論と、知の情に対す... >>



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。

by kisugi_jinen
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