二つの絶対優位性。。。無知の知と哲学との差異。。。
「無知の知」 もし哲学、および全ての学問が そこからスタートしうるものであるならば そこに「私の根源」が求められるという仮説を疑うべきである。 たとえ、 「知に対する知の絶対優位性」と 「私に対する私の絶対優位性」とが 非常によく似ているため、同等の関係と錯覚してしまうとしてもである。 「無知の知」とは、 「知に対する知の絶対優位性」であり、 「論理的・理論的・無矛盾性」であり、 「ゲーデルの不完全性定理」を越えることができないものである。 「知」によって捉えることのできないものを 「私の根源」は持っている。 何故に人は「知・情・意」といった心の分別(概念・知的切断面)を為し得るのか? 「情・意」は「知」(論理・理論、コンピュータ的)によって構築可能なのであろうか? 哲学=知(智)を愛する すなわち、知(智)を「愛する」ことができるというところに「私」が存在する。 「無知の知」であれば 知(智)を知る 以外の何ものでもない。 「知を愛する」。。。 その「愛する」という「心・情」にこそ「私の根源」が求められるべきものであろう。 しかしながら、 なぜなら「愛する」といった「心・情」を「認識・理解・判断」するという作業は、「知」の領域が担っているからである。そうして、その作業自体が「総体の知的切断」に相当する。 さらに、「知」と「情」は、互いに並列しあう(表裏の)関係を担い合っている。 脳や遺伝子を研究するだけでは、「心・情」は見えてこない。「見えた、分かった、客観的に共有可能(知的交換可能)だ」と、言ったとたんに、それは「知的切断面」としての「言葉・記号」に置き換わってしまう。 総体としての「心・情」が、頑なに「総体全体に対する知的切断」を拒み続けるのは、 それが「交換不可能」であること 即ち、量子の二重スリット問題にてエヴェレット解釈を持ち込まざるを得ないということ と等価でもある。 05.08.11 07:55追加 「総体」⊇「知的切断面」(総体は知的切断面を含む)であるが、 05.08.11 21:05 文中、一部加筆訂正しました。
by kisugi_jinen
| 2005-08-11 05:46
| 思考。。。
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