境界と密度と素通り。。。
「わたし」が「わたし」と感じる境界。。。
およそ3mであるということをどこかで読んだような。。。 そうそう電車の中で、隣り合わせに座ったりするとき、空いているときには、他人同士密着しては座らない。そういったときに感じる、テリトリーという意味での距離だったと思う。。。 ※参考になるサイトを検索しました。:05.07.28 05:20 もし、そういうことに対して、無頓着、すなわち、空いている時にでも、他人同士密着して座ることに何ら違和感を感じ得ない時には、もしかしたら、「わたし」と「あなた」との境界がブレンディング(混合)されつつある状況かもしれない。。。すなわち、高密度に圧縮され続けた「わたし」が解放を求めて「あなた」を素通りしている状態。。。 電車の中での化粧問題に代表される行為全般が「わたしの素通り」(境界の重なり、ないし境界の消失、境界の混合)ということと関連しているのではないだろうか。。。 ※05.07.28,05:21:追加---通常、テリトリーの圧縮、「わたし」の圧縮だという概念が正しいように思われますが、こういった状況で平気でいられるのは、「知的・幻想的」に既に遠くを見ている。すなわち、心の境界は他者を素通りして自身のテリトリーを保っている状態と等価なのではないかと思うわけです。 境界を様々なレベルへと伸縮自在に操る「知」の動きは、「信頼と裏切り」という行為に直結するであろうし、同時に、自己の帰属意識と、境界内部での交換可能性を無意識の内にでも前提条件としている。 すなわち、科学的客観性(というより論理的交換可能性)という知の切断面は、無意識の内に形成される境界とダイナミックに連動しているとも言えるように思われる。。。 ※2005.07.26 03:20追加: 境界内部での交換可能性は、「境界」が幻想的・知的共有可能であるということと同義。 「他人の迷惑を顧みない」とか「思いやりの欠如」といったことは、圧縮を受け続ける「わたし」という境界の、知らず知らずの拡大・開放によって形成される、「境界内部の交換可能なわたしとあなたたち」という感覚と同値なのかもしれない。。。 ===05.07.26 03:12追加 本来ならば、棲み分けという状況になるべきところ、知の発達しすぎた人類は、多種多様な境界概念・知的切断面を状況に応じて知的に切り替えながら暮らしていかざるを得ないのだろう。。。 そうして、そういった概念・知的切断面が様々である人々の交錯する(インターネットといったような)超高密度の世界では、情報ではなく状報を扱う故に、境界の知的破壊(完全なる知的切断)が生み出されやすく、本来境界を越えて結び合うべき「情」は、行き場を失っているのであろう。。。 ※05.07.28, 05:30 注:集団化にて、知的切断に優位性を求めざるを得ない場合、知的切断面としての「情」ではない、総体としての「情」が行き場を失う。。。 「知」でもって境界を設定・認識しつつ、「情」でもって境界を越えて行くという本来の情態に近い世界は、構築可能なのであろうか。。。
by kisugi_jinen
| 2005-07-26 02:53
| 思考。。。
|
Trackback
|
Comments(0)
|
検索
カテゴリ
最新の記事
お知らせとリンク。。。
お知らせ
●コメントスパム対策のため、承認制に変更しました(2010.09.29) ●トラックバックのリンクチェック機能を追加しました。excite以外からのトラックバックをされる場合、当該記事へのリンクを埋め込んでください。 リンク ゲストブック ---Yahooジオシティーズ終了に伴い、利用できなくなっています。 来生自然のホームページ ---Yahooジオシティーズ終了に伴い、利用できなくなっています。 鉄鼠 ---「考える」ということに向き合う。。。 Genxx.blog 移転後http://blog.genxx.com/ ---「情」を含めて専門的な立場から「こころ」を模索し続けるGenさんのブログ。。。 研幾堂 ---山下裕嗣氏による哲学のサイト。以前、形而上学についてやりとりさせていただいた。 記事ランキング
最新のコメント
最新のトラックバック
以前の記事
フォロー中のブログ
外部リンク
ブログパーツ
ライフログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||