AX
境界。。。生と死と。。。交換可能性と不可能性と。。。
このブログでは、知と情、交換可能性・不可能性、および境界概念を中心にいろいろと書いている。。。

昨今、「死」という概念についての境界概念が揺らいでいるが、「生」についての概念も揺らいでいる。これらは臓器移植や出生前診断等に関わる諸問題とも関連しているし、突き詰めていくと民族問題等へもつながっていく。

これらの問題について、いろいろと考えていくと、倫理的な争点の背景を調べてみると、隠された思いがベースにあることに気が付いた。
「アイデンティティ」の問題、いや、「交換不可能な個」という概念の問題である。

これらは、複数の境界概念を重ね合わせてみて、おぼろげながら透かし見えてきたものである。

まず、言葉によって区切られる物質レベルでの概念を小さなものから大きなもの、および生命の誕生から死および死後へと並べていく。

  1. (未解明の)究極の構造単位(ブレーン)
  2. クォーク等の素粒子
  3. 陽子、中性子などの複合粒子
  4. 原子
  5. 分子 <---(b)
  6. タンパク質や核酸等の生命を構成する分子 <---(b)
  7. 遺伝子
  8. 細胞小器官、細胞膜
  9. 細胞
  10. 受精卵 <--- ペアの配偶者、ないし配偶者相当からの生殖細胞の癒合 <---(a)
  11. 臓器、脳を含む器官形成
  12. 胎児 <---> 母体
  13. 幼年(0~5歳) <---> 家族
  14. 少年(6~14歳) <---> 小・中学校、地域・自治体レベル程度まで
  15. 青年(15~29歳) <---> 高校~社会 ---> (a)
  16. 壮年(30~44歳) <---> 社会 ---> (a)
  17. 中年(45~64歳) <---> 社会
  18. 前期高年(65~74歳)
  19. 中後期高年(75歳~)
  20. (不可逆な)脳機能の停止
  21. 心臓の停止
  22. 臓器の不可逆的な損傷
  23. 最後の細胞の死
  24. 民族・宗教の違いによる遺体の処理
  25. 残された一部を除き、分解されて全体内部へ ---> (b)

「死」の概念であるが、物質レベルであれば、20、21にて倫理的な争点があるようだ。20から不可逆的に死なのか、21から不可逆的に死なのかという概念の差である。
しかしながら、遺族の故人に対する思い入れは20(脳死)から25を超えた後にも続く。遺骨といった一部を残す場合を含め、墓碑等のモニュメントの建立等、「かけがえのない」といった概念にて他者から区分される。たとえ、千の風になったとしても「風」という物質的な現象の一部に故人を感じ取るということである。
※ブログ内参照:
臓器移植(生体臓器移植、脳死臓器移植、心停止後臓器移植)の視点からみると、20.21での「脳死・心臓死」の区分にて臓器移植を「知的に」考える向きが多いが、「情的な」問題を慮るならば、脳死・心臓死の概念と並列して「かけがえのない身体からの一部摘出」という行為に関連した情の変遷を顧慮すべきだろう。脳死臓器移植行為にて20から22に一気に移行するというところに心情的に受け入れられない情況に陥るということである。「気持の整理がついていて、心情的に受け入れられる」という段階は、「物質としての身体から一部が分離されても、25と同等な状態として受け入れている」情況に近いのだろう。
(物質レベルとしても)「交換不可能な」個人、アイデンティティを有する個人、その個人からの一部の臓器の提供は、(取り返しのつかない、決して元には戻らない)「不可逆的な変化」としてとらえられる。
生前にて「脳死臓器移植」への同意書を作成するということは、脳死から心臓死までの間の移植を「生体臓器移植」と同等だと、暗に本人が認めているのと同等であろう。心臓死までの間、自身の身体についての決定権を家族を含めた他者にゆだねるのではなく、自らのアイデンティティの範疇で自己決定(他者による判断・決定とは決して相いれない、すなわち「交換不可能な」決定を)したということである。
この自己決定の思いと親族(遺族)の思いが交錯するところに倫理的な争点が生まれている。
※「臓器移植」に関しては専門のサイトを参照願います。
日本臓器移植学会・臓器移植全般のQ&A・移植について

「生」(というより、「新たな人としての生命」)については、10.11.12および出産の時点までの範囲で倫理的な争点があるようだ。
(2017.08.17 11:35途中、8.18 1:00再開)
体外での人工授精が可能になってから、余剰胚をどのように扱うか?という問題が浮上したとのこと。ようするに、体外受精での受精卵を多めに作っておいて、よさげなものを戻すということ。また、排卵誘発剤などにて複数の胎児を妊娠(多胎妊娠)した場合に、減数処置(胎児を選択して数を減らす)を行うとのこと。これらが合法的かどうか、殺害にあたるかどうかという観点から、倫理問題が生じているという。
すなわち、上記の分類での、10から12の間にて、「人としての個の生命(アイデンティティのある存在)」として認めるのかどうか?という問題と並列している。「一つの細胞でも生命」という概念を選択するなら、受精卵以前の生殖細胞レベルから連綿とつながっているため、受精卵へと導かなかった大量の精子を死滅させたり、受精卵へと導かなかった排卵された卵子を死滅させることと、どう違うのか?という観点へと問題がすり替わってしまいうる。受精卵として母体内で何の制約もなく順調に発育した場合に、一人のアイデンティティを有する個人として生きることを顧慮すれば、10の受精卵以降にて、「人間としての一つの生命体」と見做すべきだという考え方になるだろう。ところが、「死」の概念にて「脳死」を認める立場に立てば、臓器としての「脳」が形成される時期以降へとずらすことになるだろう。生命科学的な実験を認可する立場の方々は、神経・脳を含む臓器への分化が確定しうる原始線条が出現した以降から「人間としての一つの生命体」として見做すという立場にあるようだ。
※参考資料

内閣府・総合科学技術会議 第24回 生命倫理専門調査会
上記会議資料
「資料3-1 ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方(案)」からの引用
「日本産科婦人科学会では、原始線条形成前のヒト受精胚は一個の個体を形成するための臓器の分化が始まっておらず、多分化能を有している状態であると考えられるが、原始線条形成後(受精後14 日以降)については、一個の生物として確立された段階であると考えられるとしている」
(2017.8.21 0:15 以下追記)
もう一つの観点を記載し忘れていた。出産までの母体として胎児とともにある母の存在である。優生保護法を含め、胎児と母体のどちらかの生命を選択しなければならないという倫理問題や、出世前診断に関わる判断と葛藤、および堕胎という状況を受け入れざるを得ない場合、ないし、その様に決定せざるを得ない場合など、様々な心理的な問題が深く関係してくるであろう。
多くの、生まれて来なかった生命に深い悲しみを抱く方々だけでは無い、様々な人々によって、「交換不可能な胎児」なのか、「交換可能な胎児」と認識されていたのかが、生命としての唯一無二生に、大きく関与しているであろう。
(2017.8.21 0:31 追記終了)

一個体としての人間の始まりと終わりにおいて、立場や考え方の差異によって、その境界が微妙にずれているということである。
実のところ、よくよく考えてみれば、既に拡大解釈がなされていることに気付くべきかもしれない。

拡大解釈1「ゾンビ」:本ブログでも複数回取り上げたカズオ・イシグロ氏の「わたしを離さないで」(Never Let Me Go)での「クローン人間」という設定である。イシグロ氏は舞台設定上「同じ人間」であるべきところの存在を、「クローン人間」という別概念として区分した。よくよく考えてみたら、一卵性双生児となんら変わりのない存在なのに、「人為的な操作」という概念(+「物語上、生まれながらにして生殖機能を剥奪される」)のみで区分している。この場合、(他者が)「一個体としての生として、ずっと認めない」ということを意味している。したがって、生体臓器移植および消滅(物語の設定上、当人にとっては死)は、物語上、無制限に許容されている。言い換えれば、物語内の他者からすれば「ゾンビ」そのものである。
※本ブログ内参照:
※以下、「わたしを離さないで」(テレビドラマを追いつつ記述した23編の投稿のいくつか)
教えて!「唯物主義に生きがいはありますか?」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6177884.html?best_flg=true
「ゾンビ」問題は、人工知能や、受動意識仮説、そうしてチャマーズの「ハードプロブレム」とも密接に関連している。
「こころ」の能動性・内発性・主体性。。。そして閉鎖系と開放系。。。二元論と一元論。。。
子供を授かることと、人工知能が知能を超えるときと。。。
因果的・非因果的。。。能動的・受動的。。。意識と情と。。。

拡大解釈2「無差別殺戮」:テロに代表される殺戮や、日本でも近年増えている無差別殺戮は、自身および自身が所属する集団以外の人間の生命を「すでに死んだものとみなす」という認識と同等であろう。このあたり、拡大解釈1の「ゾンビ」同様、「生まれていないもの」として認識しているのと同等なのかもしれない。宗教系のテロの場合、自爆すれば死後に約束の地に行けるという話を信じ込んで(信じ込まされて)いるという。すなわち、身体と乖離しうる「自己・アイデンティティ」を信じているということと同義であり、テロの対象となる人々は「自己・アイデンティティ」を有さない(魂のない)「ゾンビ」と見做しているということと同義であろう。
※本ブログ内参照

(2017.8.17 9:20 追記)
逆に、(いや、こちらがテロ組織にとって正しい解釈だろうが)テロ組織が、対象としている人々に魂の存在を認めていた場合、彼らの宗教概念に基づいて、対象となる人々の魂を浄化するといった概念を適応するだろう。このことは、日本のオウム真理教事件での「ポア」概念に相当しうる。すなわち、未だ生命を有さない「ゾンビ概念」とは逆に、身体と乖離しうる「自己・アイデンティティ」を、身体の「死」と別に永遠に存続する、すなわち「死」の概念(境界)がない存在とみなすのだろう。
何れにしても、心身二元論での極論を想定しないと、一元論を信じる人々には到底理解し得ない概念になる。彼らテロ組織がどちらの概念で対象者を見ているかは、一元論の立場ではどうでもいいことであり、「同じこと」になり得るだろう。しかしながら、二元論を信じる彼らを悔い改めさせ、テロを阻止することが可能になるのは、双方が「同じ人間」だという立場に立ちうることが前提条件である。
極論すれば、ゲームでの「ゾンビ」ものは、全世界から一掃すべきなのかもしれない。
(2017.8.17 9:30 追記終了、2017.8.18 15:48 一部修正)
※本ブログ内参照
私の考えの「にこごり」。。。 <--- 科学的な思索の背景に潜む「二元論と一元論」について
総体(全体)と個と。。。 <--- 二元論と一元論を超えた思索
二元論と一元論と。。。知的切断面と総体と。。。 <--- 図にて分かりやすく説明を試みる
花と葉と。。。 <--- 全体・総体を知的に切断することの本質について
思いとしての二元論と交換可能性としての二元論。。。 <--- 本質的なところ、心身二元論ではなく知情二元論では?
出会い。。。3。。。心と魂と。。。2。。。 <--- 「魂の同一性」という概念について
「私」と「境界」と「宗教」について。。。  <--- 一神教的という方向性と多神教的という方向性について
私と境界と宗教と。。。3。。。だまし絵との相関。。。

生・死・ゾンビ・無差別殺戮といった概念の根底には、「一個体として、自己・アイデンティティを有する、有しうる存在」という概念が横たわっている。それを認めるのは本人そのものであるはずが、生死の境界領域では、「自己を自己として認識しえない状況」にあるため、自己決定権がなく、他者による認識・概念が重要性を帯びてくる。他者は「自分がそういった立場だったら」という交換可能性に基づいて思索するであろう。しかしながら、「一個体として、自己・アイデンティティを有する、有しうる存在」は、唯一無二の存在であり、他者とは交換「不可能」な存在でもある。「交換可能性に基づく思索そのものが絶対的に否定されうる」という認識もまた、並列して扱われなければならないだろう。
※ブログ内参照:
(2017.8.18 2:07 追記終了)

(2017.8.17 2:12 追記)
重要な拡大解釈を入れるのを忘れていた。
拡大解釈3「認知症の高齢者」:数年前から複数の事件が勃発しているが、犯罪者は(自己防衛本能からか)「認知症の高齢者」を「一個体として、自己・アイデンティティを有する、有しうる存在」として見做さないようにしているのかもしれない。いわゆる「もの」として扱うというのと同義である。現時点では特定の犯罪者のみでの認識かもしれないが、死の概念が19や18のレベルに前倒しされている状況と同義であろう。

自己が自己を認識するという行為が脳内にて行われる故に、脳機能のみを対象とするなら、「一個体として、自己・アイデンティティを有する、有しうる存在」の境界は必然的に狭まってしまいうる。
※本ブログ内参照
脳内チップの先に思うこと。。。

しかしながら、「一個体として、自己・アイデンティティを有する、有しうる存在」を他者が認識し、共感しようとし、交換不可能であるにもかかわらず、交換可能性という立場で受け入れようとするとき、情を有する人間として相互に生死を扱えるのではないだろうか?
そういった立場を顧慮するとき、「一個体」という概念は、「脳」という一つの臓器に限局されない、身体を含め、その人の人生、両親、親戚へと「アイデンティティを成立せしめるもの」が外側へと広がっていくことであろう。
※本ブログ内参照:

拡大解釈4:「民族・国家」:そうやって広がっていき、繋がりあっていく絆を、中途半端に民族レベルや国家レベルに限定するとき、民族紛争や国家間の戦争へと移行しうるであろう。固体の死よりも所属する集団の生へと境界概念をずらしただけなのに。。。
※本ブログ内参照:
脳を知りたいという欲望と不老不死の欲望と。。。 <---  「自己・アイデンティティ」への固執・個のレベル
愛国心・教育の方向性としてのすれ違い。。。 <--- 個のレベルから集団・国への拡張
個と総体と。。。その2。。。 <--- 優生思想と平等思想への拡張

境界概念が知的な恣意的定義であり、可動性を有しているという認識を相互に認め合うことが、出発点なのかもしれない。。。
(2017.8.18 2:35 追記終了)

2017.8.19 8:40 ブログ内関連リンク、参照元情報を埋め込む
同 8:56、9:18 一部リンク先修正・追加
同 9:36、10:02、10:13 本文一部修正・追加
2017.8.24 5:56 一部リンク追加

[PR]
by kisugi_jinen | 2017-08-17 11:34 | つれづれ。。。 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://jinen.exblog.jp/tb/27054800
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< ともし火に我もむかはず灯も我に... 究極の人工知能。。。ショート・... >>



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
検索
カテゴリ
最新の記事
お知らせとリンク。。。
お知らせ
●コメントスパム対策のため、承認制に変更しました(2010.09.29)
●トラックバックのリンクチェック機能を追加しました。excite以外からのトラックバックをされる場合、当該記事へのリンクを埋め込んでください。
リンク
ゲストブック
---全体的なコメント等は、こちらへどうぞ。。。
来生自然のホームページ
---私の知の思想史。。。
鉄鼠
---「考える」ということに向き合う。。。
Genxx.blog
移転後http://blog.genxx.com/
---「情」を含めて専門的な立場から「こころ」を模索し続けるGenさんのブログ。。。
研幾堂
---山下裕嗣氏による哲学のサイト。以前、形而上学についてやりとりさせていただいた。
記事ランキング
最新のコメント
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 01:29
Kandomonmasa..
by kisugi_jinen at 03:51
kisugi_jinen..
by Kandomonmasa at 14:28
> SumioBabaさ..
by kisugi_jinen at 10:41
「神」を完全に解明しまし..
by SumioBaba at 05:06
最新のトラックバック
究極の人工知能。。。ショ..
from 来生自然の。。。
所詮ゲーム、背景を勘ぐる..
from 来生自然の。。。
シン・ゴジラと所信表明演..
from 来生自然の。。。
ポケモンGOのお台場騒動..
from 来生自然の。。。
シン・ゴジラ。。。
from 来生自然の。。。
以前の記事
フォロー中のブログ
外部リンク
ブログパーツ
ライフログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧