言葉という知的切断面と情。。。
昨今、対人関係で用いる言葉(=概念、知的切断面)に関する変遷が著しい。
特に、それを用いられる側の情を汲むことによって、とりわけ、最も悲惨だと思われうる感情を抱きかねない情態を意識することによって、そういった情が沸かないような言葉に置き換えようとする動きが主体になっている。 生者に対して発せられる「この種の言葉」は、受け手(生者)の感情発露や反応から、使う側にも意識が芽生えやすく、定着しやすいと思われる。 現に、そうやって変遷しつつある言葉が多くある。(ただし、問題が解決するわけではなく、問題を先送りしているだけにしか過ぎないのだが。。。後述) 「この種の言葉」の、最も典型的な言葉であり、比較的古くから用いられるようになりながらも現在までの長きにわたって問題を継続しているのが、浄土真宗における「冥福を祈る」であろう。。。 問題点を概説すると、 「冥福」とは、冥土(暗く、じめじめした死後の世界・輪廻転生を前提条件としたあの世の世界観)での幸福を祈るということであって、死後、仏様になられ、そういった世界に赴かない方に対して、そういった言葉を投げかけるということは、迷いを呼び覚ますことになりかねない、また、「祈る」という言葉にも、仏様になられた方よりも、投げかける側の生者の己の偉さが表れるので使うべきではない。といったことらしい。。。(2つのサイトの注釈をまとめたものです) 死者に対して発せられる「この種の言葉」は、受け手(死者)の感情発露や反応は期待できない、というより、浄土真宗の立場としては、してはいけないことになっているようである。なぜなら、輪廻転生を含んだ世界とは離れた仏の世界へと入られたからである。(このような死後観は、原始仏教の本筋にも近いのだけれど。。。後述) さらに、やはりといっては何なのだけれど、ここでの問題は「生者」との関係において発生する。すなわち、死者の気持ちをおもんばかって、「冥福を祈る」という言葉を用いることの不適切性を論理的に説明されたものである。 さて、ここで奇妙なことに気づく。 輪廻転生(およびそこから生じる仏様という概念)を信ずるにせよ、信じないにせよ、「冥福を祈る」という言葉を発した本人の心の思いは、死者に向けての言葉である。残された生者に対して用いるような言葉では、物足りないのである。 冥福という言葉の字面から来る意味を知らないで使うこともあるだろう、でもそこに「思い上がり」や「不遜」の心など微塵も無いはずである。そこには「生死」に境界を見るときに、「死後」の相手に対する「思い」をこめた言葉なはずである。 もし、そういった一対一の関係のみにて考えるのであれば、とりわけ死者が仏様になられるのであれば、「言葉の字面」のみで「迷い」が生じるわけはないであろうし、「おこがましさ」も、手のひらの中での孫悟空の落書き程度に思われるであろうし、仏様になられても情が繋がるのであれば、そういった字面に迷わされることなく、真意を汲み取られるであろう。 では、なぜに「冥福を祈る」という言葉を切って捨て去ろうとしているのであろうか? そこには、境界が見え隠れしている。 「冥福を祈る」という言葉を発する側と死者との間の境界ではなく、死者の家族・親戚・信者といった集団との間の境界である。 浄土真宗側も、おそらく、そういった点は顧慮しているものと思われる。いや、しているからこそ、逆に「問題視」するのであろう。「問題視」することによって、本来的な「生・死」の境界は薄れ、「信・不信」の境界にすり替わるからである。 そうして、「生・死」という境界に対して投げかけられた死者に対しての「思い」(情)は、「信・不信」といった境界にて知的に切断され、死者に届かずに、家族・親戚・信者へと「誤配」されてしまう。。。 信者にならない人々は、心の中で思いを抱きつつ、別の言葉を捜しながら戸惑うばかりであり、信者になるであろう人々は、「なるほど」と思いつつ、死後の世界観(概念、知的切断面)を共有しようとするであろう。。。
by kisugi_jinen
| 2005-03-19 03:17
| 思考。。。
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Comments(3)
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from 来生自然の。。。
at 2006-04-21 07:41
タイトル : めいふくをいのる。。。冥福。。。迷覆。。。
言葉という知的切断面と情。。。に記述したが、「冥福を祈る」という言葉のもつ、多義図形的(だまし絵的)な知的切断面は、死者への思い・情を切断するだけの力を持ちうる。 で、考えたのだが、 「めいふくをいのる」と、発音された言葉に 「冥福」という意味をとる人々がいるのであれば、「迷覆」の意味だよとすればいいかもしれない。。。 「冥土での幸福を祈る」のではなく「(輪廻転生という)迷土という概念を覆しておられることを祈る」という意味だよ、とするのである。 「めいふく」に「冥福」という意味しか見...... more
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kisugi_jinen at 2005-03-20 21:04
>現に、そうやって変遷しつつある言葉が多くある。(ただし、問題が解決するわけではなく、問題を先送りしているだけにしか過ぎないのだが。。。後述)
「概念」(知的切断面)に対応する「言葉」は、字面のみ変遷したとしても、「概念」が共有され続ける限り、何をしているのやら分からないという事態に突入していく。。。 それは、さながら、「地と図」とが反転する「多義図形」にて「地」を「図」とし、「図」を「地」とすることに似ている。。。
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norge
at 2005-03-31 03:30
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そのような禁止は滑稽に見えますね。
この世に残された人間の死者に対して自然に持つ感情を、特定宗派の世界観が統制しているようで、宗教の目的に適った解釈には思えません。 そういった世界観は結局のところ信者の囲い込みを果たしているのでしょう。
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kisugi_jinen at 2005-03-31 20:58
お!ノルゲさん。
お久しぶりです。。。 いや、たしかに、境界線の外側から見れば、一見滑稽に見えますよね。。。 しかし、境界線の内側から見れば、そう見る側が滑稽に見えてしまう。。。 すなわち、両側から自身の「情」を投影する鏡として死者という境界を見てしまう。 「そうあってほしい、そうおもっているであろう」 どちらの側から見るかで、情が交錯してしまう。 「死者」という記号を挟み込んで。。。 そこに、共通の思いを見出しうるとすれば、それは、「死者に対する思い」以外の何ものでもない。。。 そんなことを、つれづれに考えています。。。
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